ディエゴ・マラドーナ(Diego Maradona, 1960年10月30日 - 2020年11月25日)とは、アルゼンチンのサッカー選手、監督である。サッカー史にその名を残す天才的プレイヤーである。
元サッカーアルゼンチン代表。
ポジションはFW、MF。165cm69kg(現役時代)。利き足は左足。
アルゼンチン・ブエノスアイレス州ラヌース出身。フルネームはディエゴ・アルマンド・マラドーナ。おもな愛称は「神の子(El Pibe de Oro)」、「毛深い奴(Pelusa)」、「黄金の少年(Barrilete Cósmico)」。
1980年代を代表するサッカーの世界的スーパースター。史上最高のサッカー選手、あるいはスポーツ史上最も偉大な選手と評されている。ボールコントロール、スピード、視野の広さ、ボディバランスを兼ね備えており、ドリブル、パス、シュートどれもが並外れていた。
1976年に15歳でアルヘンティノス・ジュニアーズでプロとしてデビュー。1981年にボカ・ジュニアーズ、1982年にFCバルセロナに移籍。1984年から所属したSSCナポリでは2度のスクデットにUEFAカップ優勝をもたらすなどクラブの黄金期を築く活躍を見せている。キャリアの晩年は母国のボカ・ジュニアーズでプレーし、1997年に現役引退。
代表には、1977年に16歳でデビュー。1982年、1986年、1990年、1994年のワールドカップに参加。とくに1986年のメキシコワールドカップでは圧倒的な活躍をし、アルゼンチンを優勝に導いた。準々決勝のイングランド戦での「5人抜き」と「神の手」のゴールはとても有名であり、サッカーの伝説として後世にまで語り継がれている。
現役時代から、コカインや薬物の摂取で問題を起こしており、1994 FIFAワールドカップでドーピング違反で追放処分を受けている。引退後も薬物依存、肥満などに苦しみ一時は危篤状態に陥った。
2009年からアルゼンチン代表監督を務めている。2010 FIFAワールドカップ南米予選ではチームは苦戦し4位で通過。4位を決めた試合後の会見でとても下品な侮辱発言をし、問題になった。
1960年10月30日、ブエノスアイレス州南部のラヌースで8人兄弟の5番目の子として生まれる。父親はグアラニー族とガリシアの血をひいており、レンガ工場の作業員として大家族を支えていた。母親はイタリアとクロアチアの血をひいていた。家庭はけっして裕福ではなく、住んでいた掘立小屋にはぬいぐるみもゲームもなかったという。
3歳の頃、叔父からサッカーボールをプレゼントされたことをきっかけにサッカーを始めるようになる。そのプレゼントされたボールを盗まれないように枕の横に置いて肌身離さず一緒にいたほど大切にしていた。自宅近くにあるゴミ捨て場の近くでサッカーボールを蹴るようになり、すっかりサッカーに夢中になっていた。地元の小学校に入学してからは、友人と毎日ボールを蹴って遊んでいた。
8歳のときに地元のエストレラ・ロハというクラブに入団。本格的にキャリアをスタートさせると、ここですでに才能の片鱗を発揮する。9歳となった1969年3月、アルゼンチン国内でも名門クラブとして知られるアルヘンティノス・ジュニアーズのジュニアチームであるロス・セボリータスの練習に友人の推薦により参加することになる。練習のトレーニングマッチでコーチが驚くほどの卓越した動きを披露し、晴れてチームに加入する。
加入後のセボリータスは大差の連勝を続け、136試合とも151試合ともいわれる連続での無敗記録を樹立し、アルゼンチンサッカー史上最高のユースチームと評されるようになる。10歳のときにはプロリーグ戦のハーフタイムショーでリフティングを披露して拍手喝采を浴びるほどの技術を身に付け、現地の新聞で「将来有望な名手」として紹介される。また、人気バラエティ番組への出演を依頼され、サッカーボールだけでなくオレンジや空き瓶でのリフティングを披露している。こうして、すっかりセボリータスのスターとなったことで12歳のときに国内最大クラスの名門であるCAリーベル・プレートからオファーが届くが、クラブや父親が時期尚早だと反対したためセボリータスにとどまることになる。
13歳のとき、学校を辞めてサッカーに専念することを決意。このときにはすでに近い将来プロになることが約束されていた。アルゼンチン政府主催で行われた公式の大会で準決勝進出を果たした際には、マラドーナは新聞で「ペレの弟」と紹介されている。
