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青島 幸男(あおしま ゆきお、1932年7月17日 - 2006年12月20日)とは、日本の作家、作詞家、政治家である。
概要
大橋巨泉、前田武彦、永六輔らと並ぶ、放送作家出身のテレビタレント。
それまでの俳優、芸人、司会者とはっきり活動の領分が別れていたテレビ界に「裏方から出役までなんでもやる人」という独自の存在として「タレント」というジャンルを作り、昭和のテレビ黎明期~全盛期に旋風を起こした。後に小説家としても「人間万事塞翁が丙午」を処女作として発表したところ直木賞を受賞。テレビタレントとして得た抜群の知名度を足がかりに参議院議員として当選し、最終的には東京都知事にまで登り詰めた『超マルチタレント』である。
経歴
出生~学生時代
東京府東京市日本橋区に1932年に生まれる。旧制中学に進学するも、太平洋戦後の学制改革に逢い、そのまま新制高校に編入学した。その後、早稲田大学に進学するも、卒業間際に結核を患い療養生活を余儀なくされ就職活動を断念をする。早稲田大学大学院に進学後、療養生活中に書いた漫才の台本がNHKのコンクールで採用され、放送作家として活動を開始。後に大学院を中退し放送作家として一人立ちをする。
芸能方面の活動
渡辺プロダクションが制作に関わった「シャボン玉ホリデー」(日本テレビ)や「おとなの漫画」(フジテレビ)などのバラエティー番組を中心として放送作家を務めた。単なる放送作家に留まらず、次第に自らも番組へ出演するようになり顔を知られるようになる。
また、作詞家としてもクレイジーキャッツの楽曲の作詞を手がけ、『スーダラ節』『ハイそれまでョ』『だまって俺について来い』などをヒットさせた。
当時の人気から、赤塚不二夫が代表作である「天才バカボン」の中でバカボンのパパに「国会で青島幸男が決めたのか?」という口癖を設定したほどである。
ちなみに、青島幸男と赤塚不二夫は親交が深く、赤塚の漫画家40周年記念パーティーで「都知事の青島だァ!」というスピーチを行ったことがある。
政治家として活動を始めて以降も、「お昼のワイドショー」「欽ちゃんの全日本仮装大賞」「追跡」(日本テレビ)や「意地悪ばあさん」(読売テレビ→フジテレビ)などに出演してタレント活動を継続。お茶の間に広く顔を知られていた。
本人の活動ではないが、「踊る大捜査線」の主人公である青島俊作の役名の由来は青島幸男である。互いにこのことに触れたことがある。
政治家としての活動
参議院議員
1968年に参議院議員選挙に立候補し全国区2位で当選。同時期に当選し国会議員になった横山ノック、石原慎太郎、立川談志などと並び「タレント議員」の元祖として知られている。青島は政党に属さない無所属議員、もしくは参議院議員のみで構成された政党の第二院クラブ(二院クラブ)に所属した。
参議院議員時代の功績の一つとして、テレビによる政見放送を提案し実現させたことがあげられる。これは自身がテレビでの知名度で当選したことに発想を得て企画したものである。ちなみに、1946年には類似した選挙の際の経歴放送がNHKラジオにより実施されていたほか、1950年施行の公職選挙法にはすでに政見放送の規定があったので、政見放送そのものを実現させたというわけではない。
1989年に任期途中での議員辞職をしたが、直後の参議院議員通常選挙に立候補した。1989年の選挙は落選したものの1992年の参議院議員選挙で再当選する。
東京都知事
任期途中で再び参議院議員を辞職し、東京都知事選挙に立候補し当選した。第13代東京都知事に就任後、公約通り世界都市博覧会を中止する決定をする。中止をした場合は約900億円の損失が出るといわれたが実際の損失は610億円である。しかし、建設業界には損失が発生し解雇や費用の不払いが発生し倒産した企業もある。
世界都市博の中止という公約は守ったものの、他に掲げていた「東京二信組問題における救済のための税金投入をしない」などの公約は守られずに官僚・役人任せの行政に終始したことから次第に人気を失っていった。
前任の鈴木俊一が4期勤めたのに対し、青島幸男は1期のみで東京都知事を退任し再出馬はしなかった。
引退
東京都知事退任後、2001年に参議院議員選挙に再度立候補するが落選。2004年の参議院議員選挙にも落選しそのまま政界引退となった。
政治家引退後は体調不良もあって表舞台に出ることも少なくなり、2006年12月20日に逝去した。
関連動画
関連コミュニティ
関連項目
第9代,第10代,第11代,第12代 | 第13代 | 第14代,第15代,第16代,第17代 |
鈴木俊一 1979~1995 |
青島幸男 1995~1999 |
石原慎太郎 1999~2012 |
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