広島抗争単語

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ヒロシマコウソウ
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広島抗争とは、終戦後の広島で繰り広げられた暴力団抗争。映画仁義なき戦い」のモデルになったことで知られる。

概要

狭義には終戦直後から1950年頃までの抗争(第一次広島抗争)と1963年から67年までの抗争(第二次抗争または広島代理戦争)を合わせてす。また、広義には参加勢力間の和解が成立するまでの79年、広島諸勢力の内部抗争が沈静化する80年代までの一連の抗争をす場合もある。

あくまで局地戦であり、大量の死傷者を出す懺滅戦となった大阪戦争山一抗争べその規模は小さい。しかし、終戦直後の混乱期や戦国時代を思わせる群雄割拠状態の中での抗争であったため、戦後暴力団抗争の代表格とみなされ、「仁義なき戦い」の他にも多数の小説映画作品が作られることとなった。

第一次抗争

原子爆弾による未曾有の被害を受けた広島は、終戦後も他の地域とべて大きな混乱が長く続いていた。特に広島駅周辺は闇立し、それを管理運営する暴力団不良外国人との間で日常的に殺人や傷が発生し、構内でさえ秩序状態となっていた。

これを憂いた国鉄は闇の実力者であった敏夫(組長)に便宜を与える見返りに秩序維持を依頼国鉄の支持を背景に勢力を拡大し、壮絶なリンチで敵対組員を殺するなどして村上組などの対立勢力を圧倒。警察支援し、1953年には村上組上層部を集中的に逮捕。翌54年に村上組は事実上消滅し、広島暴力団はほぼ組の下に置かれることとなった。この一連の抗争が第一次広島抗争である。

また同時期に、もう一つの広島の重要都市であった兄貴分であった山村辰雄山村組長)が制圧。のちの第二次抗争にもつながる出来事であったため、このの抗争も第一次抗争に含める場合がある。


岡による広島

警察などの国家権力を背景不良外国人を圧倒し(あるいは取り込み)勢力を拡大すると言う点では、は同時代の山口組の田一雄と似た路線を取った。しかし、その後は山口組と違い、全進出には興味を示さず代わりに広島には外部勢力を進出させないと言う、いわゆる広島モンロー義を掲げた。これはの気質だったとも、全区の組織が警察をつけられやすいための現実路線だったとも言われるが定かではない。ただ、この原則がのちのち大きな波紋を呼ぶことになる。

また、はこの時点では広島では絶対的なヤクザであったが、あくまで個人として諸勢力間の頂点にいた。この裏返しから下は極めて緩い連合体であり上意下達式の組織運営は望めなかった。実際、のちにの跡を継ぐことになる前述の山村兄貴分であり、自身も名上の上下関係に手を加えることはしなかった。山陽ヤクザは被差別部落バックボーンにあるため、地域閥意識がしく統一をはかることが著しく困難だったためとされる(ただし、これは今日的な意味での評価であり、この時代に既にピラミッド組織となっていた山口組が異例であったと言う見方もある)。

跡目争い

の統治が及んだ50年代は、戦後も進んだことにより概ね裏社会も穏健であったと言える。しかし、60年代になり健康不安が表面化し跡争いが表面化し始める。まず動いたのはの舎で抗争の武勲が大きかった打越信夫(打越組組長)であり、61年5月美空ひばり広島演に同していた山口組組長一雄と山本健一(通称山健、山健組組長)に面会。山健と美幸三(山村組若衆で打越の義兄弟、山健とも交があった)のとりなしにより山口組の安原政雄(安原会会長)と兄弟盃を交わした。これにより跡相続を有利に進める狙いがあったとされる。

しかし、は自身が打ち出した原則を踏み外す行いをした打越に不信感を抱く。翌年5月、最終的には自身の兄貴分で信頼していた山村辰雄に跡を譲渡。打越の算は外れた。既存の構成員と合わせて200人の構成員を抱えた山村はこれを機にすかさず打越側に圧力をかける。まず、外部勢力との外交の不手際と美暗殺未遂の嫌疑(でっち上げ説あり)を理由に詰めを強制させ、美ら既存の組・山村組と打越との兄弟盃を解消させた。

