イケル・カシージャス(Íker Casillas Fernández, 1981年5月20日 - )とは、スペインの元サッカー選手である。元サッカースペイン代表。愛称は聖イケル(San Íker)。
現役時代のポジションはGK。184cm84kg。利き足は左足。
スペイン・マドリード州モストレス出身。キーパーとしては185㎝と小柄だが、超人的な反射神経と俊敏な動きで、数々のビッグセーブを生み出してきたスペインの絶対的守護神。レアル・マドリードとスペイン代表でキャプテンを務め、数々の栄光をもたらしたレジェンドであり、神業のようなプレーで「サン・イケル(聖イケル)」と呼ばれた。
レアル・マドリードの下部組織で育ち、18歳でトップチームデビュー。19歳で正守護神に定着すると、「銀河系軍団」と呼ばれたチームにあって16シーズンで公式戦725試合に出場。リーガ・エスパニョーラを5度、コパ・デル・レイを2度、UEFAチャンピオンズリーグを3度制覇など18のタイトルを獲得。また、サモラ賞や欧州最優秀GK賞など、いくつもの個人タイトルにも輝いた。
スペイン代表にも19歳でデビューし、若くして正守護神に定着。FIFAワールドカップには4大会で正守護神を務め、2010 FIFAワールドカップではスペインの歴史的な初優勝に貢献し、キャプテンとして優勝トロフィを掲げている。また、UEFA欧州選手権でも2008年と2012年の連覇のときにキャプテンを務め、メジャー大会3連覇の偉業に大きな役割を果したスペイン代表黄金時代の象徴的な存在の一人となった。
1981年5月20日、マドリード郊外のモストレスに生まれ、公務員の父、美容師の母、7つ下の弟という4人家族で育つ。ファーストネームであるイケルはバスク人名であるが、母親が音の響きを気に入って名付けたという。父とボール遊びをしていた頃からGKに興味を持ち、少年時代はマンチェスター・ユナイテッドで活躍するピーター・シュマイケルに憧れていたという。
1990年に9歳でレアル・マドリードの下部組織に入団し、「ラ・ファブリカ」と呼ばれる下部組織に入団。GKとしては小柄な体格だったが、猛練習を重ねて厳しい生存競争に勝ち残っていき、スペイン国内でも有数の有望株として頭角を現す。
まだ高校在学中の16歳だった1997年11月27日、UEFAチャンピオンズリーグのローゼンボリBK戦に招集される。流石に試合に出場はしなかったものの、彼の底知れないポテンシャルの高さを物語る出来事となった。
1998-99シーズンは4部リーグにあたるテルセーラ・ディビシオンに所属するレアル・マドリードCでプレーし、26試合に出場してリーグ優勝に貢献。
1999-00シーズン開幕当初はレアル・マドリードBの正守護神としてプレーしていたが、トップチームの正守護神であるボド・イルクナーの負傷離脱によってトップチームに昇格。すると、9月12日に行われたリーガ・エスパニョーラ第3節アスレティック・ビルバオ戦でスタメンに抜擢され、プロデビューを果たす。ちなみに18歳でのプロデビューはGKとしてはクラブ最年少記録となった。9月15日にはCLグループステージのオリンピアコス戦でゴールを任され、GKの大会最年少出場記録を樹立する。その後一度はアルバノ・ビサーリにポジションを譲ることになるが、ビサーリが不安定だったことから12月に再びスタメンに名を連ねるとそのままレギュラーに定着。2000年5月24日に行われたCL決勝・バレンシアCF戦では史上最年少の19歳4日でスタメン出場し、見事完封することで優勝に貢献。プロ1年目でビッグイヤー獲得を経験し、リーガの最優秀新人に与えられる ”ブラヴォー賞” にも選ばれる。
2000-01シーズンは引き続きイルクナーが長期離脱したままだったこともあり、新加入のセサル・サンチェスとポジションを争うことになるが、この争いを制して「銀河系軍団」の正ゴールキーパーを務めることになる。リーガでは34試合、公式戦全体で37試合出場とほとんどの試合でゴールを任されていた。
