針尾(給油艦)とは、大東亜戦争末期に大日本帝國海軍が建造・運用した針尾型給油艦1番艦である。1944年12月1日竣工。南号作戦に参加中の1945年3月4日、海南島近海で触雷沈没。
概要
艦名の由来は佐世保湾と大村湾を繋ぐ針尾瀬戸から。ちなみに針尾の名は改マル五計画で建造が予定されたものの中止となった給糧艦からの流用である。
1943年10月6日に喪失した給油艦風早の代艦として、新たに第4901号艦(後の針尾)の建造計画が持ち上がった。船体は播磨造船の1TL型戦時標準船・南邦丸型をベースとし、これに艦隊随伴用の給油設備及び補給物件搭載施設を装備した、即席の大型給油艦である。このため南邦丸型との外見的差異は殆ど見られない。
戦時標準船と言えば、簡略化を突き詰めすぎて突然ボイラーが爆発したり、敵の機銃弾を浴びるだけで沈没の危機に陥るなど、まさに粗製乱造の代名詞だが、1TL型は戦後の船舶需要を見越して簡略化を最低限に留めた高性能船だった。
戦況の悪化と資材不足から艦隊随伴用設備は最低限のものにし、他の1TL型同様軽質油タンクも装備されなかった。当初は横曳給油にのみ対応していたが、艦側の強い要望を受け、完成後に縦曳給油用設備を追加、他にも大発動艇や魚雷艇数隻を積載出来るよう艦橋後方の上甲板に架台が設けられ、後部甲板には大発搭載用の30トン・ヘビーデリックを装備して、急速補給にも対応している。艦隊随伴用設備を持つためか特務艦に昇格しており、艦長には大佐が据えられ、乗組員も全員海軍の人間で占められているのが特徴。
竣工してすぐに特攻輸送を企図した南号作戦に参加。投入されたタンカーの殆どが民間徴用船なのに対し、唯一針尾のみ海軍籍の特務艦という非常に珍しい立ち位置にあった。予定では姉妹艦稲取、韓崎、龍舞の3隻を建造するはずだったが戦況の悪化により計画中止。
要目は排水量1万8500トン、全長160.5m、全幅20m、出力8600馬力、最大速力16.5ノット、乗員202名、載荷重量約1万3000トン、石油搭載量1万4500トン。武装は12cm単装高角砲2門、25mm三連装機銃4基、同連装機銃2基。電測装備として13号対空電探、22号水上電探、音響探信儀を持つ。
艦歴
短命に終わった不運の高性能給油艦
1944年6月2日、第4901号艦の仮称で播磨造船所で起工、9月1日に針尾型給油艦1番艦針尾と命名され、10月4日に進水、10月20日に艤装員長として宮田榮造大佐が着任し、そして12月1日に無事竣工を果たした。初代艦長に宮田大佐が着任するとともに呉鎮守府に編入され、連合艦隊所属の給油艦となる。
艦側の強い要望で、竣工後に縦曳給油用設備の搭載工事を行った他、三連装機銃や単装機銃の増備も行われている。
1945年1月に入ると国内の石油備蓄量は100万キロリットルを切り、開戦時の6分の1にまで減少。追い討ちをかけるかのように1月12日、南シナ海へ侵入してきた米機動部隊の熾烈な空襲を受け、インドシナ方面の艦船に壊滅的被害が発生し、戦闘艦艇11隻と輸送船48隻(22万1179トン)を一挙に喪失。特に大本営が衝撃を受けたのが第101戦隊が護衛していたヒ86船団の壊滅だった。
1月20日、大本営は「燃料並びに重要物資緊急送還作戦の実施に関する陸海軍中央協定」に基づいて南号作戦を発令。内地とシンガポールに進出中のタンカーをかき集め、南方航路が完全に閉鎖される前に、可能な限り重要物資を特攻輸送しようと試みた。貴重な大型タンカーの針尾は当然の如く参加が決まり、南号作戦発令と同時に呉を出港。シンガポールに向かう第一陣で門司に集結中のヒ89船団と合流する。
1月24日午前7時、針尾、日南丸、第二建川丸からなるヒ89船団は、第8号、第32号、第52号海防艦の護衛を受けて門司を出港。空襲と雷撃から逃れるため、味方の援護が受けやすい大陸接岸航路を選び、まず最初に朝鮮半島方面へと向かった。
翌25日午前1時に朝鮮半島南端の加古湾で仮泊。肉眼での対潜警戒が困難になる夜間を避けて一晩を明かし、午前7時に湾内を出発。鵞紅湾と七了口に仮泊しながら中国大陸に沿って慎重に南下していく。
1月30日午前0時50分、ヒ89船団は敵大型爆撃機より攻撃を受けるも被害は無く、同日夕刻に香港北東の大亜湾へ到着、31日午前3時に湾内を出発する。2月1日午前5時50分頃、濃霧の影響で日南丸が一時船団より落伍するも大きな悪影響は無く、19時30分から翌2日16時30分まで海南島楡林に寄港して食糧品を補給、2月3日20時にはインドシナのキノン湾で仮泊した。翌4日午前6時に同地を出発。シンガポールまで後少しのところまで迫った2月7日20時、針尾が機関不調を訴えて落伍してしまい、第8号海防艦が付き添う(資料によっては座礁したとも)。途中、敵潜を探知して第8号が二式爆雷改二を投下している。
