伊373とは、大日本帝國海軍が建造した潜丁型改潜水艦1番艦である。1945年4月14日竣工。台湾への輸送任務に従事するが、終戦直前の8月14日に敵潜水艦の雷撃により撃沈。最後に失われた日本潜水艦となった。
概要
潜丁型改とは、潜丁型(伊361型)をベースに航続距離を犠牲にして輸送能力を底上げしたタイプである。
基本的な設計は潜丁型に準じているが、重油タンクの一部をガソリンタンクに改造しており、潜丁型には不可能だったガソリン150トンの輸送能力を持つ。内殻にガソリンが漏洩しないようこの部分は全て電気溶接とした。各種能力も潜丁型より強化され、艦内積載量が65トン→100トン、安全潜航深度が75m→100mに向上。他にも、潜丁型にあった艦尾側段差の撤廃、後部甲板を延伸して新たな銃座を設置するなど、若干ながら設計に変更が加えられている。しかし、排水量が200トン以上も増大してしまったため、電池の改正を行うも、こちらは実を結ばず水上・水中ともに航続距離が低下している。
建造するにあたって潜丁型同様、量産性を高める目的でブロック工法を採用、既製の兵装や艤装部品を使用する事で艤装の簡略化を図り、艦橋はV字傾斜を付けた防探型となった。
上甲板に繋がる電動ベルトコンベア、22号水上電探、E-27電探、13号対空電探、三式探信儀、九三式水中聴音機、シュノーケルを装備している点は潜丁型と同じ。ただ冷房機能だけは潜丁型より劣っていて南方で活動する際の居住性は悪かったと思われる。潜丁型改の後継機として汎用性を高めた潜丁二型が設計されたが起工前に中止。
航続距離は13ノットで5000海里(9260km)。これは、おおよそ日本からニュージーランドまでの距離にあたる。潜丁型は1万5000海里なので3分の1にまで減退したと言えるだろう。水中だと3ノットで100海里(182.5km)。もはや東京から御前崎くらいの距離しか移動できない。平時ならともかく、戦時は移動中に潜航退避をしなければならない事態が必ずあるので、実際の航続距離は数字より少ない。
計画では6隻建造される予定だった。ところが4隻は潜丁2型に設計変更、2番艦の伊374は起工こそしたものの1945年4月17日に建造中止。結局就役まで漕ぎ着けたのは伊373ただ1隻のみに留まる。終戦直前で、また1隻のみ就役だったためか写真や図面が散逸しており、長らく本型の外観が不明だった。海人社出版「日本潜水艦史」や大日本絵画社出版「日本海軍の潜水艦」などの資料にも詳細不明と記載されるほど幻の存在。しかし軍事史研究家の大塚好古氏が新発見した資料によりようやく明確になった。
要目は排水量1660トン、全長74m、全幅8.9m、最大速力13ノット(水上)/6.5ノット(水中)、燃料搭載量147.1トン、安全潜航深度100m、急速潜航秒時50秒、乗員55名。兵装は14cm単装砲(後に三式8cm連装迫撃砲と交換)1門、25mm連装機銃3基、単装機銃1基。大型通船1隻、航空用燃料150トン、貨物110トンを積載可能。輸送能力強化のため魚雷発射管は備えておらず雷撃不可。
戦歴
1944年度マル19線表において輸送能力を強化した潜輸大型(伊372型)7隻の建造承認が下る。だが、戦況の悪化によって太平洋に点在する各航空基地が孤立するに至り、味方の勢力圏へ航空燃料や物資を輸送する必要が出てきた。そこで新たに航続距離を犠牲に補給能力を更に強化した輸送用潜水艦が求められ、1944年4月19日の軍令部二機密第30号で開発命令が出されて潜丁型改(伊373型)の開発がスタートした。
参加した潜水艦9隻のうち6隻が未帰還になったギルバート戦の戦訓を活かし、最大潜航深度を150m以上にして対潜艦艇から逃れられるよう要望が出ていたため安全深度を100m/最大深度150mで設計するも、7月7日発令の軍令部機密第168号で方針変更となり、安全深度110m/最大深度143mとなった。
1944年8月15日、丁型改一等潜水艦第2962号艦の仮称で横須賀海軍工廠にて起工、10月5日に伊373と命名されて11月30日に進水し、1945年1月10日に艤装員長として射延行雄大尉が着任する。人材不足からか射延大尉はまだ潜水学校の甲種学生(艦長養成コースの真っ只中)だった。そして戦争末期の1945年4月14日に竣工を果たした。初代艦長に射延大尉が着任。横須賀鎮守府に編入されるとともに訓練部隊の第11潜水戦隊へ部署し、旗艦である潜水母艦長鯨の指揮下に入る。
4月17日に第11潜水戦隊と合流するべく館山沖を出港。太平洋側を回って瀬戸内海西部を目指し、4月24日に伊予灘へ到着。長島東錨地を拠点に単独訓練を行う。4月26日と27日に旗艦長鯨と合同出動訓練を行った後、4月29日に呉へ帰投して短波マスト昇降装置、九九式特四号逆信機、空中線、第一潜望鏡昇降装置、転輪羅針盤追従装置、右二番ベント開閉装置等の修理を実施するとともに、潜水艦用電波探知機の実験に協力。
5月1日に甲種学生を卒業した射延艦長が少佐に昇進。5月6日、呉を出港して伊予灘で慣熟訓練に従事し、5月20日に再び呉へと入港する。
