ジャパニーズ・ウイスキーとは、日本の蒸留所で製造されるウイスキーの総称である。もともとはイギリスから呼称された呼び名であり、幾つもの賞を手にしてからは日本でも呼称されるようになった。
国内で生産されていて、日本の酒税法で定義されるウイスキーの条件を満たしたものを指す。
熟成年数に定義はないものの、スピリッツに該当する連続式しようちゆうの定義に当てはまるものは除外されている(ウォッカ、ジン、ラムなど)。
ジャパニーズ・ウイスキーの多くはスコッチ・ウイスキーを手本としていて、味や香りの傾向も近いものになっている。
ただしスモーキーフレーバーが苦手な日本人向けに、穏やかであっさりした香り、味に仕上げているものが多い。
使用する樽はアメリカンオーク、ヨーロピアンオークが多いが、国産のミズナラを使う場合もある。熟成には時間がかかるものの、白檀や伽羅といった香木に似た香りが付けられるなど、近年では海外でも注目されている。
ブレンデッドにおいては、スコッチ・ウイスキーでは他の法人所有の蒸留所からも原酒を買い取って使用することが多いが、ジャパニーズ・ウイスキーではまれで、同一法人所有の蒸留所の原酒しか使わないことが多い。
そのため、蒸留所内で香りや味の傾向が異なる複数の原酒を製造していて、蒸留所数か所分の能力を持たせている。
ウイスキーが日本にもたらされたのは幕末のころで、鎖国が撤廃されてからアメリカを中心に駐留外国人向けとして輸入されるようになった。
明治に入ると、国内でもウイスキーの製造が始まったが、その多くが模造品であった。
海外から輸入した、廃糖蜜を使った蒸留アルコールに砂糖や香料を加えてウイスキーのように見せかけたものばかりであった。
不平等条約改正により日本の関税自主権が回復されると、輸入アルコールに高い関税をかけて国内の酒造業の保護が行われるようになり、国内産のアルコールが使われるようになった。しかし模造品から脱することはなかった。
大正時代に入ると、本格的なウイスキーの製造を目指す動きが出る。大阪の摂津酒造の阿部喜兵衛、岩井喜一郎は、同社の若い職人、竹鶴政孝をスコットランドに派遣し、ウイスキー技術の修業に出す。
一方で赤玉ポートワインのヒットに沸いた壽屋(現:サントリー)の創業者、鳥井信治郎も模造品レベルのウイスキーを出しつつも、本格的なウイスキーづくりを求め、スコットランドから職人を招聘することを考えていた。
摂津酒造が資金難のためにウイスキー製造を断念し(ただし岩井は摂津酒造を離れた後、竹鶴の残した製造技術をもとに、本坊酒造でウイスキーの製造に乗り出す)、国内で途方に暮れていた竹鶴のことを耳にした鳥井は、竹鶴を職人として招き入れた。
蒸留所として、壽屋のある大阪から近く、冷涼な場所を探した末に、大阪府三島郡島本に山崎蒸留所を建設、本格的なウイスキーづくりが始まった。
1929年に最初の本格ウイスキー「白札」(現:サントリーホワイト) が発売されたが、スモーキーフレーバーが不評で売れ行きはいまいちだった。
本格派を求める竹鶴と日本人向けを求める鳥井との意見は一致することはなかった。
竹鶴が契約期間を終えて壽屋を退社した後、鳥井は日本人にも好まれる味をめざし、1937年にサントリー角瓶を発売、ヒットした。その後太平洋戦争突入後は、海軍へ角瓶を供給、当時の将校から好評を得るきっかけとなった。
一方で竹鶴は証券会社からの出資などによって大日本果汁(現:ニッカウヰスキー)を設立、1934年に余市蒸留所を建設した。地元のリンゴを使ったジュース、ワインの販売から始まり、1936年に本格的なポットスチルが作られると、アップルブランデーとともにウイスキーづくりに着手した。
1940年にニッカウヰスキーが完成するが、ほどなくして太平洋戦争に突入、軍向けの酒類の製造にスイッチしている。
戦後、酒税法によってウイスキー原酒が5%未満の3級ウイスキーが幅を利かせたことで、本格的なウイスキーを求めるニッカは苦境に立たされる。一方でサントリーは、3級のトリスから1級の角瓶、オールドを揃えることで、国内でのウイスキー市場でのトップシェアを獲得する。
1954年にアサヒビールがニッカの筆頭株主となってからは、弱みであった営業部門をアサヒビールが支援するようになる。1956年に、利益率を下げつつも高品質低価格を目指した丸びんニッキーがヒット、この路線でニッカは人気を得て、国内第2位の地位を築いていった。
1955年には大黒葡萄酒(のちに三楽、現在のメルシャンに買収)がオーシャンウイスキーを発売、低価格帯を中心に売れていく。また、1972年にはキリンビールと米国シーグラム社の合弁でキリンシーグラム(現:キリンディスティラリー)が設立、モルトとグレーン原酒のみのウイスキーで勝負した。
1980年代後半に入ってバブル景気が訪れると、サントリーはボウモア、ニッカはベン・ネヴィス、宝酒造はトマーティンを買収した。当時のスコットランドではウイスキー蒸留所は経営困難なところが多く、もともとスコッチベースのウイスキーづくりをしている日本のメーカーによる買収はむしろ歓迎された。
1990年代になって酒税の改正、さらに海外ウイスキーへの関税が引き下げられたことで、高品質のウイスキーが低価格で販売されるようになった。それに伴って、ジャパニーズ・ウイスキーでもシングルモルトの銘柄が販売されるようになった。
2001年に、ニッカがシングルカスク余市10年で、ウイスキーマガジンによるベスト・オブ・ベストで最高得点を獲得し、多くのウイスキー愛飲家にとって低レベルと思われたジャパニーズ・ウイスキーの品質に驚きを与えた。
これをきっかけに、ニッカ、サントリー、そして地ウイスキーメーカーのベンチャーウイスキーが次々と高い評価を得て、手本としていたスコットランドでもジャパニーズ・ウイスキーは確かな生産地として記憶されるようになった。
本格的なウイスキーを最初に製造。巧みな販売戦略もあり、国内でのウイスキーシェアでトップを誇る。
当初の経験から、日本人の口に合う穏やかな味を特徴としている。
2014年には、ジム・ビームを販売する米国ビーム社を買収し、世界的なウイスキーメーカーへと成長している。
スコットランドで製造技術を勉強した竹鶴政孝によって設立。スコッチ・ウイスキーに似た個性を持たせた香り、味を持つ。いち早くジャパニーズ・ウイスキーの評価を得ている。
1972年に、米国シーグラム社と合弁でキリンシーグラムを設立。2002年にキリンビールの完全子会社となり、現社名となった。
2007年にキリングループに入ったメルシャンからウイスキー事業を受け、オーシャンブランドのウイスキーも製造している。ただし軽井沢蒸留所は2012年に閉鎖された。
2021年頃から新ブランド「陸」や「富士シリーズ」を立ち上げ、ウイスキー部門の売り上げが好調とのこと。2023年にはキリンビールのマスターブレンダー(ブレンドにおける総責任者)が国際的アワード「Hall of Fame」[1]を受賞するなど評価が高い。
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最終更新:2024/04/25(木) 07:00
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