満州事変とは、1931年(昭和6年)から1932年(昭和7年)に大日本帝国と中華民国との間に起こった武装紛争である。
概要
中国は清朝時代の1902年の英清通商航海条約改正交渉より、領事裁判権の撤廃や関税自主権の回復など国権の回復に着手しており、中華民国蒋介石派は1919年7月のカラハン宣言以降、急速に共産主義勢力に接近し、国家継承における条約継承否定説を採用し、日本との過去の条約(日清間の諸条約)の無効を主張しはじめた。
とくに第二次北伐に着手中の1928年7月19日には日清通商航海条約の破毀を一方的に宣言し、これに対して日本政府はその宣言の無効を主張した。
また1915年のいわゆる対華21カ条要求をめぐる外交交渉のさい対日制裁として発布された懲弁国賊条例はこの交渉で締約した2条約13公文に完全に違背する条例であったが、1929年に強化され「土地盗売厳禁条例」「商租禁止令」などおよそ59の追加法令となり、日本人に対する土地・家屋の商租禁止と従前に貸借している土地・家屋の回収が図られた。
間島や満洲各地の朝鮮系を中心とした日本人居住者は立ち退きを強要されあるいは迫害された。このことは満洲事変の大きな要因となる。
1931年の9月、南満州鉄道の線路上で爆発が起こった。これが柳条湖事件である。
線路の被害は大したことはなかったが、関東軍はこれを中華民国による攻撃であるとして、現場近くの兵営を攻撃、突然の爆発事件に慌てふためいている中華民国軍兵を射殺・制圧し、これを占拠した。
実際には、この爆破は関東軍の板垣征四郎大佐、石原莞爾中佐のふたりの参謀が中心となって起こしたものであり、まさにマッチポンプである。
同時に、奉天をはじめとした都市も関東軍が占拠し、奉天特務機関の土肥原賢二が臨時市長となった。このとき、甘粕機関によって奉天市内で爆弾テロが行わた。
関東軍は、これを中国軍のテロ攻撃であるとして、ハルピン居留民保護のため出兵を主張したが、これはあまりにタイミングがよすぎるということと、これ以上中国や国際世論を刺激したくないという理由もあり、軍中央は認めなかった。
陸軍では、関東軍の行動を支持し、増派を行うことで意見がまとまっていたが、政府は事態不拡大を閣議決定する。
これに対し、陸軍では陸軍大臣を辞任させて倒閣してでも、満蒙問題の全面解決……、すなわち満州の完全軍事占領を目指す構えであった。
この当時は、陸軍大臣は陸軍から任命されることとなっており、またこれには陸軍の同意が必要であった。つまり、陸軍が陸軍大臣を出さぬといえば、それだけで内閣を潰すことができるのである。
陸軍は政府の支持を得ないまま、林銑十郎率いる朝鮮軍を越境させ、『自衛のためやむを得ず』という名目で戦線を拡大し、同時に、軍事占領路線を切り替え、愛新覚羅溥儀を擁立して傀儡国家を樹立する方針を決めた。
国がではなく、軍がである。
当時の若槻内閣(民政党)は、軍の動きを抑え、国際協調路線をとろうとしていたが、これに対して野党の政友会は陸軍に接近し、民政党にも協力内閣を持ちかけるなど切り崩しを行って、ついに1931年12月、若槻内閣は倒れ、政友会による犬養内閣が発足する。
翌年の1月には陸軍の満州国建国容認が決定し、ハルピンへの出動も認められ、2月には満州をほぼ手中に収め、満州国建国が宣言された。
これにより満洲事変は終結したが、この事件は軍の政府に対する優越性を浮き彫りにし、また、国際社会からの支持を失った日本は孤立を深めてゆき、後の敗戦に向けて暗い影を落とすことになるのであった。
Minecraftでは
minecraft(マインクラクト)で地面にそのままレールを配置すると、湧いて出てきた敵(クリーパー)がトロッコに乗っているプレイヤーに向かって爆発し、レールが壊れてしまう。このに「線路を壊された」さまをなぞらえて、「満州事変」と呼ばれることがある。
ただし、上の解説にもあるように、実際には線路を爆破したのは満州事変のきっかけとなる柳条湖事件であり、しかも線路はあまり破損していなかった。
線路の破損が大きかったのは、柳条湖事件の三年前に起こした張作霖爆殺事件である。関東軍は線路を爆破するのがお気に入りだったようだ。
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