蔦(橘型駆逐艦)とは、大東亜戦争中に大日本帝國海軍が建造・運用した橘型/改松型/改丁型駆逐艦3番艦である。1945年2月8日竣工。終戦後は中華民国に引き渡された。1950年解体。
艦名の由来はブドウ科パルテノキッスス属の落葉性草本から。ツタは非常に強い生命力を持ち、家の壁や岩などに絡みついていくので、「永遠の愛」「結婚」といった、強い繋がりを意味する花言葉が充てられている。ツタには吸盤が備わっており、この吸盤を使って色んな場所に絡まる。蔦の名を冠したのは本艦で二代目で先代は樅型二等駆逐艦14番艦蔦。
戦前、大日本帝國海軍は仮想敵アメリカに対し数の不利を覆すため、性能を重視する個艦主義を掲げて突き進んできた。しかし、大東亜戦争が勃発すると想像以上の早さで艦が失われ、特にガダルカナル島を巡るソロモン諸島の戦いで多くの艦隊型駆逐艦を喪失し、短時間での大量生産が困難な艦隊型駆逐艦より、安価で大量生産が可能な中型駆逐艦が必要だと痛感。
1943年4月に軍令部次長から提出された戦時建造補充計画(通称マル戦計画)において、建造に時間が掛かる秋月型の建造を全て中止し、代わりに戦時急造に適した松型駆逐艦が量産される事になった。松型は起工から竣工まで半年という驚異的な早さで誕生するが、それでも国力に富むアメリカ相手では足りないと判断し、夕雲型の建造計画を全て廃止して、1944年3月より松型を更に簡略化した改丁型(橘型)の設計に着手する。
改丁型に求められたのは徹底的な工期の短縮。まず参考にしたのが既に簡略化が進んでいた一等輸送艦、鵜来型海防艦、丙型海防艦、丁型海防艦であった。鵜来型同様シアーを廃した直線状の船体を採用、艦尾も垂直にバッサリ切り落としたかのようなトランサム型にし、船体装甲をDS鋼から入手が容易な軟鋼に変更(松型のシアーや上甲板に使われていたHT鋼さえも軟鋼に統一)、二重船底を単底構造に改め、手すり柱のメッキ加工省略やリノリウムの使用を全面廃止、松型では部分的にしか使われていなかった電気溶接やブロック工法といった新技術を本格的に投入するなど涙ぐましい努力を重ね続け、松型の工数約8万5000から約7万に削減。建造期間は僅か3ヶ月にまで圧縮された。一方、松型の長所だった機関のシフト配置は建造の手間が増える事を承知で受け継がれ、被弾しても航行不能になりにくくしている。
船体は簡略化したが水測装備は戦訓を汲んだ本格仕様となった。何かと性能が貧弱だった九三式探信儀と九三式水中聴音機を、ドイツから持ち帰った技術が結実した高性能の三式探信儀と四式水中聴音機に換装。対空能力の強化にも力を入れ、13号対空電探、22号水上電探、九七式2メートル高角測距儀を建造時より搭載、輸送任務を見越して小型発動艇2隻と6メートルカッター2隻も積載しており、対潜・対空に優れる戦況に即した能力を手にした。速力の低さが唯一の泣き所だったものの、戦時急造型にしては意外なほど高性能を発揮したという。
福井静夫元少佐の著書『写真集:日本の軍艦』には「性能良く被害に対して強靭、その兵装適切、簡易船ながら成功した艦である」と綴られている。ちなみに蔦は、岩宿遺跡を発見して、日本に旧石器時代があった事を証明した考古学者相沢忠洋が乗っていた艦でもある。
要目は排水量1350トン、全長100m(回天母艦改装後は全長104m)、全幅9.35m、出力1万9000馬力、乗組員211名、最大速力27.3ノット、重油積載量370トン。兵装は40口径12.7cm連装砲1門、同単装砲1基、61cm四連装魚雷発射管1門、25mm三連装機銃4門、同単装機銃8基、九四式爆雷投射機2基。
1944年7月31日、横須賀海軍工廠で第5514号艦の仮称を与えられて起工、10月5日に駆逐艦蔦と命名され、11月2日進水、12月27日より海軍工廠内で艤装員事務所を設置して事務を開始し、そして1945年2月8日に無事竣工を果たした。
