伊121単語

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伊121とは、大日本帝國海軍が建造・運用した伊121/機潜潜水艦1番艦である。1927年3月31日工。大東亜戦争時は既に老朽艦だったが1943年9月まで最前線で活躍した。終戦まで事生き残った後、1946年4月30日に舞湾で処分された。

概要

帝國海軍の一等潜水艦。建造当初の艦名は伊21であった。帝國海軍潜水艦で機雷敷設力を持つのはこの機潜潜水艦に連なる4隻のみ(ただ魚雷発射管を改造した伊6も一時的に敷設力を有していた)。

第一次世界大戦中、ドイツ帝国海軍が運用したUボート奇跡的な発展と飛躍を遂げた。開戦当初は沿警備にしか使えないと考えられていたUボートが、制限潜水艦作戦によりイギリスを脅かすほどの存在感と大戦果を叩き出したのである。戦争終結後、戦勝ドイツが持つ世界最高峰の潜水艦技術を獲得しようと躍起になり、大日本帝國も例に漏れず、自軍の潜水艦を強化するべく独自に動きだす。戦勝でもあった日本には賠償艦としてUボートの現物を入手出来る機会があり、7隻のUボート日本へ送られる事となったが、このうち1918年11月26日に投降した大機雷敷設用潜水艦であるU-117/UE潜水艦U-125に01潜水艦の名称を与えて1920年から翌年まで試験運用してみたところ、極めて優秀な性を有している事が判明。U-117は大戦末期の登場だったため洗練されていたのだ。U-125の図面をベースにした新潜水艦の建造計画がスタート帝國海軍は本計画を非常に重要視していたようで、Uボートの大部分を設計したゲルマニア所の主任設計者ハンス・テッヘル博士日本に招聘・技術導してもらうという、かつてない気合いの入れようだった。

U-125の設計をベース体を大化し、艦形状を変更、南方での作戦行動を考慮して冷却器を搭載した他、兵装を全て日本式に改めている。艦後部の内殻内に機雷敷設筒2基と機雷格納台2軌条3段を持ち、ドイツ潜水艦搭載用機雷を調して産化した八八式機雷48個を搭載、また重量のある機雷を敷設すると艦のバランスが崩れるので機雷庫両側と後方に重量補正用タンクを装備。軽くなった側に注する事で艦を行に保つ訳である。実のところU-125をほぼコピーしただけのものだったが、潜水艦先進国ドイツが生み出した設計だけあって安全潜航深度が驚異の75m(参考までに同時期の大三が60m、大五でようやく75mに達した)、8ノットで1万500里の長大な航続距離を誇るなど非常に優秀であり、コピー品であっても帝國海軍にとっては宝石のような価値があった。U-125ベースに建造された新潜水艦伊21もしくは機潜と呼称された。

ところがU-125には操縦性に難がある欠点があり、機潜はその欠点までもコピーしてしまっていた。というのもU-117はテッヘル博士の設計ではなく欠点を見落としていたのだ。他にも航洋性こそ高いが、水上速力が低く、水中機動性も悪く、実用性にも難があり、挙句の果てには重量補正用タンクによるバランス調整が上手く行かず転覆しかける事もよくあったという。乗組員からは「嫌い潜」というありがたくないあだ名が付けられていたとか。加えて後のメインタンク補強工事で安全潜航深度が54mに低下した。あまりの扱いにくさから後継艦が作られず(巡潜に機雷敷設力を持たせる計画自体はあった)、機潜帝國海軍一の機雷敷設用潜水艦となってしまった。一方で大タンクを持っている事から航空燃料給油装置の取り付けが可だったり、魚雷による対艦攻撃も可と機雷敷設しか取り柄がない…という訳ではなく、その多芸ぶりが認められてか1943年中頃まで最前線で運用されている。和製Uボートという事でその容姿は潜水艦とは明確に異なっており、そのためか潜水艦スケートは撃沈した伊122を「伊121」だと正しく認識していた。

排水量1142トン、全長84.7m、全幅7.6m、最大速力14.9ノット(水上)/6.5ノット(水中)、ディーゼル燃料搭載量225トン水上航続距離は8ノットで1万500里、安全潜航深度75m、乗組員51名。兵装は15式艦首発射管4門、魚雷12本、40口径11年式14cm1門。伊2122、23、24の計4隻が生産された。

