伊202とは、大東亜戦争中に大日本帝國海軍が建造・運用した潜高型/伊201型潜水艦2番艦である。1945年2月14日竣工。終戦まで生き残った後、1946年4月5日、アメリカ軍によって撃沈処分された。
概要
潜高型とは、水中速力を重視したエレクトロ・ボートである。呉工廠で8隻が起工、このうち伊201、伊202、伊203の3隻が就役した。
開戦劈頭より、敵機動部隊を雷撃しようとしても、潜水艦の水中速力不足で失敗する事が度々あり、またレーダーや対潜兵器の発達で敵の対潜水艦能力が飛躍的に向上、これに対応するべく帝國海軍は水中速力を強化した新型潜水艦が必要と判断。
1938年に呉工廠で建造した71号水中高速艦や、同盟国ドイツから無償譲渡されたIXC型UボートU-511などのデータを基に、1943年7月1日より開発計画をスタート、10月29日には最終要求性能が決定した。しかし未知の技術を大量に盛り込んだ結果、潜高型は大変リスキーな艦へと仕上がってしまう。
開発当初は水中速力25ノットを目指し、水中抵抗を可能な限り排除するため艦型や艦橋を流線化、突起物は起倒式、対空機銃は格納式にしており、その姿は戦後に登場した潜水艦のようにも見える。船体にはドイツ規格St52相当のSi-Mn系高張力鋼を新開発して採用。建造の際は、ドイツの溶接技術が役立てられ、大量生産を見越して潜水艦初のブロック工法を活用、シュノーケルや22号水上電探、自動懸吊装備、自動操縦装置など最先端装備も持っていた。
ところが潜高型には技術的課題が山積。
まず最初にブチ当たった壁が大容量の電池が開発出来なかった事だった。このため代用として、甲標的に使用していた小型電池2088個を搭載したのだが、あまりにも大量の電池を積載した事で乗員室が圧迫され、1つの寝台を2~3人が使用するという、ただでさえ劣悪な居住性が更に悪くなってしまう。よく日本潜水艦は居住性が悪いと指摘されるが、それでも1人につきベッド1台は確保されていた。また大量の電池が引き起こす過熱も無視できない問題だった。加えて特D型蓄電池は耐久性が悪く、頻繁な交換を必要とする上、伊202ではこの蓄電池がショートして火災まで発生している。
他にも、水中高速時に旋回すると傾斜角が大きくなる欠点があり、艦尾の水平安定板を大型化して解決を見るも、片方の幅が3mにも達したため接岸には注意が必要だった。急速潜航秒時は目標の30秒に対して実際は全没までに110秒もかかる最悪レベルの遅さで、注水速度の改善や耐圧タンクを2つ増やして何とか40秒にまで短縮。
機関にはドイツのMAN社製マ式1号ディーゼルを採用。しかし故障が頻発して何度も修理が必要だった(駆潜艇用の機関を潜水艦用に改造しているせいもあるが)。自動操縦装置と自動懸吊装置もよく動作不良を起こして整備士を泣かせている。
艦型をなるべく滑らかにし、対空機銃を格納式にするなど水中抵抗削減に努めたが、鉄製にするはずだった上甲板を空気排出秒時短縮のため木製にせざるを得ず、シュノーケル、22号水上電探などを追加装備して重量が増大。潜高型には大出力の特E型電動機4基が搭載されており、本来であれば、減速装置をディーゼルと電動機の間に取り付ける予定だったが、減速装置があまりにも大きな騒音を出して隠密性を損ねたため、やむなく減速装置の取り付けを諦めて電動機と推進器を直結、とうとう最低目標であった水中速力20ノットにも届かなくなってしまった。一応これでも標準的な潜水艦の2倍速いのだが…。
このように多くの問題とトラブルを抱えていて、戦後調査したアメリカも高性能としつつも「危険な潜水艦」と評した。
ただ「大量の電池を搭載して水中速力を上げる」という発想自体は非常に先進的だった。これは「奇跡のUボート」「エレクトロ・ボート」と呼ばれたドイツ海軍のXVIII型Uボートと同じもので、原子力潜水艦が登場するまで戦後のアメリカ潜水艦のモデルを果たしたと言われる。海上自衛隊でも1954年に就役した国際潜水艦第一号おやしおのベースに潜高型の設計を用いていた。つまり潜高型は発想は良かったが技術力が追いついていなかった悲運の艦と言える。
