九七式飛行艇とは、大日本帝國海軍が製造・運用していた輸送飛行艇である。連合軍側のコードネームは「Mavis(メイヴィス)」。
概要
後に二式大型飛行艇という傑作機を生み出す大日本帝國だが、1930年初頭の時点ではまだ飛行艇のノウハウが少なく、せいぜい1929年にイギリスのショート・ブラザーズ社に設計を依頼して川西航空機が造り上げた九〇式飛行艇くらいしか実績が無かった。ロンドン海軍軍縮条約で保有艦艇に制限を掛けられた事、また統治していた南洋諸島に軍事基地の建造を禁じられていた背景から、洋上をそのまま発進基地に出来る上、艦隊戦力の補助及び偵察にも使える飛行艇に興味を抱く。
1933年、帝國海軍は川西航空機に大型哨戒飛行艇の基礎研究を命令。3月から12月にかけて川西の技術者と海軍が議論を重ね、問題点と新型飛行艇の構想を浮かび上がらせ、問題改善のため80種類もの模型を製作して一つずつ課題をクリアしていった。
そして翌1934年1月18日に海軍は川西に新型飛行艇の試作を命じる。要求性能は9名の乗員と哨戒兵器を搭載し、航続距離2500海里、巡航速度1200ノットであった。これは当時最先端の飛行艇だったアメリカの「シコルスキーS-42」を上回る性能でまさに限界への挑戦だった。川西は橋口義男技師を総括に置き、菊原静男技師を主任に据えて11月より設計を開始。帝國海軍初の4発大型飛行艇として期待も大きかったため設計及び開発は慎重に進められ、九試大型飛行艇の仮称が与えられたこの飛行艇は、海軍・川西ともに心血を注いだ。川西の技術者たちは先の九〇式飛行艇以上のものを造ろうとふつふつと燃え、海軍も研究材料として第一線で活躍していた「P2Y-1」を購入、川西に供与するなど協力を惜しまなかったという。
1936年、試作一号機が完成して7月14日に初飛行が行われた。翌15日に海軍の搭乗員近藤勝次によってテスト飛行が行われ、長距離飛行、哨戒、爆撃、輸送、すべての面において良好な成績を収め、海軍から若干の修正点を提示された事以外は概ね高評価であり責任者を満足させた。初飛行機も含めて試作機は4機造られたが、中島の光2型エンジン(700馬力)では出力不足が否めなかったため三菱の金星43型エンジン(990馬力)に換装したところ、圧倒的な上昇力を獲得した。
そして1938年1月8日、海軍はこの飛行艇を制式採用、九七式飛行艇(H6K2)と命名された。開発開始から実に4年もの年月が経過しており、後継機開発も時間がかかると判断した海軍はすぐに九七式飛行艇に代わる次世代機の開発に着手し、これが後の二式飛行艇となる。ちなみに九七式飛行艇が失敗した時に備え、九九式飛行艇という別の機体も開発されていたが、無事に制式採用された事で約20機程度の量産で終わっている。
武装は800kg爆弾もしくは魚雷2発、7.7mm機銃4丁、20mm機銃1丁。諸元は最大速度385キロ、全幅40m、全長25.63m、全高6.27m、最大航続距離4797km。艇内に8つの燃料タンクがあり、ポンプだけでは主翼の高い位置に付いているエンジンに燃料送り込めないので、ペスコポンプと呼ばれる補助用ポンプを装備している。しかし不調になりがちなので木槌で軽く叩いて、本調子に戻した。この木槌はヘマをやらかした搭乗員を殴るのにも利用された。
九七式飛行艇の性能は非常に高く、欧米諸国が配備していた飛行艇よりも良好だった。特に安定性と操縦性は抜群だったという。九七式飛行艇の誕生はまさに日本が飛行艇分野で一歩リードするきっかけだったのだ。後継機が制式採用されるまでの間、215機が量産された。1939年7月、兵装を取り除いて輸送機仕様にした九七式飛行艇を「九七式輸送飛行艇」と命名して制式採用。36機が量産され、うち18機が民間の大日本航空に払い下げられた。1940年から南方航路に就役し、4月17日号の写真週報で「南洋定期航路に就く新巨艇」と紹介。日本本土とサイパン、パラオなどの南洋諸島を往来した。「綾波」「漣」「朝汐」「磯波」「白雲」「巻雲」といった具合に命名されていた。
生産は二式大艇が制式採用された1942年で打ち切られたが、この年だけで215機中179機が量産。
実戦では
九七式飛行艇は、まず支那事変に投入された。大陸の上空を飛んで哨戒任務に従事していたという。また北洋の漁業権を巡って対立していたソ連への牽制や、南洋諸島の環礁調査にも使われた。