2001-02シーズンも正キーパーとしてピッチに立ち、もはや将来は約束したかと思われたが、シーズン中にスランプに陥り、凡ミスを連発するようになる。シーズン後半戦になると、ついにレギュラーの座を剥奪されてしまい、ライバルのセサルにポジションを明け渡すことに。チームはCLでノックアウトステージを勝ち抜き、ファイナルに進出するが、その間カシージャスはベンチで試合を見守るだけとなっていた。決勝のバイヤー・レヴァークーゼン戦でもゴールを守ったのはセサルであり、ベンチからのスタートとなった。前半でマドリーがリードを奪って迎えた後半23分セサルが負傷によってピッチを後にし、急きょゴールを任されることになる。すると、レヴァークーゼンの猛攻に対してファインセーブを連発。特に試合終了間際のディミタール・ベルバトフの至近距離からのシュートを立て続けに防いだセービングはまさに圧巻だった。大舞台で輝きを取り戻し、2シーズンぶり9回目のビッグイヤー獲得に貢献。この試合のプレーによってビセンテ・デルボスケ監督の信頼を取り戻し、レギュラーの座に返り咲く。
2002-03シーズンは銀河系軍団の守護神としてリーガでは全38試合に出場。不動の守護神の座を手にし、チームの2シーズンぶりのリーガ優勝に貢献する。だが、スターを次々と買い漁っていた銀河系軍団はバランスが悪くなり、2003-04シーズンはフェルナンド・イエロとクロード・マケレレを放出した煽りを受けて失点が増えてしまう。再三のビッグセーブでチームを救っていたものの、流石にGK一人でどうにかできるような状況ではなく、自己ワーストとなる50失点を許し、無冠に終わる。2004-05シーズン、2005-06シーズンでも悪い流れは変わらず、個人としては奮闘していたもののチームはタイトルから遠ざかり、銀河系軍団は衰退から崩壊へと向かっていく。
2006-07シーズンは守備を重視するファビオ・カペッロ監督が就任したことで負担が軽減。自身にとって3度目となるリーガ優勝を果たす。2007-08シーズンは開幕から絶好調を維持し、2008年2月にはクラブと「生涯契約」ともいえる長期の契約延長を交わす。チーム内でもラウール・ゴンザレスやグティと共に重鎮といえる立場となり、シーズン中の失点はリーグ最少となる32失点で抑え、自身にとっては初となるサモラ賞を受賞し、リーガ連覇に貢献。2008年にはカシージャスにバロンドールを求める署名まで起こり、1万人の署名が集まった。
2008-09シーズンにはリーガで全試合に出場。このシーズンはスペイン代表でEURO2008優勝を果たした直後ということもあり、カシージャスの選手としての地位は大きく跳ね上がっていた。2008年冬の移籍市場でマンチェスター・シティはカシージャス引き抜きの為に違約金として史上最高額となる約175億円を用意したが、カシージャスはこの申し出を断る。2009年2月7日のラシン・サンタンデール戦で、フランシスコ・ブーヨが保持していたクラブのゴールキーパー最多出場記録(454試合)を27歳にして更新。しかしチームは監督交代もあって不安定な状態にあり、キャリアワーストとなる52失点を許している。
クリスティアーノ・ロナウドが加入した2009-10シーズン、2009年10月4日のセビージャFC戦でゴール前を縦横無尽に駆け抜け、近距離で1対1の場面でディエゴ・ペロッティのシュートを阻止するという驚異的なセーブを見せる。このプレーに対して、往年の名GKであるゴードン・バンクスから「史上最高のGKの一人」と評される。11月25日のFCチューリッヒ戦で、11人目となるUEFAチャンピオンズリーグ通算100試合出場を達成。しかし、チームはジョゼップ・グアルディオラ監督率いるFCバルセロナの勢いを止められずにリーガで2位に終わり、CLでは6シーズン連続ベスト16とタイトルから遠ざかっていた。