要目は排水量1070トン、全長79m、全幅7.6m、安全潜航深度110m、乗員31名、最大速力15.8ノット(水上)/19ノット(水中)。兵装は九五式艦首魚雷発射管4門、魚雷10本、引き込み式九五式25mm単装機銃2丁。
艦歴
マル戦計画において、潜高型一等潜水艦4502号艦の仮称で建造が決定。建造費1232万5000円が捻出される。
1944年5月1日、呉海軍工廠で起工、8月25日に伊202と命名され、9月2日進水、9月15日、艤装員長として呂68から転出してきた今井賢二大尉が着任し、10月1日より艤装員事務所を設置して事務を開始、そして1945年2月14日に無事竣工を果たした。呉鎮守府に編入されるとともに第33潜水隊へ部署、練習兼警備艦となる。
就役と同時に呉を出港して大竹に回航。2月16日より伊予灘で慣熟訓練に従事した後、2月20日に呉へと入港する。バッテリー充電作業後、より高い電流を短時間で使用しようとしたら、突如500個の電池が爆発、電池室より出火する事故が発生してしまう。原因は特D型蓄電池のショートであった。災難に遭いながらも、3月1日から広島湾で訓練を再開。
4月30日呉を出港、以降は呉と伊予灘を往復して月月火水木金金の猛特訓を繰り返すが、B-29による度重なる機雷敷設により、もはや瀬戸内海西部は訓練地に適さない危険な場所と化してしまったため、伊202を含む潜水艦5隻、小型貨物船35隻、掃海艇数隻が比較的機雷の敷設が進んでいない舞鶴へ退避する事に。
5月28日、呉を出発して姉妹艦伊201と合流、回航先の舞鶴を目指す。だが日本海に脱出するには十重二十重に機雷封鎖された関門海峡を突破しなければならない。翌29日夜、海峡突破の際、伊202の甲板上には航行に必要な人員を除いて全員が集められ、目を皿にして機雷の早期発見に努める。伴走者の伊201が潮流に流されて艦首を損傷・反転するトラブルがあったものの無事突破に成功。5月31日に舞鶴へ到着した。次いで6月4日、伊201、伊373、長鯨の3隻が舞鶴に入港してきた。
7月29日午前8時頃、米第38任務部隊の敵艦上機が舞鶴湾を空襲、第1造兵部水雷工場付近に爆弾が落下して女子挺身隊員や工員など97名が死亡したが、工廠岸壁に係留されていた伊202には被害は無かった。
ところが翌30日の空襲では伊202も標的となり、敵艦上機15機から9発の至近弾を受けて一番潜望鏡レンズ破損、艦体に小破孔多数が生じる損傷を負う。第二波攻撃が始まる前に湾内へと脱出して潜航退避を行った。この空襲で駆逐艦初霜と第2号海防艦が撃沈、長鯨が直撃弾を受けて中破している。損傷を修理するべく乾ドックに入渠。月末に行われた第6艦隊の幕僚会議に今井艦長も出席した。
終戦後
1945年8月15日正午に玉音放送が流れて終戦。しかしソ連軍はポツダム宣言受諾後も侵攻作戦を続けており、ソ連の領土に近い舞鶴では未だ脅威に曝され続けていた。
今井艦長のもとに伊121、伊201、呂500などの潜水艦長5名が集まって対ソ作戦の実行を決断。伊202は九五式魚雷4本を積載して8月17日に舞鶴を出撃。僚艦とウラジオストク沖240kmに散開線を展開した。この事を知った第6艦隊は再三に渡って帰投命令を出し、8月22日には参謀が舞鶴へ来訪して帰投命令の重要性を説くなど説得。戦意を失った伊202らは無線機を破壊した上で8月24日に舞鶴へと帰投するのだった。
10月、残余の潜水艦は佐世保へと集められ、11月30日に海軍省の解体に伴って除籍。こうして伊202の戦いは終わった。姉妹艦の伊201と伊203は技術調査のためハワイへ回航、伊202は本土に留まってイギリスに接収・調査されるはずだったが、この特異なる潜水艦にソ連が興味を持って引き渡しを要求してきた。ソ連に技術が渡るのを防ぐべく1946年3月26日にアメリカ軍は先んじて処分を決定。
1946年4月5日、佐世保向後岬西方13海里でアメリカ軍が撃沈処分(デッド・ダック作戦)。この時処分された潜水艦は伊202、波207、波210、波216の4隻である。
関連項目
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