小野伸二(おの しんじ、1979年9月27日 - )とは、静岡県沼津市出身のサッカー選手である。現在はJ2リーグのFC琉球に所属。
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ユース時代から「10年に1人の逸材」と称されるほど注目されており、各年代の日本代表として全ての世界大会に出場した経歴がある。また、2002年にUEFAカップ優勝を経験しており、日本人で最初にUEFAの国際タイトルを獲得。この年、アジア年間最優秀選手賞を受賞。
ポジションは攻撃的MF。ボランチやSHでもプレーしたことがある。1999年のワールドユース選手権で準優勝を果たした「黄金世代」の中心的な人物である。
10人兄弟の6番目で子として母子家庭で育ち、小学生の頃は家が貧しかったため少年サッカーのチームの所属していなかったが、たまたま小野が1人でサッカーをしているところ目撃した今沢サッカースポーツ少年団の監督が勧誘。母親を説得して入団させた経緯がある。その類稀な才能はすぐに開花していき、小学生にしてすでに天才サッカー少年として地元では有名人となり、やがて全国的にも注目されるようになる。
中学は今沢中学校に入学するが、当時サッカー部が無かった同校は小野のためにわざわざサッカー部を創設している。13歳のときにU-16日本代表にも選ばれており、すでに多くの関係者が将来を嘱望する存在となっていた。
高校はサッカーの名門校である清水商業高校に進学。1年生の頃からレギュラーを掴むと、高校生の段階ですでに別次元のプレーを見せていた。1年生と2年生のときにインターハイ連覇、2年生と3年生のときには静岡県選抜の一員として国体少年の部優勝を経験。一方、全国高校選手権には縁が無く、3年間とも静岡県予選で敗退している。
高校卒業後の進路は、サッカー雑誌などで取り上げられるほど注目されおり、当時のJリーグ13クラブ全てからオファーを受けている。その中から選んだのが浦和レッズで、1998年に入団し、プロとしてのキャリアをスタートさせる。背番号は「28」。
1998年3月21日Jリーグ開幕戦のジェフ市原戦で、スタメンで起用されプロデビューを飾る。当時、高卒ルーキーのデビュー戦としては異例の注目度の高さとなるが、本人は至って冷静にプレーし、すでに大物ぶりを見せる。2戦目となった3月25日の横浜フリューゲルス戦では、早くもプロ初得点を記録。その後も圧倒的なボールスキルの高さでチームの主力として定着。2ndステージでは、3位と好成績を残したチームの中心と言える存在となる。この年27試合9得点という成績を残し、高卒1年目にしてJリーグ新人王とJリーグベストイレブンに選出され、例を見ない程の華々しいルーキーイヤーとなった。
2年目となった1999年には、早くも背番号を高校時代と同じ「8」に変更。ワールドユース選手権出場のため、シーズン序盤はチームを抜けるが、チームに復帰してからは攻撃の中心を担う。ところが、7月5日におこなわれたシドニー五輪アジア一次予選のフィリピン戦で悪質なタックルを受けて左膝靭帯断裂の重傷を負ってしまう。長期離脱を強いられている間にチームは大きく低迷。11月17日の市原戦で復帰したものの、チームはJ2に降格してしまう。
降格が決定したことで他チームへ移籍する話もあったが、浦和に残留し、J1復帰を目指すことを決意する。2000年シーズンからは20歳にしてキャプテンを任されるが、前年度に負った大怪我の後遺症からコンディション不良が慢性的に続き、シーズンの半分近くを欠場することになる。それでも、シーズン終盤戦には復帰して2トップの一角として起用され、最終節において1年でのJ1復帰を果たす。
J1に復帰しての2001年は、コンディションが整いコンスタントに出場するが、1stステージを最後にチームを退団し、海外への挑戦を決断する。
2001年7月オランダ・エールディヴィジの名門フェイエノールトへの移籍が決定。背番号は「14」。チームに合流して間もなく小野のポテンシャルの高さを認めたベルト・ファン・マルヴァイク監督は、中盤でのプレーメーカーとしての役割を与え、ボランチのレギュラーとしてシーズン開幕から定着。オランダで「ベルベットパス」と名付けられた正確なパスで強力な攻撃陣を操る。チームはUEFAカップ決勝まで勝ち進み、2002年5月8日に本拠地デ・カイプにおいてボルシア・ドルトムントとの決勝に出場。1点リードで迎えた後半5分相手からボールを奪い、芸術的なスルーパスでヨン・ダール・トマソンの3点目をアシストし、優勝に貢献。小野にとって、これがプロキャリアで唯一のビッグタイトル獲得となり、UEFA主催の国際大会でタイトルを獲得した最初の日本人選手となる。