1974年、アルヘンティノス・ジュニアーズのトップチーム昇格を果たす。彼に対するクラブからの期待値は尋常ではなく、15歳の誕生日にはクラブから大家族全員が住めるほどの大きなアパートが提供されている。また、エル・ピベ・デ・オロ(ゴールデンボーイ)という愛称を授かっている。
1976年10月20日、タジェレス・デ・コルドバ戦において当時アルゼンチン・プリメーラ・ディビシオン最年少記録となる15歳11か月の若さでデビューを飾る。1点ビハインドの場面での途中出場となったが、投入後ゲーム全体の流れを変える動きを見せ、地元新聞から高い評価を得る。16歳となって2週間後の11月14日のCAサン・ロレンソ戦でプロ初ゴールを記録し、さらにもう1ゴールを決める大活躍を見せる。伝説のスタートとなったプロ1年目は11試合2得点という結果になった。
プロ2年目の1977年になると、本格的にレギュラーとしてプレーするようになる。すると、1977年に49試合19得点、1978年に35試合26得点、1979年も26得点を記録し、10代にしてすでにリーグでもトップレベルの選手へとステップアップしていく。1980年にはなんとシーズン43得点を記録。1978年から3年連続でリーグ得点王に輝き、1979〜1981年に3年連続でアルゼンチン年間最優秀選手賞、1979年〜1980年には2年連続で南米年間最優秀選手賞を受賞と国内のみならず南米でも個人タイトルを総なめにしてしまう。アルヘンティノス時代は5年間で166試合に出場して116ゴールを挙げている。
1981年2月13日、幼少期からの熱狂的なファンだったボカ・ジュニアーズへの移籍が決定。移籍金は400万ドルで当時では破格の金額であった。加入から2日後のタジェレス戦で早くもデビューすると、2ゴールという鮮烈なボカでのスタートを切る。4月10日、宿敵であるリーベル・プレートとのスーペル・クラシコでは、チームの全3得点を挙げる大活躍によって勝利に導く。この大一番での活躍によってサポーターの心を掴み、ボカのアイドルとなるのだった。その後もマラドーナの活躍は続き、40試合28得点という成績を残してチームをリーグ優勝へと導く。さらに、4年連続でのアルゼンチン年間最優秀選手賞を受賞。しかし、皮肉にもマラドーナの獲得に大金をつぎ込んだことでクラブの財政状況は悪化。自身も監督との関係があまり思わしくなく、20歳ながらすでにリーグ戦200試合以上に出場していたことで疲労がピークに達していた。その結果、心のクラブをわずか1年で去ることとなり、活躍の場を欧州へと移すのだった。
1982年6月4日、スペインの名門FCバルセロナへの移籍が決定。移籍金は当時の最高記録となる760万ドルとなった。南米トップの若きスターがやって来たということもあり、カンプノウでのお披露目にはクラブ新記録となる5万人が詰めかけた。1982-83シーズンの開幕戦となったバレンシアCF戦で早速移籍後初ゴールを決めると、シーズン序盤から期待通りの活躍を披露していく。しかし、初めて祖国を離れたこともあって度重なる夜遊びやコカイン使用疑惑でホセ・ルイス・ヌニェス会長との関係が悪化し始め、ウイルス性肝炎や鬱状態などの病気に悩まされるようになる。結局1年目のリーガ・エスパニョーラでは20試合11得点と最終的には期待値を下回る結果となった。一方、1983年6月26日、レアル・マドリードとのエル・クラシコとなったコパ・デルレイ決勝第1戦では敵地サンティアゴ・ベルナベウで驚くべき個人技からのゴールを決め、史上初めてマドリティスタから拍手を浴びたバルサの選手となる。ホームでの第2戦でもPKによるゴールを決め、チームにタイトルをもたらすのだった。
1983-84シーズンは状況がさらに悪化する。9月のアスレティック・ビルバオ戦でアンドニ・ゴイコエチェアからのタックルを受けて左膝腱を損傷、3か月欠場の重傷を負わされる。ピッチに戻ってきてからも他のチームからの執拗なマークとファウルに苦しめられ、ストレスを溜め込むこととなった。コパ・デルレイ決勝の因縁のビルバオ戦ではまたもや度重なる激しいマークによって終始自分のプレーをさせてもらえず、敗戦。イライラが頂点に達すると、試合終了直後にジャージ姿の相手選手の顔面に膝蹴りを見舞い、気絶させる。これが両チームの選手が入り乱れての乱闘騒ぎを引き起こし、ヌニェス会長との関係は最悪な状態に陥ってしまう。乱闘の処分によってスペインサッカー連盟からは3か月の出場停止処分を言い渡され、バルサとの関係は決裂。5年の契約延長を拒否したことからクラブは放出を決断する。