伊121の戦歴は支那事変から始まり、各種攻略作戦上封鎖に参加。大東亜戦争開戦時は第1艦齢期(12年)をえた老朽艦であったが、南方作戦、K作戦ミッドウェー海戦ガダルカナル島争奪戦に参加し、危険なラエ輸送を10回も成功させるという桁外れの存在感を示した。機潜終戦まで生き残る。

艦歴

異彩を放つ和製Uボート、戦乱の時代を駆け抜ける

1921年に策定された大正12年度艦艇補充計画において第48号機雷潜一等潜水艦の仮称で建造が決定。1924年10月20日に臨時艦建造部川崎所で起工、11月1日伊21機雷敷設潜水艦1番艦伊21に改名する。1926年に来日したテッヘル博士から約5ヵ間の技術導を受けて同年3月30日に進し、そして1927年3月31日工を果たした。工後は横須賀鎮守府に編入。4月4日工祝いとして川崎所から蓄音機レコード盤、将棋盤運動具、調理器具、雑具等の寄贈品が贈られて保物品扱いとなる。

ロンドン海軍軍縮条約締結後の1926年8月、軍部がまとめた具体的な防要所兵力によると、仮想敵アメリカ西海で行う通商破壊に機潜4隻を投入する事になっていた。また帝國海軍伊21起工前の1923年ドイツから対水上艦用繋維機雷の図面と専売特許を買収、独式潜水艦用機雷の仮称を与えて横須賀海軍機雷実験部で研究・試製実験を重ねていた。

1927年11月1日工したばかりの2番艦22と横須賀防備隊第9潜隊を編制。1928年3月9日午前11時横須賀湾にて速力試験中、魚雷の発射試験を行っていた駆逐艦と衝突事故を起こし、艦首が右側に60度曲がる被害に受けた伊21は損傷を修理するため横須賀へ入港した。4月28日に3番艦23が第9潜隊に加入。12月4日横浜で挙行された御大礼特別観艦式に参列、伊21は第五列にした。12月10日には四番艦24が第9潜隊に加わって4隻体制となる。1929年5月、機雷実験部で開発が進められていた独式潜水艦用機雷が制式採用され、八八式機雷として機潜要兵装となる。八八式機雷は機潜にしか扱えない言わば専用武器であった。

1930年12月1日に第9潜隊での任務を了し、1931年10月15日より呉鎮守府へ転属、22と第13潜隊を新編する。1932年10月1日防備戦隊に編入。1933年3月15日に予備艦となり、第13潜隊は11月15日防備戦隊から除かれて再び呉鎮守府所属になる一方、伊21は現役復帰を果たした。

1935年5月25日深海試験中の23と24のメインタンクが圧壊する事故が発生したため、11月15日に第13潜隊を防備戦隊に編入して同日より補強工事を開始。これにより安全潜航深度が75mから54mに低下した。1937年3月20日工事了に伴って現役復帰。

支那事変

しかし風雲急を告げる極東情勢は伊21を戦乱の渦へと巻き込んでいく。

1937年8月13日蒋介石総統率いる中国国民党軍の精鋭3万が、上海日本人租界と守備隊4000名を攻撃した事で支那事変の先触れである第二次上海事変が勃発。数・兵器ともに優勢な国民党軍を前に苦戦する守備隊、彼らを援護すべく内地から増援部隊を乗せた輸送団と海軍艦艇が次々に出撃していく。伊2122は9月青島へ進出。10月20日、第3艦隊と新編の第4艦隊で支那方面艦隊が編制され、第13潜隊は旧第4艦隊の担当である州以南の南支を作戦範囲とする。

11月20日重巡足柄を旗艦とした封鎖部隊隊に所属して第三次交通遮断から参加。12月1日の兵力部署で軽巡洋艦球磨率いる第3潜戦隊に配属、12月5日に根拠地である旅順に鮫島具重少将が着任し、12月17日よりA作戦(広東方面の敵飛行場を一挙に占領して海軍航空兵力を進出させ、中華民国の補給路遮断を企図したもの)に備えて中支方面に分遣され第4戦隊の担当区域に進出したが、パネー号事件の発生に伴ってA作戦が中止となったため12月23日に復帰。その後は北支封鎖部隊の一員として旅順を拠点に北支方面の上封鎖を開始。伊21らの活躍により沿部から中国が締め出されて国民党軍は慢性的な物資不足に喘いだ。

