佐藤寿人(さとう ひさと、1982年3月12日 - )とは、日本の元サッカー選手である。
元サッカー日本代表。
現役時代のポジションはFW。170cm65kg。利き足は左足。
埼玉県春日部市出身。170cmと小柄ながらも瞬間的なスピードとエリア内での的確なポジション取りやアグレッシブな仕掛け、ルーズボールに対する反応が傑出した日本を代表するストライカーであり、Jリーグ通算220ゴールを記録。史上初めてJ1リーグとJ2リーグの両方で得点王を獲得した選手であり、特に2012年にはJリーグMVP、J1リーグ得点王、日本年間最優秀選手賞を獲得し、タイトルを総なめにしている。
身体が小さく飛び抜けたスピードも持たない彼の武器は、Jリーグ随一と言われた裏抜けの技術である。相手と駆け引きをしつつ一瞬の動きでフリーとなったり、敵の背後へと飛び出す。そして味方のスルーパスを確実に枠の中に送り込む。泥臭いゴールこそが佐藤寿人の真髄であり、2012シーズンの22得点のうち実に17得点が「ワンタッチ」で決めたものという事実が彼の職人っぷりを物語る。
ベガルタ仙台時代に頭角を現し、サンフレッチェ広島に在籍時は、ミハイロ・ペトロヴィッチ監督、森保一監督時代の絶対的なエースとして11年連続で二桁得点を記録し2012年、2013年、2015年の三度のJ1リーグ優勝に大きく貢献。青山敏弘や森崎兄弟と共に広島の黄金期の象徴的な存在となっていた。
日本代表には2006年に初めて選出されたが、クラブレベルでの輝かしい経歴の割に代表には縁がなく、長らく待望論が出続けたものの定着ができず、目立った活躍はできなかった。
元イタリア代表のストライカーであるフィリッポ・インザーギのファンであることを公言しており、インザーギを模したコーナーフラッグを使用したゴールパフォーマンスをおこなっていた。
1982年3月12日、埼玉県春日部市で双子の兄である佐藤勇人と共に生まれる。3歳くらいのときに両親からサッカーボールをプレゼントしてもらった事をきっかけに、兄の勇人とサッカーで遊ぶようになり、小学1年生の頃には、兄とともに春日部大増サンライズに入る。当時からシュートを打つのは寿人で、勇人はいつもパスを出していたという。
中学になると父親が一方的にクラブに電話を入れたことがきっかけでジェフユナイテッド市原のジュニアユースに入団。当時、埼玉県のクラブである浦和レッズはジュニアユースのチームを保有していなかったこともあり、両親は営んでいた自営業を辞めてまで家族揃って千葉県八千代市に引っ越すこととなった。ちなみにセレクションに合格したのは寿人のみだったが、毎回の練習時の寿人の要望などにクラブが根負けする形で、およそ半年後に勇人も異例の途中入団をすることとなった。
高校生となった1997年にジェフ市原のユースに昇格。この頃には千葉県選抜として国体にも出場し、世代別の日本代表に選出され、1年生のときにサテライトチームの練習に参加するなど世代を代表するストライカーとして注目されるようになっていた。3年生の夏にはトップチームへの昇格を告げられていた。
2000年、阿部勇樹や兄の佐藤勇人と共にジェフユナイテッド市原のトップチームに昇格。なお後のチームメイトである森﨑和幸・浩司もこの年にサンフレッチェ広島へのトップ昇格を果たしており、佐藤兄弟と森﨑兄弟はJリーグ初の双子選手となった。
4月12日、Jリーグヤマザキナビスコカップ1回戦大分トリニータ戦でスタメンに抜擢され、トップチームでのデビューを飾ると、前半18分にプロ初ゴールを決める。4月15日J1リーグ1stステージ第7節ジュビロ磐田戦で途中出場し、Jリーグデビューを果たす。シーズン序盤は出場機会を得ていたものの、チームの低迷もあって次第に出場機会を失っていた。8月に3試合連続でスタメンで起用されたが、結果を残すことができず、以降はベンチ入りメンバーにすら入れなくなっていた。
2年目となった2001年は3月10日のJ1開幕戦、ジュビロ磐田戦でスタメンを勝ち取り、チームは敗れたもののJリーグ初ゴールを決める。さらに第3節の柏レイソル戦でもゴールを決め、3日後のナビスコカップ1回戦大宮アルディージャ戦で公式戦2試合連続ゴールを記録。順調なスタートを切ったかに見えたが、次第にチェ・ヨンスと大柴克友の2トップがファーストチョイスとして定着するようになり、前年同様に出場時間が減ってしまう。FIFAワールドユース選手権から帰国後はベンチ入りも困難になり、チームでの居場所がなくなっていたことで環境を変えることを決意をする。