1984年6月19日、イタリア・セリエAのSSCナポリへの移籍が決定。移籍金は当時の最高金額となった1300万ドルとされている。7月5日にスタディオ・サン・パオロで行われたお披露目会見にはスタジアムに7万人のサポーターが駆け付け、マラドーナもヘリコプターからピッチに降り立つパフォーマンスで登場。当時のナポリは降格の危機に瀕するほど低迷していたが、マラドーナの加入でシーズンチケットは瞬く間に売れ、莫大の移籍金と給料を払ってもなおクラブの財政は潤ったのだった。
加入初年度の1984-85シーズンは、1984年8月22日のコッパ・イタリア、アレッツォ戦でゴールを決めるデビューを飾り、9月22日第2節のサンプドリア戦でPKからセリエA初ゴールを決め、ティフォシの期待に応えてみせる。イタリアでも相手からの執拗なマークを受けるが、徐々に慣れていくと攻撃の中心として躍動。2月24日のSSラツィオ戦では移籍後初のハットトリックを達成。セリエ1年目にして得点ランキング3位の14ゴールに9アシストを記録し、ナポリを8位にまで押し上げる。続く1985-86シーズンも11ゴール5アシストという数字を残し、強豪とは言えなかったナポリを3位にまで躍進させる。
そして、1986-87シーズン。世界王者となりキャリアの最高潮に達したマラドーナは、その勢いをナポリにも持ち込むのだった。ブルーノ・ジョルダーノ、アンドレア・カルネヴァーレと共に強力な攻撃陣を形成し、オッタヴィオ・ビアンキ監督からアルゼンチン代表のときと同様に自由を与えられたことで攻撃の全権を掌握し、そのプレーの一つ一つがナポリの街を熱狂させるのだった。マラドーナに率いられたナポリはこの年、クラブ創設以来初となるスクデットを獲得。さらにコッパ・イタリア決勝ではアタランタBCを破り、イタリア南部のクラブとしては初となるイタリア国内二冠を達成。サポーターからは「ナポリの王」と称され、市内の古い建物にはマラドーナの壁画が描かれ、生まれたばかりの子供たちには彼にちなんで名前が付けられた。
1987-88シーズンはブルーノ・ジョルダーノ、カレッカとの攻撃トリオは頭文字からマジカ(Ma・Gi・Ca、魔法)と呼ばれ、多彩な攻撃を披露するようになり、自身は15得点を決めてアルゼンチン人として初のセリエA得点王に輝いていた。もっとも、スクデット争いではアリーゴ・サッキ監督による革命的な戦術を採用したACミランに勝ち点3及ばず、2位となった。まさに絶頂期にあったマラドーナだったが、愛人が出産した子供を認知しなかったことで地元メディアから批判され、気分が不安定になっていた。
1988-89シーズンは負傷で試合を欠場する頻度が増え、監督やクラブ会長との確執も取り沙汰されるようになっていた。それでもピッチに立つと圧倒的な輝きを放ち続け、UEFAカップでは準決勝のバイエルン・ミュンヘン戦では1stレグ、2ndレグ共に2アシストずつを決め、決勝のVfBシュトゥットガルト戦では1stレグでゴールを決めると、2ndレグではチロ・フェラーラとカレッカのゴールをアシストし、チームを優勝へと導く。シーズンオフにはすでに二人の娘を授かっていたクラウディア・ビジャファーネと結婚。
20代最後のシーズンとなった1989-90シーズンは、カレッカとカルネヴァーレの力を引き出しながら自らも決定的な仕事をやってのけ、変わらず攻撃の全権を担っていた。チームの戦術はマラドーナそのものであり、当時のイタリア代表メンバーを中心にマラドーナを支える土台を固めていた。第25節のASローマ戦では、2ゴールを決め、2点目のゴールでナポリでの公式戦通算100ゴールを達成。チームはグランデ・ミランとの争いを制し、2度目のスクデットを獲得。
1990-91シーズンは、1990 FIFAワールドカップの大会中に地元サポーターとの関係が悪化。さらに、コカインの使用疑惑とマフィアとの関連性が連日報道され、マスコミから集中砲火を浴びせられていた。1991年3月24日、サンプドリア戦に出場しゴールを決めた後、ドーピング検査で陽性反応を示し<、ついにコカインの使用が発覚。4月26日にはブエノスアイレスで麻薬所持容疑で逮捕されている。この結果、15か月の出場停止処分が科せられ、セリエAでのプレーが不可能になってしまう。結局、ナポリに数々の栄光をもたらした英雄は喧嘩別れのような形で退団することになる。