2010-11シーズンはキャプテンのラウール・ゴンザレスと第2キャプテンのグティが揃ってチームを去ったことからレアル・マドリードのキャプテンに任命される。2010年12月12日のレアル・サラゴサ戦でレアル・マドリード史上9人目、GKとしては初のリーグ400試合出場を果たす。2011年4月9日のビルバオ戦では3-0で完封勝利し、ブーヨの持っていた通算無失点試合数のクラブ記録に並ぶ。このシーズンは宿敵バルサとリーガ、コパ・デルレイ、CLと3つのコンペディションでタイトルを争うこととなったが、コパ・デル・レイ決勝では、ラスト15分の間にリオネル・メッシやペドロ、アンドレス・イニエスタらのシュートを3度スーパーセーブで防ぐなどの守りを見せ、10年以上のキャリアで1度も手にしたことのなかったコパ・デル・レイのタイトルを獲得。
2011-12シーズンもクリスティアーノ・ロナウドやベンゼマらを擁した「新・銀河系軍団」を後方から支え、2012年1月22日、アスレティック・ビルバオ戦でレアル・マドリードでの通算600試合出場を達成した。5月2日、ビルバオ戦で3-0の勝利を収め、リーグ史上最多となる121得点と勝ち点100を記録してのリーガ優勝を果たす。自身にとって5度目のリーガ制覇はキャプテンとなってから初の栄冠となった。しかしこの時期、緊張状態が激しくなっていたバルサのとの和解のため、シャビ・エルナンデスやカルレス・プジョルら代表でのチームメイトに直接電話をかけ謝罪をしたと報じられたこと、恋人がクラブ内情を暴露したことなどからジョゼ・モウリーニョ監督との確執が囁かれるようになる。
2012-13シーズンも例年通り正守護神としてピッチに立っていたが、メディアからはロッカールームでの選手たちの派閥による対立が連日報じられるようになっていた。そして2012年12月22日、リーガのマラガ戦においてモウリーニョ監督はカシージャスをスタメンから外し、若手のアントニオ・アダンを起用。これによってモウリーニョ監督との確執を煽る報道は加速していく。そんな折、タイミング悪く2013年1月23日のコパ・デル・レイ準々決勝のバレンシア戦にてアルバロ・アルベロアとの接触により左手を骨折し、長期離脱を余儀なくされてしまう。負傷から復帰した後も、緊急補強されたディエゴ・ロペスが正GKに定着したため、出場機会が得られない状況が続き、モウリーニョ監督との確執は決定的なものとなっていた。
2013-14シーズン、モウリーニョ監督が退任し、カルロ・アンチェロッティ監督が就任。しかしアンチェロッティ監督はディエゴ・ロペスをリーガの守護神とし、カシージャスをCLとコパのカップ戦の守護神とするローテーションを採用。そのためリーガではデビュー以来最低となる2試合の出場に留まる。一方、正キーパーを任されたCLでは9試合連続クリーンシートを達成するなど相変わらずの働きを見せていた。そして、2014年5月24日のマドリード・ダービーとなったCL決勝のアトレティコ・マドリード戦では自らのミスによって先制ゴールを許したものの、逆転勝利により自身3度目となる欧州制覇を果たし、キャプテンとして初めてビッグイヤーを掲げる。
2014-15シーズンはディエゴ・ロペスが移籍し、実力者のケイラー・ナバスが加入するが、開幕戦でスタメンで起用され、その後は正キーパーの座を取り返す。2014年12月20日、ヨーロッパ王者として出場したFIFAクラブワールドカップ2014決勝のサン・ロレンソ戦ではレアル・マドリードの優勝に貢献し、この試合で史上3人目となるクラブ通算700試合出場を達成。だが、クラブのロッカールームでの影響力の強さを危険視したフロレンティーノ・ペレス会長との確執が生じ、ペレスから寵愛を受けた選手たちとも対立するようになったことでチーム内で次第に孤立無援となっていた。そのため、このシーズンを最後に16シーズンを過ごしたレアル・マドリードを追われるように退団。退団会見では、ペレス会長をはじめとしたクラブ関係者は姿を見せずに一人で会見をおこなうという、クラブの長年の功労者に対するものとは思えないものとなった。