初代艦長に国谷正信少佐が着任、横須賀鎮守府へ編入されるとともに訓練部隊の第11水雷戦隊に部署する。蔦には士官10名、特務士官3名、准士官4名、下士官65名、兵205名が乗艦。
第11水雷戦隊から準備出来次第、瀬戸内海西部に回航するよう命じられるも、竣工したとはいえ、残工事が残っていて4日間に渡って造船所で作業を続行。2月20日午前6時30分、駆逐艦宵月とともに横須賀を出港、対潜警戒が難しくなる夜間の航行を避けるべく、同日17時から翌21日午前6時にかけて三重県伊勢市二見湾で、18時から2月22日13時まで鳥羽市坂手湾に仮泊し、18時に安下庄へ到着して戦隊との合流を果たした。間もなく呉への移動を命じられて2月23日に宵月と入港。
3月4日17時30分、僚艦とともに呉を出港して安下庄に回航、翌5日に蔦と宵月は第11水雷戦隊の巡視を受ける。3月10日午前8時40分に安下庄を出港、一時的に戦隊旗艦となった宵月の直接指導を受けながら花月、楡と出動諸訓練を実施したのち、光沖に回航して、3月15日朝まで第二特攻戦隊の回天と連合訓練を行う。13時45分に安下庄へ帰投。翌16日、軽巡酒匂、駆逐艦柳、橘、花月、宵月、楡、波風と安下庄沖で出動諸訓練。
4月1日、第11水雷戦隊は第2艦隊に編入され、4月6日には第31戦隊ともども戦艦大和率いる第1遊撃部隊の待機部隊に部署、出撃準備を完成させた上で瀬戸内海西部での待機を命じられる。
4月7日午前10時2分、旗艦酒匂に率いられて呉を出撃、同日15時14分、蔦は第31戦隊や第53駆逐隊、楡とともに第一部隊に部署、安下庄での進出待機を命じられたため、八島泊地を経由して4月9日に安下庄へ移動、蔦、花月、榧、桐、杉、樫、楡、桜、柳、橘、槇で大規模な航行諸訓練を行った。
4月10日、安下庄を訪れた特別便船から九三式魚雷三型4本、10cm高角砲通常弾500発、25mm機銃弾5000発、1500名の生糧品15日分の補給を受けた。4月12日に旗艦花月で砲術懇談会を実施。ただ練度不足を憂慮されてか、第11水雷戦隊は第一遊撃部隊に同伴せず作戦から外された。4月15日、蔦、柳、楡、橘は駆逐艦花月より重油100トンの送油を受ける。
4月25日に蔦は第31駆逐隊第43駆逐隊へ転属。同日14時30分、槇、第43駆逐隊(蔦、榧、桐)、第52駆逐隊(杉、樫、楡)は安下庄を出発し、10時間に渡って至急出動訓練、対空射撃、夜間水上訓練、陣型運動、連合電測水測目測照射砲戦教練、魚雷1本実射を伴う夜間襲撃訓練などを実施。翌26日午前7時、道中で出動諸訓練を行いながら、午前10時30分に呉まで辿り着いた。4月30日より相ノ浦泊地で待機する。
5月20日、本土決戦を見越して海上挺身部隊が新設。第31戦隊(旗艦花月、第43駆逐隊、第52駆逐隊)、軽巡北上、駆逐艦波風、梨、萩で編成され、同日連合艦隊は「海上挺身部隊は内海西部にありて訓練整備に従事すべし」と指示。5月29日に司令官として小沢治三郎中将が着任する。
海上挺身部隊には山口県祝島を中心として半径180海里以内に敵艦が侵入したら出撃、回天攻撃を行った後は、敵輸送船団を狙って夜戦を仕掛ける任務が与えられていた。
このような運用想定から第43駆逐隊の各艦は、6月以降に呉工廠で回天母艦になるための改装工事を受けたとされるが、正式な工事記録が残っていないので、時期や、どの艦が改装されたのかが不明瞭であり、実際に蔦が回天母艦になったかどうかは不明。6月30日夜、蔦は花月、桐とともに柳井南方の相ノ浦海岸で投錨、前後を固定して、呉軍需部、港務部、施設部、工廠の協力を得て擬装用の網をかぶせ、その上に山から切り出してきた木の葉を載せ、マストには松の木が添えられた。深刻な燃料不足で最早合同訓練すら行えなくなっていたのだ。
