伊121とは、大日本帝國海軍が建造・運用した伊121型/機潜型潜水艦1番艦である。1927年3月31日竣工。大東亜戦争時は既に老朽艦だったが1943年9月まで最前線で活躍した。終戦まで無事生き残った後、1946年4月30日に舞鶴湾で海没処分された。
概要
帝國海軍の一等潜水艦。建造当初の艦名は伊21であった。帝國海軍の潜水艦で機雷敷設能力を持つのはこの機潜型潜水艦に連なる4隻のみ(ただ魚雷発射管を改造した伊6も一時的に敷設能力を有していた)。
第一次世界大戦中、ドイツ帝国海軍が運用したUボートは奇跡的な発展と飛躍を遂げた。開戦当初は沿岸警備にしか使えないと考えられていたUボートが、無制限潜水艦作戦によりイギリスを脅かすほどの存在感と大戦果を叩き出したのである。戦争終結後、戦勝国はドイツが持つ世界最高峰の潜水艦技術を獲得しようと躍起になり、大日本帝國も例に漏れず、自軍の潜水艦を強化するべく独自に動きだす。戦勝国でもあった日本には賠償艦としてUボートの現物を入手出来る機会があり、7隻のUボートが日本へ送られる事となったが、このうち1918年11月26日に投降した大型機雷敷設用潜水艦であるU-117型/UEⅡ型潜水艦U-125に01潜水艦の名称を与えて1920年から翌年まで試験運用してみたところ、極めて優秀な性能を有している事が判明。U-117型は大戦末期の登場だったため洗練されていたのだ。U-125の図面をベースにした新型潜水艦の建造計画がスタート。帝國海軍は本計画を非常に重要視していたようで、Uボートの大部分を設計したゲルマニア造船所の主任設計者ハンス・テッヘル博士を日本に招聘・技術指導してもらうという、かつてない気合いの入れようだった。
U-125の設計をベースに船体を大型化し、艦橋形状を変更、南方での作戦行動を考慮して冷却器を搭載した他、兵装を全て日本式に改めている。艦後部の内殻内に機雷敷設筒2基と機雷格納台2軌条3段を持ち、ドイツの潜水艦搭載用機雷を調査して国産化した八八式機雷48個を搭載、また重量のある機雷を敷設すると艦のバランスが崩れるので機雷庫両側と後方に重量補正用タンクを装備。軽くなった側に注水する事で艦を平行に保つ訳である。実のところU-125をほぼコピーしただけのものだったが、潜水艦先進国のドイツが生み出した設計だけあって安全潜航深度が驚異の75m(参考までに同時期の海大三型が60m、海大五型でようやく75mに達した)、8ノットで1万500海里の長大な航続距離を誇るなど非常に優秀であり、コピー品であっても帝國海軍にとっては宝石のような価値があった。U-125をベースに建造された新型潜水艦は伊21型もしくは機潜型と呼称された。
ところがU-125には操縦性に難がある欠点があり、機潜型はその欠点までもコピーしてしまっていた。というのもU-117型はテッヘル博士の設計ではなく欠点を見落としていたのだ。他にも航洋性こそ高いが、水上速力が低く、水中機動性も悪く、実用性にも難があり、挙句の果てには重量補正用タンクによるバランス調整が上手く行かず転覆しかける事もよくあったという。乗組員からは「嫌い潜」というありがたくないあだ名が付けられていたとか。加えて後のメインタンク補強工事で安全潜航深度が54mに低下した。あまりの扱いにくさから後継艦が作られず(巡潜乙型に機雷敷設能力を持たせる計画自体はあった)、機潜型は帝國海軍唯一の機雷敷設用潜水艦となってしまった。一方で大型タンクを持っている事から航空燃料給油装置の取り付けが可能だったり、魚雷による対艦攻撃も可能と機雷敷設しか取り柄がない…という訳ではなく、その多芸ぶりが認められてか1943年中頃まで最前線で運用されている。和製Uボートという事でその容姿は伊号潜水艦とは明確に異なっており、そのためか米潜水艦スケートは撃沈した伊122を「伊121型」だと正しく認識していた。
