加藤嘉明(かとう・よしあき 1563~1631)とは、賤ヶ岳七本槍の1人であり伊予松山藩主・陸奥会津藩藩主を地味に努めた武将である。
地味に活躍していた概要
1563年に三河のまだ松平を名乗っていた徳川家康配下の加藤教明の子として生まれるが、この年に三河一向一揆が起きたため、父教明は一揆勢に参加した為にニートとなった。
その後は天下人豊臣秀吉の小姓として仕えるようになり、賤ヶ岳の戦いでは七本槍の1人に数えられるほど活躍し秀吉の四国攻め、九州征伐、小田原征伐、文禄・慶長の役などの主要な戦で戦いでも地味に武功をあげている。
1598年に豊臣秀吉が死去すると文治派の石田三成らと対立し五大老の前田利家亡きあとに起きた石田三成襲撃事件にも地味に参加している。
1600年に起きた関ヶ原の戦いにおいては前哨戦の岐阜城・大垣城攻めに参加しこれまた地味に武功をあげる。
1614年の大坂冬の陣は豊臣恩顧であったため江戸留守居を務めるが1615年の大坂夏の陣には地味繋がりでなのか徳川秀忠に従い戦った。
1627年には会津藩蒲生氏が伊予松山藩に減封・転封なった為に入れ替わりで地味に会津藩主になる
地味加藤、秀吉からなんか貰う
1597年、天下人となってる豊臣秀吉。歳には勝てずに奥歯が抜けるのだ、それを拾い上げて
秀吉「よし、これを嘉明にやろう」
と言いだし、加藤嘉明に抜けた歯をプレゼントした。(そんなもんいらねーよジジイなんて言ってはいけない)
ついでになんかすごい剣(水口レイピア)ももらったとされる。あくまで伝承だが。
地味加藤、アレに見える兜を所用する
さて、散々加藤嘉明を地味と書いてきたが彼所用「銀箔押富士山形張懸兜」は持ち主と違い派手?である。
カッコイイのだが頭部の飾りの御蔭でイカにしか見えないのである。
興味がある人は調べられたし。
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関連項目
- 豊臣秀吉
- 徳川家康
- 加藤清正(三成襲撃事件の七将の一人、派手な方の加藤)
- 福島正則(三成襲撃事件の七将)
- 黒田長政(三成襲撃事件の七将)
- 細川忠興(三成襲撃事件の七将)
- 池田輝政(三成襲撃事件の七将)
- 浅野幸長(三成襲撃事件の七将)
- 藤堂高虎(喧嘩相手)
- 石田三成(殺害相手)
- 塙団右衛門(元部下)
- 水口レイピア(伝承で秀吉から譲り受けたとされる剣)
- 賤ヶ岳の戦い
- 賤ヶ岳七本槍
- 戦国時代の人物一覧
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