九七式飛行艇単語

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九七式飛行艇とは、大日本帝國海軍が製造していた輸送飛行艇である。
連合軍側のコードネームは「Mavis(メイヴィス)」。

概要

当時の日本はまだ飛行艇のノウハウが少なかった。1929年、イギリスショートブラザーズ社に設計を依頼し、川西航空機が造り上げた90式飛行艇くらいしか実績がかったのである。統治していた南洋諸島軍事基地の建造を禁じられていた背景から、日本は洋上をそのまま発進基地にできる飛行艇興味を抱いていた。

1933年、帝國海軍川西航空機に大飛行艇の基礎研究を命3月から12月にかけて川西技術者軍が議論を重ね、問題点と新飛行艇の構想を浮かび上がらせた。問題善のため80種類もの模型製作し、一つずつ課題をクリアしていった。

1934年、軍は川西に新飛行艇の試作を命じる。要は9名の乗員と兵器を搭載し、航続距離2500里、巡航速度1200ノットであった。これは当時最先端の飛行艇だったアメリカの「シコルスキーS-42」を上回る性で、まさに限界への挑戦だった。川西橋口義男技師を総括に置き、菊原静男技師を主任に据えて11月より設計を開始した。帝國海軍初の4発大飛行艇として期待も大きかったため、設計及び開発は慎重に進められた。九試大飛行艇の仮称が与えられたこの飛行艇は、軍・川西ともに心血を注いだ。川西技術者たちは先の90式飛行艇以上のものを造ろうと、ふつふつと燃えていた。軍も研究材料として第一線で活躍していた「P2Y-1」を購入、川西に供与するなど協を惜しまなかった。

1936年、試作一号機が完成7月14日に初飛行が行われた。翌15日に軍の搭乗員近藤勝次によってテスト飛行が行われ、長距離飛行、爆撃、輸送、すべての面において良好な成績を収めた。軍から若干の修正点を提示された事以外は概ね高評価であり、責任者を満足させた。試作機は4機造られたが、中島エンジンでは出不足が否めなかった。そこで思い切って三菱金星エンジンに換装したところ、圧倒的な上昇を獲得した。そして1938年1月8日軍はこの飛行艇を制式採用。九七式飛行艇(H6K2)と命名された。開発開始から実に4年もの年が経過しており、後継機開発も時間がかかると判断した軍はすぐに九七式飛行艇に代わる次世代機の開発に着手した。これがのちの二式飛行艇となる。ちなみに九七式飛行艇が失敗した時に備え、九九飛行艇という別の機体も開発されていた。しかし事に制式採用された事で約20機程度の量産で終わっている。

武装は800kg爆弾もしくは魚雷2発、7.7mm機4丁、20mm機1丁。諸元は最大速度385キロ、全幅40m、全長25.63m、全高6.27m、最大航続距離4797km。艇内に8つの燃料タンクがあり、ポンプだけではの高い位置に付いているエンジンに燃料送り込めないので、ペスポンプと呼ばれる補助用ポンプを装備している。しかし不調になりがちなので木槌で軽くいて、本調子に戻した。この木槌はヘマをやらかした搭乗員を殴るのにも利用された。

九七式飛行艇の性は非常に高く、欧が配備していた飛行艇よりも良好だった。特に安定性と操縦性は抜群であった。九七式飛行艇の誕生は、まさに日本飛行艇分野で一歩リードするきっかけだったのだ。後継機が制式採用されるまでの間、215機が量産された。1939年7月、兵装を取り除いて輸送機仕様にした九七式飛行艇を「九七式輸送飛行艇」と命名して制式採用。36機が量産され、うち18機が民間の大日本航空に払い下げられた。1940年から南方航路に就役し、4月17日号の写真週報で「南洋定期航路に就く新巨艇」と紹介日本本土とサイパンパラオなどの南洋諸島を往来した。「綾波」「」「」「磯波」「」「巻雲」といった具合に命名されていた。

生産は1942年で打ち切られたが、この年だけで215機中179機が量産された。

実戦では

九七式飛行艇は、まず支那事変に投入された。大陸の上を飛んで任務に従事していたという。また北洋の漁業権を巡って対立していたソ連への牽制や、南洋諸島の環礁調にも使われた。

1941年12月8日より勃発した大東亜戦争では救難、輸送、、連絡、対艦撃に使われた。翌9日にさっそくベーカーとハウランへの爆撃に参加している。12月15日パラオから3機の九七式飛行艇が出撃し、400里を長。セブの燃料タンクを爆撃した。12月27日にはスールー逃走中の旧式駆逐艦アリーを発見し通報する手柄を挙げた。しかし対艦撃はことごとく失敗、12月31日撃では隊長機が撃墜される手痛い打撃を受けた。

1942年1月4日千歳横浜の九七式飛行艇がラバウル爆撃。上陸部隊の露払いを行った。1月10日横須賀第1特別陸戦隊によるメナド急襲作戦に参加。重くてパラシュート降下できない九四式37mm速射1門は九七式飛行艇に搭載され、敵飛行場の北東にあるトンダノに着した。速射は降下兵によって回収され、オランダ軍の撃破に役立てられた。2月16日ティモールで捕捉した敵船団の攻撃に10機が参加したが、命中率は芳しくなかった。南方作戦が概ね了した4月28日、制圧したショートランドに九七式飛行艇5機が進出。周辺のを担った。しかし5月5日に1機の飛行艇が消息不明となっている。

このように緒戦の快進撃を支えていたが、紙装甲っぷりが足を引っった。戦闘機はおろかB-24のような爆撃機にさえ撃墜され、挙句の果てにはカタリナ飛行艇にすら撃墜される有様だったので、アメリカ軍では撃墜してもスコアに加算されなかったと伝わる。飛行艇には、喫線より下の部分を撃ち抜かれると全損確定(着しても浸で沈没)になる特有の弱点があり、驚異的な損率に繋がっているものと推測される。巡航速度が遅いせいで止まって見える事から、アドバルーンという不名誉な名前が付けられたとか…。

既に一式陸攻や後継機の二式飛行艇が制式採用されていた事もあり、防御に難がある九七式飛行艇を理やり前線で使う理由が薄らぎつつあった。その後は後方任務で使用されるようになり、いそいそと兵員や物資を運び続けた。ただ輸送や中に敵機と遭遇する事はよくあったようで、1942年11月ガダルカナル島方面でB-17しい撃ち合いになった場合も。防弾や防弾タンク、20mm機の増設といった良を施して何とか急場をいだ。ちなみに前線視察のためトラックに向かう山本五十六大将を運んだのは本機であった。

1943年末まで第一線に踏みとどまり続けていたが、この頃になると旧式化は否めず、敵の戦闘機に出くわすとまず生き延びられなかった。制権の喪失とともに損が増大し、ついに二線級となってしまう。以降は本土近で船団護衛に従事する事になり、機体の一部は194312月18日に館山で開隊された第901航空隊に編入。新たに電探を搭載し、船団をから守った。末期には敵の勢圏を強引に突破する連絡機としても使用された。

終戦時、生き残っていたのは僅か5機だったとされる。戦後は連絡機として復員任務に協十字飛行や台湾への現輸送、離への医薬品輸送などに活躍した。第二復員省などの解体によって九七式飛行艇の生涯も閉じた。

派生機

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