要目は排水量1142トン、全長84.7m、全幅7.6m、最大速力14.9ノット(水上)/6.5ノット(水中)、ディーゼル燃料搭載量225トン、水上航続距離は8ノットで1万500海里、安全潜航深度75m、乗組員51名。兵装は15式艦首発射管4門、魚雷12本、40口径11年式14cm砲1門。伊21、伊22、伊23、伊24の計4隻が生産された。
伊121の戦歴は支那事変から始まり、各種攻略作戦や海上封鎖に参加。大東亜戦争開戦時は第1艦齢期(12年)を超えた老朽艦であったが、南方作戦、K作戦、ミッドウェー海戦、ガダルカナル島争奪戦に参加し、危険なラエ輸送を10回も成功させるという桁外れの存在感を示した。機潜型で唯一終戦まで生き残る。
艦歴
異彩を放つ和製Uボート、戦乱の時代を駆け抜ける
1921年に策定された大正12年度艦艇補充計画において第48号機雷潜型一等潜水艦の仮称で建造が決定。1924年10月20日に臨時艦船建造部川崎造船所で起工、11月1日に伊21型機雷敷設潜水艦1番艦伊21に改名する。1926年に来日したテッヘル博士から約5ヵ月間の技術指導を受けて同年3月30日に進水し、そして1927年3月31日に竣工を果たした。竣工後は横須賀鎮守府に編入。4月4日、竣工祝いとして川崎造船所から蓄音機、レコード、碁盤、将棋盤、運動具、調理器具、雑具等の寄贈品が贈られて酒保物品扱いとなる。
ロンドン海軍軍縮条約締結後の1926年8月、軍令部がまとめた具体的な国防要所兵力によると、仮想敵アメリカの西海岸沖で行う通商破壊に機潜型4隻を投入する事になっていた。また帝國海軍は伊21起工前の1923年にドイツから対水上艦用繋維機雷の図面と専売特許を買収、独式潜水艦用機雷の仮称を与えて横須賀海軍工廠機雷実験部で研究・試製実験を重ねていた。
1927年11月1日、竣工したばかりの2番艦伊22と横須賀防備隊第9潜水隊を編制。1928年3月9日午前11時、横須賀湾にて速力試験中、魚雷の発射試験を行っていた駆逐艦汐風と衝突事故を起こし、艦首が右側に60度曲がる被害に受けた伊21は損傷を修理するため横須賀へ入港した。4月28日に3番艦伊23が第9潜水隊に加入。12月4日、横浜沖で挙行された御大礼特別観艦式に参列、伊21は第五列に伍した。12月10日には四番艦伊24が第9潜水隊に加わって4隻体制となる。1929年5月、機雷実験部で開発が進められていた独式潜水艦用機雷が制式採用され、八八式機雷として機潜型の主要兵装となる。八八式機雷は機潜型にしか扱えない言わば専用武器であった。
1930年12月1日に第9潜水隊での任務を完了し、1931年10月15日より呉鎮守府へ転属、伊22と第13潜水隊を新編する。1932年10月1日に呉防備戦隊に編入。1933年3月15日に予備艦となり、第13潜水隊は11月15日に呉防備戦隊から除かれて再び呉鎮守府所属になる一方、伊21は現役復帰を果たした。
1935年5月25日、深海潜水試験中の伊23と伊24のメインタンクが圧壊する事故が発生したため、11月15日に第13潜水隊を呉防備戦隊に編入して同日より補強工事を開始。これにより安全潜航深度が75mから54mに低下した。1937年3月20日、工事完了に伴って現役復帰。
支那事変
しかし風雲急を告げる極東情勢は伊21を戦乱の渦へと巻き込んでいく。
1937年8月13日、蒋介石総統率いる中国国民党軍の精鋭3万が、上海の日本人租界と守備隊4000名を攻撃した事で支那事変の先触れである第二次上海事変が勃発。数・兵器ともに優勢な国民党軍を前に苦戦する守備隊、彼らを援護すべく内地から増援部隊を乗せた輸送船団と海軍艦艇が次々に出撃していく。伊21と伊22は9月に青島へ進出。10月20日、第3艦隊と新編の第4艦隊で支那方面艦隊が編制され、第13潜水隊は旧第4艦隊の担当である海州以南の南支を作戦範囲とする。
11月20日に重巡足柄を旗艦とした封鎖部隊主隊に所属して第三次交通遮断から参加。12月1日の兵力部署で軽巡洋艦球磨率いる第3潜水戦隊に配属、12月5日に根拠地である旅順に司令の鮫島具重少将が着任し、12月17日よりA作戦(広東方面の敵飛行場を一挙に占領して海軍の航空兵力を進出させ、中華民国の補給路遮断を企図したもの)に備えて中支方面に分遣され第4水雷戦隊の担当区域に進出したが、パネー号事件の発生に伴ってA作戦が中止となったため12月23日に復帰。その後は北支封鎖部隊の一員として旅順を拠点に北支方面の海上封鎖を開始。伊21らの活躍により沿岸部から中国船が締め出されて国民党軍は慢性的な物資不足に喘いだ。