2015年7月11日、ポルトガル・プリメイラ・リーガのFCポルトに移籍することが発表される。開幕からレギュラーとしてプレーすると、9月29日のCLグループステージ、チェルシーFC戦で同大会152試合目の出場となり、シャビを抜いての最多出場記録を更新。10月20日のマッカビ・テルアビブFC戦でCL51回目のクリーンシート(無失点試合)を達成し、こちらもエトヴィン・ファン・デル・サールの持つ最多記録を塗り替える。2015-16シーズンはミスにより批判を受けたこともあったが、公式戦40試合に出場し、健在ぶりを見せ、「終わったGK」という評価を覆す。
2016-17シーズンもCLで記録を作り出す。2016年10月18日、グループステージ第3節のクラブ・ブルッヘに出場し、同試合に勝利したことでCL通算92勝を記録しCL通算勝利数単独1位に立つ。2017年3月14日のチャンピオンズリーグユヴェントスFC戦でUEFA主催大会通算175試合目の出場となり、パオロ・マルディーニの174試合を超えて歴代最多出場となる。シーズン2年目もシーズンを通してゴールを守ったが、リーグ戦ではベンフィカに及ばず2位となる。
2017-18シーズンは開幕からまさかのリーグ戦ではスタメン落ちとなり、レアル・マドリードでの晩年と同様にCL、カップ戦が主戦場となった。その背景にはクラブの財政難からポルトが1月の移籍市場で、高年俸のカシージャスの放出を望んでいるからだとされていた。それでもシーズン半ばにはポジションを取り戻すと、全盛期を思わせる高いパフォーマンスでチームの守備を引き締める。2018年4月2日、CFベレネンセス戦の出場により、キャリア通算1000試合出場を達成。この年のポルトは序盤から首位を走り続け、5シーズンぶりとなるリーグ優勝を達成。自身にとってはポルト移籍後の初タイトルとなった。シーズン終了後、クラブとの契約を1年延長する。
2018-19シーズンは開幕から正キーパーとして出場し、2018年9月18日のCL開幕戦に出場したことでライアン・ギグスの持っていた記録を塗り替え、20シーズン連続でのCL出場を果たす。公式戦42試合に出場し、まだまだ現役としてやっていけることを証明したのだが・・・。2019年5月1日、練習中に心臓発作を起こして病院に搬送。一命は取り留めるも、健康上の不安からプレーを休止することになり、現役引退の可能性も報じられる。
2019-20シーズンは選手登録を見送り、スタッフとしてチームを支えることが発表される。シーズン中に復帰を目指して練習を再開したものの、結局ピッチに戻ることは叶わず、2020年7月2日に契約満了となりポルトを退団。3日後の8月4日、自身のX上で正式に現役引退を発表。
1996年にU-15スペイン代表に選出され、ウェンブリースタジアムのイングランド戦に後半から出場したのが初の代表戦となった。16歳のときにU-17スペイン代表に選ばれ、1997年のUEFA U-17欧州選手権に優勝。エジプトで開催されたFIFA U-17世界選手権にはキャプテンとして出場。正キーパーとして3位入賞に貢献している。1999年にナイジェリアで開催されたFIFAワールドユース選手権1999で優勝したU-20スペイン代表のメンバーでもあるが、このときはセカンドキーパーだった。
2000年6月、レアル・マドリードでの活躍に認められフル代表に初めて招集されると、6月3日のスウェーデンとの親善試合で19歳と14日の若さでスペイン代表デビューを果たす。だが、この試合では試合開始11分でPKを与えてしまうほろ苦いものとなった。同年9月からの2002年ワールドカップ欧州予選では正キーパーのサンティアゴ・カニサレスと併用される形で起用されていた。
2002年6月に日本と韓国で開催された2002 FIFAワールドカップでは、大会直前にアフターシェーブローションの瓶を足に直撃させて負傷するという失態を犯したカニサレスに代わり第1GKとして出場。ラウンド16のアイルランド戦ではPKを試合中に1本、PK戦で2本止め、スペインをベスト8に導いた。その先であんな酷い目に遭うとは予想にもしてなかったであろう・・・。準々決勝の韓国戦では、審判団のホスト国贔屓の判定に苦しめられながらパク・チソンやイ・チョンスの決定的なシュートをビッグセーブで凌ぐ活躍を見せたが、PK戦ではことごとく読みを外され、敗退となる。
