268
31 ななしのよっしん
2011/06/23(木) 19:20:21 ID: //DeTQw0z7
武将としての能力はアレだが政治家としては優秀、そう考えるといいタイミングで生まれてきたなと思う
32 ななしのよっしん
2011/08/25(木) 01:25:27 ID: piD8LF+ghh
一歩間違えたら今川氏真みたいになってたかもな
33 ななしのよっしん
2011/09/18(日) 23:14:54 ID: sd6ysAbp/a
小池一夫先生原作の「片恋さぶろう」って漫画では娘思いの父親として描かれてたな
34 ななしのよっしん
2011/10/03(月) 08:11:31 ID: pRhMvheDEj
秀忠が関ヶ原に遅刻したのは、真田のせいと言うより天候不順だぞ。
真田に手間取ったのは伝令が走る距離を伸ばしたにすぎない。
35 ななしのよっしん
2011/10/08(土) 01:43:43 ID: oXBI51YD0w
>>25
確かに信康、秀康、忠吉といった面々は血の気が多そうだな。
後世忍耐の人と言われる家康も若い頃はその気が感じられる。
もしかしたら秀忠も元来は血の気が多かったのかもしれない。
ただ真田攻めの失敗で自分がバリバリの戦国武将タイプではないと
気付いたのでは。
もしそうなら、親父の最大の長所である学習能力をちゃんと受け継いでる。
学習能力ある人間にとって失敗は成功の糧にもなる。
やることもやってるし泰平の二代目としては十分有能。
36 ななしのよっしん
2011/10/08(土) 02:09:18 ID: oXBI51YD0w
娘の初姫の臨終の件なんか親父としてもいい人だったんだなと思う。
千姫への扱いとか割と酷いが、当時のカリスマ家康も生きていたし、
それを傷つけないためにスケープゴートとして動いたんだろうな。
本当は心苦しかったと思う。
そんな点でも二代目として優秀。自分の立ち位置を理解している。
37 ななしのよっしん
2011/11/10(木) 08:29:18 ID: nkCxR95sOm
武をもって制するのは親父殿がやってくれたし
政に少なからず才を見いだせたのは評価されても問題はないわな
38 ななしのよっしん
2011/11/30(水) 04:46:21 ID: JA5GzS1XCD
父親もそう長くはないし、自分の娘を嫁がせて徳川として譲歩しつつ豊臣家を臣従させようと苦心して、決裂。
あくまで豊臣家は徳川に抗うつもりと分かり、愛娘千姫まで嫁がせたことが無駄に終わる。
後世の創作かもしれんが淀殿が千姫をいびっていたという話もあるし(煙のない所に火は立たないから、後世の創作にしても当時からそういう噂みたいなのはあったかもしれない)
秀忠としては豊臣家への怒りがあったのだと思う。
大坂の陣が開戦したらひたすら千姫の安否を気遣い、その分こんな状況になった怒りが豊臣家へ向いてたり。
それなのにやっとのことで命を助けることが出来、喜んでいたところに千姫が淀殿と秀頼の助命嘆願をしてくる。
ぶちぎれてあんなことを言ってしまったと考えられはしないだろうか?
39 ななしのよっしん
2011/11/30(水) 19:59:50 ID: z8gTk+/6tO
>>38
>自分の娘を嫁がせて徳川として譲歩しつつ豊臣家を臣従させようと苦心
外様大名を相手にしていたのは大御所家康で、そもそも実権そのものを握っていたのも家康なはず。秀忠自らが千姫を嫁におくったのかは?そもそも秀吉の遺言という話もある。
後世の創作は煙や火がどうこう以前に普通にありえるだろ?負けた豊臣方が悪者になるのは必定。
千姫が淀殿までもを助命嘆願をするということは、千姫が「夫のために姑からのいびりを水に流すような良い子」なのか「姑の嫁いびりがデマ」かのどちらかだ。まさか噂を真に受けて淀殿を嫌悪するなんて話はww
個人的には、秀忠には自身の立場についてのコンプレックスがあったんじゃないかと思う。「生まれながらの将軍」である家光がそうであったとされるように。しかも秀忠は上田城にみられる戦下手の汚名がある。だから必死になる。そして「たわけ!うつけ!まぬけ!」と怒られる。
40 ななしのよっしん
2011/12/01(木) 12:02:05 ID: JA5GzS1XCD
父親が実権握っているならなおさら、娘を嫁がされたのにそれを無に帰した豊臣を恨むのはあり得ることではないかと思うんだ。
それと千姫が助命嘆願をしたからデマというのは乱暴なのでは?
