ジェニュインリスク(Genuine Risk)とは、1977年生まれのアメリカの元競走馬・繁殖牝馬である。
アメリカ競馬史上2頭目、65年ぶりの夢を叶えた女傑。20世紀のアメリカ名馬100選では91位。
じゃじゃ馬Genny
父は彼女がセリにかけられた1978年7月にアメリカ競馬で最もホットな存在であった三冠馬Affirmedの父Exclusive Native、母Virtuous、母父Gallant Manという血統。
近親はそこまで発展した牝系ではなかったが、Virtuousの母Due Respectの半兄はイギリス生まれのケンタッキーダービー馬Tomy Lee(父Tudor Minstrel)である。
前述の通り1978年7月、1歳でセリにかけられ3.2万ドルで落札された。当時のレートである1ドル=360円で計算しても1152万円なのでそこまで高い馬ではないだろう。そのくらいの評価であった。
落札したのは不動産業の傍ら馬産も行っていたファイアストーン夫妻であったが、この馬を見初めたのは息子のマシュー君で、Exclusive Nativeに流星やストッキングがそっくりでとても気に入ったらしい。
ケンタッキーダービー馬Foolish Pleasureを管理したことで著名なルロイ・ジョリー厩舎に預けられてデビューを目指すことになり、Gennyというあだ名を付けられて可愛がられたのだが、何分彼女は頑固一徹で意志がとても強く、やりたくないことは頑としてやらないし気に入らなければ人を振り落とす結構な難物であった。
なんとか心を開いて貰えるよう、担当の助手であるジョン・ムーア氏は何度も何度も落とされたりしながらも信頼関係を築き、徐々に徐々に調教を進めていった。
デビューしたのは2歳9月。ベルモントパーク競馬場の未勝利戦であった。あいにくの不良馬場であったが主戦騎手となるRuffianの背中をよく知る男、ファシント・ヴァスケス騎手を背にさっくり勝ち上がる。
その後はマイルの一般競走とリステッドを走りどちらも勝利。2歳最終戦としてGIIのデモワゼルステークスに出走し快勝。4戦全勝で2歳を終えた。
2歳時に一緒に走った著名な馬としてはStreet Ballet(フリートストリートダンサーの母)、Tell a Secret(*ロージズインメイの母)、Smart Angle(2歳でGI4勝を挙げ1979年エクリプス賞最優秀2歳牝馬に輝く)らがいる。
この中ではSmart Angleを打ち負かしたのは翌年に向けてとても良い弾みとなった。
ジョリー師は彼女を大切に扱う方針だったのか始動したのは1980年3月、それも重賞ではなく一般競走で復帰させた。ここを快勝しさらにノングレードのハンデキャップ競走にも出走したがやっぱり勝利した。
ここまで6戦6勝、Smart AngleもGIIとはいえ打ち負かすなど実績はGII1勝どまりだが実力はあるというのが世間の評価であったが、ヴァスケス騎手は並の馬ではないとより高い評価をしていた。あのRuffianもできなかった挑戦ができる! と確信するほどに……。
牡馬三冠路線を征く
しかしそのヴァスケス騎手の提案に対し、ジョリー師は難色を示した。Foolish Pleasureを管理していたということは、マッチレースでRuffianが迎えてしまったあの末路を見たということでもある。
その記憶も新しかったため、牝馬は牝馬と戦うべきという意見を持っていた。しかし、Ruffianの背中であの悲劇に見舞われたヴァスケス騎手が強硬に「牡馬と戦いましょう! やれます! ケンタッキーダービーに行きましょう!」と主張するので、そこまで言うなら……ととりあえずジョリー厩舎のあるニューヨーク州のケンタッキーダービープレップ・GIになったりならなかったりで有名なウッドメモリアルステークス(当時GI、現在はGII)で様子を見ることになった。
当然簡単な相手はおらず、フロリダダービーなどを勝ったPlugged Nickle、Colonel Moranなど有力な牡馬が顔を揃えた。
レースはPlugged Nickleがスピード任せにハナを切り、ジェニュインリスクは3番手でスパート機会を伺うが、四角でバテたPlugged Nickleが外にヨレて後続の進路を塞ぐ形になり大きな不利を受け、Plugged Nickleが逃げ切る中3着に敗戦。進路妨害ではないかと思われたが結局それは取られず確定となった。
この敗戦を受けジョリー師はケンタッキーオークスへの転進を推奨したが、進路妨害を受けても闘志を切らさず3着に粘ったことを評価したファイアストーン夫妻はヴァスケス騎手の提案を容れてケンタッキーダービー出走を決断した。
