旧石器捏造事件とは、2000年に発覚した旧石器の捏造事件である。日本の考古学を崩壊に追いやった事件として悪名高い。
NPO法人「東北旧石器文化研究所」の副理事長を務めていた藤村新一による旧石器時代の遺物の捏造事件。
1975年ごろから次々に貴重な石器を発掘し、毎年のように「日本最古」を更新していくことから“神の手”または“ゴッドハンド”という異名を授けられ、考古学界では正に神様のように持てはやされていた藤村の偉業が、自ら作成した石器を調査中の遺跡に埋め、あたかも今掘り起こしたかのように報告するという自作自演によるものだったと判明し、日本はおろか世界に衝撃を与えた。
発覚から20年以上が経過した今でも不明な点が数多く残る、学問の根幹を揺るがし考古学愛好家たちの夢を踏みにじった日本考古学界最大の不祥事。
かつて、日本の考古学の大きな争点の一つに「日本列島に旧石器時代は存在するか」というものがあった。戦前の考古学においてはすでに新石器時代(縄文時代以降)の存在は確かめられていたものの、旧石器時代のものと確実に言える資料は報告されておらず、日本列島に旧石器時代は存在しないという考えがむしろ主流であった。
その流れを変えたのは、相沢忠洋による群馬県岩宿遺跡の発見であった。
相沢はアマチュアの考古学愛好家であったが、行商を行いながら独学で考古学の研究を行っていた。ある日、相沢は切り通しの関東ローム層の露頭から石器を発見した。関東ローム層は更新世に堆積した火山灰層であり、そこからの石器の出土は日本にも旧石器時代は存在するということを裏付けるものであった。
そこで相沢はその石器を明治大学に持ち込み、当時学生であった芹沢長介と出会う。かねてから旧石器時代の存在の可能性を検証していた芹沢は、この話を聞いては旧石器時代の存在を確信し、同大学教授の杉原荘介に連絡、杉原も興味を持ったことで明治大学を中心とした発掘調査が行われた。ここで、ローム層から旧石器が発掘され、報告されたことで日本の旧石器時代の存在は証明され、日本列島の人類史の始まりが大きく遡れることが明らかになったのである。
しかし、旧石器時代の存在が明らかになったところで一つの疑問が残り続けた。それは日本列島に初めて人類が来たのはいつかということである。
旧石器時代は世界史的に位置付ければ、石器の使用が始まった約260万年前(原人の時代)から約1万年前(新人の時代)を指す言葉である。これは前期(約260万年~30万年前)、中期(約30万年~4万年前)、後期(約4万年~1万年前)と、大きく3つに分けられている。岩宿遺跡で見つかった石器は、層位的にも形式的にも後期旧石器時代のものであったが、より古い時代の人類の存在を期待させるものでもあった。
特に芹沢は、後期旧石器だけではなく前期や中期旧石器の存在の可能性を信じ、積極的に全国の遺跡の調査を行った。「遺物の年代は、層位が型式に優先する」という理論の下、古い地層から石器のようなものを発見しては、学会に報告をしていた。しかし、これらの「石器」は自然礫の破砕により石器のように見える偽石器であるという意見もあり論争となっていた。芹沢はこれらの「石器」を石器であると証明するために国内初の石器の使用痕研究を行ったが、存在の証明には至らなかった。
岩宿遺跡の発掘調査以降、日本各地で後期旧石器時代の確実な事例は急増したが、前期・中期旧石器時代の事例は不明確な事例ばかりであった。(旧石器時代の調査は地下深くまで掘らなければならないため、狙って掘らないと遺跡を検出しえない)
しかし、悲しいことに「証拠が無いことは、無いことの証明にならない」という格言があるように、前期・中期旧石器時代の確実な遺跡が見つかっていない=日本列島に前期・中期旧石器時代が存在しないと言い切れるわけでもなかった。
こうして、前期・中期旧石器時代の存在を信じる者たちは、アマチュアが常識を覆したという成功体験と、あるかもしれないという希望を基に各地の遺跡調査にいそしんだのである。古い地層から確実な石器を発見することを目標に。