1938年1月、青島の攻略に成功した陸軍第2軍は2月初旬から歩兵一個大隊を派遣して芝罘の占領を目指していた。これを支援するため海軍側は芝罘領事帰任の護衛と治安が安定するまでの警戒を担うC部隊を新編。2月2日にC部隊所属の艦艇は旅順へ集結するよう命じられ、主隊として参加が決まっていた伊21と伊22もまた旅順に移動した。2月3日午前1時にC部隊は旅順を出発、海軍特別陸戦隊を山東省北東部煙台市に上陸させる軽巡球磨の間接援護に向かう予定だったが、伊21、伊22ともにエンジントラブルに見舞われて出港出来ず旅順に残留。ところが2月13日、芝罘東方の牟平に海賊が襲来した事で芝罘市政府から救援要請を受け、翌14日に第13潜水隊からも乗組員を抽出して臨時の陸戦隊を編制、牟平に上陸させて水上機の上空援護を受けながら早朝より海賊掃討を行った。海賊の殲滅を以って2月19日にC部隊は解散となる。
敷設艦厳島が監視していた威海衛にて排日活動が激化の一途を辿っていた。どうやら中華民国側は「日本軍が威海衛へ進攻しないのは兵力不足だからだ」と判断し、大々的に排日活動を扇動しているようだ。治安の悪化を懸念した北支部隊は3月5日に陸戦隊の威海衛派遣を決定。上陸した陸戦隊の活躍やバラまいた伝単のおかげで事態は収束したが、今度は海賊が襲来してきたため、増援を送るべく伊21と伊22はそれぞれ15名の陸戦隊を乗せて3月22日に旅順を出港。合わせて30名の陸戦隊を威海湾の劉公島へ上陸させ、これを占領した。戦線が内陸へ移動した事、沿岸部の要港は粗方封鎖完了して揚子江が主戦場となった事から、潜水艦の出番は次第に無くなっていった。6月1日、艦名を伊121に変更。新たに建造される巡潜乙型4番艦伊21に番号を明け渡すための措置だった。6月20日には第13潜水隊は呉鎮守府部隊に転属となり、第2予備艦となった伊121は内地帰投を命じられ、6月22日に佐世保へ帰投した。
1940年5月1日、第13潜水隊は第5潜水戦隊に編入されて現役に復帰し、5月19日に佐世保を出港して太平洋方面で長期の訓練航海に従事。トラック諸島、マーシャル諸島、マリアナ諸島を巡航したのち9月22日に横須賀へ帰投。9月24日より支那戦線に即応するため内地待機する。10月11日に横浜沖で行われた紀元2600年特別観艦式に参加。11月15日に第13潜水隊は第5潜水戦隊から除かれて海軍潜水学校の練習潜水艦兼警備艦となる。
1941年1月30日から2月4日まで一時期的に旗艦の座を伊122に継承。4月30日まで所在地の対空並びに警戒監視任務に就いた。5月1日、第13潜水隊は支那方面を担当する第3艦隊第6潜水戦隊に編入され、6月10日に温州・厦門間での沿岸封鎖を命じられる。8月5日に呉を出撃、中南支沿岸の海上封鎖及び中国船舶の監視任務に就き、ジャンク船等を使って上海から抗戦物資を運び込もうとする国民党軍としのぎを削った。8月24日から9月3日にかけて三B作戦に従事して陸軍の撤退支援を実施。だが連合艦隊が戦時編制に移行した事を受け、9月7日に急遽呉へ帰投。新たな戦争に備えるべく内地待機するとともに臨戦作業準備を開始した。
11月20日、第13潜水隊は吉富説三少将率いるマレー部隊第4潜水戦隊に編入。東洋におけるイギリス軍の一大拠点シンガポールの攻略支援を行う事になった。11月21日に潜水母艦長鯨や伊122と佐世保を出港、艦隊の集結地となっている海南島三亜港へは11月27日に到着する。ここで吉富少将からシンガポール海峡東口に対する機雷敷設と監視哨戒を下令され、12月1日に三亜を出撃。その翌日には旗艦長門から送信された「ニイタカヤマノボレ」の暗号電文を受信。これは「交渉決裂、対米英戦争不可避」「8日以降に軍事作戦を開始せよ」という意味が含まれていた。開戦前夜の12月7日夜、伊121はシンガポール北東海域に、伊122は東口にそれぞれ八八式機雷42個を敷設。ここで運命の開戦を迎える事となる。