2002-03シーズンは、2002年8月に開催されたUEFAチャンピオンズリーグの予備予選において、フェネルバフチェを相手にホームとアウェイの2試合連続で決勝ゴールを奪う活躍を見せ、チームを本大会出場へと導く。すっかりチームに欠かせない存在となると、前年度よりも前に飛び出す機会を増やすようになり、リーグ戦で7得点を記録。
2003-04シーズンは、後にオランダ代表の中心選手となるロビン・ファン・ペルシとディルク・カイトの2人と一緒にプレーしたシーズンとなる。しかしこの頃から日本代表に参加するための強行日程を繰り返していた影響もあって足の負傷が慢性化するようになり、欠場を繰り返す。2004-05シーズンもアテネ五輪に出場していたこともありオフが取れず、疲労が蓄積されてまたも怪我の多いシーズンとなった。それでも、ルート・フリット監督からは信頼され、出場した試合では随所に好プレーを見せ、25試合の出場ながらもオランダでの最多タイとなる7ゴールを記録。
2005-06シーズンは、2005年の日本代表での練習中に負った疲労骨折に加え、以前の負傷の再手術が必要となったことで回復が遅れ、前半戦のシーズンをほぼ棒に振ることとなる。また、エルウィン・クーマン監督に対する自身への信頼が低かったこと、W杯イヤーであることを考慮して退団を決意する。
2006年1月13日熱烈なオファーを出していた古巣である浦和レッズへの復帰が決定。背番号は日本代表と同じ「18」。しかし、フェイエノールト時代から続く怪我の影響からコンディションが悪く、かつて見せたような輝きを放つことができずにいた。シーズン前半戦はトップ下の位置でレギュラーとして起用されてはいたが、守備を重視するギド・ブッフバルト監督が山田暢久をトップ下にコンバートしたことでレギュラーから外れることが多くなる。チームはJ1リーグ初優勝を飾るが、素直に喜べないタイトル獲得となった。一方、天皇杯では、準々決勝のジュビロ磐田戦、準決勝の鹿島アントラーズ戦と連続でゴールを決め、チームの二冠獲得に貢献する。
2007年は三都主アレサンドロが移籍したため、背番号をかつて背負っていた「8」に戻す。6月30日のジュビロ磐田戦で直接フリーキックとループシュートによる2ゴールなど天才的な才能を見せることもあったが、ブッフバルト以上に守備的な戦術を採用するホルガー・オジェック監督の采配によってスタメンから外れることが多くなり、チームがアジア王者に輝いたACLチャンピオンズリーグ決勝の2試合はいずれも欠場となった。また、12月13日のFIFAクラブワールドカップ準決勝のミラン戦でも出場機会は与えられず、チームでの居場所を失っていた。
2008年1月ドイツ・ブンデスリーガのVfBボーフムへの移籍が決定。背番号は「23」。移籍決定からわずか4日後の2月4日のヴェルダー・ブレーメン戦で途中出場を果たし、ドイツでのデビューを飾ると、この試合で2アシストの活躍を見せてチームの勝利に貢献。2度目の海外挑戦は順調なスタートを切ったかに見えたが、怪我の影響もあってほとんどが途中からの出場となった。
2008-09シーズンもやはり怪我に悩まされてしまい、加えてトップ下の選手にフィジカルと守備力を求めるマルセル・コラー監督の方針に合わずほぼ戦力として計算されなくなっていた。それでも、4月に入って怪我人が出たことで2試合連続でスタメンとして起用されるが、第28節のボルシア・ドルトムント戦で右ひざ内側靭帯断裂の負傷を負ってしまい戦線を離脱。わずか公式戦10試合の出場で終わってしまう。
2009-10シーズンも開幕には怪我も癒え、復帰するが、当初は控えという位置づけだった。しかし、2009年9月に監督が交代すると、トップ下やボランチでのスタメンでの出場機会が増える。降格圏にいたチームを一時的に浮上させるなど好調を維持していたが、シーズン前半戦限りでの退団を決意する。
2010年1月高校時代から相思相愛の関係にあったと言われる地元の清水エスパルスへ移籍する。背番号はこのとき30歳だったこともあり、「30」を選択。4-3-3の右IHが主戦場となり、ベテランとして若いチームをまとめあげて引っ張る立場となる。ボーフムでの最後のシーズンでの好調さをそのまま維持し、前半戦を首位で折り返すほど好調だった清水に貢献。タイトル獲得はならなかったが、天皇杯でも決勝まで進み、キャリア初となる公式戦で40試合以上の出場を果たした充実したシーズンとなった。
