大阪戦争とは
1.1969年に大阪で起きた新左翼による暴動。
2.1975年7月26日から1978年11月1日にかけて起きた、三代目山口組と二代目松田組との暴力団抗争。
本稿では2について解説する。
概要
賭場での争い事から殺人に発展したジュテーム事件に端を発し、ついには三代目山口組組長であった田岡一雄が直接銃撃を受ける事態(ベラミ事件)へと発展。松田組に対しては激しい報復が繰り広げられ、多数の死傷者と逮捕者を出す惨事となった。
直接的に大親分を銃撃すると言う前代未聞の事件でもあり、本事件を起こした鳴海清はヤクザ映画などでも度々取り上げられ、今日では昭和の代表的なヒットマンとして語り継がれている。
三代目山口組の情勢
50年代から60年代前半にかけてその勢力を大きく拡大させ全国区の暴力団となった山口組であったが、63年の広島抗争は不調に終わり関東進出も出端をくじかれ抗争が拡大して行った。同年には関東の暴力団と右翼団体が結成した関東会が自民党に対し「派閥の解消と挙国一致」を要求。しかし、自民党と与論はこの行動を暴力団の政治介入と捉え、暴力団全体が社会の激しい批判にさらされることとなった。
64年、警視庁は暴力団の集中的な取り締まりを開始(いわゆる第一次頂上作戦)。これまでの下部組織に対する場当たり的な取り締まりを改め、幹部レベルを直接逮捕して行く方針を取った。この取り締まりは半島にルーツを持つ者にとっては特に過酷(ヤクザが韓国・北朝鮮双方共に送還されると死刑もしくは強制収容所行きとなるため)であり、山口組内でも数々の抗争事件で有名を馳せた柳川組など在日朝鮮人系列の組は解散に追い込まれて行く。
これらの心労が祟ったのか、65年から田岡本人は狭心症に悩まされ入退院を繰り返すようになる。好機と見た兵庫県警は再三に渡り田岡に山口組の解散を迫るが田岡は拒絶した。また、山口組若頭であった地道行雄も警察の圧力に屈して67年に山口組解散を企図。この工作は田岡の逆鱗に触れ失敗に終わり、68年に地道は若頭を解任されてしまう。
69年には穏健派だった梶原清晴新若頭の尽力により取り締まりは収束に向かい、田岡逮捕と言う最悪のシナリオは避けられた。しかし、山口組が受けた衝撃は大きく、組織力は減退し田岡の方針であった全国進出は後退。内部には閉塞感すら漂い、外部抗争の消滅は組織内抗争への序曲となる。
71年、梶原は事故死し新たな若頭は入れ札(選挙)により選出されることとなった。これは田岡引退後の集団指導体制への布石だったと言われるが、金銭の授受や旧来の兄弟関係などのしがらみから荒れた展開となった。最終的に山本広(通称、山広)が山本健一(山健)を抑えるも、山健は田岡に山広就任阻止を直訴し田岡もこれを認めた。山広は田岡の意向には背けず、若頭就任を断念。若頭は山健となった。
山健は若頭に就任すると自派で執行部を固め、山広派を圧迫。山広擁立に動いた菅谷政雄(ボンノ)を冷遇し、77年内部抗争(傘下だった川内組組長・川内弘の直参昇格を巡るトラブルから菅谷が射殺)を理由に菅谷を絶縁処分とした。しかし、菅谷は引退を拒否して渡世を張り続け、内部抗争はより深刻な情勢を迎えていた。
松田組
1945年、戦後の大阪・西成で誕生した博徒系暴力団。初代組長は松田雪重。西成と言ういわゆるドヤ街を拠点とする暴力団であったが、当時の労働者中心の暴力的かつ高圧的な賭場運営とは一線を画し、大規模な賭場を張り全国から親分衆や有力者を集めた。彼らをゴロツキから護衛するために人員を動員し、また西成の浄化運動にも関与。この過程で500人規模の中規模暴力団となる(後年では弱小暴力団と評されるが、これは山口組と比べてであり少々割り引いて考える必要がある)。
69年、松田は引退し、跡目を甥の樫忠義が継いだ。樫は経営感覚に優れ、土建業や運送業にも進出して成功を収めた。反面、賭場は取り締まりの強化もあり縮小または細分化が進み、山口組など近隣の暴力団と小競り合いが続いていた。