開戦時存在した作戦用潜水艦48隻、総計64隻の潜水艦は己が運命に向かって潜り始めた。
大東亜戦争
1941年
緒戦を彩る破竹の快進撃
1941年12月8日、真珠湾攻撃とコタバルへの上陸を以って大東亜戦争が開戦。伊122とともにシンガポール海峡東口で監視任務に就く。シンガポールには南方作戦最大の障壁である英新型戦艦プリンス・オブ・ウェールズと巡洋戦艦レパルスを基幹としたZ部隊が停泊しており、この二大戦艦の動静を帝國陸海軍は海と空から監視していた。しかし8日夕刻に出撃したのを発見出来ず、12月9日15時15分に伊65がマレー東方で敵戦艦2隻を発見したと通報。これを受けて同日21時30分、第4潜水戦隊はZ部隊の南下に備え、東口から撤哨してカムラン湾への帰路に就いていた伊121に「フヘモ」地点での散開待機を命じた。ところが伊58が発した位置情報によるとZ部隊は遠く離れた場所に移動していたため、翌10日午前6時30分に第13潜水隊はカムラン湾への帰投命令を受領。間もなく生起したマレー沖海戦により二大戦艦は撃沈され、最大の障壁を取り除くと同時に東南アジア一帯の制海権を手中に収めた。12月14日、カムラン湾に帰投。
12月18日、伊122と一緒にカムラン湾を出港。12月20日にバラバック海峡で機雷を敷設した後スールー海へ向かい、パラワン島プエルトプリンセサ沖で哨戒、ミンダナオ海とバシラン海峡を通過して12月27日に占領したばかりのフィリピン南部ダバオへ入港した。マレー沖海戦の勝利で思いのほか南方作戦が順調に推移したため南方部隊は第二期兵力部署を発令、南方作戦に参加中の全潜水艦をマレー及び蘭印周辺海域に配置し、航空部隊や水上部隊と協力して連合軍を包囲するとともに退路を遮断して同方面の攻略を促進する。第6潜水戦隊は蘭印作戦の支援に投入され、バンダ海、フロレス海、オーストラリア北方海域での敵艦隊攻撃、海上交通路破壊、要地偵察、機雷敷設を下令される。
1942年
1942年1月5日にダバオを出撃。連合軍はマニラを放棄した後、オーストラリア北部のポートダーウィンを新たな増援補給路としており、そのポートダーウィンの入り口に機雷を敷設しに行くのが今回の任務であった。
1月11日午前5時30分、ティウィ諸島南西のティモール海で連合軍の駆逐艦を発見・攻撃したが失敗に終わる。翌12日午前4時55分までにクラレンス海峡に39個の機雷を敷設し、ティモール海で哨戒任務を開始。1月18日、ウェタール島北方で小型巡視船に護衛された連合軍の商船を発見して魚雷3本を発射。一部資料では蘭貨物船バンタムを撃沈したとしているが、当該海域にバンタムはおらず、しかも終戦まで生き延びているため誤りである。続いてクラレンス海峡へ戻るが、1月21日にポートダーウィン沖で敵巡視船3隻に発見され、爆雷42発の投下を受けて燃料タンク2基が中破するも逃走に成功。1月25日、機雷敷設任務中の伊124と合流するため哨区を出発、1月28日午前4時に合流地点へ到着するが、23時まで待機しても姿を現さなかったためダバオへの帰路に就いた(伊124は1月20日にオーストラリア海軍の艦艇に撃沈されていた)。1月30日、ダバオに帰投。潜水母艦長鯨から燃料、弾薬、物資の補給を受け、中破した燃料タンクを修理してもらった。2月1日、いよいよ開始されるジャワ島攻略作戦に先立ち、第4及び第6潜水戦隊で甲潜水部隊を編制。続く2月5日の甲潜水部隊電令作第1号により第6潜水戦隊の配備点はジャワ以東のトレス海峡とポートダーウィン沖に定められた。