1992年9月、アルゼンチン代表で長く共に戦ってきたカルロス・ビラルドが監督を務めるスペイン・リーガ・エスパニョーラのセビージャFCへ移籍。この移籍にはFIFAが交渉に介入していた。しかし、この頃のマラドーナは荒んだ生活や怠慢な練習態度が目立ち、次第にビラルド監督と対立するようになる。26試合5得点と期待外れの出来に終わり、1993年6月のレアル・ブルゴスCF戦で後半開始早々に交代を指示され激怒し、アルゼンチンに帰国する。
1993年10月、セビージャとの契約の残り期間に対して400万ドルを支払う条件でアルゼンチンのニューウェルズ・オールドボーイズに移籍。契約問題のこじれからニューウェルズでは7試合しか出場できず、練習不参加や試合欠場などの理由により1994年2月に解雇される。2月3日にはブエノスアイレス郊外の別荘へ、所属クラブとの契約解除問題を取材にきた報道陣へエアガンを発砲。4人が負傷し、執行猶予付き禁固2年の実刑判決を受ける。
その後、1994 FIFAワールドカップでのドーピング違反から再び15か月の出場停止処分を受けたこともあって1年半無所属の状態となる。この処分期間中、テクスティル・マンディユーとラシン・クルブの監督を短期間ながら務めている。
処分が解けた1995年10月、14年ぶりに古巣であるボカ・ジュニアーズに復帰する。ボカに復帰としての最初の試合はチームの韓国遠征に参加しての韓国代表との親善試合だった。なお、ボカ復帰後は髪にボカのシンボルカラーである金色のメッシュを入れてプレーし、クラブへの愛情を表現していた。
1996年にはリーグ戦で5本連続してPKを失敗し、引退騒動を起こした。スイスでの薬物依存症治療を経てボカと再契約し、1997年7月には公式戦に復帰。同年10月25日のスーペルクラシコへの出場を最後に、自身の37歳の誕生日となる10月30日に現役引退を発表。
プロデビューしてからわずか4か月でアルゼンチン代表に招集され、1977年2月16日のハンガリーとの親善試合に途中出場。フル代表の最年少記録となる16歳と4か月での代表デビューとなった。翌年に迫った自国開催の1978 FIFAワールドカップ出場にメディアやサポーターの期待値も日増しに高まっていたが、セサル・ルイス・メノッティ監督は「これから世界に飛躍する逸材をプレッシャーの懸かる重要な大会で潰す訳にはいかない」として最終的に大会登録22名のメンバーから外すことを決断。後にマラドーナはこの出来事を「人生に永遠に残る、決定的な、一番大きな失望だった」と振り返っている。
1979年6月2日、スコットランドとの親善試合で代表初ゴールを決める。
1979年9月にはU-20アルゼンチン代表のキャプテンとして日本で開催されたFIFAワールドユース選手権に出場。この大会でラモン・ディアスと共に圧倒的な輝きを放ち、グループリーグ初戦のインドネシア戦ではハットトリックを達成。第3戦のポーランド戦でも先制ゴールを決め、チームを3戦全勝でのグループリーグ突破に貢献。決勝トーナメントに入っても別格の存在感を見せつけ、準々決勝のアルジェリア戦、準決勝のウルグアイ戦でもゴールを決める。決勝のソ連戦でもダメ押しの3点目を決め、アルゼンチンを大会初優勝に導く。大会の得点王こそディアスに譲ったものの、6試合6ゴールという堂々たる活躍を見せたことで大会のMVPに選出。後に、このときのU-20代表について自画自賛するコメントを残しており、彼にとって充実していた時期であったことをうかがわせている。
その後、フル代表でも中心選手としての地位を確立させていき、1982年6月にスペインで開催された1982 FIFAワールドカップに出場。21歳の若さでメノッティ監督から10番を託され、大会の目玉選手の一人として注目されていた。
1次リーグでは前評判通りの活躍を見せ、初戦のベルギー戦には敗れたものの、第2戦のハンガリー戦ではワールドカップ初ゴールを含む2ゴールの活躍を披露している。
しかし、強豪揃いのグループに組み込まれた2次リーグで暗雲が漂うようになる。第1戦のイタリア戦では、クラウディオ・ジェンティーレの執拗なマークによって仕事をさせてもらえずに敗北。ストレスを抱えたまま挑んだ第2戦のブラジル戦でもファウル紛いの厳しいマークに苦しめられ、ジーコ率いる「黄金の中盤」が放つ輝きの前に霞んでしまっていた。試合終盤にはついにフラストレーションを抑えきれず、バチスタの下腹部を蹴る報復行為によって一発退場になってしまう。この試合も落としたアルゼンチンは2次リーグ敗退となり、結局、最初のワールドカップは不本意なままで終わってしまう。