2002年、U-20代表の監督だった西村昭宏監督から直接オファーを受けたこともあり、J2リーグに降格したばかりのセレッソ大阪にレンタル移籍で加入。だが、春先にギラン・バレー症候群を発症したため出遅れ、さらにチームのFW陣は森島寛晃、西澤明訓の日本代表コンビに加えて急成長中の大久保嘉人と市原よりもタレントが揃っていたことからここでもポジションを掴むことはできなかった。リーグ戦では13試合2得点、しかもスタメンでの出場は無しと厳しい結果に終わる。一方、天皇杯では4試合3得点と活躍し、存在をアピールすることとなった。
2003年、J1リーグのベガルタ仙台に期限付き移籍。当初はFWの3番手としての加入だったが、マルコスの負傷によってレギュラーの座を掴むと、3月15日ナビスコカップ予選リーグ第2節柏レイソル戦で2ゴールを決める。4月13日、J1 1stステージ第3節清水エスパルス戦でも2ゴールを決め、勝利に貢献。その後、マルコスの怪我が長引いたことで山下芳輝との2トップで前線が固定され、点取り屋としての才能が開花。チームはこの年にJ2リーグに降格したが、チームトップとなる公式戦13ゴールという成績を残し、プロになってから初めてシーズンを通してレギュラーとして戦い抜くこととなった。ちなみに、この年チームには後に選手と監督として栄光を掴む森保一が所属していた。
2004年、J1のクラブからオファーを受けたもののこれを全て断り、仙台に完全移籍する。4月3日のJ2第4節川崎フロンターレ戦で2ゴールを決め、開幕3連敗と苦境に立たされていたチームにシーズン初白星をもたらす。その後は仙台のエースストライカーとしてコンスタントにゴールを決め、8月8日のJ2第26節ではリーグ首位を独走していた川崎を相手にアディショナルタイムの1分間に2ゴールを挙げてチームを敗戦の危機から救う活躍を見せる。特にシーズン後半戦に入ってからは得点を量産しており、上位チーム相手にゴールを決めることが多かった。最終的に44試合で20得点を記録し、J2の得点ランク4位の好成績を残す。これらの活躍から名実共に「ベガルタの象徴」となり、サポーターから「Mr.仙台」と呼ばれたが、チームは大量失点を繰り返すなど勝ちきれない試合が続き、6位で終わる。シーズン終了後、自身のキャリアップのため愛着のあった仙台を離れることを決意する。
2005年、小野剛監督と織田秀和強化部長から直接オファーを受けたJ1リーグのサンフレッチェ広島に移籍金1億6千万円(推定)で移籍する。開幕当初こそチームにフィットできず、スタメンを外れた時期もあったが、5月1日J1第9節アルビレックス新潟戦でシーズン初ゴールを含む2ゴールを決めると、ここから上昇気流に乗り、5月4日には古巣であるジェフユナイテッド千葉を相手に2試合連続となるゴールを決める。8月27日、第21節川崎戦のゴールで自身初となるJ1での二桁得点を達成。9月18日、第24節浦和レッズ戦ではプロになってからは初となるハットトリックを達成。11月17日の第33節ヴィッセル神戸戦でもハットトリックを記録しており、最終的に日本人トップとなる18ゴールを記録。年末のJリーグアウォーズでは初のベストイレブンに選出。名実ともに久保竜彦の移籍以来不在だったチームのエースストライカーとなる。
2006年も開幕5試合で4ゴールと好スタートを切り、不動のエースとしての地位を盤石なものにする。しかし、チームは守備が崩壊したことで成績が低迷し、J2降格の危機に直面してしまう。この窮地にシーズン途中から監督に就任したミシャことミハイロ・ペトロヴィッチ監督の元で広島はミシャ式と呼ばれる独特なサッカーを取り入れるようになる。夏以降は2トップの相棒に定着したウェズレイと抜群のコンビネーションを見せるようになり、9月30日の第25節川崎戦ではハットトリックを達成。10月の3試合連続ゴールなど前年と同じく日本人トップとなる18ゴールを記録し、チームのJ1残留に貢献する。