俺もデマだと思うが、当時からそういう噂があったということの否定にはならないよ。
まあ淀殿は性格悪い悪女ではなく、それよりもっとたちの悪い夢想家か妄想家だったのではないだろうか。
正直、悪女たるものもっと有能で、狡猾でなければならん。
秀吉を騙くらかして不倫して出来た子供が秀頼で、権力にいつまでも固執し豊臣家を牛耳った悪女といったキャラクターは魅力的にも程がある。
もちろんこれは後世で創作されたイメージだろうけど。
淀殿を魅力的なキャラクターとして後世に伝える為、史実においてのどうしようもない女としてではなく、素晴らしい女傑として伝えてどうするんだよと。
41 ななしのよっしん
2011/12/01(木) 20:45:39 ID: z8gTk+/6tO
>>40
>父親が実権握っているならなおさら、娘を嫁がされたのにそれを無に帰した豊臣を恨むのはあり得ることではないかと思うんだ。
それは逆恨みが混じってないか?
当時の偉い人(ここでは秀忠)がどのような態度をとっていたのかは分からないが、豊臣の心境を無視してないか?秀忠は兄の結城秀康には負い目を感じていたが、秀忠所属の徳川よりも格上だった豊臣を格下にしたという背景を忘れてはならない。確かに、そのまま「今は俺の徳川の方が上なんだから言うこと聞けよ」をゴリ押しした可能性はゼロではないのかもしれないが。
それに秀吉の遺言についての話の答えにはなってないぞ・・ここで「秀吉の遺言があったのにそれを台無しに」とでも解釈したら、遺言破って関ヶ原起こした徳川にそっくりそのまま返ってくることに注意だ。
>当時からそういう噂があったということの否定にはならないよ
当時から噂があったとしても、秀忠が真に受けたか疑問。噂があるかないかの問題じゃないだろう?そもそも淀殿には「秀頼≠秀吉の子」という噂や徳川との折衝や合戦を一因として鬱病になっていたなんていう話もある。
現代はともかく、少なくとも江戸時代頃にその「悪女伝説」が巷で魅力的と抑えられていたかどうかという話がある。
そして、豊臣(特に淀殿)を目の敵にしている秀忠とすると、それはそれで逆に秀忠が小者っぽいじゃないかww「私憤に荒ぶるは暴」であり、それは将軍としてどうよ?まあコンプレックスで必死になるというのも小者っぽいがw
42 ななしのよっしん
2011/12/01(木) 21:02:52 ID: z8gTk+/6tO
ミスった。「大名同士の勝手な婚姻活動の禁止:は秀吉の遺言ではなかったな。
しかし「秀頼が成人するまでは五大老・五奉行が政治してくれ」という遺言があったはず。
43 ななしのよっしん
2011/12/01(木) 21:25:01 ID: z8gTk+/6tO
またすまん。
俺が>>39で書き込んだ「秀吉の遺言」は「千姫と秀頼の婚姻」についてだった。畜生掲示板を汚しちまった。
しかしそれでも他の遺言も忘れてはならない・・
豊臣を潰して天下を取った徳川にとって重要となるのは、豊臣を貶めるだけでなくむしろ自身達の正当化なはず。
だとするなら、たとえ魅力的でも「淀殿=権力にいつまでも固執し豊臣家を牛耳った悪女」とした方が都合が良い。「だから潰さざるおえなかったのです。悪いのは茶々っていう女です。」と出来るからな。
逆に、「淀殿=駄目な女性」だったら徳川が「奪いし者」としてストレートに悪者となりえる。しかも淀殿は織田家の血筋だからなおさらかもしれない。
しかしいろいろあるよな。「落城間際、淀殿が千姫を道連れにしようとしたら坂崎直盛(創作では別人だったか?)が見事千姫を救出したでござる。」というような話とか。淀殿どんだけ怪人なんだよww
44 ななしのよっしん
2011/12/02(金) 20:00:26 ID: pRhMvheDEj
秀忠は戦が苦手ってイメージがあるけど
そうとは思えないな。
上田城は5日程度の戦い、結構な山城をそんな短期間で落とせるはずがない。鳥居元忠が平城の伏見城を半月守ったことなどで明らか。遅参は悪天候の影響が強いし。
秀忠には「戦が苦手」というよりも「活躍の場を与えられなかった」といったほうがいい。