1938年1月青島攻略に成功した陸軍2軍2月初旬から歩兵一個大隊を派遣して芝の占領をしていた。これを支援するため海軍側は芝領事帰任の護衛と治安が安定するまでの警を担うC部隊を新編。2月2日にC部隊所属の艦艇は旅順へ集結するよう命じられ、隊として参加が決まっていた伊2122もまた旅順に移動した。2月3日午前1時にC部隊は旅順を出発、海軍特別陸戦隊を山東省北東部煙台に上陸させる軽巡球磨の間接援護に向かう予定だったが、伊2122ともにエンジントラブルに見舞われて出港出来ず旅順に残留。ところが2月13日、芝東方海賊が襲来した事で芝政府から救援要請を受け、翌14日に第13潜隊からも乗組員を抽出して臨時の陸戦隊を編制、に上陸させて水上機の上援護を受けながらより海賊掃討を行った。海賊の殲滅を以って2月19日にC部隊は解散となる。

敷設艦厳島が監視していた威衛にて排日活動が化の一途を辿っていた。どうやら中華民国側は「日本軍が威衛へ進攻しないのは兵力不足だからだ」と判断し、大々的に排日活動を扇動しているようだ。治安の悪化を懸念した北支部隊3月5日に陸戦隊の威派遣を決定。上陸した陸戦隊の活躍やバラまいた伝単のおかげで事態は収束したが、今度は海賊が襲来してきたため、増援を送るべく伊2122はそれぞれ15名の陸戦隊を乗せて3月22日に旅順を出港。合わせて30名の陸戦隊を威湾のへ上陸させ、これを占領した。戦線が内陸へ移動した事、沿部の要港は粗方封鎖了して揚子江が戦場となった事から、潜水艦の出番は次第にくなっていった。6月1日、艦名を伊121に変更。新たに建造される巡潜4番艦伊21番号を明け渡すための措置だった。6月20日には第13潜隊は呉鎮守府部隊に転属となり、第2予備艦となった伊121は内地帰投を命じられ、6月22日佐世保へ帰投した。

1940年5月1日、第13潜隊は第5潜戦隊に編入されて現役に復帰し、5月19日佐世保を出港して太平洋方面で長期の訓練航に従事。トラックマーシャル諸島マリアナ諸を巡航したのち9月22日横須賀へ帰投。9月24日より支那戦線に即応するため内地待機する。10月11日横浜で行われた紀元2600年特別観艦式に参加。11月15日に第13潜隊は第5潜戦隊から除かれて海軍学校練習潜水艦兼警備艦となる。

1941年1月30日から2月4日まで一時期的に旗艦の座を伊122に継承。4月30日まで所在地の対並びに警監視任務に就いた。5月1日、第13潜隊は支那方面を担当する第3艦隊第6潜戦隊に編入され、6月10日に温州・厦門間での沿封鎖を命じられる。8月5日を出撃、中南支沿上封鎖及び中国船舶の監視任務に就き、ジャンク等を使って上海から抗戦物資を運び込もうとする国民党軍としのぎを削った。8月24日から9月3日にかけて三B作戦に従事して陸軍の撤退支援を実施。だが連合艦隊が戦時編制に移行した事を受け、9月7日に急遽へ帰投。新たな戦争に備えるべく内地待機するとともに臨戦作業準備を開始した。

11月20日、第13潜隊は吉富説三少将率いるマレー部隊第4潜戦隊に編入。東洋におけるイギリス軍の一大拠点シンガポール攻略支援を行う事になった。11月21日に潜水母艦長伊122と佐世保を出港、艦隊の集結地となっている海南島三亜港へは11月27日に到着する。ここで吉富少将からシンガポール峡東口に対する機雷敷設と監視を下され、12月1日に三亜を出撃。その翌日には旗艦長門から送信された「ニイタカヤマノボレ」の暗号電文を受信。これは「交渉決裂、対戦争不可避」「8日以降に軍事作戦を開始せよ」という意味が含まれていた。開戦前12月7日、伊121はシンガポール東海域に、伊122は東口にそれぞれ八八式機雷42個を敷設。ここで運命の開戦を迎える事となる。