ジュテーム事件(第一次抗争)
75年7月26日、松田組系溝口組の集団が賭場でのトラブルから大阪豊中の喫茶店「ジュテーム」にいた山口組系佐々木組組員3人を射殺、1人に重傷を負わせた。当初、双方共に和解に動くも決裂し8月23日には松田組幹部の自宅が銃撃され、直後に山口組本家が報復として銃撃されカチコミ合戦となる。9月23日、山口組系中西組の組員が松田組系大日本正義団に射殺され、溝口組と佐々木組の抗争と言う局地戦では済まない事態となる。
日本橋事件(第二次抗争)
双方手打ちが行われないまま一年以上の冷戦状態が続くが、76年10月3日大阪日本橋筋商店街で大日本正義団会長であった吉田芳弘が佐々木組に射殺される事件が発生。ジュテーム事件の報復であった。
直ちに報復が行われると考えられたが、松田組も報復を巡って対立があり統一行動は取れずに激化を避けた。だが、会長を殺害された大日本正義団の山口組への憎しみは大きく、吉田を慕っていた団員の鳴海清は山口組上層部への報復を企図。吉田の遺骨を噛みしめ、墓前で無念を晴らすことを誓ったとされる。
ベラミ事件(第三次抗争)
77年になると上記の山口組内での内部抗争が激化。局地戦ではなくなっていたとは言え、所詮は枝(末端組織)同士の抗争に過ぎない松田組との抗争はしだいに忘れさられていた。しかし、鳴海は標的を山口組組長であった田岡に絞り、雌伏しながら着々と暗殺への下準備を進めていた。
まず、田岡の行動範囲を調べ頻繁に訪れるクラブや酒場を探索。京都三条にあったキャバレー「ベラミ」を突き止め、そこの常連となることで店側の警戒心を下げ(時に数十万円を散財したと言う)て田岡を一か月に渡り待ち伏せした。
78年7月11日、田岡は京都市太秦の東映撮影所の火事見舞い(自身を描いた映画が撮影中であったため)の帰りにベラミへ来店。ナイトショウを楽しんでいたところを背後から鳴海に銃撃された。弾丸は首筋に命中し田岡は一時的に卒倒。手ごたえをつかんだ鳴海は即座に逃亡した。
しかし、田岡は奇跡的に軽傷であり直ちに病院に搬送され事なきを得た。
報復
田岡の生命に別条はなかったが、山口組組長への突然の襲撃は内外に衝撃をもって迎えられた。通常、暴力団抗争は組織の頂点にいる大親分を襲撃しないことが暗黙の了解(手打ちの対象がいなくなってしまい、下策とされる)であり、これまでではあり得ない事態だった。
当初、山口組は松田組の襲撃だとは考えず、京都三条鴨川と言う場所から会津小鉄を疑った(以前からトラブルがあり、鳴海と背格好が似た組員がいたため)。しかし、警察の調べて指紋から鳴海が捜査線に浮上していることを知り、事態は対松田組対策へと絞られて行く。また、菅谷対策は一旦切り上げられることとなった。
若頭である山健は田岡への襲撃に激怒。警察より先に鳴海の身柄を確保することを厳命する。しかし、鳴海はすでに関東へと逃亡。のちに神戸の松田組の友好団体・忠成会を頼り関西に帰還。新聞社宛てに田岡に対する挑戦状を送りつけるなど、大胆な行動を取り捜査関係者や山口組を翻弄する。
ここに至り、山口組は鳴海の身柄確保を断念。より過激な措置として、松田組への無差別攻撃に切り替えて行く。
8月17日、山健組傘下の盛力会組員が公衆浴場にて松田組系組員を射殺。以後、10月24日まで山健組と宅見組の手により松田組の組員が次々と射殺され、松田組の組織力は減退して行った。
鳴海清殺害事件
遡る9月17日、六甲山のキャンプ客が腐乱死体を発見。死体は全ての指の爪が剥され性器が切り取られるなど激しい暴行の跡が見られ人物の特定は困難だった。しかし、解剖の結果から指名手配されていた鳴海清と判明。X線で映り出た刺青の跡と自身の子供の写真、そして吉田会長の遺骨が入ったお守りが決め手となったとされる。
