ヴラド・ドラクリヤ(Vlad Drăculea 1431年11月10日-1476年または1477年)とは、15世紀のワラキア公国(現在のルーマニア南部)の君主である。
現代における「ヴァンパイア」のイメージのモデルとなった人物として有名である……と言うか、一般にはヴァンパイア=吸血鬼ドラキュラのモデルとなった人物としてしか知られてない。
ヴラド・ツェペシュと呼ばれることの方が多いが、これはどちらかと言うと蔑称に相当するので、本稿ではヴラド・ドラクリヤを採用する。
概要
ワラキア公であったヴラド2世ドラクルの次男として生まれる。ヴラド3世の通称である「ドラクリヤ」は「ドラクルの息子」という意味である。
オスマン帝国の圧力が高まる中、貴族の権力の強かったワラキアで中央集権化を図り、オスマン帝国の度重なる侵攻を防いだ。
下記にもあるとおり多少冷酷な性格であったものの、領主としては公平であったようで、冷酷な異常者という後年の評価は後年ワラキアを支配したハンガリーのプロパガンダによるところも大きい。
現在では、ルーマニア独立のために戦った英雄として評価されている。
串刺し公
敵であったオスマン帝国の兵士であろうと領内の農民であろうと貴族であろうと容赦なく串刺し刑に処したため「串刺し公」(カズィクル・ベイ)の異名で呼ばれることもあった。
最初に「串刺し公」と呼び始めたのは、串刺し刑を目撃したオスマン兵士であったようである。ヴラド・ドラクリヤの異名「ツェペシュ」は、この「串刺し公」のルーマニア語訳である。
このような処刑方法を実施した理由については、以下の通りであったとされる。
- オスマン帝国兵士の処刑
残酷で卑しい処刑をすることで、戦闘意欲を削ぐ為。当時のオスマンの兵士の士気は親衛隊(イエニチェリ)を除けばそれ程高くなかったため、戦闘意欲を削ぐことで戦闘継続を回避する目論見はそれなりに有効だったようである。 - 貴族の処刑
中央集権をするため、敢えて卑しい処刑を行うことでワラキア公と配下の貴族の差別化を図った模様。 - 農民の処刑
治安を維持するため、見せしめとして敢えて残酷な処刑を行った、というのが実情らしい。
尚、当時の串刺し刑は死刑の中で最も卑しい処刑の一つであり、どちらかと言えばトルコ側の処刑法であった。このため後年「暴君ヴラド」の名が広まってしまうこととなり、ひいては『吸血鬼ドラキュラ』の誕生を招くこととなった。
逸話
「有力な貴族を招待して酒宴を催し、その席で彼らを皆殺しにした」
「病気流行の抑止として乞食・病人・ロマ(ジプシー)を捕らえて建物に押し込め、焼き殺した」
「帽子を被ったまま謁見したオスマン帝国の使者の非礼を咎め、帽子ごと死者の頭に釘を打ち付けた」
などの苛烈な逸話が残る。
ワラキア領内の泉に、水を飲むために黄金のゴブレットを置かせた。これは「公の治世は平和であり、何人たりとも窃盗の罪を犯さない」という意味であり、事実このゴブレットを盗む者はいなかったという。
ワラキア領内で荷を盗まれた商人の訴えを聞いて犯人を捕らえ、荷物を取り戻した際、家来に命じて密かに荷物の中に貨幣を余分に忍ばせた。
商人が荷を改めて正直にこれを告白すると公は笑い、「正直者で助かったな。もしお前がその金の事を黙っていたなら、盗人と同じく極刑に処していたところだ」と告げたという。
ドラクルとドラクリヤ
ヴラド2世の通称「ドラクル」は、敢えて日本語に訳す場合は「竜公」とでも訳すのが適切である。
これは神聖ローマ帝国より竜騎士団の騎士に叙任されていたことによる。尚、聖書の上では竜はサタンの化身であるともされるため、後年ヴラド3世が「串刺し公」と呼ばれたのに合わせ「悪魔公」と解されるようにもなった。
以上を考えれば、息子であるヴラド3世の通称「ドラクリヤ(=ドラクルの息子)」は、「小竜公」とでも訳すのが適切だろう。
無論、文脈によるのだが。
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関連項目
- ルーマニア
- オスマン帝国
- ハンガリー
- 吸血鬼
- ヴァンパイア
- 東欧
- 彼やヴァンパイアを元ネタとしている創作上のキャラクター
- アーカード(HELLSING)
- ランサー(Fate/EXTRA)
- ヴラド三世(Fate/Apocrypha)
- レミリア・スカーレット(東方紅魔郷、6面の道中曲名がツェペシュの幼き末裔)
- ヴラドⅢ世(ヴラド・ドラクラ)
- ヴィルヘルム・エーレンブルグ(Dies irae ~Acta est Fabula~)
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