イケル・カシージャス 単語


ニコニコ動画でイケル・カシージャスの動画を見に行く

イケルカシージャス

1.2万文字の記事

イケル・カシージャス(Íker Casillas Fernández, 1981年5月20日 - )とは、スペインの元サッカー選手である。元サッカースペイン代表愛称イケルSan Íker)。

現役時代のポジションGK184cm84kg。利き足は左足。

概要

スペインマドリード州モストレス出身。キーパーとしては185と小柄だが、人的な反射神経と俊敏な動きで、数々のビッグセーブを生み出してきたスペインの絶対的守護神。レアル・マドリードスペイン代表でキャプテンを務め、数々の栄をもたらしたレジェンドであり、神業のようなプレーで「サン・イケル(イケル)」と呼ばれた。

レアル・マドリードの下部組織で育ち、18歳トップチームデビュー。19歳で正守護神に定着すると、「銀河系軍団」と呼ばれたチームにあって16シーズン公式725試合に出場。リーガ・エスパニョーラを5度、コパ・デル・レイを2度、UEFAチャンピオンズリーグを3度制覇など18のタイトルを獲得。また、サモラ賞や欧州最優秀GK賞など、いくつもの個人タイトルにもいた。

スペイン代表にも19歳でデビューし、若くして正守護神に定着。FIFAワールドカップには4大会で正守護神を務め、2010 FIFAワールドカップではスペイン歴史的な初優勝に貢献し、キャプテンとして優勝トロフィを掲げている。また、UEFA欧州選手権でも2008年2012年の連覇のときにキャプテンを務め、メジャー大会3連覇の偉業に大きな役割を果したスペイン代表黄金時代徴的な存在の一人となった。

経歴

生い立ち

1981年5月20日マドリー郊外モストレスに生まれ、公務員美容師、7つ下のという4人家族で育つ。ファーストネームであるイケルはバスク人名であるが、母親が音のきを気に入って名付けたという。ボール遊びをしていた頃からGK興味を持ち、少年時代マンチェスター・ユナイテッドで活躍するピーター・シュマイケルに憧れていたという。

1990年に9歳でレアル・マドリードの下部組織に入団し、「ラ・ファブリカ」と呼ばれる下部組織に入団。GKとしては小柄な体格だったが、猛練習を重ねて厳しい生存競争に勝ち残っていき、スペイン内でも有数の有望として頭を現す。

まだ高校在学中の16歳だった1997年11月27日UEFAチャンピオンズリーグローゼンボリBK戦に招集される。流石試合に出場はしなかったものの、彼の底知れないポテンシャルの高さを物語る出来事となった。

1998-99シーズンは4部リーグにあたるテルセーラ・ディビシオンに所属するレアル・マドリードCでプレーし、26試合に出場してリーグ優勝に貢献。

レアル・マドリード

1999-00シーズン開幕当初はレアル・マドリードBの正守護神としてプレーしていたが、トップチームの正守護神であるボド・イルクナーの負傷離脱によってトップチームに昇格。すると、9月12日に行われたリーガ・エスパニョーラ第3節アスレティック・ビルバオ戦でスタメンに抜され、プロデビューを果たす。ちなみに18歳でのプロデビューGKとしてはクラブ最年少記録となった。9月15日にはCLグループステージのオリンアコス戦でゴールを任され、GKの大会最年少出場記録立する。その後一度はアルバノ・ビサーリにポジションを譲ることになるが、ビサーリが不安定だったことから12月に再びスタメンに名を連ねるとそのままレギュラーに定着。2000年5月24日に行われたCL決勝・バレンシアCF戦では史上最年少の19歳4日でスタメン出場し、見事完封することで優勝に貢献。プロ1年ビッグイヤー獲得を経験し、リーガ最優秀新人に与えられる ”ブラヴォー賞” にも選ばれる。

2000-01シーズンは引き続きイルクナーが長期離脱したままだったこともあり、新加入のセサルサンチェスポジションを争うことになるが、この争いを制して「銀河系軍団」の正ゴールキーパーを務めることになる。リーガでは34試合公式戦全体で37試合出場とほとんどの試合ゴールを任されていた。