45 ななしのよっしん
2011/12/03(土) 04:43:39 ID: JA5GzS1XCD
嫁いびりを秀忠が真に受けたかどうかはどうでもよくね?仮にそいう噂があって秀忠の耳に届けば、実の娘のそういう噂を聞いてよい想いをする親はいまい。
>>41
千姫の婚礼は、秀吉からして見れば、徳川家とのよしみを強め、豊臣家の安泰プラス徳川家の忠節を約束させるもの。
徳川からしてみれば秀吉の意志よりも、子女を嫁がせることで、対象の家の屈服を促すものではないか。
徳川は婚礼によって自分に従う大名を増やしていた。つまり豊臣もその例外ではなく、秀頼にとって、秀忠は義理の父、家康は義理の祖父。実際家康は祖父の立場を示して秀頼にいろいろ要求していたはず。
豊臣家、淀殿や秀頼にとっては千姫の婚礼は、家臣徳川の忠節の証、悪く言えば徳川からの人質。
つまり徳川にとっては秀吉の遺言うんぬんは建前、それが大坂の陣までの事態になったのだから、徳川としてみれば、「千姫のいる大坂城を攻める羽目になったのは豊臣のせい」と考えても無理はない。
これは俺が大坂の陣は徳川にとっては最終手段、最悪の想定内シナリオだったと考えているからこういう分析になったのかも知れんが。
嫁いびりを秀忠が真に受けたかどうかはどうでもよくね?
それと関ヶ原起こしたのって・・石田三成じゃない?あの当時少なくとも建前上は徳川は豊臣の正当な許可を得て、上杉征伐だったはず。
46 ななしのよっしん
2011/12/03(土) 04:59:51 ID: JA5GzS1XCD
千姫へのいびりの噂が仮にあったとして、よい想いをする父親はいまい。
秀忠は私情を挟むタイプじゃないだろうが。
>>41千姫の婚礼は秀吉にしてみれば、徳川家とのよしみ、秀頼の将来の安泰、徳川の臣従を示す。
徳川にしてみれば、婚礼によって大名を臣従させてきた。豊臣もその例外ではなく、豊臣を臣従させる足がかりのようなもの。
秀吉の遺言うんぬんは建前だろう。
秀頼にとって、秀忠は義父、家康は義祖父になる。実際、家康は祖父の立場を利用して秀頼とコンタクトを取ろうとしたり、要求を突き付けたりしているはず。
加藤清正らの死で豊臣へ影響力のあるパイプ役が消えてまい、北政所も影響力がなくなり、とうとう豊臣と大坂の陣が勃発してしまう。
頑として、徳川への臣従をしない豊臣家に秀忠が好意を持っていたとは思えない。家康以上に豊臣に悪感情を抱いていたという人もいる。
豊臣も気持ちが分からんでもないが、従うことを拒否すれば徳川との戦いしかないってことは理解していたんだろうか?と不思議に思うことはある。
47 ななしのよっしん
2011/12/03(土) 05:39:15 ID: JA5GzS1XCD
大事なことだから二回書きました。
いえ、ごめんさい嘘です・・。
>>45 は書き直す前の文章だった・・。何らかの拍子で投稿されたみたい。
いやしかし、似た文章を続けて二度読まされるのは苦痛だよな・・。
ごめんなさい俺のことは気にしないでください。
48 ななしのよっしん
2011/12/03(土) 05:45:28 ID: F1WmlqsTrR
上田城に関しては最初から適当に兵残してさっさとスルーするのが正解だろ。
真田のオッサンの手玉に取られて5日も無駄に使っちゃった時点で戦下手と言われてもしょーがない。
49 ななしのよっしん
2011/12/03(土) 11:23:37 ID: z8gTk+/6tO
>>46
だから>>41で「噂があるかないかの問題じゃないだろう?」と書いたんだが…
しかしあんたは「煙のない所に火は立たないから(中略)当時からそういう噂みたいなのはあったかもしれない」「当時からそういう噂があったということの否定にはならない」とまで書いてるじゃないか。
>よい想いをする父親はいまい。
書かれたから書くぞ?それで豊臣を恨んでいたならまさに逆恨みだな。普通の親なら恨みよりも心配が先に来るだろう?豊臣秀吉の場合は「大谷吉継の辻斬り」や「秀頼≠秀吉の子」の噂について、噂を立てた者を責めている。
本題は「秀忠が豊臣にブチギレたか否か」でおk?
