ブルース・リー(Bruce Lee、中国名:李小龍)は、サンフランシスコ生まれの中国人で、俳優・武道家で截拳道(ジークンドー)の創始者である。
概要
1940年11月27日にサンフランシスコで中国系の役者である父・李海泉とドイツと中国の混血である母・グレイスの間に生まれる。中国名の本名は「李振藩」である。
子供は長男ブランドンと長女シャノンで、ブランドンも映画俳優であったが、1993年に撮影中の事故で28歳という若さで死去した。ブルースの死後から20年後である。
武道家としてのブルース・リー
- 幼少時代にまず父親から太極拳を学び、その後、中国武術の一つ詠春拳を葉門(イップ・マン)から学ぶ。
- 学生時代は不良で喧嘩ばかりしていたブルースは、父から渡米を命じられる。
- その後ワシントン大学に進学。
- 勉学に励みながら、自身で道場を開く。この時代の弟子にはスティーブ・マックイーン、ジェームズ・コバーンなどがいた。
- この頃同じ大学生で、ブルースの道場の生徒だったリンダ・エメリーと結婚。
- その後大学を中退し、詠春拳や他の中国武術、さらに他国の格闘技まで研究し、そしてブルースの哲学を取り入れて截拳道(ジークンドー)を創始する。
俳優としてのブルース・リー
元々父親が俳優であったためか、生後3ヶ月くらいで映画デビューしている。
1966年、アメリカのTVドラマ『グリーン・ホーネット』にて準主役に抜擢される(主役の執事である日本人・カトー役。主人であるグリーン・ホーネットが悪人相手に活動する際は、ブルース演じるカトーも助手として黒いアイマスクで素顔を隠し、拳法で戦う)。
1970年にレイモンド・チョウが設立したゴールデンハーベストと契約し、翌1971年にブルースのカンフー映画1作目となる『ドラゴン危機一発』が公開し、ブルースはたちまち香港でスターとなる。若きアクション俳優のジェームズ・ティエンチュンと共演。また、良く見るとこの映画にのちに有名になるラム・チェンインが出演している。
1972年に2作目となる『ドラゴン怒りの鉄拳』が公開。この映画では武術指導も担当している。
また、ブルースの死後にこの作品の続編となる『新精武門(邦題:レッド・ドラゴン/新・怒りの鉄拳)』が作られ、ジャッキー・チェンが主役に抜擢されている(これは『ドラゴン怒りの鉄拳』で、ブルースに蹴られて吹っ飛ぶ敵の日本人のスタントを彼が行い評価されたことで主役に抜擢されたとも言われている)。またこの作品からヌンチャクを使ったり、「アチョー」などの怪鳥音を言い始めたりしている。
3作目となる『ドラゴンへの道』では製作・脚本・監督も担当、格闘家チャック・ノリスとの格闘シーンが見ものである。
1972年秋頃、『死亡遊戯』の撮影がスタートするも、ハリウッドのワーナーブラザーズとの合作映画の企画が来たため、撮影は中断される。
1973年にアメリカと香港の合作映画でロバート・クローズ監督の『燃えよドラゴン』の撮影がスタート(この映画にはサモ・ハン・キンポーやユン・ピョウ、ジャッキー・チェンといった後の香港スターたちがエキストラやスタントマンとして参加)。武術指導にはラム・チェンインも参加している。
(ちなみにブルースが少年に稽古をつけるシーンで「Don't Think Feel」日本語に訳すと「考えるな、感じろ」というセリフは有名である。)
しかし7月20日に、頭痛を訴え病院に運ばれたが、龍は空に昇ってしまった。死因は脳浮腫。
ブルースの死後、『燃えよドラゴン』がアメリカを始め世界中で公開され、日本でも大ヒットとなった。その後日本でも彼のカンフー映画が次々と公開された。映画で使用されたタバクトヨク(ヌンチャク)はゴム製であり、当たっても怪我しないようになっている。よく見るとプルプルしているシーンがある。
関連動画
静画
関連商品
関連コミュニティ
関連項目
- ジャッキー・チェン
- サモ・ハン・キンポー
- カンフー映画
- 燃えよドラゴン
- 格闘技
- 詠春拳
- ジークンドー
- 倉田保昭
- 千葉真一
- スティーブ・マックイーン
- 北斗の拳
- ストリートファイター
- 超電子バイオマン
- チャック・ノリス
- 烈海王
- 春巻龍
- 18
- 0pt