その後は代表の正守護神に定着し、2004年6月にポルトガルで開催されたEURO2004に出場。全試合でゴールを守り、グループリーグ3試合で2失点と好プレーを見せたが、得点力不足に泣いたチームはグループリーグで姿を消すことに。
2006年6月、ドイツで開催された2006 FIFAワールドカップに副キャプテンとして出場。ラウール・ゴンサレスがスタメンを外れた最初の2試合ではキャプテンマークを巻いて出場し、安定したセービングを見せる。消化試合となった第3戦は温存され、ラウンド16のフランス戦でスタメンに復帰。スペインが有利と見られた試合だったが、前半を1点を先制した後に2失点を許して逆転されると、試合終了間際にはレアル・マドリードのチームメイトであるジネディーヌ・ジダンにダメ押しの3点目を奪われて敗退となる。
2008年6月にオーストリアとスイスで開催されたEURO2008に出場。ラウールがメンバーから外れたため、この大会から正式なスペイン代表のキャプテンに任命される。グループリーグ初戦のロシア戦、第2戦のスウェーデン戦では安定したプレーで勝利に貢献。第3戦のギリシャ戦は消化試合となったため温存となる。準々決勝のイタリア戦ではポゼッションで圧倒しながらゴールを決められず、PK戦に突入。イタリアの守護神ジャンルイジ・ブッフォンとの対決となったが、ダニエレ・デ・ロッシとアントニオ・ディ・ナターレの2本を止める活躍でチームをベスト4へと導く。その後、準決勝のロシア戦、決勝のドイツ戦で2試合連続クリーンシートを達成し、スペインの44年ぶり2度目の優勝に貢献。UEFA欧州選手権のトロフィーをキャプテンとして掲げた初のGKとなる。最終的に大会を通して失点したのはグループリーグ第2戦のスウェーデン戦のみであり、守備に安定感をもたらし、UEFA選定の大会優秀キーパー賞に選出される。
2008年10月、ペペ・レイナと共にアンドニ・スビサレッタとフランシスコ・ブーヨが作り、長い間破られることがなかったスペイン代表の連続無失点記録(710分)を更新。2009年9月5日、2010 FIFAワールドカップ欧州予選ベルギー戦に5-0で勝利し、スビサレッタが保持するスペイン代表の無失点試合数56試合に並ぶと9月9日のエストニア戦を無失点に抑え、新記録となる57回目の完封を達成。11月14日にはアルゼンチンとの親善試合に出場し、ゴールキーパーとしては過去にスビサレッタしか果たしていないスペイン代表100試合出場を達成。
2010年6月、南アフリカで開催された2010 FIFAワールドカップに出場。欧州王者として優勝候補に挙げられていたスペインだったが、グループリーグ初戦のスイス戦でまさかの初戦で黒星が付いてしまう。この試合の失点でミスを犯したことで批判を受けるが、すぐに立て直しに成功し、第2戦のホンジュラス戦と第3戦のチリ戦を1失点で乗り切り連勝。決勝トーナメントに入るとさらに安定感を増し、ラウンド16のポルトガル戦ではクリスティアーノ・ロナウドの無回転FKを弾き出し、準々決勝のパラグアイ戦ではオスカル・カルドソのPKをキャッチでセーブ、準決勝では強豪ドイツを相手に3試合連続のクリーンシートを達成し、スペイン代表を初のファイナル進出へと導く。決勝はともに初優勝を賭けたオランダと対戦。前半終了間際と後半17分のアリエン・ロッベンとの1対1をビッグセーブで凌ぐ。その後、延長でアンドレス・イニエスタが値千金の決勝ゴールを決め、スペインが歴史的なワールドカップ初優勝を達成。キャプテンとして、スペイン人では初めてワールドカップを掲げた栄誉を手にする。大会では決勝トーナメントに入ってから全試合を完封しており、レフ・ヤシン賞から名称を変えた大会最優秀GKであるゴールデングローブ賞の第1回受賞者となった。オランダ戦の試合後のインタビューでは、テレビカメラの前で恋人であるTVレポーターに熱烈なキスをして話題になる。