2001-02シーズンも正キーパーとしてピッチに立ち、もはや将来は約束したかと思われたが、シーズン中にスランプに陥り、ミスを連発するようになる。シーズン後半戦になると、ついにレギュラーの座を剥奪されてしまい、ライバルのセサルポジションを明け渡すことに。チームCLノックアウトステージを勝ち抜き、ファイナルに進出するが、その間カシージャスはベンチで試合を見守るだけとなっていた。決勝のバイヤー・レヴァークーゼン戦でもゴールを守ったのはセサルであり、ベンチからのスタートとなった。前半でマドリーリードを奪って迎えた後半23分セサルが負傷によってピッチを後にし、急きょゴールを任されることになる。すると、レヴァークーゼンの猛攻に対してファインセーブを連発。特に試合終了間際のディミタール・ベルバトフの至近距離からのシュートを立て続けに防いだセービングはまさに圧巻だった。大舞台きを取り戻し、2シーズンぶり9回ビッグイヤー獲得に貢献。この試合プレーによってビセンテ・デルボス監督の信頼を取り戻し、レギュラーの座に返り咲く。

2002-03シーズン銀河系軍団の守護神としてリーガでは全38試合に出場。不動の守護神の座を手にし、チームの2シーズンぶりのリーガ優勝に貢献する。だが、スターを次々と買い漁っていた銀河系軍団バランスが悪くなり、2003-04シーズンフェルナンド・イエロクロード・マケレレを放出した煽りを受けて失点が増えてしまう。再三のビッグセーブチームを救っていたものの、流石GK一人でどうにかできるような状況ではなく、自己ワーストとなる50失点を許し、冠に終わる。2004-05シーズン2005-06シーズンでも悪い流れは変わらず、個人としては奮闘していたもののチームタイトルから遠ざかり、銀河系軍団は衰退から崩壊へと向かっていく。

2006-07シーズンは守備を重視するファビオ・カペッロ監督が就任したことで負担が軽減。自身にとって3度となるリーガ優勝を果たす。2007-08シーズンは開幕から絶好調を維持し、2008年2月にはクラブと「生涯契約」ともいえる長期の契約延長を交わす。チーム内でもラウール・ゴンザレスやグティと共に重鎮といえる立場となり、シーズン中の失点リーグ最少となる32失点で抑え、自身にとっては初となるサモラ賞を受賞し、リーガ連覇に貢献。2008年にはカシージャスにバロンドールめる署名まで起こり、1万人の署名が集まった。

2008-09シーズンにはリーガで全試合に出場。このシーズンスペイン代表でEURO2008優勝を果たした直後ということもあり、カシージャスの選手としての地位は大きく跳ね上がっていた。2008年の移籍市場マンチェスター・シティはカシージャス引き抜きの為に違約金として史上最高額となる約175億円を用意したが、カシージャスはこの申し出を断る。2009年2月7日のラシンサンタンデール戦で、フランシスコブーヨが保持していたクラブゴールキーパー最多出場記録(454試合)を27歳にして更新。しかしチーム監督交代もあって不安定な状態にあり、キャリアワーストとなる52失点を許している。

クリスティアーノ・ロナウドが加入した2009-10シーズン2009年10月4日セビージャFC戦でゴール前を縦横尽に駆け抜け、近距離で1対1の場面でディエゴ・ペロッティシュート阻止するという驚異的なセーブを見せる。このプレーに対して、往年の名GKであるゴードンバンクスから「史上最高のGKの一人」と評される。11月25日FCチューリッヒ戦で、11人となるUEFAチャンピオンズリーグ通算100試合出場を達成。しかし、チームジョゼップ・グアルディオラ監督率いるFCバルセロナの勢いを止められずにリーガ2位に終わり、CLでは6シーズン連続ベスト16とタイトルから遠ざかっていた。

2010-11シーズンキャプテンラウール・ゴンザレスと第2キャプテンのグティってチームを去ったことからレアル・マドリードキャプテンに任命される。2010年12月12日レアルサラゴサ戦でレアル・マドリード史上9人GKとしては初のリーグ400試合出場を果たす。2011年4月9日ビルバオ戦では3-0で完封勝利し、ブーヨの持っていた通算失点試合数のクラブ記録に並ぶ。このシーズンは宿敵バルサリーガ、コパ・デルレイCLと3つのコンペディションでタイトルを争うこととなったが、コパ・デル・レイ決勝では、ラスト15分の間にリオネル・メッシペドロ、アンドレス・イニエスタらのシュートを3度スーパーセーブで防ぐなどの守りを見せ、10年以上のキャリアで1度も手にしたことのなかったコパ・デル・レイのタイトルを獲得。