追い詰められた打越は窮状を山口組に直訴。山陰への進出を進めていた山口組もその足がかりをめていたこともあり、広島への進出を決意する。

開戦前夜

62年9月、打越は田から子盃を貰い直参に就任。菱の代紋を掲げて正式に山口組下となる。まず、兄弟分であった安原が60人あまりの援軍を連れて内の警備に当たった。しかし、打越はこの縁組により戦わずに勝利したと判断し、特に支援もせずに安原らを神戸に返してしまう。この判断は全に誤りであり63年2月山村は当時山口組と対立していた全組織である本多会長本多仁介と兄弟盃を結ぶ。これにより両者の戦力とバックボーンはほぼ拮抗し、抗争は避けられない情勢となった。

双方の愚行はまだ続く。山口組は打越組内の粛清を強制し、若頭だった山口山口英組)を絶縁に処させた。対する山村組も山口組・打越組としかった美破門。美自身も元来山村には不信感を持っており、のちに打越と代わって反山村組の急先鋒と化し事態を悪化させる要因となる。またしい引き抜き合戦の結果、複雑な兄弟関係が短期間で構築されたこともかえって火にを注ぐ遠因となった。

第二次抗争・広島代理抗争

4月、美組幹部の亀井貢が山村組組員に殺され本格的な抗争が勃発した。美は直ちに山健と兄弟盃を結び報復の準備を始める。5月山口英組の組員が打越組の組員を殴打。これは偶発的な事件だったが、全面抗争を予想した山口英は先手を打って打越組の賭場を急襲し地でしい銃撃戦を展開する。

この衝撃的な展開に驚愕した打越は揮を放棄。以降の報復戦は山口組の支持を獲得した美事実上の揮を取る。山口組若頭だった地行雄は亀井葬儀参列を名1340人の援軍を派遣。圧倒的な動員により山村組を封じ込める作戦を取る。これは成功し、山村組は葬儀期間中は手も足も出ずに逼塞し、力の差を思い知ることとなった。しかし、この動員には警察も黙ってはおらず、機動隊が出動。7月に美逮捕され事態は再び振出に戻ることとなった。

9月山村組は再び攻勢をかけ打越組系西友会長を殺。山健が葬儀に駆け付け、打越に報復戦を要。しかし、打越はこの期に及んでも報復を拒否。さらに、美責任を押し付ける態度を取ったため山健は昂。「喧嘩が出来ないならタクシー屋(打越の表の顔はタクシー会社社長)に戻れ!」と罵倒する椿事まで起き全に打越は山口組から見放されてしまう。

この煮え切らない打越の姿勢に分を殺された西友会も離反。独自に報復行動を模索し爆弾攻撃を実行。山村組の拠点や幹部宅を連続で爆破し、地で山村組を撃。これには山村組も恐怖し、事態打開のために山口組本家への攻撃を計画。山口組本多会の全面抗争を呼び込むと言うシナリオだったと言われる。

ほどなく山村組の決死隊がピース爆薬を積めた爆弾神戸本家便所に仕掛けた。しかし、威力は思いのほか弱く、一階に人もいなかったためガラスを数枚割るだけの結果に終わる。とは言え、本家への攻撃であることは明であり、山口組もこの時点で本多会をも含めた全面抗争を覚悟する。

終焉

しかし、一連の抗争に警察が沈黙を守る理はなく、9月山村と打越双方を逮捕神戸事前に厳重な警態勢が敷かれ、山口組本多会も身動きが取れなくなってしまう。広島逮捕者と負傷者の続発、抗争を嫌った市民らの不支持によりシノギすら難しくなり、翌年64年初頭には自然停戦。双方共倒れの様相すら呈し始めていた。

5月、組織力にガタが来ていた山村組は政治結社を表向きにした共政会(初代会長山村辰雄)に発展解消。一息ついた65年になり山村引退を決意し、跡服部武が継いだ。

一方の打越は警察から表の事業での脱税容疑をチラつかされ67年に引退と組の解散を決定。皮なことに、山健が罵倒したようにタクシー会社の社長に収まった。

死者9人、負傷者13人、被逮捕168人を出した当時戦後最大規模の抗争としては何とも味気のない終焉であったと言えよう。

第三次抗争

本多会はこの抗争が引き金となって起きた暴力団の集中取り締まり(通称・第一次頂上作戦)により解散。大日本平和会がその跡を継ぐが、もはや全区の暴力団ではなくなった。山口組も頂上作戦の余波を受け組織は弱体化。代理抗争の玉双方が広島から手を引く形となり、共政会による広島の安定統治が続くかに見えた。