2011年11月15日のコスタリカ戦で代表通算127試合に伸ばし、スビサレッタの持つスペイン代表最多記録を更新する。2012年6月6日の中国戦での1-0での勝利によって74試合目の完封勝利として、エドウィン・ファン・デル・サールの持つ代表最多完封勝利を更新する。
2012年6月、ポーランドとウクライナで開催されたEURO2012に出場。この頃、レアル・マドリードとFCバルセロナの緊張状態が激化しており、両クラブに所属する選手の間でもロッカールームでの関係が悪化していた。このとき、カシージャスは中心となってカルレス・プジョル、シャビと共にチームが団結するよう選手たちの橋渡し役となり、チームを団結させることに成功する。大会では、初戦のイタリア戦で失点して以降はその後509分間ゴールを割らせず大会を通じての失点を1にとどめ、ディノ・ゾフの持つ欧州選手権無失点記録494分を更新。抜群の安定感によってスペインのメジャー大会3連覇に大きく貢献。
2014年6月、ブラジルで開催された2014 FIFAワールドカップに出場。この頃、所属するレアル・マドリードで出場機会が減っており、カシージャスに守護神を任せることに疑問視する声もあったが、ビセンテ・デル・ボスケ監督は信頼を崩さず、正キーパーを任せるのだった。ところが、初戦のオランダ戦でよもやの5失点を許し、大敗。第2戦のチリ戦でも0-2で敗れ、まさかの2試合でグループリーグ敗退が決まってしまう。低調なプレーが続いたことで第3戦のオーストラリア戦はレイナにポジションを奪われ、クラブと共に代表でも立場が揺らいだ瞬間となった。
2016年3月27日のルーマニアとの親善試合で欧州最多代表キャップ数となる166試合出場を達成。しかし、ブラジル・ワールドカップ以降はダビド・デ・ヘアが台頭したことで正キーパーの座を追われ、控えキーパーという地位に甘んじていた。2016年6月にフランスで開催されたEURO2016のメンバーにも入るが、レギュラーに起用されたのはデ・ヘアだったため出場機会は無かった。結局、大会直前のテストマッチである5月31日の韓国戦が最後の代表で出場した試合となった。2
| シーズン | 国 | クラブ | リーグ | 試合 | 得点 |
|---|---|---|---|---|---|
| 1998-99 | レアル・マドリードC | テルセーラ | 27 | 0 | |
| 1999-00 | レアル・マドリードB | セグンダB | 4 | 0 | |
| レアル・マドリード | リーガ・エスパニョーラ | 27 | 0 | ||
| 2000-01 | レアル・マドリード | リーガ・エスパニョーラ | 34 | 0 | |
| 2001-02 | レアル・マドリード | リーガ・エスパニョーラ | 25 | 0 | |
| 2002-03 | レアル・マドリード | リーガ・エスパニョーラ | 38 | 0 | |
| 2003-04 | レアル・マドリード | リーガ・エスパニョーラ | 37 | 0 | |
| 2004-05 | レアル・マドリード | リーガ・エスパニョーラ | 37 | 0 | |
| 2005-06 | レアル・マドリード | リーガ・エスパニョーラ | 37 | 0 | |
| 2006-07 | レアル・マドリード | リーガ・エスパニョーラ | 38 | 0 | |
| 2007-08 | レアル・マドリード | リーガ・エスパニョーラ | 36 | 0 | |
| 2008-09 | レアル・マドリード | リーガ・エスパニョーラ | 38 | 0 | |
| 2009-10 | レアル・マドリード | リーガ・エスパニョーラ | 38 | 0 | |
| 2010-11 | レアル・マドリード | リーガ・エスパニョーラ | 35 | 0 | |
| 2011-12 | レアル・マドリード | リーガ・エスパニョーラ | 37 | 0 | |
| 2012-13 | レアル・マドリード | リーガ・エスパニョーラ | 19 | 0 | |
| 2013-14 | レアル・マドリード | リーガ・エスパニョーラ | 2 | 0 | |