開戦時存在した作戦潜水艦48隻、総計64隻の潜水艦は己が運命に向かって潜り始めた。

大東亜戦争

1941年

緒戦を彩る破竹の快進撃

1941年12月8日真珠湾攻撃とコタバルへの上陸を以って大東亜戦争が開戦。伊122とともにシンガポール峡東口で監視任務に就く。シンガポールには南方作戦最大の障である戦艦プリンス・オブ・ウェールズ巡洋戦艦レパルスを基幹としたZ部隊が停泊しており、この二大戦艦の動静を海軍から監視していた。しかし8日夕刻に出撃したのを発見出来ず、12月9日15時15分に伊65がマレー東方で敵戦艦2隻を発見したと通報。これを受けて同日21時30分、第4潜戦隊はZ部隊の南下に備え、東口から撤してカムラン湾への帰路に就いていた伊121に「フヘモ」地点での散開待機を命じた。ところが伊58が発した位置情報によるとZ部隊は遠く離れた場所に移動していたため、翌10日午前6時30分に第13潜隊はカムラン湾への帰投命を受領。間もなく生起したマレー沖海戦により二大戦艦は撃沈され、最大の障を取り除くと同時に東南アジア一帯の制権を手中に収めた。12月14日、カムラン湾に帰投。

12月18日伊122と一緒にカムラン湾を出港。12月20日バラバック峡で機雷を敷設した後スールーへ向かい、パラワンエルプリンセサ、ミンダナとバシラン峡を通過して12月27日に占領したばかりのフィリピン南部ダバオへ入港した。マレー沖海戦勝利で思いのほか南方作戦が順調に推移したため南方部隊は第二期兵力部署を発南方作戦に参加中の全潜水艦マレー及び印周辺域に配置し、航空部隊水上部隊と協力して連合軍を包囲するとともに退路を遮断して同方面の攻略を促進する。第6潜戦隊作戦支援に投入され、バン、フロレスオーストラリア北方域での敵艦隊攻撃、海上交通路破壊、要地偵察、機雷敷設を下される。

1942年

1942年1月5日ダバオを出撃。連合軍はマニラを放棄した後、オーストラリア北部のポートダーウィンを新たな増援補給路としており、そのポートダーウィンの入り口に機雷を敷設しに行くのが今回の任務であった。

1月11日午前5時30分、ティウィ諸南西のティモール連合軍の駆逐艦を発見・攻撃したが失敗に終わる。翌12日午前4時55分までにクラレン峡に39個の機雷を敷設し、ティモール任務を開始。1月18日、ウェタール北方で小巡視船に護衛された連合軍の商を発見して魚雷3本を発射。一部資料では貨物船バンタムを撃沈したとしているが、当該域にバンタムはおらず、しかも終戦まで生き延びているため誤りである。続いてクラレン峡へ戻るが、1月21日にポートダーウィンで敵巡視船3隻に発見され、爆雷42発の投下を受けて燃料タンク2基が中破するも逃走に成功。1月25日、機雷敷設任務中の伊124と合流するため区を出発、1月28日午前4時に合流地点へ到着するが、23時まで待機しても姿を現さなかったためダバオへの帰路に就いた(伊124は1月20日オーストラリア海軍の艦艇に撃沈されていた)。1月30日ダバオに帰投。潜水母艦長から燃料、弾薬、物資の補給を受け、中破した燃料タンク修理してもらった。2月1日、いよいよ開始されるジャワ島攻略作戦に先立ち、第4及び第6潜戦隊で甲潜部隊を編制。続く2月5日の甲潜部隊作第1号により第6潜戦隊の配備点はジャワ以東のトレス峡とポートダーウィンに定められた。