7月24日、1450機の敵艦上機が西日本の飛行場と船舶を攻撃、柳井の西南・平生町方面にP-51戦闘機13機が飛来するも、擬装が完璧だったようで蔦に気付く様子は無かった。翌25日に950機の敵艦上機が再び西日本を襲ったが、この時も攻撃を受けなかった。7月28日午前、柳井に停泊中の梨に向かって急降下していく敵艦上機を目撃。しかし蔦は擬装中のため発砲を禁じられており何も出来なかった。
7月30日、連合艦隊は呉鎮守府に対し、海上挺進部隊に搭載させるための回天25基を準備するよう指示、搭乗員には各回天基地の教官教員が充てられた。
8月1日夜、伊豆大島の見張りが「アメリカ軍の輸送船団が北上中」と通報、22時41分に海上総隊が警戒を下令し、海上挺進部隊の各艦にも即時待機の命令が下されて出撃準備を開始するも、夜光虫を見間違えた事による誤報と判明。後の世に言う大島誤報事件である。8月14日、157機のB-29が山口方面に向かってきたが、敵の狙いは光海軍工廠だったので攻撃を免れた。
凄惨を極めた未曾有の戦争は終わった。だが外地には軍人や邦人など約630万人が広範囲に渡って取り残され、彼らの帰国が急務となっていたものの、これまでの戦闘で商船は壊滅状態であり、代わりに生き残った戦闘艦艇を使った復員輸送が提案される。ただ帝國海軍にも使用可能な艦艇は僅か132隻(約18万)しか無かった。
航行可能状態だった蔦は武装解除、居住区の拡張、厠の増設、舷側に「TSUTA」と記入するなどの改装工事を受けた。乗組員は続々と復員・退艦していったが、航海科だけは運航要員として残された。食糧に関しては海軍軍需部が保管していたものを転用。復員者の衣料もここから供出している。そして12月1日より特別輸送艦に指定。横須賀地方復員局所管となる。
フィリピン、台湾、葫蘆島などを巡って多くの兵に祖国の地を踏ませた。外地、または内地に入港するたびにアメリカのタンカーに横付けして重油の補給を受ける。
1946年12月15日、今度は特別保管艦となり横須賀に係留。仮設したデッキハウス、残っていた兵装を撤去し、最低限マニラまで自力航行できるよう、船体・機関・艤装などを良好な状態に整備される。大した海軍力を持たない中華民国とソ連の強い働きかけにより、1947年6月18日から米・英・中・ソの四ヵ国で賠償艦艇配分会議を実施、抽選で振り分けた結果、中華民国が蔦を含む34隻を獲得した。
支那事変で海軍が壊滅して再建途上だった中華民国は配分された全艦艇を最も喜んで受け入れたという。ただ、人手不足や整備能力不足が原因で巡洋艦以上は手に入れられなかった。
1947年7月26日に佐世保を出港、7月31日、上海で中華民国へ引き渡され、接九号と仮命名後、衡陽級駆逐艦3番艦華陽と命名、中華民国海軍に編入される。陽級は旧日本駆逐艦だけでなくアメリカから供与された駆逐艦も含めた日米混同等級であった。
ところが、華陽、衡陽(元楓)、恵陽(元杉)の3隻は引き渡し前の整備状況こそ良好だったが、上海で引き渡された時には機器類が壊れていたり、水没したりしていたため、中華民国側は日本人回航員の破壊工作だと判断。状態が悪く、自国での修理も困難なので、華陽は再武装されず任務も与えられなかった。
間もなくして第二次国共内戦が勃発。支那事変で日本軍の矢面に立たされ続けた中華民国/中国国民党の弱体化は著しく、中国共産党の猛攻であっと言う間に劣勢へと陥り、1949年4月23日に首都南京を放棄、5月4日には上海に程近い杭州を失陥。華陽は中共の包囲網から逃れるべく上海を脱出し、中華民国が実効支配する台湾へ逃走、状態が悪かったにも関わらず何とか馬公まで辿り着く。そして1950年に解体・退役となった。中華民国に渡った旧日本艦艇の中では最も早い退役である。
華陽から得られた部品のうち、流用可能なものは、南京からの脱出を図って損傷した信陽(元初梅)の修理に活用されている。
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