2011-12シーズンクリスティアーノ・ロナウドベンゼマらを擁した「新・銀河系軍団」を後方から支え、2012年1月22日アスレティック・ビルバオ戦でレアル・マドリードでの通算600試合出場を達成した。5月2日ビルバオ戦で3-0の勝利を収め、リーグ史上最多となる121得点と勝ち点100記録してのリーガ優勝を果たす。自身にとって5度リーガ制覇はキャプテンとなってから初の栄冠となった。しかしこの時期、緊状態がしくなっていたバルサのとの和解のため、シャビ・エルナンデスカルレス・プジョルら代表でのチームメイトに直接電話をかけ謝罪をしたと報じられたこと、人がクラブ内情を暴露したことなどからジョゼ・モウリーニョ監督との確執が囁かれるようになる。

2012-13シーズンも例年通り正守護神としてピッチに立っていたが、メディアからはロッカールームでの選手たちの閥による対立が連日報じられるようになっていた。そして2012年12月22日リーガマラガ戦においてモウリーニョ監督はカシージャスをスタメンから外し、若手のアントニオアダンを起用。これによってモウリーニョ監督との確執を煽る報道は加速していく。そんな折、タイミング悪く2013年1月23日のコパ・デル・レイ準々決勝のバレンシア戦にてアルバロ・アルベロアとの接触により左手骨折し、長期離脱を余儀なくされてしまう。負傷から復帰した後も、緊急補強されたディエゴロペスが正GKに定着したため、出場機会が得られない状況が続き、モウリーニョ監督との確執は決定的なものとなっていた。

2013-14シーズンモウリーニョ監督が退任し、カルロ・アンチェロッティ監督が就任。しかしアンチェロッティ監督ディエゴロペスリーガの守護神とし、カシージャスをCLとコパのカップ戦の守護神とするローテーションを採用。そのためリーガではデビュー以来最低となる2試合の出場に留まる。一方、正キーパーを任されたCLでは9試合連続クリーンシートを達成するなど相変わらずの働きを見せていた。そして、2014年5月24日マドリード・ダービーとなったCL決勝のアトレティコ・マドリード戦では自らのミスによって先制ゴールを許したものの、逆転勝利により自身3度となる欧州制覇を果たし、キャプテンとして初めてビッグイヤーを掲げる。

2014-15シーズンディエゴロペスが移籍し、実力者のケイラー・ナバスが加入するが、開幕戦でスタメンで起用され、その後は正キーパーの座を取り返す。2014年12月20日ヨーロッパ王者として出場したFIFAクラブワールドカップ2014決勝のサン・ロレンソ戦ではレアル・マドリード優勝に貢献し、この試合で史上3人となるクラブ通算700試合出場を達成。だが、クラブロッカールームでの力の強さを危険視したフロレンティーノ・ペレス会長との確執が生じ、ペレスから寵を受けた選手たちとも対立するようになったことでチーム内で次第に孤立援となっていた。そのため、このシーズンを最後に16シーズンを過ごしたレアル・マドリードを追われるように退団。退団会見では、ペレス会長をはじめとしたクラブ関係者は姿を見せずに一人で会見をおこなうという、クラブの長年の功労者に対するものとは思えないものとなった。

ポルト

2015年7月11日ポルトガルプリメイラ・リーガFCポルトに移籍することが発表される。開幕からレギュラーとしてプレーすると、9月29日CLグループステージチェルシーFC戦で同大会152試合の出場となり、シャビを抜いての最多出場記録更新10月20日のマッカビテルアビブFC戦でCL51回クリーンシート失点試合)を達成し、こちらもエトヴィン・ファン・デル・サールの持つ最多記録を塗り替える。2015-16シーズンミスにより批判を受けたこともあったが、公式戦40試合に出場し、健在ぶりを見せ、「終わったGK」という評価を覆す。

2016-17シーズンCL記録を作り出す。2016年10月18日グループステージ第3節のクラブブルッヘに出場し、同試合勝利したことでCL通算92勝を記録CL通算勝利数単独1位に立つ。2017年3月14日チャンピオンズリーグユヴェントスFC戦でUEFA催大会通算175試合の出場となり、パオロ・マルディーニの174試合えて歴代最多出場となる。シーズン2年シーズンを通してゴールを守ったが、リーグ戦ではベンフィカに及ばず2位となる。