2月9日南雲機動部隊によるポートダーウィン空襲支援するためダバオを出撃。モロタイ北東560kmをした後、2月13日に南東へ向かうと伊122と別れて自身は南下、2月16日の日までにポートダーウィン北西93kmの区へ到着する。ところが2月18日バッテリー充電をしようと日前に浮上したところ、オーストラリア軍の哨戒機から機掃射を受けて潜航退避。全に暗くなったのを確認してから再度浮上、充電を行いながら20時30分に南雲機動部隊へ気情報を送信した。翌19日午前2時30分にも別の気情報を送信している。この日の午前9時57分、南雲機動部隊から飛び立った188機の艦載機と55機の陸攻がポートダーウィン襲、8隻の艦沈没、9隻が損傷、15機の敵機を破壊し、港湾施設に大きなダメージを与えた。攻撃を見届けた伊121は2月25日区を出発。2月28日にセレベス南東ケンダリースターリング湾に到着し、ダバオから進出してきた潜水母艦長から燃料補給を受ける。3月9日ジャワ島オランダ軍が降した事により作戦了。翌日伊121と伊122は内地で本格的な整備を受けるためスターリング湾を出発、中で第3艦隊が解隊となったので第6潜戦隊は単独で連合艦隊に編入され、3月21日へ入港。

開戦劈頭の真珠湾攻撃により港湾施設に大打撃を与えるに至ったが、アメリカ軍灯火管制も行わずに兼行の修復作業を行っている事が潜水艦偵察により判明、これを妨しようと2月に制式採用されたばかりの二式大飛行艇による爆撃を企図し、K作戦と命名された。既に1回は行われ、2回5月末に行う事が決定。長大な航続距離を持つ二式大艇と言えど必ず1回は途中で給油しなければならないため、その給油役に伊121、伊122、伊123の3隻が選ばれ、体に航空燃料補給装置を搭載するべく4月1日よりに入渠。4月10日、第二段作戦に応ずる戦時編制の改定が行われ、第6潜戦隊が解隊したため第13潜隊は第6艦隊直率に転属。4月12日には軍部との協議の上で連合艦隊が今後の攻略作戦の日程を決め、第13潜隊は6月7日に行われるミッドウェー攻略支援を担当する。

5月8日、伊121、伊122、伊123の3隻はマーシャル諸島クェゼリンに向けてを出港。中で伊122が機械故障で引き返し、2隻のみが5月19日にクェゼリンへ入港した。2隻がクェゼリンに入港した日、有馬連合艦隊参謀立ち合いのもと二式大艇を有する第24航空戦隊潜水艦部隊との打ち合わせが行われ、第二次K作戦に関する協定が成立。ちなみに各潜水艦はクェゼリンに到着するまでミッドウェー作戦の実施を知らされていなかった。

栄光からの暗転、K作戦とミッドウェー作戦

そしてK作戦支援のため5月19日にまず伊123が先発、少し遅れて5月21日に伊121が出発し、ハワイ北西のフレンチフリケード礁近の配備点に向かう。フレンチフリケード礁にはハワイ襲に向かう二式大艇が降り立つ事になっており、その二式大艇に燃料補給を施すのが2隻の役割である。予定より到着が遅れた伊122は撃墜された時に搭乗員を救助出来るよう真珠南方で待機、171二式大艇に誘導ビーコンを送るためフレンチフリケード礁東方の配備点に就く。ところが5月29日伊123が配備点に到着したところ、既にアメリカ海軍水上機母艦バラードとソーントンフレンチフリケード礁を警しているのを撃。翌日「警厳重見込みし 敵水上艦艇2隻を見ゆ 1544」と第24航空戦隊に通達。5月31日に伊121もフレンチフリケード礁に到着し、伊123と敵艦の動向を監視するが、更に敵飛行艇が飛来するなどアメリカ軍の警は弱まるどころか強くなったため6月1日作戦中止となった。