2月9日、南雲機動部隊によるポートダーウィン空襲を支援するためダバオを出撃。モロタイ島北東560kmを哨戒した後、2月13日に南東へ向かうと伊122と別れて自身は南下、2月16日の日没までにポートダーウィン北西93kmの哨区へ到着する。ところが2月18日、バッテリーの充電をしようと日没前に浮上したところ、オーストラリア軍の哨戒機から機銃掃射を受けて潜航退避。完全に暗くなったのを確認してから再度浮上、充電を行いながら20時30分に南雲機動部隊へ気象情報を送信した。翌19日午前2時30分にも別の気象情報を送信している。この日の午前9時57分、南雲機動部隊から飛び立った188機の艦載機と55機の陸攻がポートダーウィンを空襲、8隻の艦船が沈没、9隻が損傷、15機の敵機を破壊し、港湾施設に大きなダメージを与えた。攻撃を見届けた伊121は2月25日に哨区を出発。2月28日にセレベス島南東ケンダリーのスターリング湾に到着し、ダバオから進出してきた潜水母艦長鯨から燃料補給を受ける。3月9日にジャワ島のオランダ軍が降伏した事により蘭印作戦は完了。翌日伊121と伊122は内地で本格的な整備を受けるためスターリング湾を出発、道中で第3艦隊が解隊となったので第6潜水戦隊は単独で連合艦隊に編入され、3月21日に呉へ入港。
開戦劈頭の真珠湾攻撃により港湾施設に大打撃を与えるに至ったが、アメリカ軍は灯火管制も行わずに昼夜兼行の修復作業を行っている事が潜水艦偵察により判明、これを妨害しようと2月に制式採用されたばかりの二式大型飛行艇による爆撃を企図し、K作戦と命名された。既に1回目は行われ、2回目を5月末に行う事が決定。長大な航続距離を持つ二式大艇と言えど必ず1回は途中で給油しなければならないため、その給油役に伊121、伊122、伊123の3隻が選ばれ、船体に航空燃料補給装置を搭載するべく4月1日より呉工廠に入渠。4月10日、第二段作戦に応ずる戦時編制の改定が行われ、第6潜水戦隊が解隊したため第13潜水隊は第6艦隊直率に転属。4月12日には軍令部との協議の上で連合艦隊が今後の攻略作戦の日程を決め、第13潜水隊は6月7日に行われるミッドウェー攻略の支援を担当する。
5月8日、伊121、伊122、伊123の3隻はマーシャル諸島クェゼリンに向けて呉を出港。道中で伊122が機械故障で引き返し、2隻のみが5月19日にクェゼリンへ入港した。2隻がクェゼリンに入港した日、有馬連合艦隊参謀立ち合いのもと二式大艇を有する第24航空戦隊と潜水艦部隊との打ち合わせが行われ、第二次K作戦に関する協定が成立。ちなみに各潜水艦はクェゼリンに到着するまでミッドウェー作戦の実施を知らされていなかった。
栄光からの暗転、K作戦とミッドウェー作戦
そしてK作戦支援のため5月19日にまず伊123が先発、少し遅れて5月21日に伊121が出発し、ハワイ北西のフレンチフリケード礁近海の配備点に向かう。フレンチフリケード礁にはハワイ空襲に向かう二式大艇が降り立つ事になっており、その二式大艇に燃料補給を施すのが2隻の役割である。予定より到着が遅れた伊122は撃墜された時に搭乗員を救助出来るよう真珠湾南方で待機、伊171は二式大艇に誘導ビーコンを送るためフレンチフリケード礁東方の配備点に就く。ところが5月29日、伊123が配備点に到着したところ、既にアメリカ海軍の水上機母艦バラードとソーントンがフレンチフリケード礁を警戒しているのを目撃。翌日「警戒厳重見込み無し 敵水上艦艇2隻を見ゆ 1544」と第24航空戦隊に通達。5月31日に伊121もフレンチフリケード礁に到着し、伊123と敵艦の動向を監視するが、更に敵飛行艇が飛来するなどアメリカ軍の警戒は弱まるどころか強くなったため6月1日に作戦中止となった。
6月4日、ミッドウェー海戦の開始に伴ってフレンチフリケード礁から西へ向かうよう命令を受け、伊123と一緒に出発。翌5日、リシアンスキー島南西で北東方向に向かう米潜水艦ドルフィンを発見して急速潜航。ところが14時59分、ドルフィンは後方1830mに伊121の潜望鏡を視認して離脱を図り、雷撃を行う前に射程圏外へ逃げられた。6月6日14時2分、第6艦隊司令部は伊121と伊123にA散開線へ、伊122に「ヘヒシ00」地点へ向かうよう指示。重巡三隈に対する攻撃状況から、6月7日14時50分、敵空母部隊に対する反撃を企図して電令作第87号を発令。第13潜水隊はT散開線(北から伊123、伊121、伊122の順)の形成を命じられた。6月13日、米機動部隊の大部分はミッドウェー東方にいる公算大とされ、散開線を東側へと移動させる。14隻の潜水艦によるR、S、Tからなる散開線は全長400海里に及ぶ長大なものだったが遂に敵艦隊を捕捉するには至らなかった。6月25日にクェゼリンへ帰投したのち横須賀に戻った。