2017-18シーズンは開幕からまさかのリーグ戦ではスタメン落ちとなり、レアル・マドリードでの晩年と同様にCLカップ戦が戦場となった。その背景にはクラブの財政難からポルト1月の移籍市場で、高年俸のカシージャスの放出を望んでいるからだとされていた。それでもシーズン半ばにはポジションを取り戻すと、全盛期を思わせる高いパフォーマンスチームの守備を引き締める。2018年4月2日CFレネセス戦の出場により、キャリア通算1000試合出場を達成。この年のポルトは序盤から首位を走り続け、5シーズンぶりとなるリーグ優勝を達成。自身にとってはポルト移籍後の初タイトルとなった。シーズン終了後、クラブとの契約を1年延長する。

2018-19シーズンは開幕から正キーパーとして出場し、2018年9月18日CL開幕戦に出場したことでライアン・ギグスの持っていた記録を塗り替え、20シーズン連続でのCL出場を果たす。公式戦42試合に出場し、まだまだ現役としてやっていけることを明したのだが・・・。2019年5月1日練習中に心臓発作を起こして病院に搬送。一命は取り留めるも、健康上の不安からプレーを休止することになり、現役引退の可性も報じられる。

2019-20シーズンは選手登録を見送り、スタッフとしてチームを支えることが発表される。シーズン中に復帰をして練習を再開したものの、結局ピッチに戻ることはわず、2020年7月2日契約満了となりポルトを退団。3日後の8月4日、自身のX上で正式に現役引退を発表。

スペイン代表

1996年U-15スペイン代表に選出され、ウェンブリースタジアムのイングランド戦に後半から出場したのが初の代表戦となった。16歳のときにU-17スペイン代表に選ばれ、1997年UEFA U-17欧州選手権に優勝エジプトで開催されたFIFA U-17世界選手権にはキャプテンとして出場。正キーパーとして3位入賞に貢献している。1999年ナイジェリアで開催されたFIFAワールドユース選手権1999優勝したU-20スペイン代表のメンバーでもあるが、このときはセカンドキーパーだった。

2000年6月レアル・マドリードでの活躍に認められフル代表に初めて招集されると、6月3日スウェーデンとの試合で19歳と14日の若さスペイン代表デビューを果たす。だが、この試合では試合開始11分でPKを与えてしまうほろ苦いものとなった。同年9月からの2002年ワールドカップ欧州予選では正キーパーのサンティアゴ・カニサレスと併用される形で起用されていた。

2002年6月日本韓国で開催された2002 FIFAワールドカップでは、大会直前にアフターシェーローションを足に直撃させて負傷するという失態を犯したカニサレスに代わり第1GKとして出場。ラウンド16のアイルランド戦ではPKを試合中に1本、PK戦で2本止め、スペインベスト8に導いた。その先であんな酷いに遭うとは予想にもしてなかったであろう・・・。準々決勝の韓国戦では、審判団のホスト贔屓の判定に苦しめられながらパク・チソンやイ・チョンスの決定的なシュートビッグセーブぐ活躍を見せたが、PK戦ではことごとく読みを外され、敗退となる。

その後は代表の正守護神に定着し、2004年6月ポルトガルで開催されたEURO2004に出場。全試合ゴールを守り、グループリーグ3試合で2失点好プレーを見せたが、得点力不足に泣いたチームグループリーグで姿を消すことに。

2006年6月ドイツで開催された2006 FIFAワールドカップに副キャプテンとして出場。ラウール・ゴンサレスがスタメンを外れた最初の2試合ではキャプテンマークを巻いて出場し、安定したセービングを見せる。消化試合となった第3戦は温存され、ラウンド16のフランス戦でスタメンに復帰。スペインが有利と見られた試合だったが、前半を1点を先制した後に2失点を許して逆転されると、試合終了間際にはレアル・マドリードチームメイトであるジネディーヌ・ジダンにダメ押しの3点を奪われて敗退となる。

2008年6月オーストリアスイスで開催されたEURO2008に出場。ラウールメンバーから外れたため、この大会から正式なスペイン代表のキャプテンに任命される。グループリーグ初戦のロシア戦、第2戦のスウェーデン戦では安定したプレー勝利に貢献。第3戦のギリシャ戦は消化試合となったため温存となる。準々決勝のイタリア戦ではポゼッションで圧倒しながらゴールを決められず、PK戦に突入。イタリアの守護神ジャンルイジ・ブッフォンとの対決となったが、ダニエレ・デ・ロッシとアントニオ・ディ・ナターレの2本を止める活躍でチームベスト4へと導く。その後、準決勝のロシア戦、決勝のドイツ戦で2試合連続クリーンシートを達成し、スペインの44年ぶり2度優勝に貢献。UEFA欧州選手権トロフィーキャプテンとして掲げた初のGKとなる。最終的に大会を通して失点したのはグループリーグ第2戦のスウェーデン戦のみであり、守備に安定感をもたらし、UEFA選定の大会優秀キーパー賞に選出される。