6月4日ミッドウェー海戦の開始に伴ってフレンチフリケード礁から西へ向かうよう命を受け、伊123と一緒に出発。翌5日、リシアンスキー南西で北東方向に向かう潜水艦ドルフィンを発見して急速潜航。ところが14時59分、ドルフィンは後方1830mに伊121の潜望を視認して離脱を図り、雷撃を行う前に射程圏外逃げられた。6月6日14時2分、第6艦隊部は伊121と伊123にA散開線へ、伊122に「ヘヒシ00」地点へ向かうよう示。重巡三隈に対する攻撃状況から、6月7日14時50分、敵空母部隊に対する反撃を企図して電作第87号を発。第13潜隊はT散開線(北から伊123、伊121、伊122の順)の形成を命じられた。6月13日機動部隊の大部分はミッドウェー東方にいる算大とされ、散開線を東側へと移動させる。14隻の潜水艦によるR、S、Tからなる散開線は全長400里に及ぶ長大なものだったが遂に敵艦隊を捕捉するには至らなかった。6月25日にクェゼリンへ帰投したのち横須賀に戻った。

ミッドウェー海戦敗北に伴う艦隊の再編成により7月14日、第13潜隊は南東方面を担当する第8艦隊第7潜戦隊へ転属。伊121、伊122、伊123以外は中の呂号潜水艦のみで編成されたミニマムな部隊であった。7月16日伊122と横須賀を出港し、7月24日から31日までトラックに寄港した後、8月4日ラバウルへ進出した。ここで伊121はこの世の地獄られていくのを撃する。

南洋の島で開く地獄の窯。果てしなく物資を呑み込む泥沼の戦場

8月7日、予想よりもアメリカ軍の反攻作戦が開始され、ガダルカナル島と対のツラギに第1兵師団の大部隊が上陸。偵察の九七式飛行艇が撃墜されていた事も手伝い敵の襲来は寝耳に水だった。く間に同地の飛行艇二式水上戦闘機は全て失われ、横浜航空ラバウル別電を打って音信不通となるなど、戦況は滑落していくかのように悪化の一途を辿る。

伊121及び伊122は迎撃と偵察のため即日ラバウルを出撃。第2航空隊の九九式艦爆9機や第4航空隊の陸攻27機、台南零戦17機等とともにガダルカナル島急行する。8月8日、セントジョージ南方56kmで潜水艦S-38に水上航行している所を発見されたが、幸い攻撃は受けなかった。第13潜隊は最もくガに到着した潜水艦となった。8月15日から17日までアメリカ軍橋頭保となっているガダルカナル島ルンガの偵察を行い、8月18日よりサンクリスバル南東で遊開始。アメリカ軍暗号が解析出来ないせいで敵の動向を探る手段は航空機潜水艦の偵察に限られた。8月22日17時10分、サンクリスバル南東93kmで第16任務部隊に対して雷撃するが、魚雷1本が敵空母エンタープライズ重巡ポートランドの間をすり抜けていった。8月25日17時20分、第7潜戦隊は今へ入泊する敵艦艇の攻撃を命じられる。

その後、第二次ソロモン海戦エンタープライズが損傷、8月26日午前0時15分、修理のため後退するエンタープライズを討ち取るべくステワート南東50里の地点へ移動を命じられる。しかし翌27日午前6時30分、水上バッテリー充電していた時にワスプから発進したSBDドーントレス急降下爆撃機2機に襲撃され、何とか急速潜航するも、1発の爆弾が機雷庫に直撃して深刻な漏が発生。数時間後に浮上して応急修理を実施するが潜不能となったため、14時55分に敵空母攻撃を断念して仕方なくラバウルへの帰路に就く。潜が出来ないという潜水艦としては脆弱な状況で、8月28日午前4時30分にサンクリスバル北東150kmで空母と数隻の駆逐艦と、午前8時空母巡洋艦2隻、駆逐艦4隻で構成された敵艦隊と遭遇する肝を冷やすような出来事が起きた。その後は何事も9月4日15時ラバウルへ帰投した。

現地で応急修理を行い、更なる修理のため9月8日ラバウルを出発、9月20日へ到着して本格的な修理を受ける。呂33を喪失し、伊121と呂34が帰投した結果、第7潜戦隊で活動しているのは伊122だけになってしまった。