ミッドウェー海戦の敗北に伴う艦隊の再編成により7月14日、第13潜水隊は南東方面を担当する第8艦隊第7潜水戦隊へ転属。伊121、伊122、伊123以外は中型の呂号潜水艦のみで編成されたミニマムな部隊であった。7月16日に伊122と横須賀を出港し、7月24日から31日までトラック諸島に寄港した後、8月4日にラバウルへ進出した。ここで伊121はこの世の地獄が象られていくのを目撃する。
南洋の島で開く地獄の窯。果てしなく物資を呑み込む泥沼の戦場
8月7日早朝、予想よりも早いアメリカ軍の反攻作戦が開始され、ガダルカナル島と対岸のツラギに米第1海兵師団の大部隊が上陸。偵察の九七式飛行艇が撃墜されていた事も手伝い敵の襲来は寝耳に水だった。瞬く間に同地の飛行艇と二式水上戦闘機は全て失われ、横浜航空隊司令はラバウルに訣別電を打って音信不通となるなど、戦況は滑落していくかのように悪化の一途を辿る。
伊121及び伊122は迎撃と偵察のため即日ラバウルを出撃。第2航空隊の九九式艦爆9機や第4航空隊の陸攻27機、台南空の零戦17機等とともにガダルカナル島へ急行する。8月8日、セントジョージ岬南方56kmで米潜水艦S-38に水上航行している所を発見されたが、幸い攻撃は受けなかった。第13潜水隊は最も早くガ島近海に到着した潜水艦となった。8月15日から17日までアメリカ軍の橋頭保となっているガダルカナル島ルンガの偵察を行い、8月18日よりサンクリストバル島南東で遊弋開始。アメリカ軍の暗号が解析出来ないせいで敵の動向を探る手段は航空機と潜水艦の偵察に限られた。8月22日17時10分、サンクリストバル島南東93kmで米第16任務部隊に対して雷撃するが、魚雷1本が敵空母エンタープライズと重巡ポートランドの間をすり抜けていった。8月25日17時20分、第7潜水戦隊は今夜ガ島へ入泊する敵艦艇の攻撃を命じられる。
その後、第二次ソロモン海戦でエンタープライズが損傷、8月26日午前0時15分、修理のため後退するエンタープライズを討ち取るべくステワート島南東50海里の地点へ移動を命じられる。しかし翌27日午前6時30分、水上でバッテリーを充電していた時にワスプから発進したSBDドーントレス急降下爆撃機2機に襲撃され、何とか急速潜航するも、1発の爆弾が機雷庫に直撃して深刻な漏油が発生。数時間後に浮上して応急修理を実施するが潜水不能となったため、14時55分に敵空母攻撃を断念して仕方なくラバウルへの帰路に就く。潜水が出来ないという潜水艦としては脆弱な状況で、8月28日午前4時30分にサンクリストバル北東150kmで空母と数隻の駆逐艦と、午前8時に空母、巡洋艦2隻、駆逐艦4隻で構成された敵艦隊と遭遇する肝を冷やすような出来事が起きた。その後は何事も無く9月4日15時にラバウルへ帰投した。
現地で応急修理を行い、更なる修理のため9月8日にラバウルを出発、9月20日に呉へ到着して本格的な修理を受ける。呂33を喪失し、伊121と呂34が帰投した結果、第7潜水戦隊で活動しているのは伊122だけになってしまった。
修理を終えた伊121は12月1日に呉を出発し、12月10日から17日までトラック諸島に寄港、12月21日にラバウルへ到着して前線復帰を果たした。第7潜水戦隊は姉妹艦伊123を失い、陣容は伊121、伊122、呂34、呂100の4隻となっていた。伊121が内地で修理を受けていた11月16日、ニューギニアのブナに米第32師団にが上陸し、飛行場を守っていた横須賀及び佐世保第5特別陸戦隊は苦境に陥ったため、12月16日から始まったブナへの潜水艦輸送に伊121も参加。輸送船と駆逐艦による輸送は被害が大きく、もはや潜水艦しか頼れる艦がいないのだ。12月23日、糧食を満載にした防水ゴム袋を上甲板に固縛してラバウルを出港。旧式艦ながら困難な「モグラ輸送」に臨む。敵の監視網を突破して12月26日にブナ沖マンバレ河口に到達した伊121は陸上にいる友軍と連絡を取り、発進してきた大発に糧食15トンを乗組員と陸軍兵が協力して移載、それが終わると便乗者34名を収容して夜の闇に溶け込むようにブナ沖を素早く去り、ラバウルに帰投した。