2007年は下田崇に代わって選手会長に就任。J1開幕戦となった3月3日のFC東京戦で2ゴールを決めると、第8節から第10節まで3試合連続ゴールを決めるなど、例年通りゴールを量産していた。ところが、DFラインの選手が固定できなかったこともあってチームの守備が崩壊。自身もウェズレイとの2トップが他チームが研究されるようになったことで不振に陥り、後半戦に入ってリーグ戦11試合ノーゴールと苦しい時期を過ごす。終盤になって復調し、最終的に12ゴールを記録したが、崩壊したチームを救うことができずに入れ替え戦の末にJ2降格という最悪の結果となる。入れ替え戦の直後、ファンに対して涙を流しながら「絶対に1年で戻ろう」と叫び、事実上の残留宣言をする。
J2リーグで戦うこととなった2008年は開幕直前のJリーグゼロックス・スーパーカップでゴールを決め、史上初となるJ2チームによる優勝に貢献。リーグ戦では自らチームメイトの引き留めに奔走したことで大半の主力選手がチームに残留し、他チームを圧倒する強さを見せる。シーズン途中からはミシャ監督によって1トップとして起用されるようになり、守備やポストプレーにも奮闘しながら得点を量産。7月6日のロアッソ熊本戦で2ゴールを決めたのを皮切りに4試合連続ゴールを記録し、昇格争いが佳境となった9月のリーグ戦では4試合全試合でゴールを決めるなど随所で勝負強さを見せる。シーズン通算28ゴールを記録し、J2リーグの得点王に輝き、勝ち点100達成という独走状態での1年でのJ1復帰に貢献する。
2009年、J1復帰初戦となった3月7日の横浜F・マリノス戦で技ありのゴールを決め、開幕戦勝利に貢献。J2での1年間で「ミシャ式」は熟練度を増し、2シャドーの高萩洋次郎と柏木陽介との連携からゴールを決め続ける。ハットトリックなどの派手な活躍は無かったものの、コンスタントにゴールを決め続け、J2からの昇格チームとしては当時最高の順位記録である4位でのフィニッシュと初のAFCチャンピオンズリーグ出場権獲得に貢献。
2010年のJ1開幕戦となった3月6日の清水戦では槇野智章とのトリックPKでシーズン初ゴールを決め、話題となる。ただし、このゴールは競技規定に違反しているという指摘を受けている。3月20日のJ1第3節湘南ベルマーレ戦で2ゴールを決める。ACLでは、グループステージ第4節のアデレート・ユナイテッド戦で大会初ゴールを記録。4月27日の浦頂スティーラース戦ではまたも槇野とのトリックPKを披露。過密日程に苦しみながらも例年通りゴールを重ねていたが、9月8日のナビスコカップ準々決勝ガンバ大阪との第2戦で右肩鎖関節脱臼という重傷を負い、約2ヶ月離脱。キャリアにおいて怪我による長期の離脱はこれが初めてとなった。それでも復帰初戦となった11月7日の第27節浦和戦で後半アディショナルタイムに決勝点を挙げ7年連続二桁得点を達成。
2011年、東日本大震災の影響によりリーグ戦が中断されたが、その後のリーグ再開初戦となった4月24日のホームでのG大阪戦で巧みにDFラインの裏を取り、ダビド・ムジリからのスルーパスを受けて倒れこみながら左足でポストに当てながらのシーズン初ゴールを記録。11月26日に行われたJ1第33節の大宮戦でPKを決めて8年連続二桁得点を達成。最終的に11得点を記録した。
2012年、退任したミシャ監督の後任として仙台時代のチームメイトだった森保一が監督に就任。3月10日の開幕戦ではミシャ監督が率いる浦和と対戦し、決勝ゴールを決める。4月7日、J1第5節G大阪戦では2ゴールを決め、史上10人目、左利きの選手としては史上初となるJリーグ通算100ゴールを達成。さらに開幕から5試合で5ゴールとハイペースでのスタートとなった。その後もゴールのペースは止まらず、5月26日第13節コンサドーレ札幌戦ではJリーグ史上初となる9年連続二桁得点を達成。6月には藤田俊哉に代わる日本プロサッカー協会の5代目会長に就任。7月には4試合で4ゴールと好調ぶりを見せ、9月29日のサガン鳥栖戦で2ゴールを決め、J1での自身のキャリアハイを更新するシーズン20ゴールに到達。首位を走るチームは11月24日の第33節ホームのC大阪戦の勝利で優勝決定という状況となり、この試合でPKによるゴールを決め、広島のJ1リーグ初優勝を決定させる。30歳になってのキャリア初となるリーグタイトル獲得決定の瞬間に歓喜のあまり泣き崩れる姿はこのシーズンのハイライトとなった。個人としても22得点を記録して初の得点王のタイトルを獲得。Jリーグアウォーズでは、得点王に加え、MVP、ベストイレブン、フェアプレー賞を受賞し史上初の四冠を達成。Jリーグ王者として出場した12月のFIFAクラブワールドカップでは3ゴールを決め、セサル・デルガドと共に大会得点王を獲得。これらの活躍が評価され、2012年度の日本年間最優秀選手賞に選出。まさに個人タイトルを総なめにした1年となった。