修理を終えた伊121は12月1日を出発し、12月10日から17日までトラックに寄港、12月21日ラバウルへ到着して前線復帰を果たした。第7潜戦隊姉妹伊123を失い、容は伊121、伊122、呂34、呂100の4隻となっていた。伊121が内地で修理を受けていた11月16日ニューギニアのブナに第32師団にが上陸し、飛行場を守っていた横須賀及び佐世保第5特別陸戦隊は苦に陥ったため、12月16日から始まったブナへの潜水艦輸送に伊121も参加。輸送駆逐艦による輸送は被害が大きく、もはや潜水艦しか頼れる艦がいないのだ。12月23日、糧食を満載にした防ゴム袋を上甲に固縛してラバウルを出港。旧式艦ながら困難な「モグラ輸送」に臨む。敵の監視網を突破して12月26日にブナマンバレ河口に到達した伊121は陸上にいる友軍と連絡を取り、発進してきた大発に糧食15トンを乗組員と陸軍兵が協力して移載、それが終わると便乗者34名を収容しての闇に溶け込むようにブナを素く去り、ラバウルに帰投した。

伊121は1回しか参加しなかったがブナ輸送自体は翌年2月10日まで行われ、参加総数21隻、成功18隻、失敗3隻、輸送人員845名、輸送物資約379トンとなった。

1943年

1943年1月4日ラバウルを出港。ニューギニア南東での任務をこなしていたが、ガダルカナル島からの撤退が正式に決まり、1月16日に発された「ケ」号作戦要領に基づくインディスペンサブル礁で味方の水上偵察機給油する任務に就くため帰投を命じられ、1月25日ラバウルへ到着。撤退作戦を確実に成功させるべく輸送任務に就いていた潜水艦もその任務を一時中断してかき集められ、1月26日には第7潜戦隊部を乗せた潜水母艦長ラバウルへ進出し、正式にインディスペンサブル礁への進出が下された。

1月29日ラバウルを出発した伊121はインディスペンサブル礁へ移動、「ケ」号作戦支援的で索敵中の偵に給油を施し、2月10日ラバウルへ帰港。この頃のラバウルではデング熱マラリアが流行しており、伊6において細菌性赤痢患者が確認されるなど疫病に苛まれていたが、伊121は病魔に冒されずに済んだ。3回に渡って行われた「ケ」号作戦は予想を上回る大成功となり、ソロモン戦線における日本軍の防衛線はコロンバンガラまで後退する事となった。作戦支援していた潜水艦は逐次トラックへの帰投を命じられ、2月14日に伊121もラバウルを発ち、2月18日から23日までトラックに寄港したのち内地へ向けて出発、3月5日へと入港。次期作戦に備えて入渠整備を受ける。

4月15日、第7潜戦隊は南東方面艦隊に編入され、4月25日を出港、5月7日ラバウルへ進出して今度はラエへの輸送任務に就く。ビスマルク戦の敗北水上艦による輸送作戦全に頓挫して以来、同方面に対する潜水艦輸送がより強くめられるようになり、5、伊6伊1620も南東方面に投じられてラエ輸送に従事していた。5月10日、糧食と弾薬26トンを積載してラバウルを出港し、5月14日に到着して物資を揚陸、15名の傷病兵を収容して同日中に出発して5月17日ラバウルへ戻った。休む間もなく物資の積載作業が行われ、5月19日に二度のラエ輸送に出発するが、エンジントラブルに見舞われて5月22日に一旦ラバウルに引き返す。応急修理ののち糧食と弾薬26トンを積載して翌日出港、5月26日にラエへ物資を揚陸して5月29日ラバウルに帰投する。5月31日に今まで所属していた第13潜隊が解隊して単独で第7潜戦隊に所属。次第にラエ方面でもPTボート哨戒機の活動が活発化し始め、これに伴って輸送中の潜水艦が敵と会敵する機会が多くなり、輸送は日に日に難しくなりつつあったが、8月3日までに計9回のラエ輸送を成功させてみせた。

ラエへの輸送には潜水艦6隻が参加、延べ18回に及び、輸送量は糧食430トン弾薬約97トンだった。

8月15日、伊121と伊122は防備戦隊へ転属。本土へ帰投する前に10回の輸送任務を行う事となり、8月19日ラバウルを出発し、翌日ラエに到着して最後の補給物資を送り届け、帰路はラバウルに向かわず内地へ直帰した。9月1日へ入港。以降は呉鎮守府所属の練習艦となる。