ちなみにウッドメモリアルステークスの牝馬による入着は33年ぶり4頭目の快挙であり、この後に続く牝馬は今もいない。これも決断の後押しになったかもしれない。
1959年に挑んでジェニュインリスクの大伯父Tomy Leeの5着に敗れた顕彰馬Silver Spoon以来となる牝馬のチャレンジャーとしてケンタッキーダービーに乗り込んだ彼女を待ち受けていたのは、前年の最優秀2歳牡馬Rockhill Native(1番人気、せん馬)、前走で斜行してきたPlugged Nickle(2番人気)、サンタアニタダービーとハリウッドダービーでいずれも2着に入ったRumbo(3番人気)らであった。今見るとよくわからん馬が多いな
このメンバーで6番人気とまあまあ評価された彼女は激しく前がやり合うのを見ながら7番手付近で様子をうかがう。例年より緩めのペースであったが先行勢は伸びず、三角付近から上がって行くとスルスルっと先頭に立ちそのまま押し切る態勢になった。
後続も迫るが、ラスト2Fをセクレタリアトに次ぐ上がりになる22秒6を叩き出し見事押し切り。1915年のRegret以来65年ぶり2頭目となるバラのレイを受けた女王となったのであった。
ダービーを獲得したのだから、とプリークネスステークスにも参戦。ケンタッキーダービーの有力勢のうちRockhill Native、Plugged Nickleあたりが回避して手薄になったこともありジェニュインリスクは1番人気に推された。
やや出負けしたが4番手につけて道中を進み、三角付近で先に仕掛けた西の名伯楽ルーカス師が息子に勝手に出走登録されたから渋々出したCodexを追って仕掛けていくが、四角で並んだあたりでCodexの体当たりを浴びて体勢を崩したのが致命傷となりCodexにちぎられての2着に敗れてしまった。
それでも後続のColonel Moranには3馬身以上の差を付けて圧倒していたので、Codexと鞍上のアンヘル・コルデロJr.のラフプレーがなければ二冠を獲得していたかもしれない。
実際、進路妨害とコルデロJr.に身体にムチを飛ばされる不利を受けたということで陣営は異議申立を行っており相当揉めた。
結果としては故意接触でもないし叩いた件も証拠不十分と裁定されて異議申立は退けられ、到達順位通り確定となってしまったが。
モヤッとするプリークネスステークス後、ジェニュインリスク陣営は意地になったのかベルモントステークスにも出走を決める。スタミナ面で不利とされる牝馬の上馬場はあいにくの不良馬場で余計不利では? とされ人気を落としたものの、レースでは直線で前を行ったプリークネスステークスをパスしてここに賭けたRockhill Native、一番外から捲ってきたTemperence Hillと叩き合いを演じるが、Temperence Hillに敗れて2着となる。
なお、前走でラフプレーをした疑惑が立ったCodexはバテて完敗した。ケンタッキーダービー7着のPlugged Nickleといい因果応報というやつだろうか。
ケンタッキーダービー後は惜しいレース続きとなってしまったが、牝馬でアメリカ三冠を皆勤したのは他に8年後のWinning Colorsのみで、全レース入着及び連対達成したのはジェニュインリスクのみである。
後にも先にも成すもののない大偉業を成し遂げた彼女の名声は大いに高まったのである。
顕彰馬VS顕彰馬VS顕彰馬
ローテーションがきついことで有名な牡馬三冠の疲れを癒やすべく夏場は休養に当て、秋は当時GIIのマスケットステークスから復帰することとなったが、このレースに出てきたメンツがまた凄かった。
前年にトリプルティアラに加え、ケンタッキーオークス・ブラックアイドスーザンSを勝ち今となっては形骸化したがナショナルトリプルティアラと呼ばれる三冠も達成した後の顕彰馬、当時4歳のDavona Daleに加え、同世代でマザーグースステークスを落としたためトリプルティアラを逃したが、ジェニュインリスクがいなければ間違いなく世代最強の名をほしいままにしたであろう実績の持ち主Bold 'n Determinedが揃って出走。
後の顕彰馬3頭による決戦が実現し、一躍スーパーGIIとなったレースは直線向いて人気の3頭が横並び一線で叩き合いというとてつもない展開になった。
前年の激闘で脚にダメージが有り復帰が大きく遅れるなどしていたDavona Daleがまず脱落。同い年最強決戦となりびっしり叩き合うが、Bold 'n Determinedが最強はアタシ! と言わんばかりの粘りでハナ差だけ付けてジェニュインリスクを下した。