2013年は3月30日の第4節清水戦での2ゴールがシーズン初ゴールとなる。ACLではノーゴールに終わり、チームはグループ最下位での敗退となるが、以降のリーグ戦で調子が上向きとなり、5月18日の第12節ヴァンフォーレ甲府戦では7年ぶりとなるハットトリックを達成。さらに7月10日の第15節川崎戦でシーズン2度目のハットトリックを達成し、これにより10年連続での二桁得点を達成。シーズン終盤戦は疲労もあってゴールから遠ざかったものの、チームの先頭に立って牽引し続け、最終節での大逆転でのリーグ連覇に貢献。シーズン通算17ゴールを記録している。
2014年、3月8日のJ1第2節川崎戦でゴールに背を向けた状態で、後方からの縦パスをトラップで浮かせ、反転しながら左足でのボレーシュートを決める。このゴールは2014年のFIFAプスカシュ賞の候補に入り、最終候補の3ゴールに残る快挙となった。この年は怪我を抱えながらだったこともあって欠場も多かったが、2014 FIFAワールドカップの中断期間明けから調子を取り戻し、終盤戦の3試合連続ゴールなどの固め取りでシーズン11ゴールを記録。
2015年シーズンは33歳となったことで流石に無理が効かなくなり、開幕から10試合で2ゴールに留まっていた。しかし、森保監督によってシーズン途中からスタメンで出場し、60分過ぎあたりでスーパーサブの浅野拓磨と交代するローテーション制が採用され、コンディションが維持しやすくなる。さらにドウグラス、柴崎晃誠と形成した前線のトリオが予想以上に機能し、6月20日の1stステージ第16節モンテディオ山形戦では2年ぶりのハットトリックを達成。これによりJ1・J2通算200得点を達成。11月7日のガンバ大阪戦で6年ぶりにイエローカードを貰い、連続無警告記録が193試合でストップ。2ndステージになって攻撃陣が爆発するようになったチームは寿人、浅野、ドウグラスの3人で41ゴールを記録。2ndステージ最終節の湘南戦ではチームのステージ優勝を決めるゴールを挙げると共に中山雅史の持つJ1通算記録157ゴールに並び、歴代トップタイとなる。その後、G大阪とのJリーグチャンピオンシップを制し、2年ぶり3度目となるJリーグ年間王者に輝く。
2016年、2月20日のゼロックス・スーパーカップ G大阪戦で先制ゴールを決め、タイトル獲得に貢献。3月6日のJ1第2節名古屋グランパス戦でゴールを決めたことで通算158得点となり、J1最多得点記録者となる。しかし、前年同様プレー時間を制限して出場していたものの、衰えが見えるようになり、ピーター・ウタカや浅野にレギュラーの座を奪われ、FWの3番手以下まで序列が下がったことで出場機会が大幅に低下。2か月ぶりのスタメンとなった10月29日の2ndステージ第16節アビスパ福岡戦でゴールを決めたが、19試合4ゴールに終わり、連続二桁得点記録も12年で途絶える。シーズン終了後、出番が少なくなったことで移籍が報道され、広島での11年間で383試合178得点を残したレジェンドはこの年で退団する。
2017年、J2リーグに降格していた名古屋グランパスエイトに完全移籍し、チームのキャプテンに任命される。開幕からスタメンで起用され、4月1日の第6節ロアッソ熊本戦で移籍後初ゴールを決める。前半戦はしばらくの間レギュラーを奪われ、出場機会を失うが、8月6日の愛媛FC戦と8月12日の松本山雅FC戦で2試合連続ゴールを決め、以降はスタメンとしての機会を増やす。ゴール数は5ゴールだったが、J1昇格プレーオフを制しての1年でのJ1復帰を果たす。
2年ぶりにJ1に戻ってきた2018年だったが、元ブラジル代表のジョーや玉田圭司、後半戦に台頭した前田直輝とのポジション争いに敗れ、前年よりも出場機会が激減していた。4月11日、第7節の仙台戦で史上20人目となるJ1通算400試合出場を達成するが、チームがJ1残留争いに巻き込まれた終盤戦は全く出場のチャンスが訪れず、契約満了により退団となる。