ワールドカップ以降、所属するバルセロナでのトラブルの影響もあってしばらくの間、代表から遠ざかっていたが、1985年5月に3年ぶりに代表に復帰。監督のカルロス・ビラルドはマラドーナをキャプテンに指名し、マラドーナの個人能力を活かすためのチーム作りに舵を切る。当時、マラドーナと確執があったとされていたダニエレ・パサレラやラモン・ディアスを代表に呼ばず、逆にマラドーナと相性の良かったホルヘ・バルダーノやホルヘ・ブルチャガをチームの中心に置いた。
1986年6月、メキシコで開催された1986 FIFAワールドカップに出場。大会前は右膝の負傷を抱えており、チームも成績が思わしくなくメディアから「史上最弱」と評されていた。しかし、大会本番になるとそんな不安要素を全て一転させてしまう。グループリーグ初戦の韓国戦ではチームの3ゴールを全てアシストする活躍を見せれば、第2戦では前回王者イタリアを相手に同点となるボレーシュートを決める。第3戦のブルガリア戦でも1アシストを記録し、チームをグループリーグ首位に導く。
そして6月22日、アステカ・スタジアムでの準々決勝のイングランド戦は「マラドーナ伝説」を代表する試合となった。後半6分、ペナルティエリアに走りこんだマラドーナと浮き玉を処理しようとしたイングランドのGKピーター・シルトンと交錯したが、マラドーナは空中のボールを素早く左手ではたき、ボールはそのままゴールインした。シルトンをはじめイングランドの選手はマラドーナのハンドを主張したが、審判はマラドーナの得点を認める。これがいわゆる「神の手ゴール」である。そして、その4分後にさらなる伝説が生まれる。センターライン付近でパスを受けると、単独で60m近くを5人を抜きながらドリブルで駆け上がり、最後はキーパーのシルトンまでもかわして無人のゴールにシュートを決める。これが「世紀のゴール」と呼ばれる「5人抜きゴール」である。この2つの伝説のゴールシーンが生まれた試合は、後の時代にもたびたび語られ、映像化されるワールドカップ史に残る試合となった。
この大会のマラドーナを止めることはもはや不可能となっていた。準決勝のベルギー戦でも2ゴールを決め、決勝へ進出。決勝の西ドイツ戦では、ローター・マテウスのマークをものともせずに絶妙なラストパスによってブルチャガの決勝ゴールをアシスト。大会通算5ゴール5アシストの大車輪の活躍でアルゼンチンに2度目のワールドカップ優勝をもたらし、ディエゴ・マラドーナが世界の頂点に君臨することとなった。この大会は「マラドーナのマラドーナによるマラドーナのための大会」と称され、「たった一人の力で自国を優勝に導いたのは(1962年大会の)ガリンシャ(ブラジル)と1986年大会のディエゴ・マラドーナだけだ」と評されている。
1987年にアルゼンチンで開催されたコパ・アメリカでは、エクアドル戦での3-0の勝利を含む4試合で3得点を挙げたが、アルゼンチンは準決勝で最終的に優勝するウルグアイに0-1で敗れている。
1989年のブラジルで開催されたコパ・アメリカでは、6試合に出場したもののゴールは挙げられず、アルゼンチンは3位に終わっている。
1990年6月、イタリアで開催された1990 FIFAワールドカップではセリエAのシーズンの疲労と足首の負傷を抱えたまま大会に入り、グループリーグでは動きに精彩を欠き、チームも王様の不調が影響して初戦でカメルーン相手に敗れるなど、苦戦を強いられていた。そんな中、第2戦のソ連戦では陣ペナルティエリア内で手を使ってシュートを防ぐ2度目の「神の手」を見せ、アルゼンチンを敗退から救っている。
ラウンド16のブラジル戦では、ドリブルで相手4人を引きつけながら右足でクラウディオ・カニーヒアへ絶妙のパスを送り、決勝ゴールをアシスト。準々決勝のユーゴスラビア戦ではドラガン・ストイコビッチとの10番対決が注目された中、PK戦でPKを失敗したものの、セルヒオ・ゴイコエチェアの活躍によって救われている。準決勝のイタリア戦は、所属するナポリの本拠地であるサン・パオロで開催されたが、試合前にイタリアファンを煽るような発言をしたことや、PK戦で最後に蹴って勝利を決めたのがマラドーナであったことから、イタリア国民やナポリサポーターとの関係が悪化する。自身もサン・パオロでブーイングされたことに心を痛めたと語っている。
決勝の西ドイツ戦では、アルゼンチンの国歌吹奏に場内から大ブーイングが浴びせられ、カメラに向かって観客を侮辱する言葉を吐き捨てている。試合ではギド・ブッフバルトのマンマークによって試合からほとんど消されてしまい、アルゼンチンは攻撃の形を作れないままに敗戦。連覇を逃した悔しさから試合後には人目をはばからず号泣している。