| 2014-15 | レアル・マドリード | リーガ・エスパニョーラ | 32 | 0 | |
| 2015-16 | FCポルト | プリメーラ・リーガ | 32 | 0 | |
| 2016-17 | FCポルト | プリメーラ・リーガ | 33 | 0 | |
| 2017-18 | FCポルト | プリメーラ・リーガ | 20 | 0 | |
| 2018-19 | FCポルト | プリメーラ・リーガ | 31 | 0 | |
| 2019-20 | FCポルト | プリメーラ・リーガ | - | - |
2020年12月22日、レアル・マドリードのフロントにアシスタント・ゼネラル・ディレクターの役職で復帰したことが発表される。
183cmと体格に恵まれていないものの、超人的な反射神経と、確かなセービング技術で数々のビッグセーブを見せてきた現代を代表するゴールキーパーの一人。無闇に飛び出すのではなく、冷静にゴール前で準備を整え、相手のシュートコースを読んで反応するシュートストップを得意とした「静」のタイプのGK。
特に全盛期は驚くべき運動能力を発揮し、読みに頼らず、優れた反射神経と的確な判断でシュートに対応するタイプだった。常に冷静にゴール前でポジションを整え、飛び出しすぎずリスクを最小限に抑え、相手との1対1の局面においても相手との距離を冷静に計り、相手の出方を見てからの後出しで判断をし、脅威的な瞬発力を駆使したセービングでシュートを止める。特に至近距離からのシュートを止めることに絶対の自信を持っており、足を使ったセービングも得意としていた。その歴代最強ともいわれる瞬発力を活かし、PKストッパーとしても名高い。
プレーの優先事項としては、相手にシュートを打たせないことを最優先とし、シュートを打たれてもポジショニングと読みとコーチングで正面にシュートさせる。リーダーシップの高さも際立っており、最後尾からチームのバランスや動きを分析しつつ味方に的確な指示を出し、スター軍団のレアル・マドリードやスペイン代表でも精神的支柱としても一目置かれる存在となっていた。
一方でゴールキックやパントキックといった足元の技術に関しては不安を見せる。この欠点は本人も認めるところであり、幼少期にキックの技術を教わらなかったことが原因とのこと。一方でスローイングの精度は非常に高く、ピッチの深い位置まで正確にボールを届けることができた。一方、小柄なこともあってクロスボールへの対応はずっと課題とされており、レアル・マドリードでの晩年にディエゴ・ロペスにポジションを奪われた原因にも挙げられている。
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掲示板
7 ななしのよっしん
2016/12/25(日) 13:39:56 ID: OhvHnbEfcG
この人は人生押せ押せしかなかったのが珠に傷だったね
レアルのトップ(オーナー)に上り詰めるという野心を隠そうともせず
そのレアルはおろかスペインの至宝のラウルの事も非難しまくって
最終的に老害の極みとクラブに印象づけて追い出させたし
ちょっとは退く事も考えるべきやったね
8 ななしのよっしん
2017/03/02(木) 21:32:06 ID: L/Gy40LT9g
2002W杯スペイン代表
「げげ、正GKカニサレスがスぺったぁぁぁぁぁぁ」
「仕方ない、カシージャスを追召喚しよう」
・・・・・他のチームブチ切れるぞwwwwwww
9 ななしのよっしん
2022/10/09(日) 23:00:38 ID: izN2vYo5uZ
マドリーとスペイン代表のレジェンドであるイケル・カシージャスがゲイを公表
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最終更新:2025/12/06(土) 07:00
最終更新:2025/12/06(土) 06:00
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