俺が気になったのは、「淀殿=問題児」にこだわっているように見えたことだ。あんたが言いたいことは単に「(千姫を巡って)降伏勧告を受け入れない豊臣にブチギレた」なのか?>>38では「問題児な豊臣(淀殿)にブチギレた」な側面が強いように見えたんだ。
>悪感情を抱いていたという人もいる。
具体的に。小和田哲男とかいろいろいるけど誰よw?
・・あの、俺は別に攻めてるつもりや喧嘩するつもりは無いからな?
50 ななしのよっしん
2011/12/03(土) 11:40:53 ID: z8gTk+/6tO
そして、当時はそれなりに「建前」でも大義名分が重視される時代。
むしろだから徳川は豊臣に対して「豊臣側から」の臣従を暗に(方広寺鐘銘事件等で)計らなければならなかったのでは?
ただし、徳川は和平使者の片桐且元(穏健派)に対しての態度と大蔵卿局に対しての態度を大きく違えて、豊臣方に且元を疑わせて大坂城内の穏健派を追い出させているから、殺る気満々だった可能性はありえる。
また、確か淀殿は戦争前夜に自身が人質になっても構わないという態度もとっていなかったか?記憶があやふやなのだが。大坂冬の陣には和議の条件として「淀殿の人質の代わりに浪人衆の加増」というものがあって徳川に否定されたようだが
51 ななしのよっしん
2011/12/03(土) 18:57:58 ID: JA5GzS1XCD
>>49言葉のあやばかりとるのはよしてくれ。
秀忠を研究してある資料を読んだだけなんだ。誰かなんて覚えてない。ごめん。
あなたのように博識じゃないんだ。いちいち研究者が誰かなんてきにしちゃいないし、秀忠のおかれた立場なら当然かもと思ったんだ。
ちなみ秀忠の豊臣家への感情がどうだったかあなたの挙げた小和田哲男氏は何と言ってるか訊きたいな。
彼は高名な学者だよね。大河とかの歴史公証やってるし。
じゃあ著名な学者は皆、秀忠は豊臣家への悪感情はいえやすより低かったと言ってるの?
あなたは博識そうだからそう主張する学者を俺に教えてほしいな。
>>50 徳川が大坂の陣の際豊臣を殺る気満々なのがどうしたの?
従わない奴は滅ぼすしかないというのは当然だろ?
大義名分を徳川が模索したというのは当然だろうよ。あらためて言うな。
淀殿が人質を模索してたならどうして結局二度も戦をし籠城したんだ?
戦争前夜って、冬の陣なのか夏の陣なのかどっち?俺は夏の陣手前で人質になろうと意思を示したが秀頼や浪人衆の妨害で出来なかったと聞いた。
ちなみに小和田哲男氏はそのことに関して何て言ってるの?
俺だってどうしてあんたにここまでからまれるか分かんねえよ。
52 ななしのよっしん
2011/12/03(土) 19:19:14 ID: JA5GzS1XCD
秀吉の場合は大谷吉継の場合も秀頼の場合も本人が貶められたからその出処を処罰したまでだし、それと千姫いびりの噂じゃあ全く違うではないか。
つーか、まさか
>>俺が気になったのは、「淀殿=問題児」にこだわっているように見えたことだ
そこが気に食わないってことはないよね?