1991年以降は薬物使用による長期の出場停止や相次ぐトラブルもあって代表から遠ざかっており、アルフィオ・バシーレ監督は新しい世代の選手を積極的に登用し、脱マラドーナのチーム作りを推し進めていた。しかし、1994 FIFAワールドカップ南米予選で不振に陥り、コロンビア相手に大敗して敗退の危機に直面したことから、オーストラリアとの大陸間プレーオフで代表に本格的に復帰する。
1994年6月にアメリカで開催された1994 FIFAワールドカップでは再びキャプテンに就任。33歳とベテランに差し掛かって4度目のワールドカップを迎えたが、カニーヒア、ガブリエル・バティストゥータと共に強力な攻撃陣を形成。グループリーグ第1戦のギリシャ戦では豪快なミドルシュートを決め、ワールドカップ通算8ゴール目を決める。続くナイジェリア戦でもアシストを記録し、好調なプレーを見せていたが・・・・。
ナジェリア戦後のドーピング検査でエフェドリンを含む5種類の禁止薬物が検出される。「2人の娘に誓って」身の潔白を主張したが、FIFAは大会からの追放と15か月の出場停止処分を受ける。これにより、華々しい代表でのキャリアに幕を閉じることとなった。
現役引退後は薬物依存や不摂生による体重増加などが原因で入院・手術などを繰り返し、必ずしも健康体とは言えない状態であった。
2000年1月4日、ウルグアイで休暇中に心臓発作を起こし、コカインが原因で心臓組織の38%しか機能していないことが判明する。お騒がせぶりも健在で、同年1月25日にはキューバでコカイン中毒の治療中、マスコミの車の窓ガラスを叩き割り、ケガを負わせている。
2001年1月10日、ボカ・ジュニアーズの本拠地ボンボネーラにおいて盛大な引退試合を開催。
2003年3月29日、クラウディア夫人と正式に離婚。自身の薬物乱用や育児放棄などもあり、娘たちとの間にはキスを拒まれるほど深刻な確執が存在していたが、その後和解している。
2004年4月、ボカ・ジュニアーズの試合を観戦中に突然倒れ、ブエノスアイレス市内の病院に緊急搬送される。一時は危篤状態にまで陥り、集中治療室で生死の境をさまよっていた。この頃の体重は122kgに達するほど激太りしていたが、回復後に胃切除術を受け、70kg台半ばまで減量している。また、この年に20歳のキューバ人女性と再婚している。
2005年6月22日、古巣ボカ・ジュニアーズにスポーツ担当副会長として復帰し、トップチームの選手管理を担当することが発表される。8月15日には自身がホストを務めるTV番組「10番の夜」がアルゼンチン国内でスタート。ちなみに初回のゲストとして招かれたのは長年確執が噂されたペレだった。
2006年8月26日、アルフィオ・バシーレをアルゼンチン代表の新監督に選んだAFAとの意見の相違によりボカの幹部を辞任。
2008年、これまでのサッカー人生について取り上げると共に、マラドーナ自身のプライベートに密着取材したドキュメンタリー映画「マラドーナ」が上映される。
2008年10月28日、辞任したバシーレ監督の後任としてアルゼンチン代表監督に就任。スーパースターとはいえ監督としての実績が皆無に等しいマラドーナの就任を不安視する声も挙がった中、初采配となったスコットランドとの親善試合に勝利。その後、就任から3連勝を飾ったことでメディアからの評価もまずまずのものとなっていた。一方、2009年3月にテレビの深夜番組でチームの中心選手であるフアン・ロマン・リケルメのプレーに苦言を呈し、その発言に敏感に反応したリケルメが代表からの引退を表明する問題が起きるなど、問題行動は相変わらずだった。
ところが、2009年4月1日の2010 FIFA南米予選第12節ボリビア戦で高地ラパスへの適用ができずに1-6と大敗。9月にはブラジルに完敗し、アルゼンチンが長年継続してきたホームでの連続無敗記録(34戦)が途切れたため、元代表選手やファンから厳しい批判を受ける。続くパラグアイ戦にも敗れたことで一時は本大会出場圏内の4位から転落する危機を迎えるが、10月10日のペルー戦で試合終了間際のマルティン・パレルモの劇的な決勝ゴールに救われ、辛くも本大会出場を決める。11月15日には、記者会見で報道陣に対して猥褻な発言をしたため、FIFAから2カ月間サッカーに関するすべての活動を禁止される。
