毛利重就(もうり しげなり/しげたか)とは、江戸時代中期~後期の藩主である。
概要
1725年9月10日に長府藩主・毛利匡広の十男として誕生する(幼名:岩之丞)。匡広の子供の数は多かったものの無事に成人を果たせたのは重就を含めた僅か数名であった。
重就の兄で長府藩主の座を継いだ師就が早くに亡くなると重就が継ぐこととなる。この相続においては多々問題があるものの最終的には師就の仮養子として幕府に認定されていた重就に決定した。僅か11歳で藩主を継ぎ16年間長府藩主の座にあったがこれといった政策は行っていない。またこの当時は「匡敬」という諱であったが重就で一貫する(余談だが幕府の将軍に徳川家斉が就いた際には重就の就と家斉の斉の読みが被るために「しげたか」と変えている)。
そしてこの後、紆余曲折を経て重就は萩藩主として藩政を推し進めていくことになる。当時の萩藩は赤字状態で辛うじて運営している現状であった。重就は検地、撫育方設置、港町・石炭・塩田の開発、製糖業・請紙制の再建、櫨蠟の専売制などに着手していく。また明倫館の刷新や越氏塾の整備など学問も重視し萩藩の建て直しを図った。
その他、茶道や和歌、芝居なども嗜んでおり芝居に関しては特に関心が強かった。また鷹狩りなども度々行っていた。
1789年10月7日、隠居場所の三田尻御殿で逝去。享年64。
藩政
今でこそ名君として称えられている重就。その藩政改革の内容をいくつか紹介。
検地
重就は「小村帳方」というものを定めた。これは村よりも小さな地域の事を指しそのような小村を単位とした徹底的な検地が目的だった。「雨風や洪水などで田畠が廃れ農民たちが困窮しているので田畠を調査し、検地を実行したい。藩主のみの利益を考えているのではなくあくまで農民を救うためのものなので彼らに詳しく説明し不正の無いようにさせなければならない」と重就は直書でその旨を発表した。
そして実際に検地が行われたのだがその検地には一門の反発を招いた。貞享検地の際に萩藩が給領地を藩に返上させ蔵入地にして増石を取り上げたのにもかかわらず復旧の見込みが無い不作地はそのままで給領地に旧高のままで再度配分した事が原因で、これは知行の減少を意味していた。重就は増石の40%を給領主に宛てて彼らの不満を抑えながら給領地の検地を行った。そして断行された検地は強硬な貢租増徴策と見られている。
しかし反発があったとはいえ検地の結果、最終的には4万石も収入が増える事となった。
撫育方
撫育方は藩の財源とも呼べる存在となっていた。藩に入ってくる銀などの大半をこの撫育方に回す、いわば貯蔵庫的
存在であった。この撫育方は時に支出もあり屋敷や天守閣の経費補助など重要な物に対して使われた。
後にこの撫育方は長州藩の軍資金になるほどで、そのために重就は「中興の祖」と称されるのだが生前においては
家臣の不満も多かった。というのも撫育方が重就直属の独立機関という状態で検地による増石が撫育方に移っても
藩財政には直接関わらない現状となっておりそれが家臣の不満を招いた一つであった。
いずれにせよ撫育方を設置して財政難から脱出しようとした事は確かだがこういった面もあり生前では批判も多かったのである。
製糖業
製糖業は長府領内で大規模な黍畑が展開しており産業開発の先駆けのような役割だった。製糖事業に取り組んだのは永富独嘯庵(どくしょうあん)と内田孫右衛門、勝原吉太夫の三人で彼らはサトウキビの苗を購入しその栽培を発展させた。砂糖が長崎の輸入品であったので後に幕府から密貿易の嫌疑を掛けられ調査されるが未だ江戸でも駿府でも成功していない白糖の製造を成功させていることに役人たちを驚嘆させている。
結局役人は製糖事業と密貿易の関係を暴く事は出来なかった。しかし事業に携わる三人が高価な白糖の代わりに黒糖を輸入しそれを国内で白糖に精製した方が利益があるとしてその方法で行われたのは事実である。結果的に重就は嫌疑によって製糖事業を中止せざるを得なくなった。
事業は頓挫したものの彼ら三人の製糖技術は間接的とはいえ製糖に携わる人物に伝播していった可能性は高いとされる。
櫨蠟専売制
萩藩は桑・漆・櫨・油木の栽培を奨励していたが成果を得るには至らなかった。そこで薩摩櫨の栽培技術に優れた村上平次郎という人物を招き領内全域で薩摩櫨を栽培させる事となった。至る場所に櫨を植え付けるという徹底したものだった。
櫨蠟は重要な財源となっていたので櫨の専売制を行い藩が農民から収穫の70%を買い上げ残り30%は萩藩と給領主が各々収納するという方法が敷かれた。また他国櫨が流入しているために監視の強化を願う事からも櫨の重要性が窺える。
人物
第一に重就は先祖の毛利元就や輝元などを慕っている。彼らに対し重就は先祖の功績を尊重し来るべき藩政改革の推進に尽力する事を固く誓っていた。毛利元就200回忌の際には撫育方から2090貫目の米銀を支出している。
和歌は冷泉為村に学び、「いたつらに 移ろふ菊の 花をけふ 訪ひ来し人 のみそ嬉しき」と詠んだり、温泉に浸かった際「伊勢の海 千尋の底の 一つ貝 袖もぬらさす 木枯しの音」という、大寧寺の住職の句に対し「花と咲き 紅葉と染みし 梢たに 散りては同し 木枯しの音」と返句している。
茶の湯に関しては歴代藩主の中で最も造詣が深かったとされる。その証拠に毛利家に伝来する茶道具のうちで重就のものが主要な部分を占めているとか。また陶芸も好み自作の茶碗なども作っている。
側室も多く持ち子供は夭折した者も目立つが養子を含めると15人ほどであったという。
関連項目
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