バルビーノ・ガルベス・ヘレス(Balvino Galvez Jerez、1964年3月31日-)とは、ドミニカ共和国出身の元プロ野球選手(投手)である。
OB | |
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バルビーノ・ガルベス Balvino Galvez |
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基本情報 | |
国籍 | ドミニカ共和国 |
出身地 | サン・ペドロ・デ・マコリス州 |
生年月日 | 1964年3月31日 |
身長 体重 |
180cm 107kg |
選手情報 | |
投球・打撃 | 右投右打 |
守備位置 | 投手 |
プロ入り | 1981年アマチュアFA |
引退 | 2001年 |
経歴 | |
選手歴 | |
プロ野球選手テンプレート |
150km/h近い速球とチェンジアップ・スライダー・シュート、そして優れた制球力を武器に凡打の山を築いた技巧派先発投手。また読売ジャイアンツ時代に5シーズンで10本塁打を記録するなど、投手らしからぬ長打力の持ち主でもあった。
メジャーリーグでは芽が出なかったが、台湾・日本・韓国と東アジアのプロリーグを渡り歩き、その全てでシーズン2桁勝利を挙げ所属チームのリーグ優勝に貢献するなど優れた実績を残した。巨人時代に記録した通算46勝は巨人の外国人投手の最多勝利記録であり、現在でも巨人史上最高の外国人助っ人投手として名前を挙げられることが多い。
他方でメンタル面に難を抱えており、判定への不満を理由に審判にボールを投げつけて出場停止処分を受けたり、コーチとのいさかいでメジャー昇格を逃したりと、どこの国でもその問題児ぶりで話題を呼んでいた。
1981年ドラフト外でロサンゼルス・ドジャースと契約。マイナーで順調にキャリアを重ね、1986年にはメジャーで10試合に登板したものの、目立った成績は残せず翌年チームを放出される。
以後チームを転々としながらマイナーで投げ続けたが、故障などもあって次第に成績は低迷。AA級とAAA級を往復するエレベーター生活が続いた。1993年にはメキシカンリーグでもプレーしている。
1994年に台湾の兄弟エレファンツと契約。一念発起して極東の異国でのプレーに身を投じたガルベスは見事なピッチングを披露し、16勝4セーブ、防御率2.55という申し分のない成績でエレファンツのリーグ年間優勝に貢献した。翌年も10勝を記録し、自信を深めたガルベスは次のステップとして渡日を決意する。
1996年にテスト生として読売ジャイアンツに入団。開幕から先発ローテーションの一角を任されると、シーズンを通してフル回転し、リーグトップの203.2回を投げて16勝をマーク。同僚の斎藤雅樹と共に最多勝のタイトルを獲得するなど、巨人のリーグ優勝(メークドラマ)に大きく貢献した。また山崎武司との乱闘騒ぎが縁となって牛乳のCMに起用され、「カルシウム、フソク、シテイマセンカ?」のセリフで人気を博した。
1997年は斎藤の衰えもあってエース格となり、192.2回を投げて12勝はいずれもチームトップの数字だった。また打者としても打率.231(65打数15安打)3本塁打11打点と野手顔負けの数字を残している。
1998年も安定した活躍を見せていたが、7月31日の対阪神戦で球審の橘高淳の判定にクレームをつけ激昂、投手交代時に橘高目がけて豪速球を投げつけるという前代未聞の行動に出てしまう。
幸い球は外れたものの一歩間違えれば大怪我になりかねないだけに大きな問題となり、翌日セ・リーグはガルベスに残りシーズンの出場停止処分を下し、巨人も無期限出場停止と罰金4000万円という独自の処分を科した。一時は退団も噂されたが、トップクラスの成績を残しているガルベスをクビに出来るほど巨人の先発投手陣は豊富でなかったこともあり、無期限出場停止処分を解除した上で翌年も巨人でプレーする運びとなった。
1999年はルーキーの上原浩治にエースの座を譲ったものの、開幕投手の大役を務め、187回を投げて上原に次ぐ9勝を挙げるなど2番手投手として活躍した。また満塁本塁打2本を含む4本塁打11打点を記録し、日本プロ野球史上初めてシーズンに2本の満塁本塁打を放った投手となった。ちなみに1本は場外本塁打である。
しかしこの年の後半からムエンゴ病が顕著になり始め、9月に4連敗でシーズンを終えると、翌2000年は5月までに6連敗と合計10連敗を記録。10試合中6試合でQS(6回3自責点以内)を、2試合でHQS(7回2自責点以内)を達成しているにも関わらず、全試合で敗戦投手になるという不運ぶりだった。10試合中の巨人の平均得点はわずか1.9点に留まり、ガルベス自身のジエンゴも奏功しなかった。