藤村新一は別の仕事を持ちながら発掘作業に参加する民間の考古学者だった。藤村は1970年代から積極的に発掘や踏査に参加し、次々と古い時代の石器を「発見」。仲間内から「神の手」と呼ばれるようになる。この頃から、『石器文化談話会報』に「藤村さんは単独で6点の石器を見つけ、その超能力を見せつけました。」「他の人たちはいくら削っても出ませんでした」と書かれるなど、不自然な点はあったようだが、会員はそれを藤村のキャラクターや天性の才能と捉え、当時は気にも留めなかった。
前述のように、日本の旧石器時代研究では、前期・中期旧石器時代の存否が一つの大きな争点であった。だが、藤村が、次々と古い時代の地層から確実に石器といえるものを次々と「発見」したことで、論争は決着し、長年前期・中期旧石器時代を追い求めた研究者や愛好家の悲願がかなう形となった。
藤村が「発掘」した石器や彼が唱える説に早くから疑問を投げかける考古学者もいたが、疑問を提示した学者が現場から締め出されるなど、文化庁文化財部記念物課埋蔵文化財部門主任の岡村道雄による猛プッシュでお墨付きを得た発見にそういった疑問を口に出すことはタブーとなっていた。
岡村は藤村とともに発掘調査にもかかわっており、その際に岡村ら研究者が話した前期・中期旧石器時代論をもとに藤村は捏造を行ったとされる。
日本の歴史を塗り替える旧石器発見の報はマスコミを通じて、学界だけではなく一般にも大々的に報じられ、旧石器が発見された地域は町おこしに沸き数々の関連商品が開発されイベントが催された。
捏造発覚直前には、宮城県上高森遺跡で60-70万年前まえの石器が「発見」され、大々的に報じられた。この頃になると、学界への報告より先にマスコミの報道が先行するようになり、検証がより後手を踏むようになっていた。
また、国も藤村主導で調査が開始された宮城県座散乱木遺跡を前期旧石器時代に遡る遺跡として国の史跡に指定するなど、事態は取り返しがつかないところまで来ていた。
毎日新聞北海道支社の記者への知人からのタレコミにより、流石におかしいと感じた真田和義報道部長によって取材班が編成された。
総進不動坂遺跡ではメモリースティックでは静止画像しか撮れないという注意文を見逃し、埋めている姿を撮り逃すという失態を犯すも、一か月半後の上高森遺跡で再びやって来たチャンスをモノにした。撮影の練習をしっかりして臨んだ取材班のカメラには、これ以上ないアングルで石器数点を穴の中に埋める藤村が映っていた。
後日、動かぬ証拠を見せられた藤村は目をつむり「皆々ではないです」と零した。
関係者の分析によると藤村は
石器は年代を特定しうる要素が少ないため、その石器が作られた時代を特定するのは非常に困難である。日本の考古学は科学的手法の導入が遅れていたという言説もあるが、有名な放射性炭素年代測定法は生物由来の炭素が抽出できなければ年代を測定することはできない。さらには、石器の年代で重要なのは何時その石が割られたかであり、石自体の年代測定を行っても、石器が作られた時代とは乖離した数値が出てきてしまう。そのため、自然科学的手法による石器の年代測定法は今日に至るまで確立されておらず、石器の年代は、考古学の基本といえる「形」の研究か、地層の年代(か、ともに出土する他の遺物の年代)から求めるしかないのである。
しかし、形から遺物の年代を特定するのは容易ではない。考古学で用いられる型式学的手法では、どちらが古く、どちらが新しいかという相対年代はわかっても、これが何時のものかはわからないからである。そのため、類例が少なく全貌がわからないときはどうしても他の年代がわかるものに頼らざるを得ない。そこでどうしても重視しざるを得ないのが層位である。
とくに、前期・中期旧石器時代の論争においては、これらの時代の存在を証明するには確実な石器を、古い地層から見つける以外に方法がなかった。そのため、「遺物の年代は、層位が型式に優先する」という理論の下、他の検証を軽んじた調査研究がすすめられた。
あるかもしれないという期待やロマン、そして石器そのものの研究の難しさを突かれてしまったのが本事件といえる。