2008年10月ペペ・レイナと共にアンドニ・スビサレッタとフランシスコブーヨが作り、長い間破られることがなかったスペイン代表の連続失点記録(710分)を更新2009年9月5日2010 FIFAワールドカップ欧州予選ベルギー戦に5-0で勝利し、スビサレッタが保持するスペイン代表の失点試合数56試合に並ぶと9月9日エストニア戦を失点に抑え、新記録となる57回完封を達成。11月14日にはアルゼンチンとの試合に出場し、ゴールキーパーとしては過去にスビサレッタしか果たしていないスペイン代表100試合出場を達成。

2010年6月南アフリカで開催された2010 FIFAワールドカップに出場。欧州王者として優勝補に挙げられていたスペインだったが、グループリーグ初戦のスイス戦でまさかの初戦でが付いてしまう。この試合失点ミスを犯したことで批判を受けるが、すぐに立て直しに成功し、第2戦のホンジュラス戦と第3戦のチリ戦を1失点で乗り切り連勝。決勝トーナメントに入るとさらに安定感を増し、ラウンド16のポルトガル戦ではクリスティアーノ・ロナウド回転FKを弾き出し、準々決勝のパラグアイ戦ではオスカル・カルドソのPKをキャッチでセーブ、準決勝では強ドイツを相手に3試合連続のクリーンシートを達成し、スペイン代表を初のファイナル進出へと導く。決勝はともに初優勝を賭けたオランダと対戦。前半終了間際と後半17分のアリエン・ロッベンとの1対1をビッグセーブぐ。その後、延長でアンドレス・イニエスタが値千金の決勝ゴールを決め、スペイン歴史的なワールドカップ優勝を達成。キャプテンとして、スペイン人では初めてワールドカップを掲げた栄誉を手にする。大会では決勝トーナメントに入ってから全試合完封しており、レフ・ヤシン賞から名称を変えた大会最優秀GKであるゴールデングローブ賞の第1回受賞者となった。オランダ戦の試合後のインタビューでは、テレビカメラの前で人であるTVレポーターに熱キスをして話題になる。

2011年11月15日コスタリカ戦で代表通算127試合に伸ばし、スビサレッタの持つスペイン代表最多記録更新する。2012年6月6日中国戦での1-0での勝利によって74試合完封勝利として、エドウィン・ファン・デル・サールの持つ代表最多完封勝利更新する。

2012年6月ポーランドウクライナで開催されたEURO2012に出場。この頃、レアル・マドリードFCバルセロナの緊状態が化しており、両クラブに所属する選手の間でもロッカールームでの関係が悪化していた。このとき、カシージャスは中心となってカルレス・プジョルシャビと共にチーム団結するよう選手たちの渡し役となり、チーム団結させることに成功する。大会では、初戦のイタリア戦で失点して以降はその後509分間ゴールを割らせず大会を通じての失点を1にとどめ、ディノ・ゾフの持つ欧州選手権失点記録494分を更新。抜群の安定感によってスペインメジャー大会3連覇に大きく貢献。

2014年6月ブラジルで開催された2014 FIFAワールドカップに出場。この頃、所属するレアル・マドリードで出場機会が減っており、カシージャスに守護神を任せることに疑問視するもあったが、ビセンテ・デル・ボス監督は信頼を崩さず、正キーパーを任せるのだった。ところが、初戦のオランダ戦でよもやの5失点を許し、大敗。第2戦のチリ戦でも0-2で敗れ、まさかの2試合グループリーグ敗退が決まってしまう。低調なプレーが続いたことで第3戦のオーストラリア戦はレイナポジションを奪われ、クラブと共に代表でも立場が揺らいだ間となった。

2016年3月27日ルーマニアとの試合欧州最多代表キャップ数となる166試合出場を達成。しかし、ブラジルワールドカップ以降はダビド・デ・ヘアが台頭したことで正キーパーの座を追われ、控えキーパーという地位に甘んじていた。2016年6月フランスで開催されたEURO2016メンバーにも入るが、レギュラーに起用されたのはデ・ヘアだったため出場機会はかった。結局、大会直前のテストマッチである5月31日韓国戦が最後の代表で出場した試合となった。2