以後は二軍暮らしとなり、一軍に上がれない不満から代理人を通じて自由契約を求める騒ぎもあったが、結局膝の故障もありシーズン終了を待たずに退団した。巨人在籍中の通算成績は106試合・751回を投げて46勝43敗、防御率は3.31であった。また打者としても打率.151(259打数39安打)10本塁打30打点の成績を残した。
帰国後、ピッツバーグ・パイレーツとマイナー契約を結んで2001年のスプリングトレーニングに参加。パイレーツの先発ローテーション入りを狙える位置に付けていたが、キャンプ終盤の挟殺練習でのエラーがきっかけでコーチと口論になると、ガルベスはやにわにスタジアムを去ってクラブハウスの荷物をまとめ始め、数時間後には祖国ドミニカへの機上の人になっていたという。当然ながらチームをクビになった。もっと牛乳を飲んでいれば…
その後メキシカンリーグでのプレーを経て、5月になって韓国の三星ライオンズと契約、再び極東へと舞い戻ることに。就労ビザではなく観光ビザで入国していたことが発覚するトラブルがあったものの、選手としては申し分のない活躍を見せ、8月下旬までに10勝を挙げライオンズのリーグ優勝に貢献した。ただ母親の看病を理由にシーズン終盤は帰国しており、復帰後の韓国シリーズでは炎上を遂げてシリーズ敗退の戦犯となってしまった。既に37歳と高齢だったこともあり、この年限りでユニフォームを脱いだ。
これ以降、公の場には一切姿を現していなかったが、ドミニカで野球選手育成アカデミーの経営を行っており、2019年には平成のプロ野球を振り返るTBSの番組の取材に答え、久々に日本国内メディアの前に元気な姿を見せた。
なお息子のブライアン・カバソス・ガルベスが、2009年のドラフト12巡目(全体の367番目)でドジャースに指名され、かつての父と同じようにドジャース傘下のマイナーでプレーしていた(2015年に放出され引退)。こちらのポジションは外野手。
一度だけ彼が父について語ったところによれば、「僕は8~10歳の頃(1996年前後)を最後に父とは連絡を取っていない。僕以外の親族も一切連絡出来ていない。手紙も電話もメールもまったくない」「野球からは距離を置き、日本で再婚したらしいという話を人づてに聞いている」とのことで、どうやら息子とは連絡が取れていないようだ。
通算:9年 Year |
登板 G |
先発 GS |
完投 CG |
完封 SHO |
勝利 W |
敗戦 L |
セーブ SV |
ホールド HLD |
勝率 W-L% |
投球回 IP |
与四球 BB |
奪三振 SO |
失点 R |
自責点 ER |
防御率 ERA |
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MLB:1年 | 10 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | .000 | 20.2 | 12 | 11 | 10 | 9 | 3.92 |
CPBL:2年 | 48 | 42 | 34 | 8 | 26 | 16 | 4 | 0 | .619 | 370.0 | 71 | 203 | 124 | 104 | 2.53 |
NPB:5年 | 106 | 105 | 34 | 7 | 46 | 43 | 0 | - | .517 | 751.0 | 203 | 443 | 312 | 276 | 3.31 |
KBO:1年 | 15 | 15 | 5 | 2 | 10 | 4 | 0 | 0 | .714 | 116.2 | 34 | 85 | 42 | 32 | 2.47 |
掲示板
8 ななしのよっしん
2018/09/16(日) 19:16:20 ID: 23pg9zCk6n
1999年以来の投手満塁ホームランが出ましたよ。
藤浪晋太郎が達成です。
9 ななしのよっしん
2019/09/06(金) 17:28:31 ID: ZcuNMNZIRS
現在はドミニカ共和国で野球学校を設立して未来のメジャーリーガーを育成してるらしいです
10 ななしのよっしん
2023/02/18(土) 23:58:14 ID: BeU9z39vRQ
あんまりにも普段の時とグランドにいる時の性格が違うので
当時新人だった上原浩治に二重人格を疑われていた
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最終更新:2024/12/22(日) 16:00
最終更新:2024/12/22(日) 16:00
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