実際は、藤村が埋めていた石器は表面採集や他の発掘現場で得た後期旧石器時代や縄文時代の「本物の石器」であったとされる。そのため、古い時代には存在しないはずの技法が用いられているものもあった。これに対し、欧米の旧石器と比較し異議を唱えた者もいたが、まさか石器が捏造されているとは思っていない研究者らは、多少の形の不自然さや用いられた技術と時代の不整合さを日本列島独自の文化として都合よく解釈した。後世の鉄製農具との接触に起因する鉄錆の付着も気に留めなかった。こうした、日本考古学界のガラパゴス化した研究姿勢も批判の的となっている。
捏造が明らかになった後の再調査で、藤村が発見した三千点を超える石器に鉄分の付着とありえない傷などの不自然な点が見つかり学術的資料としては無効と結論付けられ、日本の歴史は一時三万年前までしか遡れなくなってしまった。
このスクープにより毎日新聞の特別編成チームは数々の賞を受賞し称賛を浴びる。
先で述べた座散乱木遺跡が史跡登録を解除されるなど、藤村が関わった多くの遺跡が認定を取り消され藤村の石器を紹介した本はすぐさま回収処分された。
大学入試問題はおろか教科書から旧石器関連の記述が消されるなど、教育現場は大混乱。教師は今まで教えてきたことが嘘であったと子供たちに説明しなければいけなくなった。
「太古のロマンが我が町にもあったんだ」と少子高齢化にあえぐ町で活性化を原人に求めた人々ははずれ馬券を掴み笑いの種に。
結果的にお墨付きを与えてしまった岡村は事件報道後、激しい矢面に立たされることとなり文化庁から独立行政法人に異動となった。
海外の専門家の目も冷たく、東京都立大学名誉教授で考古学者の小野昭はアメリカやフランス、ドイツ、フィリピン、タイなどの研究者から「なぜこんなに長い期間、嘘に気づかなかったのか?」や「石器を埋めたというが型式学で分かるはずでは?」などの質問を浴びせられ心底情けない思いをしたという。小野教授はこれらの質問に「日本は酸性土壌のため骨が出ず石器しか見つからないため年代が分かりにくい。型式学も編年基準も無い時代の捏造だった」という言い訳をしたというが、諸外国と比べ日本の学会の説明責任の弱さを痛感したようだ。
先ほど出てきた小野教授曰く、モンゴルで実施された発掘調査でモンゴル側がパートナーを日本からドイツに変更するなど日本の研究者が梯子を下ろされる事態も起きたらしい。
『クレイジージャーニー』などで目にする機会が多い丸山ゴンザレスなど、この捏造事件で考古学そのものにレッテルを貼られたことで夢を断念した若者も少なくない。
2001年には週刊文春により同種の疑いをかけられた聖嶽洞穴の発掘責任者である賀川光夫が、度重なる嫌疑に耐え兼ね抗議の自殺をする事態も発生している。
2003年、このような事態が繰り返されないよう日本旧石器学会が設立された。論文を英語で書くようになり発掘現場の状況は出来るだけ事細かく書き記すようになった。
現行法では罪に問うことが難しいとされ逮捕はなされず、松島にあるお寺で数週間修行したのち精神病院に入院。
2001年に妻と離婚したが2003年には入院先で知り合った女性と再婚。右手の人差し指と中指を自ら斧で切断するという事件を起こしながらも現在は再婚した女性の姓に変えひっそりと暮らしている。
なお捏造の動機に関しては「みんなで楽しくやれると思った」と話している。
掲示板
203 ななしのよっしん
2024/02/24(土) 18:38:28 ID: TsRBdi2VG8
204 ななしのよっしん
2024/02/24(土) 18:43:41 ID: TsRBdi2VG8
>>194
当時学問にとどまらずEC細胞や幹細胞ですらできなかった部位の再生医療として注目されてたSTAP細胞を例に挙げるのは間違ってるけどな
205 ななしのよっしん
2024/02/28(水) 04:13:24 ID: Ob4/p58ueP
記事加筆部分で相沢忠洋さんの名前出してくれてるの良いね
相沢氏は文句なしに立派な考古学者だけど、当時の考古学界の人々にとっては氏の業績を受け継いでいくのは荷が重すぎたのかもしれない
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最終更新:2024/09/08(日) 02:00
最終更新:2024/09/08(日) 02:00
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