2010年6月に南アフリカで開催された2010 FIFAワールドカップでは、記者会見にリンゴをかじりながら質問に答えたり、対戦相手の韓国を「テコンドーサッカー」と挑発したり、試合中終始ベンチに座ることなく大きなジェスチャーを見せたりと、大会中その一挙手一投足が世界中から注目され、選手よりも目立っていた。大会では、自身の後継者であるリオネル・メッシをチームの中心に置き、危なっかしさを見せながらもラウンド16までを全勝で勝ち上がる。ところが、現役時代から因縁のあるドイツとの準々決勝では守備戦術の杜撰さからドイツの高速カウンターに成す術がなく、0-4と惨敗。様々な話題を振りまいたが、最後は監督としての未熟さを露呈したのだった。
当初は留任の意向だったがコーチ陣の処遇を巡って協会と対立し、2010年7月27日に解任される。AFA会長のフリオ・グロンドーナ氏とナショナルチームディレクターのカルロス・ビラルド氏に「嘘をつき」、「裏切り」と悪態をつくなど最後までらしさを見せた。
2011年5月16日、UAEのアル・ワスルFCの監督に2年契約で就任。年間990万ポンド(約13億5324万円)での高額な年俸での契約となったが、リーグ戦8位に終わり、2012年7月10日に成績不振によって1シーズンで解任される。
以降、しばらくの間監督業から離れている。2014年9月にイタリアでの親善試合に出場した際にローマ法王との面会を果たしている。
2017年5月7日、UAE2部リーグのアル・フジャイラSCの監督に就任。5年ぶりの監督復帰となる。就任後、チームは無敗だったが、1部昇格を逃したことで2018年4月27日に辞任。
2018年9月6日、メキシコ2部リーグのドラドス・デ・シナロアの監督に就任。就任時は下位に低迷していたチームを2シーズン連続でプレーオフ決勝に導くなど成果を挙げるが、いずれも決勝で敗れて昇格を逃している。2019年1月4日に胃の内出血により入院しており、同年6月13日、健康上の理由により退任。
2019年9月5日、母国アルゼンチン・プリメーラ・ディビシオンのヒムナシア・ラ・プラタの監督に就任。2か月の指揮を執った後、11月19日に一度辞任するが、2日後に再就任している。2020年6月3日には契約を2021年まで延長している。
2020年11月2日、「精神的な問題」を理由に検査入院。硬膜下血腫が見つかり、翌日に摘出手術を実施。術後、アルコールを絶ったことによる禁断症状を発症し、入院期間が予定より長引くも退院。
2020年11月25日、自宅療養中だったブエノスアイレス郊外の自宅で心不全のために死去。享年60歳。
死亡後、かねてからいろいろあったペレは哀悼のメッセージをツイートするが、そのペレも2年後にこの世を去っている。
マラドーナの後継者とされてきたリオネル・メッシは直後のラ・リーガのオサスナ戦でゴールを決めた直後にかつてマラドーナと自身が所属していたアルゼンチンのニューウェルズ・オールドボーイズのユニフォームを披露して哀悼の意を示した。
キャリアの絶頂期を過ごしたSSCナポリは本拠地のサン・パオロの名称を「スタディオ・ディエゴ・アルマンド・マラドーナ」に改名している。
母国・アルゼンチンのアルベルト・フェルナンデス大統領は全土で3日間の喪に服すことを宣言。遺体は大統領府に安置され、国民との別れの場が設けられることになった。
2021年、マラドーナの誕生日の10月30日にはアルゼンチンにて国内リーグをはじめ、子供などアマチュアも含めた週末の全ての試合においてマラドーナが現役時代に着用した背番号10にちなんで前半10分に試合を止め、拍手を贈るなど追悼セレモニーが行われた。
| シーズン | 国 | クラブ | リーグ | 試合 | 得点 |
|---|---|---|---|---|---|
| 1976 | アルヘンティノス・ジュニアーズ | プリメーラ・ディヴィシオン | 11 | 2 | |
| 1977 | アルヘンティノス・ジュニアーズ | プリメーラ・ディヴィシオン | 49 | 19 | |
| 1978 | アルヘンティノス・ジュニアーズ | プリメーラ・ディヴィシオン | 35 | 25 | |
| 1979 | アルヘンティノス・ジュニアーズ | プリメーラ・ディヴィシオン | 27 | 26 | |
| 1980 | アルヘンティノス・ジュニアーズ | プリメーラ・ディヴィシオン | 45 | 43 | |
| 1981 | ボカ・ジュニアーズ | プリメーラ・ディヴィシオン | 45 | 28 | |
| 1982-83 | バルセロナ | リーガ・エスパニョーラ | 20 | 11 | |
