フリードリヒ2世(神聖ローマ帝国) 単語

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フリードリヒ2世とは、現在ドイツルーツとなる神聖ローマ帝国皇帝である。

後の世に同じくフリードリヒ2世と呼ばれたプロイセン王がいたが、そちらについてはフリードリヒ2世(プロイセン)の記事を参照。

なお、キーワードタグ検索においては曖昧さ回避記事のフリードリヒ2世の記事があるため、そちらにいっての検索を推奨する。

概要

フリードリヒ2世Friedrich II. , 1194-1250. 在位1220-1250)は第13代神聖ローマ皇帝である。彼の進歩性と残した業績によって彼は同名のフリードリヒ大王にも負けぬドイツの英傑の一人とされる。

世界の脅威」「玉座にのぼった最初の近代人」と称されたく生まれすぎた天才で、幼少から6カ国語を操るのみならず槍術狩猟、乗など体力的にも秀でていた。多文化・多民族の共存共栄をし、当時先進的だったイスラム文化にも造詣が深く、宗教よりも科学するオタクでもあった。そのため、当時リア充の頂点であったローマカトリック教会からは反キリストとして忌み嫌われた。

フリードリヒ2世の祖は最も皇帝らしい皇帝ドイツ人気の高いフリードリヒ1世(バルバロッサ)である。祖王が実にドイツ的な君であったのに対し、フリードリヒ2世はもっとも非ドイツ的な君だったと言われる。というのは彼はイタリアで生まれイタリア人のを持ち、さらにはドイツ皇帝でありながらその治世のほとんどをイタリアで過ごした君であったからだ。

フリードリヒ以前の神聖ローマ皇帝達はみなかつてのローマ帝国再来してイタリアに干渉を続けていた(イタリア政策)。しかし彼らが考えていたのはローマ教会に権威づけられた大キリスト教帝国であった。それに対しフリードリヒ宗教の垣根をえて多民族皇帝の威の下に暮らす、まさに古代ローマ帝国再現を考えていたのである。その構想の上ではドイツなどは属州の一つでしかない。先進的に過ぎるフリードリヒ世界観は当然ドイツイタリア諸侯。特に古きを守するローマ教皇との衝突に結びついた。

生涯

フリードリヒ神聖ローマ皇帝ハインリヒ6世と南イタリアの両シチリア王相続コンスタンツァの間に生まれた。そのためフリードリヒはそのままいけばドイツと南イタリア広大な領土を相続することになるはずであった。当然それを面く思わない者がでてくる。

王がマラリアによって32歳の若さ折するとドイツで後継者争いが勃発する。王のシュヴァーベンフィリップ王の士(ミニテリアレス)のラヴェンナマクウヴァルトが両シチリアで勢争いを始めたときフリードリヒはわずか3歳でしかなかった。そのためコンスタンツァは教皇インノケンティウス3世を頼り、息をこれに預けた。フリードリヒは教皇の護下で最新の教育を受けて英邁に育っていった。

フリードリヒが元した時のドイツにはオットー4世が君臨していた。彼は元々インノケンティウス3世の後押しを受けて即位したのだが既に二人の仲は険悪になっており、またオットーイギリス王の甥であったためこれを嫌ったフランスフリードリヒを支持した。教皇は南イタリアの両シチリア王ドイツが併合されることを危惧して両シチリアの王はフリードリヒの嫡男ハインリヒに据えさせた。こうした後押しを受けてフリードリヒドイツに乗り込みオットー軍を撃破して皇帝に即位した。

しかしインノケンティウスが死ぬとフリードリヒは両シチリ国王だった嫡子ハインリヒを共同統治者としてドイツ王にして、自らは両シチリアを本拠地とした。当時のシチリアはほぼ政府状態での体をなしていなかった。フリードリヒはまずこの荒れた土に秩序を取り戻そうと努めた。

フリードリヒの非キリスト教生活と胸に秘められた野心は教皇グレゴリウス9世を刺し、彼の十字軍不履行を口実にフリードリヒ破門宣告されてしまう。だが彼はそれにもめげず十字軍(第6次)を実行し、サラディンの後継者たちと交渉を進めて、なんとイェレサレムを無血開城させてしまった。ここで彼はイェレサレム王として冠をかぶった。

フリードリヒがシチリアに帰った時には教皇との仲は修復不可能になっており戦争が始まった。教皇サイドにはロンバルディア都市同盟がつき、ドイツ諸侯も味方し、なんとフリードリヒの嫡男のハインリヒまでもがの敵に回った。しかしフリードリヒはこの攻勢をイスラム兵すら駆使してひらりと交わし続け死ぬまで奢な生活を楽しんだと言われる。

とはいえ破門を恐れずローマ教皇相手に戦争を続けられるのは稀代のニヒリストフリードヒリだけである。彼の死後、後継者たちは落しフリードリヒのホーエンシュタウフェンは断絶。神聖ローマ帝国大空位時代に突入する。

治世

フリードリヒの治めたシチリア王中世にあるまじき先進性を持っていた。全な法典をもち、市民貴族と並んで政治に参加し、税以外の関税を取らず、産業と商業の大幅な国家独占を行なったは同時代で二である。

ビザンツとギリシャアラビアアフリカ文化が入り混じったこのでは多くの言が話され、フリードリヒもイェレサレムでアラビア語で交渉を行ない現地人から「この者は他のフランク人とは違う」と一置かれている。フリードリヒ治安を揺るがす異端には厳しかったが、基本的には信仰の自由を認め、自らもアラブ人ハーレムを持つなど異端行動をよく教皇から叱責されていた。

学術

彼の学問的好奇心は広く強く、特に占術と文学愛した。また彼は奇獣えた動物園を設立し人々を驚かせたり、ローマ教皇のから外れた大学おこして学術を保護した。

一方、人体実験を行ったと非難する文献もあるという。ある時フリードリヒは、一言も言葉をかけずに赤ん坊を育ててみたらどうなるかと気になり実際に実験してみたことがあるが、しかし被験者の赤ん坊全員死んでしまったという。またある時は、2人の男性食事を摂らせた後に一方は狩猟に行かせ、一方は睡眠を取らせた後で、彼らのを裂いてどちらの方がよく食物を消化できていたか調べる実験も行ったともいう。

ただしこういった人体実験について糾弾する文献は「サリンベーネ」というフランシスコ会士が著したものであるとされる。上記のように時に反キリストとして忌み嫌われたフリードリヒは、サリンベーネのような職者とは対立することも多かったであろうという点は、こういった文献の信憑性を評価するうえで念頭におく必要はある。

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