印パピンポンダッシュ事件とは、インド・パキスタン両国で2018年に生じた、ピンポンダッシュをめぐる外交問題である。
なお、事件名として安定的に使用される用語はいまのところ存在していないので、記事名は便宜上のものであることに注意。
2018年、南アジアに位置するインド共和国とパキスタン・イスラム共和国という仲良しとは程遠い両国は、互いの首都の駐在外交官邸宅において、玄関の呼び鈴を鳴らして逃走する迷惑行為、いわゆる「ピンポンダッシュ」による嫌がらせを受けた、と主張しあった。このことは世界でちょっとした話題となり、インドとパキスタンの両国は2020年のイグノーベル平和賞を受賞した。
ピンポンダッシュという、一見して子どもの悪質ないたずらのようなしょうもない行為の被害が主張されたため、どこかオモシロ外交紛争のような受け取られ方で注目を集めた。しかし実際のところ、深刻に敵対的な両国間で相互かつ頻繁に生じていた、両国の当局による駐在相手国外交官への嫌がらせ(と考えられる)事例の一片といえ、そこそこ真面目な問題ではある。
ただし、両国が被害を受けたと主張する行為のいずれにしても、国家的な嫌がらせだ、とか、悪意のある不作為がある、だとかの、外交問題化しようとする論は両国のあくまで「主張」である。無批判に事実として受け入れてしまわないほうがよいだろう。
インド共和国とパキスタン・イスラム共和国といえば長大な国境線を接する東西隣りあわせの国であるが、同じ英連邦(コモンウェルス)に加盟していながら、独立以来長年にわたり対立が続いている。過去には三度にわたる印パ戦争(インド・パキスタン戦争)をはじめ数々の武力衝突を起こし、核兵器を向け合っており、ほとんど敵対的とすらいえる。
ただし国交がいつも断絶しているわけではなく、この事件が起きた2018年当時も印パ両国間では高等弁務官(印パ間では大使ではなく高等弁務官をおく[1])を相互に派遣していた。しかし北部の国境紛争地帯カシミール地方における小規模な武力衝突が2016年から断続的に続いており、両国間は外交関係を維持しつつも、あきらかな緊張状態にあった。
ことはパキスタンの首都イスラマバードにて、パキスタン駐箚インド副高等弁務官であるJ・P・シン(J.P. Singh)の居宅の呼び鈴が午前3時に鳴らされたことにはじまる。在イスラマバードのインド外交使節団では、当時すでにパキスタン政府側の嫌がらせともとれる面倒事に巻き込まれる案件がもろもろ生じており、インド側はこの事件もパキスタン政府の保安当局による行為ではないかと考えた。
そして数日後には、インドの首都ニューデリーにて、インド駐箚パキスタン副高等弁務官であるサイード・ハイダル・シャー(Syed Haider Shah)の居宅の呼び鈴が午前3時に鳴らされた。パキスタン側はこれを、シン副高等弁務官宅に対する行為への報復としてインド側が行ったものと認識した。同格の人物(副高等弁務官)が同時刻(午前3時)に被害を受けたわけで、いわゆる相互主義にも則しており、イスラマバードでの事件とおよそ無関係とは考えがたいのは確かである。
2018年3月、パキスタン外務省は、ニューデリー駐在のパキスタン外交官が子供を含む家族ともども様々な嫌がらせを受けていると発表し、「(インド政府は)外国外交官を保護する能力が欠如しているか、より非難すべきことに、保護しようとすらしない共謀的な消極性を示している[2]」と主張した。インド副高等弁務官を招致して苦情を申し立て、インド駐箚の自国高等弁務官を協議のため呼び戻すとともに、在インド高等弁務官事務所からインド外務省へも抗議を行った。
対するインド外務省は、「パキスタン側の主張について誠実に調査し、外交使節団の安全を確保する」むね声明。またパキスタン高等弁務官の帰朝についても、外交的抗議を意味しうる「召還」ではなく日常的な一時帰国だとして事態の沈静化を図っている。しかし同時に、イスラマバード駐在のインド外交官も様々な妨害行為を受けつづけていることを明らかにし、自国外交官の保護を要求した。
インド側の主張では、パキスタン当局が建設中のインド外交官向け集合住宅を強制捜査したり(パキスタン側は作業員が適切なセキュリティ・クリアランスを持っていなかったためと説明)、外交官居宅からPCが盗まれたり、車の走行を妨害されたりなど、パキスタンの抗議内容と類似の嫌がらせをイスラマバード駐在のインド外交官も被ってきたとする。ただインド側は、外交官の家族を帰国させるなどして安全を確保しつつも、大々的に騒ぎ立てたりはしないことを選んだのだ、と言うのである。
実のところ、この問題を扱った複数の報道において、そうした相互の嫌がらせは初めて起きたことではなく、というか両国関係の歴史上でもさして特筆すべきものではないとされている。ぶっちゃけて言えば、その程度いままでほとんど日常的に行われてきたことだから、である。
このことは、パキスタン駐在を経験した複数のインド外交官OBが、夜間のピンポンダッシュや尾行といった嫌がらせを経験したことを別々に証言していることからも明らかである。保安当局による尾行を「標準作業手順」と呼ぶ外交官もいる。というか彼らインド外交筋のような「慣れた」側からすれば、むしろパキスタンが今回わざわざ公に抗議を申し立ててみせたことのほうが驚きだったらしい。