1941年12月8日より勃発した大東亜戦争では救難、輸送、哨戒、連絡、対艦雷撃に使われた。翌9日にさっそくベーカー島とハウランド島への爆撃に参加している。12月15日、パラオから3機の九七式飛行艇が出撃し、400海里を長躯。セブ島の燃料タンクを爆撃した。12月27日にはスールー海を逃走中の旧式駆逐艦ピアリーを発見し通報する手柄を挙げた。しかし対艦雷撃はことごとく失敗、12月31日の雷撃では隊長機が撃墜される手痛い打撃を受けた。
1942年1月4日、千歳空と横浜空の九七式飛行艇がラバウルを爆撃。上陸部隊の露払いを行った。1月10日、横須賀第1特別陸戦隊によるメナド市急襲作戦に参加。重くてパラシュート降下できない九四式37mm速射砲1門は九七式飛行艇に搭載され、敵飛行場の北東にあるトンダノ湖に着水した。速射砲は降下兵によって回収され、オランダ軍の撃破に役立てられた。2月16日、ティモール海で捕捉した敵船団の攻撃に10機が参加したが、命中率は芳しくなかった。南方作戦が概ね完了した4月28日、制圧したショートランドに九七式飛行艇5機が進出。周辺の哨戒を担った。しかし5月5日に1機の飛行艇が消息不明となっている。翌6日、ツラギを出撃した横浜航空隊の同機が珊瑚海に展開中の第17任務部隊を発見。触接を続けて位置情報を発したが、不運にも報告が第5航空戦隊司令部に届かなかった。
このように緒戦の快進撃を支えていたが、紙装甲っぷりが足を引っ張った。戦闘機はおろかB-24のような爆撃機にさえ撃墜され、挙句の果てにはカタリナ飛行艇にすら撃墜される有様だったので、アメリカ軍では撃墜してもスコアに加算されなかったと伝わる。飛行艇には、喫水線より下の部分を撃ち抜かれると全損確定(着水しても浸水で沈没)になる特有の弱点があり、驚異的な損害率に繋がっているものと推測される。巡航速度が遅いせいで止まって見える事から、アドバルーンという不名誉な名前が付けられたとか…。
既に一式陸攻や後継機の二式飛行艇が制式採用されていた事もあり、防御力に難がある九七式飛行艇を無理やり前線で使う理由が薄らぎつつあった。その後は後方任務で使用されるようになり、いそいそと兵員や物資を運び続けた。ただ輸送や哨戒中に敵機と遭遇する事はよくあったようで、1942年11月のガダルカナル島方面でB-17と激しい撃ち合いになった場合も。防弾板や防弾タンク、20mm機銃の増設といった改良を施して何とか急場を凌いだ。ちなみに前線視察のためトラック諸島に向かう山本五十六大将を運んだのは本機であった。
1943年末まで第一線に踏みとどまり続けていたが、この頃になると旧式化は否めず、敵の戦闘機に出くわすとまず生き延びられなかった。制空権の喪失とともに損害が増大し、ついに二線級となってしまう。以降は本土近海で船団護衛に従事する事になり、機体の一部は1943年12月18日に館山で開隊された第901海軍航空隊に編入。新たに電探を搭載し、船団を空から守った。末期には敵の勢力圏を強引に突破する連絡機としても使用された。
終戦時、生き残っていたのは僅か5機だったとされる。戦後は連絡機として復員任務に協力。緑十字飛行や台湾への現金輸送、離島への医薬品輸送などに活躍した。第二復員省などの解体によって九七式飛行艇の生涯も閉じた。
派生機
- 九七式一号飛行艇(H6K1)
1938年1月8日に制式採用された初期型。三菱製エンジン金星を搭載する予定だったが間に合わず、やむなく中島製エンジン光を搭載。飛行テストの際に海軍から出力不足を指摘されてしまった。
- 九七式二号飛行艇(H6K2)
上記の一号飛行艇に、金星エンジン四三型を搭載したもの。6機中2機が新たに増産され、4機が一号からの改造であった。のちに九七式飛行艇一一型に改名。出力1000馬力、航続距離4130km。
- 九七式飛行艇二二型(H6K4)
エンジンを金星四六型に換装し、機体上部の武装を7.7mm旋回機銃に変更したタイプ。二号より性能が向上し、出力1070馬力、航続距離4791km(魚雷2本装備)/6081km(魚雷無し)となっている。
- 九七式飛行艇二三型(H6K5)
九七式飛行艇の最終型。エンジンを金星五一型/五三型に換装したもの。航続距離が6800kmに伸びた。
関連動画
関連静画
関連項目
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