6月1日、長鯨とともに呉を出港して伊予灘で訓練を行った後、伊201と合流。度重なる機雷敷設で瀬戸内海西部や呉軍港はもはや安全な場所とは呼べなくなっており、伊373を含む潜水艦5隻、掃海艇数隻、小型貨物船35隻、新造の海防艦などには比較的機雷の投下が少ない日本海側への脱出命令が下る。伊373、伊201、長鯨は瀬戸内海を出発して回航先の舞鶴へと向かうが、その途上で十重二十重に機雷封鎖された関門海峡を突破しなければならなかった。5月だけで66隻(約11万トン)の船舶が沈没し、伴走者の伊201も以前突破を図った時に損傷して無念の後退をさせられていたのである。そんな船の墓場を針に糸を通すような繊細な操艦で突破。6月4日に舞鶴へ到着、先に到着していた伊202との合流を果たす。
6月7日から日本海方面で最後の訓練を実施。しかし日本海側にもアメリカ軍の魔手が迫り、B-29による機雷敷設に加えて米潜水艦9隻が日本海へ侵入して通商破壊を行い、数隻の商船や伊122を撃沈するなど常に危険と隣り合わせであった。拠点の舞鶴にも機雷が投下されている。6月13日に第11潜水戦隊から訓練の終了と水路を検討した上で佐世保への回航命令が下った。
6月15日に舞鶴を出港し、翌16日に佐世保へ入港。6月17日より佐世保工廠で航空燃料150トンを積載するための追加工事を受ける。この工事で輸送能力が更に強化されたが、ただでさえ短い航続距離がより一層低下し、日本とシンガポールの往復すら出来ない完全近距離特化型の輸送潜水艦となる。また14cm単装砲を撤去して三式8cm連装迫撃砲に換装。6月20日に第6艦隊第1潜水部隊第15潜水隊へ転属。執拗な空襲で壊滅状態に陥っている台湾南西部の要港高雄へ輸送任務を命じられる。6月29日23時50分頃、佐世保上空に141機のB-29が来襲して市街地中心部を2時間に渡って盲爆。死者1242名を出した。逆に軍港への攻撃は殆ど行われず、伊373が入渠している海軍工廠に小規模な被害が生じた程度で済む。
オーストラリアのメルボルンに本拠を置く、連合軍の艦隊無線傍受部隊FRUMEL(フルメル)は伊373の動向を監視し、「7月3日に伊373が高雄への補給のため出発、7月26日に佐世保へ戻って来た」との通信を傍受・解読したと報告する(ただしこれは誤りだった)。8月5日、FRUMELは「当日中に伊373は佐世保を出港。高雄から帰投する」と発表。この時はまだ伊373は出発していなかったが殆ど動きを読まれていた。
そうとは知らずに8月9日、伊373は航空燃料、米、砂糖を高雄に輸送するべく佐世保を出港。そしてFRUMELから情報提供を受けたバラオ級潜水艦スパイクフィッシュが迎撃のため移動を開始する。
最期
1945年8月13日20時10分、伊373は上海南東350kmの東シナ海にて、10ノットの速力で之字運動を行いつつ13号対空電探を使って厳重な警戒を敷いていた。しかし、努力の甲斐なくスパイクフィッシュのレーダーに捕捉され、20時18分より約3200mの距離から追跡を受ける。どうやら13号対空電探の波長を探知されたようだった。近距離用輸送潜水艦と最新鋭攻撃型潜水艦とでは装備・性能ともに勝ち目は無い。敵潜の存在に気付いた伊373は、21時18分、南東への偽装航路を取ると同時に急速潜航を行い、スパイクフィッシュの追跡を振り切る。しかしそれが精いっぱいの抵抗だった。
8月14日午前0時7分、浮上したところを7800m先からレーダー探知され、再びスパイクフィッシュが迫る。伊373の最大速力が13ノットなのに対しスパイクフィッシュは20.25ノットであり、レーダーの性能も手伝って彼我の距離は徐々に縮まっていく。たちまちスパイクフィッシュは伊373を雷撃射程圏内に収めたが、この時はまだ味方の潜水艦である可能性を捨てきれず、国籍が明確になるまで攻撃を控えていた。
午前4時19分、日本の潜水艦だと確信したスパイクフィッシュは潜航し、5分後に距離1200mから6本の魚雷を扇状に発射。このうち2本が伊373に命中し、艦尾から沈没していった。敵潜の聴音手は空気が漏れ出る大きな音を聴き取ったという。午前5時40分、浮上したスパイクフィッシュの眼前にはディーゼル燃料の油膜や大量の残骸が広がっていた。やがて5名の生存者が漂っているのを発見、救助しようとしたが全員が拒んだため、やむなく1名を尋問のため強引に艦内へ引き上げる。尋問の結果、その生存者は乗艦を「伊382」と証言した。こうして救助された1名を除いて全乗員84名が戦死。アメリカ軍が戦闘を中止するまで後27時間、終戦を伝える玉音放送まで後32時間の出来事であった。唯一生き残った生存者はサイパンへ移送されている。
帝國海軍は8月14日に東シナ海で亡失と認定し、9月15日に除籍。伊373は第二次世界大戦で最後に失われ、また撃沈された日本潜水艦128隻のうちの最後の艦となった。
関連項目
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