しかし、65年に服部が跡を継ぐと外様であった山口英は孤立化・引退与儀なくされ、組員は共政会を脱退し十一会を結成する。さらに服部は自分の子飼いであった山田久を理事長(若頭)に任命。山田は露に旧山村組閥の優遇政策と連合体の解消→組織のピラミッド化を推し進め、岡山浅野組の支援を受けて三代目就任競争を優位に進める。

69年には山田三代目就任が決定。先に脱退していた十一会会長博士は最終的に山田を支持する構えを見せ、兄弟盃を結ぶ。これにより事態は沈静化すると思われたが、縁組に反対する十一会副会長・梶山尾道の侠会の支援を受け、あいさつ回りで大阪を訪れていた山田を襲撃し重傷を負わせる。三代目襲名式は挙行されたが、ほどなく共政会・浅野組と侠会・十一会梶山との抗争(第三次抗争)が勃発。しかし、侠客であり複数の仁侠団体と縁戚関係にあった波守之が和解に動き70年5月和解。抗争は終結した(ただし、山陽での混乱は長引き、後述の関西二十日会結成後も浅野組と侠会の紛争状態はしばらく続いた)。

また、同年11月には第二次抗争を導した美が出所したが、これも波必死の説得により引退広島での抗争はこれをもって歴史的な出来事となった。

その後

70年に下関の合田一家の提唱により反山口組同盟である関西二十日会が結成。共政会を含めたほぼ全ての山陽の団体は加盟した。79年、神戸の田邸において関西二十日会と田が会合を持ち、全勢力との平和共存が確認され、これと同時に共政会との対立関係も表向きには解消された。

しかし、この抗争により顔を潰された形となった山健は広島進出を諦めず、心であった姫路竹中正久(竹中組)を通じて小競り合いを繰り返させた。82年山健が死去。84年に竹中四代目山口組組長に就任すると、再び共政会と山口組との関係が悪化。共政会は山口組と一和会との分裂抗争(山一抗争)では較的一和会に友好的な中立姿勢を保った。

89年、山一抗争山口組勝利で終了。抗争がひと段落すると今度は外部進出を積極的にはかり、関東で大規模な抗争事件を頻発させる。この余波で、90年1月友会・石間会長が、共政会系の右翼団体維新天誅会会員2人組に射殺される事件が勃発。「新・仁義なき戦い」が起きるのではないかと懸念されたが、共政会は即座に関係者を処分し山口組に謝罪し抗争は阻止された。以降は関係改善が急速に進み、5月には山口組若頭補佐の桑田兼吉と共政会理事長本勲が兄弟盃を結ぶ。両組織は共に友好団体となり、現在でも縁戚関係が盛んに結ばれ続けている。

評価・影響

共政会は最終的に広島に他県団体を入れないと言う方針を守りきり、そう言った側面では勝利者であった。ただし、山口組との全面抗争ではまず勝てないことも理解し、本多会なきあとは巧妙に抗争は避け、最終的に外交的な成果によって独立を勝ち取った。

一方、山口組は直接的な人的損は出さなかったが、広島進出を妨されその威信にやや陰りがさし、60年代後半から70年代にかけての停滞と内紛の時代の遠因となった。

警察はこの抗争において上層部を片端から逮捕することにより、暴力団の組織力を減退させる方法を学び65年に第一次頂上作戦を実行。これは本多会解散など一定の成果を挙げる。

表の世界における文化的なも大きく、65年に中国新聞記者による「ある勇気記録 -器の下の取材ノート」が書籍として出版され第13回菊池寛賞を受賞。66年にはテレビドラマ化された。

一方、重要人物であった美幸三はこの書籍に反発。反論手記を中で手掛け、これをモチーフにした小説仁義なき戦い」はベストセラーとなった。こちらは73年に菅原文太演により映画化され大ヒット日本映画でも五に入るほどの傑作となる。今までを上げることが出来なかった裏社会人間による肉声でもあり、これ以後実話・実録モノと言ったジャンル確立して行くことになる。

今日では圧倒的に「仁義なき戦い」が知名度を得ているが、ジャーナリスト池上彰は前者の書籍とドラマを受けて業界入りを志向したと語っており、こうした側面からもの大きさが分かる。

広島における地域意識は共政会に止まらず、アウトロー世界全般に及びフィクションでも度々取り上げられることがある(田中の作品群など)。ただし、当時の極度の治安悪化を知る一般人の中では現在でも暴力団組織そのものに嫌悪感を持つ者も少なくない。

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