淀殿好きだから貶められて腹が立ったということなら勘弁してほしいぜ全く。
妙に噛みついてくるから驚いたよ。
53 ななしのよっしん
2011/12/03(土) 21:49:45 ID: z8gTk+/6tO
>>51ー52
というよりも大坂の役は悪感情とかそういう問題ではないと思っている。少なくとも俺は「秀忠が悪感情を抱いた」という話は見たことがないし、そもそも秀忠の感情について書かれているのはまず見たことがない。
家康なら、それこそ小和田哲男(監修とされることが多いため実際は?)の本(今この書き込みで見てるのは幻冬舎の『知識ゼロからの戦国の姫君入門』ちなみに監修でない)では「二条城で成長した秀頼を見て危機感を抱いた」とか書かれているのをよく見かける。
俺だっていつも研究者は別に意識してないし、別に博識でもない。掲示板に書き込む時はかなりwikipediaに頼っている。本で見た記憶のある内容があったら書き込む具合。ただ「~という人もいる」と書かれてたから突っ込んでみただけだよ・・
>従わない奴は滅ぼすしかないというのは当然だろ?
だとするなら、穏健派の存在とそれを追放するのはおかしい。穏健派がいるのにどうしてもう従わないと決めつける必要があるのかということ。
そもそも「二条城の会見」は豊臣にとっては相当な精神的負担があり、会見そのものに徳川への服従的な意味合いがある。実際、淀殿は一度会見を拒否させていて、二度目で結局会見させた。
それで、人生には3つの坂がある。上り坂・下り坂・そして・・「まさか」だ。淀殿好きというよりも、何で豊臣と淀殿を下げなければいけないのかと思っただけだ。
・・すまん・・
54 ななしのよっしん
2011/12/03(土) 21:58:10 ID: z8gTk+/6tO
wikipediaによると、「二条城の会見」については「豊臣の徳川への臣従の意味合いがある」という説と「未だ対等性の維持されていた」とする説の2種類があるみたいだ。
>>52
あと、むしろ俺は何で「噂」にそこまでこだわるのか理解ができないんだけど・・
55 ななしのよっしん
2011/12/03(土) 23:06:17 ID: JA5GzS1XCD
いや、「噂」や秀忠の豊臣への悪感情がなかったと言いきれないという話をしているだけで・・。
そっちがそれらに関して訊いてるからその度に答えているだけのつもりだったのだが・・。
確かに豊臣家には酷かもしれんが、真に臣従を示すには大坂城を出なければならなかったと思うよ。
淀殿と秀頼が開戦を望んでいたかは分からない。しかし穏健派の立場が弱かったのは確かで、開戦を避けようとする動きはあったにせよ、豊臣家としては浪人を集め、兵糧を集め、籠城し、徳川と戦を交えるまで至った。
豊臣家としてっきりと徳川への臣従を示す節がないんだな。
穏健派の追放も、結局は豊臣家が行った。
献策にも耳を貸さず、一方的に裏切り者と決めつけ。
穏健派がいようといまいと豊臣家は徳川へ敵対行動をとり続けるのはあきらかだったはず。
それならば穏健派には城を出てもらうにこしたことはない。
>>54俺も当時の徳川と豊臣が対等だったと訊いたことがある。だったら余計争いは避けられまいとも思うが、結局大坂の陣で豊臣に味方した大名はいないんだな。
56 ななしのよっしん
2011/12/04(日) 13:07:48 ID: z8gTk+/6tO
>>55
悪いが、俺にはどうにも「豊臣が悪い」と決めつけようとしているようにしか見えないのだが。「いろいろどうあれ屈服しなかった豊臣が悪い」という具合に。豊臣だけでなく「徳川が戦争を起こしたかったのか?」も問題になるはず。
二条城会見(1611年3月)以前から、徳川は対西国(特に豊臣)と大名財政圧迫を見込んだ天下普請を行なっているわけで。
膳所城(瀬田の唐橋近く1601年。)・彦根城(佐和山近く1603年。)・二条城(1601年。)・篠山城(兵庫県1609年。)・名古屋城(1610年でこの時は豊臣にも普請を依頼したが断られる。)等がそれだが、大坂を鶴翼に包囲している。