2019年、古巣であるJ2リーグのジェフユナイテッド市原・千葉に18年ぶりに復帰し、兄である佐藤勇人と久々に同じチームでプレーすることになる。4月3日J2第7節FC琉球戦でゴールを決め、千葉の選手として18年ぶりのゴールを記録する。途中出場が中心ながら21試合に出場し、2ゴールを記録。
2020年は8月12日の松本山雅戦でシーズン初ゴールを記録。11月8日の山形戦でのゴールが現役としての最後のゴールとなった。12月19日、現役引退を表明。
1997年よりU-16日本代表に選出され、飯尾一慶との2トップで立ち上げ時から中心選手として活躍。1998年9月に開催されたAFC U-16選手権1998に出場。グループリーグの4試合全てでゴールを決めるが、チームはグループリーグ敗退に終わっている。
1999年からはU-19日本代表の常連メンバーとして選出され続け、2000年11月のAFCユース選手権2000に出場。2001年6月にはU-20日本代表のメンバーとしてアルゼンチンで開催されたFIFAワールドユース選手権2001に出場。2試合に途中出場したがグループリーグで敗退となった。
2006年2月にフル代表に初めて招集され、2月11日のアメリカ戦に途中出場し日本代表デビューを果たす。2月22日、AFCアジアカップ2007予選では途中出場から代表初ゴールを記録。3月30日のエクアドル戦でもゴールを決め、短い出場時間でアピールするが、ジーコ監督が代表での貢献度を重視したことと同タイプの玉田圭司との比較から2006 FIFAワールドカップのメンバーには入れなかった。
イビチャ・オシム監督就任後の日本代表では常連として選出されるが、レギュラー獲得には至らず、2006年8月16日のイエメン戦でゴールを決めたが、限られた出場時間で結果を出せずにいた。2007年7月に東南アジアで開催されたAFCアジアカップ2007のメンバーに選出。グループリーグ第3戦のベトナム戦で初出場して以降の計4試合に全て途中出場したが、結果を残すことはできなかった。
岡田武史監督が就任して以降の2008年もチームが降格したにも関わらず代表に選出されていた。2009年11月18日、AFCアジアカップ2011予選の香港戦で代表では3年ぶりとなるゴールを決める。しかし、プレースタイルが岡田監督や大木武コーチの描くFW像とマッチせず、起用されても慣れないサイドでの起用だったことから持ち味を出せずにいた。2010 FIFAワールドカップアジア最終予選では岡崎慎司が台頭したこともあって代表に呼ばれなくなっていた。リーグ戦では好調を維持していたが、本大会のメンバーからは外れた。
アルベルト・ザッケローニ監督時代の2012年10月、負傷離脱した前田遼一の代役として2年ぶりに代表に復帰するが、出場機会は訪れず、その後も待望論は出たが代表に呼ばれることはなかった。
| シーズン | 国 | クラブ | リーグ | 試合 | 得点 |
|---|---|---|---|---|---|
| 2000 | ジェフユナイテッド市原 | J1リーグ | 8 | 0 | |
| 2001 | ジェフユナイテッド市原 | J1リーグ | 14 | 2 | |
| 2002 | セレッソ大阪(loan) | J2リーグ | 13 | 2 | |
| 2003 | ベガルタ仙台(loan) | J1リーグ | 30 | 9 | |
| 2004 | ベガルタ仙台 | J2リーグ | 44 | 20 | |
| 2005 | サンフレッチェ広島 | J1リーグ | 32 | 18 | |
| 2006 | サンフレッチェ広島 | J1リーグ | 33 | 18 | |
| 2007 | サンフレッチェ広島 | J1リーグ | 34 | 12 | |
| 2008 | サンフレッチェ広島 | J2リーグ | 40 | 28 | |
| 2009 | サンフレッチェ広島 | J1リーグ | 34 | 15 | |
| 2010 | サンフレッチェ広島 | J1リーグ | 27 | 10 | |
| 2011 | サンフレッチェ広島 | J1リーグ | 33 | 11 | |
