カティンの森事件とは、1940年に発生したソ連によるポーランド軍人大量虐殺事件である。
背景
1939年9月1日、ドイツ軍は旧領ダンツィヒの返還を拒否したポーランドへの侵攻を開始し、ここに第二次世界大戦が勃発。開戦前、独ソ両国の間に結ばれたモトロフ=リッベントロップ協定によりソ連軍もポーランド東部に侵攻。東西を独ソに挟撃されたポーランドは1ヶ月も経たないうちに降伏させられ、国土を半分に分割されて支配される事となった。
ソ連の支配下となった東側ではポーランド人はシベリア北部への強制移住を強いられた。捕虜となったポーランド軍将兵は25万名に達し、その身柄は秘密警察(NKVD)に引き渡されたが、このうちソ連の領土である西ウクライナ地方と西ベロルシア出身の兵士は解放されている。その後、捕虜たちは出身、階級、民族などに応じて8つの強制収容所に送られ、約7000人が銃殺。13万3000人ほどが強制労働や移動途中で死亡したとされる。
そして3つの収容所に送られる予定だった1万5500人の捕虜が忽然と姿を消した。
カティンの森事件
ソ連は捕虜にしたポーランド将兵を共産化させる再教育を試みるも、反ソの意志が強いポーランド人には通用しなかった。
1940年3月5日にソ連共産党政治局は、捕虜全員を銃殺刑にする「特別手続きによる処理」を決定。対フィンランド戦(冬戦争)で新たに捕虜を獲得した事もあり早急に収容所を空ける必要があったのだ。この決定はNKVD委員長べリヤによって提案され、スターリン以下政治局員7名の署名で実行に移された。1920年から翌年にかけて生起したポーランド・ソ連戦争においてソ連が敗れ、スターリンがポーランド軍人に私怨を抱いていた事が、全員銃殺刑の引き金になったとされる。
毎朝、モスクワからコゼルスク特別収容所に電話がかかってきて、処刑が決まった捕虜の名が読み上げられる。該当者は突然「西へ向かう」とだけ言い渡されて駅で汽車に乗るも、実際の進行方向は北東であった。4時間ほどでグニエズドヴォ駅に到着。NKVDが厳重に警備する中、黒塗りの輸送車数台に乗せられて、捕虜たちはカティンの森に向かう。そこには高さ2mの金網に囲まれた8つの穴が、そしてスターリン直属の125名の処刑人がヴァルター拳銃片手に待っていたのである。ここで捕虜は「解放」ではなく「処刑」される事を悟った。
穴のふちに立たされた捕虜は後ろから銃殺された。抵抗する若い将校は両手と首を縛ったうえで銃殺。遺体の多くに抵抗した跡があり、いかに理不尽な死であったかを静かに物語っている。処刑場は全部で3ヵ所あったようで他の収容所から連れてこられた捕虜も殺されている。2~3m掘られた穴の中に遺体を9~12体を投げ入れ、その上から土をかぶせて埋葬、遺体がある事がバレないよう埋めた場所に松の苗木を植える隠蔽工作も行っている。
最初の処刑は1940年4月3日に始まり、5月22日に全員の処刑を終えたとの報告が入った。虐殺された将校にはポーランド・ソ連戦争の従軍経験者が多く含まれていた。ロンドンに亡命中のポーランド臨時政府は、25万人の軍民が行方不明になっているとしてソ連に説明を求めたが、納得のいく回答は得られなかった。
虐殺の舞台になったグニエズドヴォ周辺では1万人以上のポーランド軍人が銃殺されたとの噂が絶えなかったという。
発覚
1941年6月22日、バルバロッサ作戦によりドイツ軍約300万が一斉にソ連領内へ侵攻。大粛清で弱体化していたソ連軍は連戦連敗して奥地まで侵攻を許した。秋頃には交通の要衝スモレンスクを攻めてカティンの森もドイツの勢力圏内に収まった。
虐殺事件が発覚したのは1943年2月18日の事だった。森の中にある埋葬地が発見され、その中から変わり果てたポーランド人捕虜が出てきたのである(2月27日に中央軍集団のドイツ軍将校が遺体を発見したとも)。3月27日にドイツ軍による調査が行われた結果、7つの穴から幾重にも積み重なったポーランド将校の遺体が発見される。