スペイン代表通算167試合出場。

個人成績

シーズン クラブ リーグ 試合 得点
1998-99 レアル・マドリードC テルセーラ 27 0
1999-00 レアル・マドリードB セグンダB 4 0
レアル・マドリード リーガ・エスパニョーラ 27 0
2000-01 レアル・マドリード リーガ・エスパニョーラ 34 0
2001-02 レアル・マドリード リーガ・エスパニョーラ 25 0
2002-03 レアル・マドリード リーガ・エスパニョーラ 38 0
2003-04 レアル・マドリード リーガ・エスパニョーラ 37 0
2004-05 レアル・マドリード リーガ・エスパニョーラ 37 0
2005-06 レアル・マドリード リーガ・エスパニョーラ 37 0
2006-07 レアル・マドリード リーガ・エスパニョーラ 38 0
2007-08 レアル・マドリード リーガ・エスパニョーラ 36 0
2008-09 レアル・マドリード リーガ・エスパニョーラ 38 0
2009-10 レアル・マドリード リーガ・エスパニョーラ 38 0
2010-11 レアル・マドリード リーガ・エスパニョーラ 35 0
2011-12 レアル・マドリード リーガ・エスパニョーラ 37 0
2012-13 レアル・マドリード リーガ・エスパニョーラ 19 0
2013-14 レアル・マドリード リーガ・エスパニョーラ 2 0
2014-15 レアル・マドリード リーガ・エスパニョーラ 32 0
2015-16 FCポルト プリメーラ・リーガ 32 0
2016-17 FCポルト プリメーラ・リーガ 33 0
2017-18 FCポルト プリメーラ・リーガ 20 0
2018-19 FCポルト プリメーラ・リーガ 31 0
2019-20 FCポルト プリメーラ・リーガ - -

個人タイトル

引退後

2020年12月22日レアル・マドリードフロントアシスタントゼネラルディレクターの役職で復帰したことが発表される。

プレースタイル

183cmと体格に恵まれていないものの、人的な反射神経と、確かなセービング技術で数々のビッグセーブを見せてきた現代を代表するゴールキーパーの一人。闇に飛び出すのではなく、冷静にゴール前で準備を整え、相手のシュートコースを読んで反応するシュートストップを得意とした「静」のタイプGK

特に全盛期は驚くべき運動力を発揮し、読みに頼らず、優れた反射神経と的確な判断でシュートに対応するタイプだった。常に冷静にゴール前でポジションを整え、飛び出しすぎずリスクを最小限に抑え、相手との1対1の局面においても相手との距離を冷静に計り、相手の出方を見てからの後出しで判断をし、脅威的な発力を駆使したセービングでシュートを止める。特に至近距離からのシュートを止めることに絶対の自信を持っており、足を使ったセービングも得意としていた。その歴代最強ともいわれる発力を活かし、PKストッパーとしても名高い。

プレーの優先事項としては、相手にシュートを打たせないことを最優先とし、シュートを打たれてもポジショニングと読みコーチングで正面にシュートさせる。リーダーシップの高さも際立っており、最後尾からチームバランスや動きを分析しつつ味方に的確な示を出し、スター軍団レアル・マドリードスペイン代表でも精神的支柱としても一置かれる存在となっていた。

一方でゴールキックパントキックといった足元の技術に関しては不安を見せる。この欠点は本人も認めるところであり、幼少期にキックの技術を教わらなかったことが原因とのこと。一方でスローイングの精度は非常に高く、ピッチの深い位置まで正確にボールを届けることができた。一方、小柄なこともあってクロスボールへの対応はずっと課題とされており、レアル・マドリードでの晩年にディエゴロペスポジションを奪われた原因にも挙げられている。

人物・エピソード

関連動画

関連項目

この記事を編集する
関連記事

親記事

子記事

  • なし

兄弟記事

掲示板

おすすめトレンド

ニコニ広告で宣伝された記事

記事と一緒に動画もおすすめ!
[単語]

提供: ジュースのストロー

もっと見る

急上昇ワード改

最終更新:2025/12/06(土) 07:00

ほめられた記事

最終更新:2025/12/06(土) 06:00

ウォッチリストに追加しました!

すでにウォッチリストに
入っています。

OK

追加に失敗しました。

OK

追加にはログインが必要です。

           

ほめた!

すでにほめています。

すでにほめています。

ほめるを取消しました。

OK

ほめるに失敗しました。

OK

ほめるの取消しに失敗しました。

OK

ほめるにはログインが必要です。

タグ編集にはログインが必要です。

タグ編集には利用規約の同意が必要です。

TOP