12月1日呉鎮守府隷下に潜水母を旗艦とした第18潜隊が編制され、伊122、153154、155とともに所属。潜学校長山崎重暉少将官を兼任した。

1944~1945年

挽回不能と化した絶望的戦況の中で

1944年1月5日伊予にて伊121は伊159海軍学校が考案した迷彩塗装実験に参加。体とがかった灰色塗装を施した。

1945年1月31日、第18潜隊の解隊に伴って第19潜隊に転属。2月23日から25日にかけて再び伊予で第二段迷彩塗装実験に参加する。4月1日午後12時24分、戦隊より第19潜隊と第33潜隊は単独訓練終了後、現錨地に留まるよう命じられる。4月8日、第19潜隊は40名を潜学校派遣して掃作業に協力、4月15日には大野瀬戸通航に必要な航路標識を設置している。4月20日、第19潜隊が解隊したため所属艦艇は2つの潜隊に分けられ、伊121は戦隊の第33潜隊に編入。その翌日に伊121、伊122、155大竹を出港してへ回航。兵装と機関を整備して戦える状態に戻し、5月1日を発って大竹へ戻った。作戦に従事しているのは第15潜隊と第34潜隊くらいなもので、旧式艦だらけの第33潜隊は内地にて乗組員養成の任を続行していた。

度重なるB-29の機雷封鎖や襲によって瀬戸内海西部でさえも安全な場所と呼べなくなってきたため6月12日に舞軍港へ避難。しかし日本海側もB-29による機雷敷設が行われていて危険度は大差かった。またバーニー作戦日本海に侵入してきた潜水艦スケートにより伊122が撃沈され、伊121は機潜最後の生き残りとなってしまう。7月30日、舞襲に遭遇するも幸い被害は受けなかった。

そして舞の地にて傷で8月15日終戦を迎える。第33潜隊の容は伊121、L潜水艦2隻、波1013隻、波2012隻の計8隻のみで、伊121が最大級の艦であった。終戦時に生き残っていた潜水艦は59隻、このうち連合艦隊に所属していた一線級の潜水艦は43隻のみ。

戦後

ポツダム宣言を受諾した後もソ連軍は満州千島列島で侵攻作戦を続けており、ソ連の領土が近い舞では依然として脅威に曝され続けていた。このため伊121艦長の上野弘大尉は201伊202呂500などの艦長5名と対ソ作戦の実行を決断。8月15日に舞を出撃してウラジオトク240kmで散開線を敷いた。この事を知った第6艦隊は再三に渡って帰投命を出し、8月22日には舞へ参謀を派遣して帰投命の重要性を説くなど説得を行った。8月24日、出撃していた潜水艦5隻が舞に帰投するが、帰投命は不本意なものだったようで艦内の線機が破壊されていたという。9月15日に第33潜隊は解隊。伊121は進駐してきた連合軍に降した。11月30日除籍。

そして1946年4月30日、冠の若狭湾で呂68や呂500とともに処分されて波乱万丈な艦歴に幕を下ろした。魚雷発射管に装填出来る機雷の登場で、第二次世界大戦以降は機雷敷設用潜水艦そのものがれてしまい、伊121に続く後継艦は造られていない。伊121の潜望はエドモン学社のノーマン・エドモンドに売却されたようで、1959年から2001年にかけてニュージャージー州リントンにあるエドマンドの小売店で展示。その後は「戦艦ニュージャージー博物館及び記念館」に寄贈され、現在はビジターセンターに展示。帝國海軍潜水艦一現存する潜望とされる。

時は流れて1970年6月10日海軍墓地長迫公園内に号第122潜水艦者慰霊碑が建立。伊122の乗組員は撃沈時に全員戦死していたため伊121の潜友会や稲葉通宗元艦長の手で作られた。2018年6月19日福岡県北九州市ラ・プロンジェ深海工学会が若狭湾西部海底に沈んでいる呂500の残骸をソナー探知し、6月20日にROV(人潜機)を投じて調したところ、深88mの海底にて伊121と呂68の残骸も発見された。7月3日ニコニコ動画記者発表会が行われたが、元々クラウドファンディングで資金を募って呂500の位置を探るプロジェクトだったため、呂500のみが特筆された。伊121と呂500腹違い兄弟とも言うべき両艦は今も若狭湾の海底で眠っている。

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