| 2012 | サンフレッチェ広島 | J1リーグ | 34 | 22 | |
| 2013 | サンフレッチェ広島 | J1リーグ | 34 | 17 | |
| 2014 | サンフレッチェ広島 | J1リーグ | 29 | 11 | |
| 2015 | サンフレッチェ広島 | J1リーグ | 34 | 12 | |
| 2016 | サンフレッチェ広島 | J1リーグ | 19 | 4 | |
| 2017 | 名古屋グランパス | J2リーグ | 28 | 5 | |
| 2018 | 名古屋グランパス | J1リーグ | 9 | 0 | |
| 2019 | ジェフユナイテッド千葉 | J2リーグ | 21 | 2 | |
| 2020 | ジェフユナイテッド千葉 | J2リーグ | 10 | 2 |
現役引退後はテレビやYouTubeでサッカー解説者を務めている。また、高校のサッカー部を訪れて選手とプレーしたり、茨城県サッカー協会のチューターとして指導に当たったりしています。また、NPO法人「LEGARE FC HIROSHIMA」を設立し、プロサッカー選手の輩出を目指す活動にも関わっている。
2024年5月、週刊誌「フライデー」にて不倫が報じられる。本人もこれを認め、解説者としての活動を一時自粛することとなった。
特段、足が速いわけではないが瞬間的なスピードに長け、ディフェンスラインの一瞬の隙をついて裏に抜け出し、ワンタッチでのゴールを得意としていたストライカー。ルーズボールや裏へのパスに対する嗅覚も高く、供給されるクロスをゴールに結びつける技術は歴代の日本人FWでもトップクラスと評されている。
ポジショニングのうまさも秀逸で、動きながらピッチ上のスペースを探し出すオフ・ザ・ボールのポジショニングで、相手をかわすことを意識する。最終的に自分が飛び込みたいスペースを空けるために、動き続けることによって得意のワンタッチゴールへと持ち込んでいた。得点を奪うための準備も周到で、一度DFに防がれたとしても諦めずに違う動き方をするなど、相手との駆け引きを根気強く繰り返す。
ミシャことミハイロ・ペトロヴィッチ監督によって1トップとして起用されるようになってからは足元でのポストプレーをこなすようになり、スペースだけでなく足元で受けることを意識するようになったことでプレーの選択が増え、裏への飛び出しも相手からすると捕まえづらくなっていた。
一方、フィニッシャーに特化したタイプであるが故に現代のFWに求められる多様性という点では物足りなさがあり、サイドや2列目で起用されると持ち味を生かすことができなかった。また、独力での局面が得意なタイプではなく、周囲に自分の欲しいタイミングを理解してもらう必要があったため、寄せ集めの集団である代表では結果を出せなかった。
。
。
生放送であることも忘れて大興奮であった。インザーギが活躍したACミランのファンでもあり、インタビューでもしミランからのオファーが来たら?という質問には「期限付き移籍で行く。サポーターも分かってくれると思う」と回答。
カープの応援に行っている。2014年にはカープの試合中に流れる応援歌のPVにも出演
した。▶もっと見る
掲示板
12 ななしのよっしん
2016/11/21(月) 17:15:03 ID: JZIk3JbGSA
J2降格の名古屋グランパスに完全移籍
http://n
チーム再建やJ1復帰に向けてがんばってもらいたいと同時に、
「サンフレッチェ広島の」佐藤寿人であって欲しかったと思った。
13 ななしのよっしん
2016/11/30(水) 23:43:03 ID: fuB0EDdQQW
弟の方の記事は無いのかよw
双子て言うけど、そんな似てないよね。
むしろ弟はイチローと双子て言われても納得する程似てる。
14 ななしのよっしん
2024/06/02(日) 23:33:47 ID: zfsBuwacTf
終わりだな
不倫報道出されてからの謝罪遅いし
好感度と実績で売ってた系で解説としては正直見るべきところはないから今度お仕事来ないだろうな
急上昇ワード改
最終更新:2025/12/24(水) 13:00
最終更新:2025/12/24(水) 13:00
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