鳴海は忠成会に匿われていたことは事実だが、それ以降の足取りはつかめていない。警察は鳴海を持て余した忠成会が山口組の報復を恐れて自発的に殺害したと断定。関係者数人を逮捕したが、最終的に無罪判決が下り事件自体も93年に時効を迎えている。
終結
数々の射殺事件と鳴海清の死をもっても山健は終結を全く望まず、松田組の完全壊滅をはかった。しかし、捜査の手が山健にまでおよび始めていることを知った宅見勝が終結を具申。手打ちではなく、一方的な終結宣言とすることで山健も了承した。
11月1日、山健と山広は報道陣を神戸の田岡邸に招いて終結を宣言。松田組も大阪府警に終結宣言を出して抗争は終結した。松田組が官憲を頼ったことは、事実上の敗北を認めたことでもあった。
その後
深刻化していた山口組内部の抗争はこれをもって自然消滅した。このため、統率そのもは一時的に回復したと言える。しかし、山健は抗争の指示を取ったとして、保釈を取り消され刑務所に収監。長期服役を余儀なくされた。81年7月23日、田岡は死去。山健は獄中で組長就任に意欲を見せるが、自身も持病が悪化して82年に後を追うように死去してしまう。この組長・若頭双方不在と言う情勢は山口組に再び統率の乱れを生じさせ、ついには84年の分裂抗争を呼び込むこととなる(山一抗争)。
松田組は組織力の回復が至上命題となり、松田連合となるも成功せず83年に解散。樫忠義はカタギとなり、社長業に専念。こちらではますますの成功を収めるも、事業からも手を引いた96年に自殺した。
大日本正義団は波谷守之が四代目山口組組長竹中正久に掛け合い、波谷組預かりとなり存続した。しかし、のちの山波抗争の当事者となるなど最期まで反山口組の団体として数奇な運命をたどることとなる。
評価
蟻が象に挑むとまで評されるほどの絶望的な戦力差から、松田組の無謀さと鳴海清の近視眼的な暴発が取り沙汰される抗争である。ただ、前述の通り、これはやや割引いて考える必要があるとされる。
2013年、報復の火ぶたを切った盛力健児・盛力会元会長が暴露本を執筆しており、それによれば山広を中心に山口組傘下のほとんどの上層部と組員はサボダージュを行っていたとされる。実際に報復を展開したのは山健組と彼の腹心であった宅見組関係者のみであり、山健は煮え切らない他の直参の態度に激怒。「報復しているのはウチだけやないか!」と声を荒げる姿もあったとされる。
また、大きく取り沙汰された松田組への無差別報復も、初期は幹部への攻撃を狙ったが、60年代前半以降は大規模抗争を経験した者が少なく情報収集や襲撃方法に不備があり成功しなかったと言う。結果、山健は周囲から若頭解任をほのめかされるほど追い詰められて行き、やむを得ず無差別攻撃へとシフトしたと言う。
とは言え、山健組が活躍したことと、それが若手中心であったことが山一抗争につながり、犠牲を払いつつも山口組の勝利へとつながったことは間違いない。
その他よもやま
- 鳴海清の愛人はのちに三菱銀行人質事件の犯人の愛人となったと言われ、映画「TATTOOO<刺青あり>」でも言及されている。
- 鳴海の死については伝聞であるが、殺害行為がビデオ撮影されており、山口組にカセットが送られたと言われている。あまりの凄惨さに田岡付きの周辺人物は直視出来なかったが、田岡本人は顔色を変えることなく仇敵の最期を見届けたと言われる。
- また、のちに田岡は侠客としての鳴海は評価しつつ「自身が生き残ることを考えたために失敗した」と非難したと言われる。
- 大親分を襲撃しないと言う不文律は鳴海によって打ち砕かれ、山一抗争における竹中組長暗殺につながることとなった。ただし、殺害をはかった組織が存続した例はない。
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