2011年からはチームのキャプテンに就任。岡崎慎司や藤本淳伍、本田拓也といった主力が大量に抜けた中で難しい舵取りを余儀なくされたが、この年加入したユース時代からの盟友高原直泰とのコンビでチームを牽引。シーズン後半は夏に加入した元アーセナルのフレドリック・ユングベリと中盤を構成する。しかし、守備の負担が大きくなったことで好調だった前半戦よりもパフォーマンスが落ちてしまう。
2012年になると、若手を起用する方針を打ち出したことでベンチに座る機会が増えてくる。チームが9試合連続未勝利というトンネルに嵌ってきた中、新たな挑戦を求めて7月で退団する。
2012年9月28日オーストラリア・Aリーグにおいてこの年に創設されたばかりのウェスト・シドニー・ワンダラーズFCに移籍。フェイエノールト時代の実績もあったことから、高い注目を集めての新天地での挑戦となった。持ち前の高いテクニックはオーストラリアのファンを魅了し、リーグ戦28試合8ゴールという成績を残し、レギュラーシーズン優勝に貢献。ファイナルシーズン準決勝のブリスベン・ロアー戦では、芸術的なループシュートを決めている。この活躍によって、Aリーグベストイレブンを受賞。さらに、在シドニー日本総領事館の在外公館長表彰を受賞している。
2013-14シーズンもレギュラーシーズンを2位で終え、ファイナルシーズン進出に貢献。また、2014年からは、浦和時代以来7年ぶりにAFCチャンピオンズリーグに出場。川崎フロンターレ、サンフレッチェ広島といったJリーグのチームとの対戦に勝利し、ベスト8進出に貢献。チームからはシーズンMVPに選ばれ、パラマタ市からは名誉市民賞を贈られる。
2014年1月16日、この年の6月からの契約でJ2リーグのコンサドーレ札幌に移籍することが発表される。背番号は「44」。小野が北海道に訪れた際は、新千歳空港に400人のサポーターと150人のマスコミが集まる大盛況ぶりとなった。もっとも移籍初年度は怪我の影響で7試合の出場にとどまり、期待に応えることはできなかった。
2015年シーズンも怪我で出遅れることとなるが、この年チームに加入した同じ黄金世代の稲本潤一と久々に一緒にプレーすることになる。監督交代があったシーズン後半戦はトップ下として起用されることが増え、10月5日のJ2第35節東京ヴェルディ戦で移籍後初ゴールを決める。しかし、チームはこの年上位に絡むことのないまま10位で終えることとなる。2016年も開幕直前に負った左臀部の肉離れの影響で出場試合数は少なかったが、これまでの自身の経験を伝えることで影響を受け、力を付けた選手たちの成長もあり、チームはJ2優勝と5年ぶりのJ1昇格という目標を果たす。
2017年4月2日J1第5節ヴァンフォーレ甲府戦において、途中出場からJ1に1709日ぶりに復帰。この年も股関節の負傷によってプレーできない期間が長くなったが、2017年4月26日YBCルヴァンカップ第3節大宮アルディージャ戦でゴールを決めている。2018年は、ミハイロ・ペトロヴィッチ監督が就任してレベルアップしたチームの中で両膝の負傷もあり満足にプレーできない日々が続く。2019年も同じような状況が続き、公式戦の出場はルヴァンカップ2試合に出場したのみとなり、夏に退団を決意する。
札幌では、怪我に苦しめられほとんどプレーできない苦難の日々が続いたが、野々村芳和社長は、「チームが強くなったのは伸二のおかげ。あのときの札幌によく来てくれたな。感謝しかない」と労いのコメントを残している。
2019年8月5日、J2リーグのFC琉球へ完全移籍することが発表される。日本の北の端から南の端へとやって来たこととなる。背番号は「7」。デビュー戦となった8月17日の横浜FC戦には、ホームスタジアムにクラブ史上最多記録を大幅に更新する1万2019人が集まった。
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最終更新:2025/12/21(日) 17:00
最終更新:2025/12/21(日) 17:00
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