| 1983-84 | バルセロナ | リーガ・エスパニョーラ | 16 | 11 | |
| 1984-85 | ナポリ | セリエA | 30 | 14 | |
| 1985-86 | ナポリ | セリエA | 29 | 11 | |
| 1986-87 | ナポリ | セリエA | 29 | 10 | |
| 1987-88 | ナポリ | セリエA | 28 | 15 | |
| 1988-89 | ナポリ | セリエA | 26 | 9 | |
| 1989-90 | ナポリ | セリエA | 28 | 16 | |
| 1990-91 | ナポリ | セリエA | 18 | 6 | |
| 1992-93 | セビージャ | リーガ・エスパニョーラ | 26 | 5 | |
| 1993-94 | ニューウェルズ | プリメーラ・ディヴィシオン | 3 | 0 | |
| 1995-96 | ボカ・ジュニアーズ | プリメーラ・ディヴィシオン | 11 | 3 | |
| 1996-97 | ボカ・ジュニアーズ | プリメーラ・ディヴィシオン | 13 | 2 | |
| 1997-98 | ボカ・ジュニアーズ | プリメーラ・ディヴィシオン | 6 | 2 |
ポジションはセカンドトップ、もしくはトップ下。攻撃の起点としてボールをコントロールし、試合の流れを作る10番タイプ。特定のエリアに固定されることなく、自由に動き回ることで相手の守備陣を混乱させる。
小柄ながらも強靭なフィジカルとバランスで、相手をブロックしながらドリブルで突破する姿は圧巻で狭いスペースでも複数のDFをかわすテクニックを持ち、足首の柔軟性を活かした切り返しや、フェイントを駆使したドリブルで相手を翻弄する。ほとんどのプレーを左足のみでおこなうのも特徴であり、ドリブルのときもほぼ左足だけでボールをタッチしている。
彼のドリブルの特徴は足にボールが吸い付くようなボール捌きであり、ボールコントロールが異常なまでにうまいため、1986年の5人抜きのように絶好調時は面白いように何人もの選手を抜くことができ、もはや手がつけられない。それでいて瞬発力もあり、一瞬のスピードで相手を置き去りにできる。トップスピードの状態でもボールコントロールが崩れない。リオネル・メッシのドリブルが直線的でゴールまで直結する効率性が高いのに対し、マラドーナのドリブルは遊び心があり、アクロバティックなプレーも多い。
左足のキックの精度も超一級品であり、ドリブルで相手を引き付けてからの正確で意外性のあるラストパスで局面を変え、決定的な場面を演出する。相手の意表を突くスルーパスや、少ないタッチで状況を変えるパスが特徴的。ベテランになってからは運動量が落ちたこともあり、パサーとしての色が濃くなっている。シュートは独特な蹴り方と、高い身体能力を活かした強力なものであり、ボールを捉える瞬間まで正確にボールをコントロールし、軸足を蹴り足と同時に押し出すことでコントロールと威力を両立させている。また、FKやミドルシュートも得意としており、中長距離からもゴールを奪える。
試合全体を見渡し、最善のプレーを選択する判断力を持つ。チームメイトを鼓舞するリーダーシップも発揮する。単なる技術の高さだけでなく、その アグレッシブさや、見る者を惹きつける カリスマ性によって、サッカーファンを魅了した。
▶もっと見る
掲示板
65 ななしのよっしん
2021/05/23(日) 05:20:27 ID: YvrjnGG9tj
担当医を殺人で起訴とかおかしな話になってきたな
66 ななしのよっしん
2022/05/05(木) 14:39:09 ID: tsERrgeHDx
ニュースで元サッカー選手のマラドーナさんて言おうとしたのを元サカモットのて噛んだの笑ったw
マラドーナのユニフォーム12億円で落札かぁ・・
Jリーグカレーとチップス何個買えるかな。
67 ななしのよっしん
2023/11/22(水) 10:23:46 ID: DfIo2yjfDI
ある年代の人たちに「アルゼンチンといえば?」って質問したらまずマラドーナの名が出てくるわな。
急上昇ワード改
最終更新:2025/12/05(金) 21:00
最終更新:2025/12/05(金) 21:00
ウォッチリストに追加しました!
すでにウォッチリストに
入っています。
追加に失敗しました。
ほめた!
ほめるを取消しました。
ほめるに失敗しました。
ほめるの取消しに失敗しました。