報告を受けたゲッベルス宣伝相は、この虐殺事件を世界に向けて公表し、ソ連の犯行と断言。当然ソ連は虐殺を否定してナチスが行った虐殺だと反論、ドイツと交戦する連合国もソ連の意見に同調して冷ややかな目で見ていた。しかしドイツは第三国による国際医学調査委員会を設立させ、遺体発掘を依頼するとともに各国の報道機関にも広く呼びかけ、更には捕虜にした連合軍兵士を現地に連れて行くなど、着実に証拠を集めていった。ポーランド赤十字調査団も独自に森を調査している。悪事の発覚を恐れたソ連は「ドイツの工作だ」と非難し続けるも、数々の調査を経て、「虐殺は1940年春、犯人はソ連」と結論付けられた。
ポーランド臨時政府はソ連の仕打ちに激怒。ソ連もまた、事件の調査を勝手にスイスの国際赤十字社へ依頼した臨時政府との断交を発表し、連合国内で険悪な雰囲気が漂い始めた。結束に亀裂が入るのを避けるべく米英はこの事件を黙殺。一応アメリカ側は調査員をバルカン半島に派遣し、ソ連の仕業だと突き止めていたものの、ルーズベルト大統領に報告書を握り潰されて無かった事にされた。ドイツは虐殺の証拠品をクラクフ法医学研究所に送ろうとしたが、ソ連は刺客を放って輸送を妨害して、失敗に追いやっている。
1943年9月26日にソ連軍がスモレンスクを奪回。さっそく事件の調査にかかったが、調査員は全員ロシア人で占められ、連合国の立会いすら許さないという隠蔽する気満々の体制だった。それどころか証拠品を偽造してドイツに罪をなすりつけようとした。しかし住所の地名をスペルミスした事が仇となり看破されてしまう。他にも作り話や嘘の証言をでっち上げたりしたが、いずれも矛盾点があった。
ソ連の公式見解は「カティンの森で起きた虐殺はドイツ軍によるもので、地元住民を脅してソ連の仕業だと証言させた」とした。
戦後
1946年に開かれたニュルンベルク裁判で一時的にカティンの森事件が取り上げられた。だが事件解決や真相解明には至らなかった。戦後はポーランドがソ連の衛星国になったため、この事件に触れる事自体がタブーとなる。1951年から翌年にかけてアメリカ議会がカティンの森を調査してソ連の責任と認定。それでもソ連は事件を否定し続け、ナチスを全否定して再スタートした西ドイツもソ連に真相究明を言い出せず、長らく謎に包まれていた。
1987年にゴルバチョフ政権へ変わった事で真相究明へと動き始めた。1990年4月、モスクワでポーランドのヤルゼルスキ大統領と会談した時に初めて公式に事実を認め、ソ連公文書館で発見された極秘資料を彼に手渡し、全容が明らかにされた。またゴルバチョフ大統領が自国の犯行と認めてポーランドに謝罪。更にソ連崩壊に伴って隠されていた機密文書が白日のもとにさらされ、遂に全ての謎が氷解する。
2000年にロシアとポーランドが共同で「カチン・メモリアル」という慰霊施設を建立。
2010年4月7日、事件からちょうど70年の節目に行われた式典でプーチン大統領は「スターリン体制の犯罪はどんな形であれ正当化できない。数十年間、カティンの銃殺について真実を汚そうとする嘘が続いてきた」と述べ、犠牲者を追悼した。事実上ロシア政府が事件を認めたと言えよう。この式典にはポーランドのトゥスク首相が招かれており、これでポーランドとの関係改善に向かうかに思われた。
しかし事件は起きる。ロシア主催の式典とは別の追悼式典に参加しようとしていたレフ・カチンスキ大統領を乗せたポーランドの大統領専用機(ロシア製のツポレフ)が、4月10日にスモレンスク近郊で墜落。カチンスキ大統領やその妻、家族など96名全員死亡する大事件になってしまう。カチンスキ大統領はカティンにおけるソ連の蛮行を決して許さず、ロシアからの和解案を全て蹴っていた強硬派であり、ロシア主催の式典に招かれなかったのもロシアに高圧的な態度を取り続けていたからだった。このため疎ましく思ったロシア政府によって殺されたとする説が浮上した。
関連項目
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