上田城 単語

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上田城
日本100名城 27
別名 尼ヶ淵真田
構造
守構造 不明
真田昌幸
1583年(正11年)
1874年(明治7年)

上田城とは、長野県上田市にあったである。日本100名城(27番)。

真田氏の居であり、上田合戦があったことで有名である。

概要

1583年、甲斐武田氏の旧臣・真田昌幸が築いたである。上田地北部、千曲川の分流である尼ヶ淵に面していたことから「尼ヶ淵」と呼ばれることもあった。
北に太郎山、南に千曲川といった自然の要塞を持ち、さらにの北と西に矢出沢を引き込んで総構えとしている。一の攻め口である東側にも蛭沢や湿地帯がある。

二次上田戦後関ヶ原の戦い真田昌幸、信繁(幸村)が属した西軍が敗れたため、上田城は徳軍に底的に破却された。現在の遺構は、真田氏が信濃代に転封されたのちに入した仙石氏によって再建されたものである。

現在は旧二の丸内が上田城跡公園となっており、には花見客で賑わう。また、三の丸の居館跡は上田高等学校の敷地となっており、門は同校の正門として利用されている。

2007年12月14日放送のBS熱中話(日本 前編)「おファンが選んだ 好きなベスト10」では、姫路城2位)、大阪城(3位)を抑え、1位に選ばれている。

構造

本丸を南に配置し、二の丸が本丸の北・東・西を囲み、二の丸と東の大手門の間に三の丸を置く、梯式という縄張りとなっている。前述の通り、の南側は千曲川に面する断崖で最も天然の防御力が高く、また当時の情勢から東(徳氏)からの攻撃を想定したものである。

守は現存しないが、そもそも上田城に守が存在したことを確認できる資料はない。さまざまな説がある中、真田氏時代のものと想定される金箔瓦や菊花文軒丸瓦、金箔の破片などが出土しているため、守が存在していた場合、爛なものであった可性が伺える。

歴史・沿革

西暦元号 出来事
1583年
天正11年)
1585年
天正13年)
第一次上田合戦
1600年
(慶長5年)
第二次上田合戦
1601年
(慶長6年)
幸・信繁が紀伊九度山に配流。上田城は徳氏によって破壊される。
1626年
(寛永3年)
代へ移封された真田に代わって仙石忠政が入
上田城再建が進められたが、1628年の忠政の死により中断。仙石氏三代ののち平氏明治維新までを務めるが、本格的な再建は行われなかった。
1874年
(明治7年)
置県によってとなっていた上田城の土地・建物民間へ払い下げられる。本丸にあった7棟の櫓は、一つを残して解体、売却。うち2棟は内にあった遊郭に6円で払い下げられる。
1934年
(昭和9年)
本丸と二の丸の大部分がの史跡に定される。
1941年
(昭和16年)
移築されていた櫓2棟が東京目黒叙園に転売される話が持ち上がったが、市民運動により翌年1800円で買い戻された。
1949年
(昭和24年)
買い戻された櫓が、現在の北櫓・南櫓の位置に移築復元。
1994年
(平成6年)
北櫓・南櫓を結ぶ東虎口櫓門と袖塀が古写真を基に復元。
2006年
(平成18年)
日本100名城(27番)に選定される。

上田合戦

第一次上田合戦(神川合戦、上田・神川の合戦)

正10年(1582年)3月織田信長の甲州征伐により武田氏は滅亡。甲斐から信濃上野まで及ぶ武田領は織田臣に分与される。
同年6月本能寺の変信長が横死。広大織田領が一気に空白状態となり、越後の上杉景勝相模北条氏直、三河の徳川家康など近郊勢力が侵攻し、旧織田領を巡る天正壬午の乱が起こる。当時北条方に属していた真田氏であったが、徳方の工作により離反する。
10月に徳北条間で和が成立するが、その条件として、徳下となっていた真田氏の上野沼田領と、北条氏が制圧した信濃佐久を交換することとなった。

正13年(1585年)、家康真田昌幸に対し、沼田領を北条氏へ引き渡すようめたが、徳氏より与えられた領地でないことを理由に拒否。さらに敵対関係にあった上杉氏と通じた。
同年8月幸の造反を知った家康真田討伐を起こし、約7000の兵真田氏の本拠・上田城へ派遣した。これに対し、真田の兵は1200であったとされる。

8月2日、徳軍は二の丸まで攻め込むも反撃を受け撃退。後退の際に戸石真田信幸(信之:幸の長男)、矢沢矢沢頼康(幸の従兄弟)の追撃を受け壊乱。神で多数の将兵が溺死した。地の利を生かした戦法により、徳軍は1300人の戦死者を出したとされる一方、真田軍は40人ほどの犠牲で済んだ。

