佐藤寿人 単語


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サトウヒサト

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佐藤寿人さとう ひさと、1982年3月12日 - )とは、日本の元サッカー選手である。
サッカー日本代表

現役時代のポジションはFW。170cm65kg。利き足は左足。

同じく元プロサッカー選手佐藤勇人は双子である。

概要

埼玉県春日部市出身。170cmと小柄ながらも間的なスピードエリア内での的確なポジション取りやアグレッシブな仕掛け、ルーボールに対する反応が傑出した日本を代表するストライカーであり、Jリーグ通算220ゴール記録。史上初めてJ1リーグJ2リーグの両方で得点王を獲得した選手であり、特に2012年にはJリーグMVPJ1リーグ得点王、日本年間最優秀選手賞を獲得し、タイトルを総なめにしている。

身体が小さく飛び抜けたスピードも持たない彼の武器は、Jリーグ随一と言われた裏抜けの技術である。相手と駆け引きをしつつ一の動きでフリーとなったり、敵の背後へと飛び出す。そして味方のスルーパスを確実にの中に送り込む。泥臭いゴールこそが佐藤寿人の髄であり、2012シーズンの22得点のうち実に17得点が「ワンタッチ」で決めたものという事実が彼の職人っぷりを物語る。

ベガルタ仙台時代に頭を現し、サンフレッチェ広島に在籍時は、ミハイロ・ペトロヴィッチ監督森保一監督時代の絶対的なエースとして11年連続で二桁得点記録2012年2013年2015年三度J1リーグ優勝に大きく貢献。青山敏弘森崎兄弟と共に広島黄金期徴的な存在となっていた。

日本代表には2006年に初めて選出されたが、クラブレベルでのかしい経歴の割に代表には縁がなく、長らく待望論が出続けたものの定着ができず、立った活躍はできなかった。

イタリア代表のストライカーであるフィリッポ・インザーギファンであることを言しており、インザーギを模したコーナーフラッグを使用したゴールパフォーマンスをおこなっていた。

経歴

生い立ち

1982年3月12日埼玉県春日部市双子である佐藤勇人と共に生まれる。3歳くらいのときに両からサッカーボールプレゼントしてもらった事をきっかけに、の勇人とサッカーで遊ぶようになり、小学1年生の頃には、とともに春日部大増サンライズに入る。当時からシュートを打つのは寿人で、勇人はいつもパスを出していたという。

中学になると父親一方的クラブ電話を入れたことがきっかけでジェフユナイテッド市原ジュニアユースに入団。当時、埼玉県クラブである浦和レッズジュニアユースのチームを保有していなかったこともあり、両は営んでいた自営業を辞めてまで家族って千葉県八千代市に引っ越すこととなった。ちなみにセレクションに合格したのは寿人のみだったが、毎回の練習時の寿人の要望などにクラブが根負けする形で、およそ半年後に勇人も異例の途中入団をすることとなった。

高校生となった1997年ジェフ市原ユースに昇格。この頃には千葉県選抜として国体にも出場し、世代別の日本代表に選出され、1年生のときにサテライトチーム練習に参加するなど世代を代表するストライカーとして注されるようになっていた。3年生のにはトップチームへの昇格を告げられていた。

ジェフユナイテッド市原

2000年阿部佐藤勇人と共にジェフユナイテッド市原トップチームに昇格。なお後のチームメイトである和幸・浩もこの年にサンフレッチェ広島へのトップ昇格を果たしており、佐藤兄弟兄弟Jリーグ初の双子選手となった。
4月12日Jリーグヤマザキナビスコカップ1回戦大分トリニータ戦でスタメンに抜され、トップチームでのデビューを飾ると、前半18分にプロゴールを決める。4月15日J1リーグ1stステージ第7節ジュビロ磐田戦で途中出場し、Jリーグデビューを果たす。シーズン序盤は出場機会を得ていたものの、チームの低迷もあって次第に出場機会を失っていた。8月に3試合連続でスタメンで起用されたが、結果を残すことができず、以降はベンチ入りメンバーにすら入れなくなっていた。

2年となった2001年3月10日J1開幕戦、ジュビロ磐田戦でスタメンを勝ち取り、チームは敗れたもののJリーグゴールを決める。さらに第3節の柏レイソル戦でもゴールを決め、3日後のナビスコカップ1回戦大宮アルディージャ戦で公式戦2試合連続ゴール記録。順調なスタートを切ったかに見えたが、次第にチェ・ヨンスと大友の2トップファーストチョイスとして定着するようになり、前年同様に出場時間が減ってしまう。FIFAワールドユース選手権から帰後はベンチ入りも困難になり、チームでの居場所がなくなっていたことで環境を変えることを決意をする。

セレッソ大阪

2002年U-20代表の監督だった西村監督から直接オファーを受けたこともあり、J2リーグに降格したばかりのセレッソ大阪レンタル移籍で加入。だが、先にギラン・バレー症候群を発症したため出遅れ、さらにチームのFW森島寛晃西澤明訓の日本代表コンビに加えて急成長中の大久保嘉人市原よりもタレントっていたことからここでもポジションを掴むことはできなかった。リーグ戦では13試合2得点、しかもスタメンでの出場はしと厳しい結果に終わる。一方、天皇杯では4試合3得点と活躍し、存在をアピールすることとなった。