伊121は1回しか参加しなかったがブナ輸送自体は翌年2月10日まで行われ、参加総数21隻、成功18隻、失敗3隻、輸送人員845名、輸送物資約379トンとなった。
1943年
1943年1月4日にラバウルを出港。ニューギニア南東での哨戒任務をこなしていたが、ガダルカナル島からの撤退が正式に決まり、1月16日に発令された「ケ」号作戦要領に基づくインディスペンサブル礁で味方の水上偵察機を給油する任務に就くため帰投を命じられ、1月25日にラバウルへ到着。撤退作戦を確実に成功させるべく輸送任務に就いていた潜水艦もその任務を一時中断してかき集められ、1月26日には第7潜水戦隊司令部を乗せた潜水母艦長鯨がラバウルへ進出し、正式にインディスペンサブル礁への進出が下令された。
1月29日にラバウルを出発した伊121はインディスペンサブル礁へ移動、「ケ」号作戦支援の目的で索敵中の水偵に給油を施し、2月10日にラバウルへ帰港。この頃のラバウルではデング熱とマラリアが流行しており、伊6において細菌性赤痢患者が確認されるなど疫病に苛まれていたが、伊121は病魔に冒されずに済んだ。3回に渡って行われた「ケ」号作戦は予想を上回る大成功となり、ソロモン戦線における日本軍の防衛線はコロンバンガラ島まで後退する事となった。作戦を支援していた潜水艦は逐次トラックへの帰投を命じられ、2月14日に伊121もラバウルを発ち、2月18日から23日までトラックに寄港したのち内地へ向けて出発、3月5日に呉へと入港。次期作戦に備えて入渠整備を受ける。
4月15日、第7潜水戦隊は南東方面艦隊に編入され、4月25日に呉を出港、5月7日にラバウルへ進出して今度はラエへの輸送任務に就く。ビスマルク海海戦の敗北で水上艦による輸送作戦が完全に頓挫して以来、同方面に対する潜水艦輸送がより強く求められるようになり、伊5、伊6、伊16、伊20も南東方面に投じられてラエ輸送に従事していた。5月10日、糧食と弾薬26トンを積載してラバウルを出港し、5月14日に到着して物資を揚陸、15名の傷病兵を収容して同日中に出発して5月17日にラバウルへ戻った。休む間もなく物資の積載作業が行われ、5月19日に二度目のラエ輸送に出発するが、エンジントラブルに見舞われて5月22日に一旦ラバウルに引き返す。応急修理ののち糧食と弾薬26トンを積載して翌日出港、5月26日にラエへ物資を揚陸して5月29日にラバウルに帰投する。5月31日に今まで所属していた第13潜水隊が解隊して単独で第7潜水戦隊に所属。次第にラエ方面でもPTボートや哨戒機の活動が活発化し始め、これに伴って輸送中の潜水艦が敵と会敵する機会が多くなり、輸送は日に日に難しくなりつつあったが、8月3日までに計9回のラエ輸送を成功させてみせた。
ラエへの輸送には潜水艦6隻が参加、延べ18回に及び、輸送量は糧食430トン、弾薬約97トンだった。
8月15日、伊121と伊122は呉防備戦隊へ転属。本土へ帰投する前に10回目の輸送任務を行う事となり、8月19日にラバウルを出発し、翌日ラエに到着して最後の補給物資を送り届け、帰路はラバウルに向かわず内地へ直帰した。9月1日に呉へ入港。以降は呉鎮守府所属の練習艦となる。
12月1日、呉鎮守府隷下に潜水母艦迅鯨を旗艦とした第18潜水隊が編制され、伊122、伊153、伊154、伊155とともに所属。潜水学校長の山崎重暉少将が司令官を兼任した。
1944~1945年
挽回不能と化した絶望的戦況の中で
1944年1月5日、伊予灘にて伊121は伊159と海軍潜水学校が考案した迷彩塗装実験に参加。船体と司令塔に緑がかった灰色の塗装を施した。