上野城(三重県1611年正月、西方面を特に強化したつくり。城主藤堂高虎。)も明らかに大坂を意識している。実際、築城途中で天守が倒壊したが、大坂の役が終わったことで再建されなかった。
精神的圧迫だけでなく、明らかに戦争の準備になっている。
それで
>穏健派の追放も、結局は豊臣家が行った。献策にも耳を貸さず、一方的に裏切り者と決めつけ。
それは徳川の計略では?豊臣家への軽率な行為を批難したことで起こった方広寺事件(1614年)で、先に派遣された片桐且元には冷たくあたって厳しい要求を出し、後に来た大蔵卿局には丁重にあたって優し目な要求を出している。これは「離間の計」とも言われる。
あるいは「離間の計」は踏み絵だったと?家康の嫡男信康切腹にそういう説はあったが。
>結局大坂の陣で豊臣に味方した大名はいないんだな。
それは加藤清正等の直前に亡くなっている人が多いため審議出来ない。その跡取り達がどう動くか等は豊臣にとっても徳川にとっても冒険でもあったはず。
少なくとも徳川があちこちに伏線を張り巡らせて用意周到だったのは間違いない。ちなみにこれを書くにあたって徳川に惚れ直したw
どう転んでも徳川優位になるように陰日向に仕組んでるんだな。カッコヨス。
57 ななしのよっしん
2011/12/04(日) 22:28:28 ID: JA5GzS1XCD
>>56
豊臣は個人的な心情では可哀想だが、あの時徳川が天下人だとすると、豊臣は天下人に刃向かった謀反人と扱わざるを得ない。それがシビアだが武家の習いと思う。
臣従しない相手には軍事的圧迫をするのは当然で、実際徳川は西国大名を中心に、中国地方や九州地方の大名へのけん制の意味で要所要所に城を築城している。豊臣相手に何の手を打たない訳がない。
「離間の計」は基本手。
秀吉も家康相手にそれを用いている。戦国の世において、相手が屈服するかそれとも弓矢に応えてくるか分からない以上、相手が臣従してきた時と、刃向かってきた時の双方に対処しなければならない。
相手を臣従させるのと滅ぼさなければならないのと双方を想定して策を弄す。その為にも相手への要求と、相手の弱体化両方を行う必要がある。
豊臣家の片桐且元と徳川家の石川数正、二人はおかれた立場もちょっと似ていると俺は思う。
豊臣があきらかに家康の死を待っているというのっぴきならない状態である以上、臣従させればそれにこしたことはないが、いたずらに時間を稼がれるくらいなら攻め滅ぼした方が良い。
事実、離間の刑にのらず、片桐且元の言うことに豊臣が従えばどうなるだろう?徳川は対豊臣対策を、豊臣家を弱体化させる方向に動くだろう。豊臣恩御の大名も豊臣家を抱えていればより効率的に抑え込むことが出来るだろう。
これは大坂の陣を起こすよりもよっぽど合理的で効果的だよ。事実、徳川は豊臣が臣従するように色々と図っているだろう。
跡取り達はよく分からんが、福島正則が「三年早く、三年遅い」と言っていることから、実際に太閤秀吉から恩恵を受けていた世代ではない跡取り達に加藤清正らのような豊臣家への忠誠心は見込めないかと。
もう、御家安泰を図る時代になっていた。
58 ななしのよっしん
2011/12/06(火) 04:40:42 ID: pRhMvheDEj
>>48
真田攻めは家康の命とする説もあるし
5日はで落とせないことは秀忠や諸将も分かっていただろう。
むしろ早くつきすぎて家康の主力が疲弊するよりも
上田城で時間を稼いでいたんだろう。
それが運悪く天候不順で伝令と行軍が遅れた上
決戦が一日で終わった。
つまり秀忠の遅参は運が悪かったとしかいいようがない。
59 ななしのよっしん
2011/12/06(火) 19:57:54 ID: z8gTk+/6tO
>>57
軍事的圧迫はともかく、片桐且元と石川数正は同じにはならない。