なお、少し先の話になるがエクリプス賞最優秀3歳牝馬は牡馬三冠路線での活躍を評価されてジェニュインリスクが受賞した。直接対決でしっかり勝ちきってGI勝ちも圧倒的に多かったBold 'n Determined陣営は納得行かなかっただろう。
さてジェニュインリスクは牝馬限定GIラフィアンHへ。ここには大種牡馬Mr. Prospector初年度産駒最高の大物It’s in the AirやMisty Galloreといった前走の二頭にも負けない強豪牝馬が顔を揃えたが、Misty Galloreをハナ差競り落とし、今回は激闘を制することになった。
この後ベルデームステークスを視野に調整されたが態勢整わず休養入り。前述の通りエクリプス賞では最優秀3歳牝馬を獲得した。え? 年度代表馬? Spectacular Bidから奪えるんならやってみろという話になってしまう。
4歳になった後は一般競走で復帰し圧勝。順調な復帰となったが次走に何故か芝の一般競走を選び3着に敗れてしまう。
ちなみに第1回ジャパンカップの開催がちょうど1981年で、ジェニュインリスクにも招致攻勢が行っていたらしいのでもしかするとジャパンカップを見据えて芝をテストしたのかもしれない。
その負けの後しばらく休養し一般競走で復帰し圧勝。ここをステップに9月のウッドワードステークスで牡馬挑戦路線に復帰する予定であったが、直前調教で放馬して消火栓に衝突するという事故を起こし、これで左膝を負傷したため引退となった。通算成績は15戦10勝。GI勝ちこそケンタッキーダービーとラフィアンHの2つしかないが、4着以下に1回もならないという抜群の成績を残した。ちなみに「20世紀のアメリカ名馬100選」入選馬の中で2歳時にグレード制が導入された1971年以降に生まれた25頭のうち、GI2勝で入選したのは本馬のみである。
牡馬すら音を上げるアメリカ牡馬三冠を1着2着2着で駆け抜けたタフネス、斜行されても体当たりされてもよその騎手からムチを浴びても全く萎えない不屈の闘志。不世出の女傑であった。
繁殖牝馬としてスリーチムニーズファームに入った後、初年度にSecretariatを付けられた。生まれていれば史上初の両親ケンタッキーダービー馬というとてつもない仔が生まれたのだが、残念ながら死産に終わった。
その後も不受胎や死産が続き、ようやく初仔が生まれたのは16歳のとき。その後も19歳のときに1頭生まれたがどちらも牡馬の上種牡馬としても血をつなぐことは叶わず仕舞いとなってしまった。
子出しには致命的に問題があったが自身は健康そのもの。繁殖牝馬引退後はファイアストーン夫妻の所有する牧場で年若い繁殖牝馬の育児手伝いをしたりと余生をエンジョイ。とても元気でスタッフからも大変可愛がられたという。
そして2008年8月、朝食を取った後に倒れてそのまま眠るように逝った。31歳の夏だった。
血統表
Exclusive Native 1965 栗毛 |
Raise a Native 1961 栗毛 |
Native Dancer | Polynesian |
Geisha | |||
Raise You | Case Ace | ||
Lady Glory | |||
Exclusive 1953 栗毛 |
Shut Out | Equipoise | |
Goose Egg | |||
Good Example | Pilate | ||
Parade Girl | |||
Virtuous 1971 鹿毛 FNo.1-n |
Gallant Man 1954 鹿毛 |
Migoli | Bois Roussel |
Mah Iran | |||
Majideh | Mahmoud | ||
Qurrat-al-Ain | |||
Due Respect 1958 鹿毛 |
*ズクロ Zucchero |
Nasrullah | |
Castagnola | |||
Auld Alliance | Brantome | ||
Iona | |||
競走馬の4代血統表 |
クロス:Bois Roussel 4×5(9.38%)、Mah Mahal 5×5(6.25%)
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関連項目
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