2月8日15時30分にヒ89船団は目的地のシンガポールへ到着。遅れていた針尾と第8号も翌日午前9時に入港し、1隻の喪失も出さずに往路成功となった。
針尾がシンガポールにいる間も南号作戦は行われ、在泊中にヒ88F船団、ヒ88G船団、ヒ88H船団、ヒ96船団が続々と出発している。またシンガポールと言えど安全ではなく、2月10日、11日、13日、14日に敵機が襲来し、空襲の間隙を縫いながら内地輸送用の錫や航空用ガソリンを積載。間もなく1TL型タンカー東亜丸とヒ94船団を編制、2月22日に船団会議が開かれた。船団の中では針尾艦長の宮田大佐が最も先任かつ最高階級者だったため針尾が指揮艦となる。
2月23日午前7時55分、ヒ94船団は第207号海防艦に護衛されてセレター軍港を出港。午後12時2分より第63号海防艦も護衛に加わり、また味方の哨戒機が船団上空を旋回するのが見えた。
2月26日午前5時、第一警戒航行序列に陣形を組み変え、午前8時14分、インドシナのオビ・オスランド島沖で仮泊。午前11時30分より針尾で二度目の船団会議が開かれた。1時間後、第11海防隊(第1号、第130号、第18号海防艦)が合流し、13時30分にオビ島泊地を出発。米潜水艦が活動しにくい浅瀬を通るべく、インドシナ半島の陸岸ギリギリを座礁の危険を冒しながら進む。
2月27日午後12時57分に敵潜を発見して左180度一斉回頭。19時10分には第63号海防艦が敵潜らしき反応をソナー探知するも、25分後、暗礁に触れて送流器破損と探信儀故障の被害を受けてしまい追撃を断念。カムラン湾の水上機基地より、第901航空隊所属の九七式飛行艇が飛来して周辺の夜間電探哨戒を実施してくれたが、緊迫の時間は続き、22時20分、左58度方向にて潜水艦らしきものを発見、第130号海防艦が敵潜制圧に向かい55分後に重油の漏油を認めたものの、ソナーが最大感度5を示し続けて神経をすり減らす。
翌28日午前0時10分、この状況で第11海防隊が護衛から離脱。非常に危ない状態であったが、幸い雷撃は無く午前1時30分にナトラン湾へ到達して3時間仮泊し、午前4時27分にナトラン湾を出発して陸岸に沿いながら北上する。夜明け後の午前8時32分、バレラ岬沖を航行中、船団の右40度3000m付近に味方哨戒機が正体不明の潜水艦を発見して、発煙筒を投下。これを目印に東亜丸が爆雷を投下したものの効果不明であり、午前8時48分、今度は第63号、第207号海防艦が爆雷49発を投下したところ、大量の油が浮いてきた事から、針尾は撃沈確実と判断・報告した。午前9時48分にヒ94船団はバレラ岬を通過。13時23分、哨戒中のB-24を発見したが攻撃はされなかった。
3月1日午前0時15分、第63号海防艦のソナーが感度5を示す中、濃霧による視界不良の影響で、17分後に東亜丸を見失ってしまう。敵潜はレーダーを持っているため濃霧の中だろうとお構いなしに襲ってくる。このため午後12時3分から19時30分まで之字運動を行った。そして21時50分、霧に包まれた海南島楡林へ入港。
翌2日午前10時55分、一時行方が分からなくなっていた東亜丸が第18号海防艦に護衛されて楡林に入港した事で、船団は元通りになった。15時より針尾にて三度目の船団会議が開かれ、今後の航路等を決定するが、第18号海防艦に代わって敷設艦新井埼を加入させる件については議論が白熱したようで、耐波性の悪さと船団速力の観点から加入を拒否する意見も出たものの、最終的に加入が決まった。
3月3日未明、フィリピンを拠点とするオーストラリア空軍のPBYカタリナ飛行艇が海南島近海に機雷を敷設。これが悪夢を引き起こす事となる。
最期
1945年3月3日午前9時、第18号と第63号による対潜掃討を済ませたのち、ヒ94船団は楡林を出港。しかし僅か47分後、ヤルー湾でカタリナが敷設した磁気機雷に針尾が触雷して機械室と缶室に浸水被害が発生、更に午前9時57分に二度目の触雷が起き、船団は慌てて楡林に引き返した。午前10時15分、アメリカ軍の暗号解析部隊は針尾の触雷を報告する暗号を傍受・解読している。
乗組員が決死の努力で浸水を食い止めようとするも排水が追い付かず、午前10時19分より横付けした第63号海防艦への移乗を開始。無人船となった針尾は翌4日15時7分に右舷側に大きく傾斜して沈没。艦首を僅かに海面へ露出された状態となった。沈没速度が遅かったため、行方不明者1名を除く全乗組員が第63号海防艦に救助され、15時40分に楡林へ戻った後、収容した針尾の乗組員を各護衛艦艇に分乗させた。海南警備府が立ち入りを禁じていた機雷原へ入り込み、味方の機雷に触雷して沈没したとする異説もある。
1945年5月10日除籍。ちなみにヒ94船団の喪失は針尾だけで他は無事門司まで帰投している。
関連項目
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