過去の経験を証言したインド外交官OBいわく、印パ両国に限らず敵対国間における外交官への嫌がらせは「新しくも珍しくもない」ことで、物理的な衝突が起こると面倒事になるが今回そこまでの事件が起きてはいない、このままいずれ落ち着くだろう、ということであった。この事件について続報らしいニュースが見当たらないあたり、実際そのように収束していったものとみられる。
外交使節団に関しては、主権国家を代表して任務を遂行するため必要な「外交特権」として、その保護について世界的なルールが定められている。現行の規定は1961年に締結された「外交関係に関するウィーン条約」であり、印パ両国を含めて世界のほとんどの国が加盟している。パキスタン外務省の発表でも、ウィーン条約に基づきインドにはパキスタン外交官と家族を保護する責任がある、と述べられている。
実際の条文を見ると、このウィーン条約の第22条2には、「接受国は、侵入又は損壊に対し使節団の公館を保護するため及び公館の安寧の妨害又は公館の威厳の侵害を防止するため適当なすべての措置を執る特別の責務を有する」とある。さらに第30条1において「外交官の個人的住居」が公館と同等の保護を受けるむねも定められている[3]。要するに、外交官の派遣先の国(接受国)は、受け入れた外交官の住居の安寧への妨害を阻止しなければならないルールなのである[4]。
その点、ピンポンダッシュは被害住居の住人の平穏を阻害する、犯罪ともなりうる迷惑行為である。印パ両国ではピンポンダッシュを直接指定した規定までは存在しないようだが、「不法侵入」の対象とはなりうるし、「不法妨害」や「いたずら」に関する法令も存在する。またイギリスから法体系を引き継いだ両国とも、判例法主義をとるコモン・ロー法体系を採用しているため、ピンポンダッシュについて明文規定がなくとも裁判では判例や暗黙の慣習に基づいて不法行為と認定される可能性がある。
となると接受国政府としては、たとえどんなに相手国と仲わるわる~であろうとも、他国外交官に対するピンポンダッシュを放置することなく迷惑行為として当然取り締まるべきである[5]。その他の脅迫的嫌がらせはもちろん、取り締まるべき接受国政府機関側が他国外交官へのピンポンダッシュを是認したり、あまつさえ自ら行うことはあってはならないはずである。
本事件でも「新しくも珍しくもない」と言われたとおり、敵対的国家に派遣された外交官が心理的な圧迫(と思われるもの)を受けることは、そう珍しい話ではないらしい。外交官の保護義務は古くからの慣習ではあるが、外交官というものは特権の保護を受ける国家宣伝官かつ合法的諜報員ともいえるから、接受国保安当局としては敵対的国家の外交官の活動を可能な限り抑止したいという望みを当然抱くのである。
例えば、冷戦下にソビエト連邦に派遣されたアメリカ合衆国の外交官は、日常的な嫌がらせを感じ取っていた[6]。尾行はもちろん、留守中に冷凍庫のプラグを抜くような金銭的損害を与える行為や、住人の知らぬ間に部屋の小物の場所が変わる、一時的に消えるといった、通報や抗議するにはあまりに小さい、いっそ勘違いかとも思ってしまうような方法で部屋に誰かが侵入しているという不安をかきたて、住人をパラノイアに追い込む、巧妙で有効な心理的ハラスメントがあったといわれている。
より近年では、キューバ共和国の首都ハバナで発生した、耳鳴りや視覚・認知機能の障害、いわゆる「ハバナ症候群」が有名[7]。キューバ当局が音波攻撃によりアメリカやカナダの外交官に身体的・心理的な圧迫を試みたのではないかと騒がれたが、やがて世界各地の米国在外公館からも報告された。複数の調査でも原因は不明なままで、キューバ以外のしわざの可能性や、加害行為ではなく大使館に対する電波諜報活動という説[8]、そして一種の集団ヒステリーの可能性まで指摘されている。
(The Guardian、2018年3月16日)
(Financial Times、2018年3月16日)
(The Times of India、2018年3月15日)
(The Economic Times、2018年3月16日)
(Metro、2018年3月16日)
(日本外務省公式HP 条約データ検索)。
(Association for Diplomatic Studies & Training (ADST)、2014年12月3日)。
(BBC News、2021年9月2日)。掲示板
10 ななしのよっしん
2025/09/20(土) 23:30:06 ID: IIkr/SFpJn
11 ななしのよっしん
2025/09/23(火) 09:24:42 ID: 2XhIQGvEGl
パキスタンの漢字一文字表記は「基」らしいから
「印基ピンポンダッシュ事件」にすれば多少は「ピンポンダッシュ」部分が認識しやすくなるだろうけど
インドの「印」に比べてあんまりメジャーな標記じゃないしねー
新聞でも「印」は使っていい標記に入ってるけど「基」は入ってないし
(別に全新聞社共通って訳じゃないらしいが)
12 ななしのよっしん
2025/11/30(日) 13:39:38 ID: 565t6tbb/D
「印パ相互ピンポンダッシュ事件」にすれば良いんじゃない?
急上昇ワード改
最終更新:2025/12/05(金) 19:00
最終更新:2025/12/05(金) 19:00
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