1945年1月31日、第18潜水隊の解隊に伴って第19潜水隊に転属。2月23日から25日にかけて再び伊予灘で第二段迷彩塗装実験に参加する。4月1日午後12時24分、呉潜水戦隊より第19潜水隊と第33潜水隊は単独訓練終了後、現錨地に留まるよう命じられる。4月8日、第19潜水隊は40名を潜水学校に派遣して掃海作業に協力、4月15日には大野瀬戸通航に必要な航路標識を設置している。4月20日、第19潜水隊が解隊したため所属艦艇は2つの潜水隊に分けられ、伊121は呉潜水戦隊の第33潜水隊に編入。その翌日に伊121、伊122、伊155は大竹を出港して呉へ回航。兵装と機関を整備して戦える状態に戻し、5月1日に呉を発って大竹へ戻った。作戦に従事しているのは第15潜水隊と第34潜水隊くらいなもので、旧式艦だらけの第33潜水隊は内地にて乗組員養成の任を続行していた。
度重なるB-29の機雷封鎖や空襲によって瀬戸内海西部でさえも安全な場所と呼べなくなってきたため6月12日に舞鶴軍港へ避難。しかし日本海側もB-29による機雷敷設が行われていて危険度は大差無かった。またバーニー作戦で日本海に侵入してきた米潜水艦スケートにより伊122が撃沈され、伊121は機潜型最後の生き残りとなってしまう。7月30日、舞鶴空襲に遭遇するも幸い被害は受けなかった。
そして舞鶴の地にて無傷で8月15日の終戦を迎える。第33潜水隊の陣容は伊121、L型潜水艦2隻、波101型3隻、波201型2隻の計8隻のみで、伊121が最大級の艦であった。終戦時に生き残っていた潜水艦は59隻、このうち連合艦隊に所属していた一線級の潜水艦は43隻のみ。
戦後
ポツダム宣言を受諾した後もソ連軍は満州や千島列島で侵攻作戦を続けており、ソ連の領土が近い舞鶴では依然として脅威に曝され続けていた。このため伊121艦長の上野忠弘大尉は伊201、伊202、呂500などの艦長5名と対ソ作戦の実行を決断。8月15日に舞鶴を出撃してウラジオストク沖240kmで散開線を敷いた。この事を知った第6艦隊は再三に渡って帰投命令を出し、8月22日には舞鶴へ参謀を派遣して帰投命令の重要性を説くなど説得を行った。8月24日、出撃していた潜水艦5隻が舞鶴に帰投するが、帰投命令は不本意なものだったようで艦内の無線機が破壊されていたという。9月15日に第33潜水隊は解隊。伊121は進駐してきた連合軍に降伏した。11月30日除籍。
そして1946年4月30日、冠島沖の若狭湾で呂68や呂500とともに海没処分されて波乱万丈な艦歴に幕を下ろした。魚雷発射管に装填出来る機雷の登場で、第二次世界大戦以降は機雷敷設用潜水艦そのものが廃れてしまい、伊121に続く後継艦は造られていない。伊121の潜望鏡はエドモンド光学社のノーマン・エドモンドに売却されたようで、1959年から2001年にかけてニュージャージー州バリントンにあるエドマンドの小売店で展示。その後は「戦艦ニュージャージー博物館及び記念館」に寄贈され、現在はビジターセンターに展示。帝國海軍の潜水艦で唯一現存する潜望鏡とされる。
時は流れて1970年6月10日、呉海軍墓地長迫公園内に伊号第122潜水艦戦没者慰霊碑が建立。伊122の乗組員は撃沈時に全員戦死していたため伊121の潜友会や稲葉通宗元艦長の手で作られた。2018年6月19日、福岡県北九州市のラ・プロンジェ深海工学会が若狭湾西部の兜島沖で海底に沈んでいる呂500の残骸をソナー探知し、6月20日にROV(無人潜水機)を投じて調査したところ、水深88mの海底にて伊121と呂68の残骸も発見された。7月3日にニコニコ動画で記者発表会が行われたが、元々クラウドファンディングで資金を募って呂500の位置を探るプロジェクトだったため、呂500のみが特筆された。伊121と呂500、腹違いの兄弟とも言うべき両艦は今も若狭湾の海底で眠っている。
関連項目
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