石川数正は重臣つまり大物。徳川の軍事機密を把握しているレベルだった。実際数正出奔(1585年11月)後に徳川は武田流な戦術を採用していくことで再構築せざるをえなくなっている。だから離間の計略は秀吉にとっては魅力的だった。
もちろん臣従が成っても弱体化させないと危険なのは小牧長久手後の徳川にも今回の豊臣にもあてはまる。
また、数正の出奔理由は、「信康の後見人だったことが火種として残っていた」・「秀吉の人たらしに乗せられた」等、未だ謎に包まれてもいる。
対して片桐且元は言ってはなんだが秀頼の傅役として発言権があったとは言え数正ほど大物ではない。引き抜かれても豊臣家そのものとしてはあまり困らない。そもそも織田有楽斎等のスパイ同然な連中がいるから、徳川としてもそこまで重要視しなくても良い「はず」の人物。
ならば片桐且元への離間の計の理由は「穏健派」がキーとなる。
「踏み絵」か「邪魔な穏健派を追放させて戦争にする」かのどちらか。
家康としては、おっしゃる通り「たぶんもうそう長くない」のだから、さっさと豊臣を潰した方が吉ということになる。仮に豊臣が臣従したとしても、家康没後に態度がどうなるかは分らない。
そもそも本来豊臣を臣従させるべきだった場面は、豊臣の石高が減って家康が太閤との約束を破って秀忠に将軍職を譲った時点。だけど徳川が煮え切らない態度をとっていたから豊臣もその気(秀頼成人後に実権が豊臣に戻ってくる)になってしまったと。
あくまで俺の考えだが、徳川の煮え切らない態度と戦争が起こる直前まで臣従させるチャンスを残しておくという態度の理由の一つには「世間の目」があったと思う。
60 ななしのよっしん
2011/12/06(火) 22:36:47 ID: JA5GzS1XCD
>>59
強硬派を尻目に交渉役にあたり、主君に献策。受け入れられずにまたはいられなくなり出奔、という立場が似ていると思ったのだが。
確かに片桐且元が立場が弱かったのが彼にとっては残念。穏健派の立場が弱いすなわち、彼らの意見が受け入れられないということになる。
結局、豊臣は且元には軍勢を差し向けてまで出奔に追い込む。これは異常。もう暴発に近い。
君の言う通り踏む絵だとすればここで徳川に反抗の意思を示したことになる。
時勢を読むなら明かに臣従した方が吉。結局大名は一人として味方せず。いやそれよりずっと前に臣従する機会はいくらでもあった。
君は離間の刑に「踏み絵」の可能性を示唆している。つまり君の見解では徳川が豊臣に臣従させようとする意図、そして豊臣が臣従の機会はあったということを言っているんだね?
秀忠将軍就任の際、北政所を通してまで、将軍就任のあいさつに来いと言っている。
それを拒否すると言うのは、徳川による天下の世襲を認めないということ。そして北政所の軽視に他ならない。
徳川の煮え切らない態度か。世間の目を気にしたのは確かだろうが、君の意見は世間知らずの姫にもっと優しく、分かりやすく諭してあげればしてあげれば良かったと言っているようなもんだぞ?
徳川が甘く出ていることをいいことに、家康が死ぬのを待っていずれ天下が戻ってくると?
既に秀忠が将軍を継ぎ、徳川がこれから天下人を世襲すると示したのだぞ?それなのに?
家康死後の取り潰しを危惧しているようだが、時勢を読めず、大坂の陣で滅亡するのと。
時勢を読み、臣従し、それでも取り潰しに遭うのとでは、全然違う。
大坂の陣はどうやっても豊臣に生き残りの道はないだろう。
取り潰しを避けるのなら、そこは当主の腕の見せ所じゃないかね。
そもそも結局は豊臣はどうあっても取り潰しに必ず遭うなんて陰謀論者のたわごとみたいだ。
淀殿と秀頼が徳川に従うくらいなら滅ぶのも辞さないと、武門の誇りと共に死んでいったのなら拍手喝さいだが、結局秀頼は出陣せず、命乞いをし、自害した。
それくらいなら、臣従していた方がマシだった。
ほめた!
ほめるを取消しました。
ほめるに失敗しました。
ほめるの取消しに失敗しました。