翌日、徳軍は真田氏に味方した丸子氏(後に真田氏に臣従)の篭る丸子を攻めるが、これも攻略することができず、28日に上田より撤退した(この丸子侵攻が上田城へ攻め込んだ翌日ということを考えると、「真田信幸書状」に記載された徳の犠牲1300人というのは誇表現であり、「三河物語」の300が妥当だと考えられる)。

第二次上田合戦

慶長3年(1598年)、豊臣秀吉が死去すると、家康の勢力が強まる。反徳勢力は石田三成を中心に結集し、慶長5年(1600年)6月家康会津上杉征伐のため大坂を離れると、三成は毛利輝元を総大将とする西軍を組織し挙兵した(関ヶ原の戦い)。
幸は家康率いる東軍に従っていたが、次男・信繁とともに離反、西軍に与した。これに対し、長男・信幸は東軍に従った。通説では、西軍・東軍のいずれが勝利しても真田一族が残れるよう分かれたとされる。

三成の挙兵を知った家康は、下野小山より西へ引き返す。東軍本隊は東海道経由だったが、徳川秀忠率いる3万8000人の軍勢は中山道を進んだ。

小諸に到着すると、信幸と本多忠政(信幸の正室・小松姫)に命じて、幸に対して難に開める。幸は返事を先延ばしにして時間を稼ぎ、数日の後に「返答を延ばしていたのは篭の準備の為でござった。充分に仕度は出来たので一合戦つかまつろう」と返す。このあまりに大胆不敵な宣戦布告に、秀忠は「謀ったな安房守!」と怒鳴り散らし、上田城攻略を決意したとされる。
東軍内では、上田城を黙殺して関ヶ原に急ぐべきとのもあったが、圧倒的な兵力差や第一次上田合戦で惨敗という過去もあり、秀忠の決断は覆らなかった。

かしこれが幸の策だった。幸の的は時間稼ぎであり、すでに秀忠隊を3日も足止めさせることに成功していた。また、もし挑発に乗って攻め来るようならば、篭戦を展開しさらに時間を稼ぐこともできる。家康隊との合流を急ぎたい秀忠隊が長期戦を行えないのは明であった上、この戦いが初陣秀忠。総大将が怒り任せに挑発に乗ってしまう時点で幸の思うであった。

秀忠軍は上田城の東の染谷台にを移し、信繁の守る戸石の信幸を差し向けるが、信繁はこれを察知するとあっさりとを明け渡した。これはが敵方に回り、東軍内での立場が危うかった信幸に手柄をあげさせ、秀忠の信用を高めようとするのと同時に、真田一族での同士討ちを回避するのが的であったとされる。

9月8日、短期決戦を狙う秀忠真田軍をから誘い出すため、下の田畑の稲を刈り取る田戦法をとる。これを阻止しようと真田方の軍勢数人が飛び出すが、本多忠政隊の奇襲にあっさり敗北し上田城へ逃走。さらに本多らの隊が追撃し、一気に大手門前まで迫った。

かしこれも幸の策。突如大手門が開き、待ち構えていた真田隊が一斉射撃を浴びせた。内からも矢が降り注ぎ、徳方の先鋒は大混乱に陥った。功を焦って真田軍を追撃していた徳軍は隊列・形共にを成しておらず、撤退する先鋒隊と後続の軍勢が鉢合わせになり進退窮まったところへ、真田軍が討って出て徳軍を散々に打ち破った。
さらに幸は追い打ちをかけた。 前日に密かにを出て染谷台の北東に潜んでいた信繁隊200人余り秀忠に攻め入るとともに、密かに塞き止めておいた神一気に放出する奇襲を仕掛け、第二次上田合戦はわずか1日で真田軍の大勝に終わった(この戦いでの真田の兵力は3500人であった)。

上田城跡公園

このように二度の大戦を経た上田城であるが、現在では市民憩いの場、また内有数の観光地としてしまれている。

公園内施設

イベント

友好城郭

大阪城

2005年10月10日大阪市純一市長上田市袋創一市長大阪城守閣二階会議室で提携書に調印。
上田城と大阪城は結果こそ異なるものの、共に徳の大軍の攻撃を2度も受け、上田城では真田昌幸大阪城では真田幸村が守戦で功績のある繋がりから、友好提携された。

登場作品

関連動画

   城内探索動画。案内看板も読むことができる。

動画で見る上田合戦(だいたいあってる)

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