ベガルタ仙台

2003年J1リーグベガルタ仙台に期限付き移籍。当初はFWの3番手としての加入だったが、マルコスの負傷によってレギュラーの座を掴むと、3月15日ナビスコカップ予選リーグ第2節柏レイソル戦で2ゴールを決める。4月13日J1 1stステージ第3節清水エスパルス戦でも2ゴールを決め、勝利に貢献。その後、マルコスの怪が長引いたことで山下との2トップ前線が固定され、点取り屋としての才が開チームはこの年にJ2リーグに降格したが、チームトップとなる公式戦13ゴールという成績を残し、プロになってから初めてシーズンを通してレギュラーとして戦い抜くこととなった。ちなみに、この年チームには後に選手と監督として栄を掴む森保一が所属していた。

2004年J1クラブからオファーを受けたもののこれを全て断り、仙台全移籍する。4月3日J2第4節川崎フロンターレ戦で2ゴールを決め、開幕3連敗と苦に立たされていたチームシーズンをもたらす。その後は仙台エースストライカーとしてコンスタントゴールを決め、8月8日J2第26節ではリーグ首位を独走していた川崎を相手にアディショナルタイムの1分間に2ゴールを挙げてチームを敗戦の危機から救う活躍を見せる。特にシーズン後半戦に入ってからは得点を量産しており、上位チーム相手にゴールを決めることが多かった。最終的に44試合で20得点記録し、J2得点ランク4位の好成績を残す。これらの活躍から名実共に「ベガルタの徴」となり、サポーターから「Mr.仙台」と呼ばれたが、チームは大量失点を繰り返すなど勝ちきれない試合が続き、6位で終わる。シーズン終了後、自身のキャリアップのため着のあった仙台を離れることを決意する。

サンフレッチェ広島

2005年小野監督織田秀和強化部長から直接オファーを受けたJ1リーグサンフレッチェ広島に移籍金1億6千万円(推定)で移籍する。開幕当初こそチームフィットできず、スタメンを外れた時期もあったが、5月1日J1第9節アルビレックス新潟戦でシーズンゴールを含む2ゴールを決めると、ここから上昇気流に乗り、5月4日には古巣であるジェフユナイテッド千葉を相手に2試合連続となるゴールを決める。8月27日、第21節川崎戦のゴールで自身初となるJ1での二桁得点を達成。9月18日、第24節浦和レッズ戦ではプロになってからは初となるハットトリックを達成。11月17日の第33節ヴィッセル神戸戦でもハットトリック記録しており、最終的に日本人トップとなる18ゴール記録。年末のJリーグアウォーズでは初のベストイレブンに選出。名実ともに久保竜彦の移籍以来不在だったチームエースストライカーとなる。

2006年も開幕5試合で4ゴールと好スタートを切り、不動のエースとしての地位を盤石なものにする。しかし、チームは守備が崩壊したことで成績が低迷し、J2降格の危機に直面してしまう。この窮地にシーズン途中から監督に就任したミシャことミハイロ・ペトロヴィッチ監督の元で広島ミシャ式と呼ばれる独特なサッカーを取り入れるようになる。以降は2トップ相棒に定着したウェズレイと抜群のコンビネーションを見せるようになり、9月30日の第25節川崎戦ではハットトリックを達成。10月の3試合連続ゴールなど前年と同じく日本人トップとなる18ゴール記録し、チームJ1残留に貢献する。

2007年下田崇に代わって選手会長に就任。J1開幕戦となった3月3日FC東京戦で2ゴールを決めると、第8節から第10節まで3試合連続ゴールを決めるなど、例年通りゴールを量産していた。ところが、DFラインの選手が固定できなかったこともあってチームの守備が崩壊。自身もウェズレイとの2トップが他チーム研究されるようになったことで不振に陥り、後半戦に入ってリーグ戦11試合ノーゴールと苦しい時期を過ごす。終盤になって復調し、最終的に12ゴール記録したが、崩壊したチームを救うことができずに入れ替え戦の末にJ2降格という最悪の結果となる。入れ替え戦の直後、ファンに対してを流しながら「絶対に1年で戻ろう」と叫び、事実上の残留宣言をする。

J2リーグで戦うこととなった2008年は開幕直前のJリーグゼロックス・スーパーカップゴールを決め、史上初となるJ2チームによる優勝に貢献。リーグ戦では自らチームメイトの引き留めに奔走したことで大半の力選手がチームに残留し、他チームを圧倒する強さを見せる。シーズン途中からはミシャ監督によって1トップとして起用されるようになり、守備やポストプレーにも奮闘しながら得点を量産。7月6日ロアッソ熊本戦で2ゴールを決めたのを皮切りに4試合連続ゴール記録し、昇格争いが佳となった9月リーグ戦では4試合試合ゴールを決めるなど随所で勝負強さを見せる。シーズン通算28ゴール記録し、J2リーグ得点王にき、勝ち点100達成という独走状態での1年でのJ1復帰に貢献する。

2009年J1復帰初戦となった3月7日横浜F・マリノス戦で技ありのゴールを決め、開幕戦勝利に貢献。J2での1年間で「ミシャ式」は熟練度を増し、2シャドー高萩洋次郎柏木陽介との連携からゴールを決め続ける。ハットトリックなどの手な活躍はかったものの、コンスタントゴールを決め続け、J2からの昇格チームとしては当時最高の順位記録である4位でのフィニッシュと初のAFCチャンピオンズリーグ出場権獲得に貢献。

2010年J1開幕戦となった3月6日清水戦では槇野智章とのトリックPKでシーズンゴールを決め、話題となる。ただし、このゴールは競技規定に違反しているという摘を受けている。3月20日J1第3節湘南ベルマーレ戦で2ゴールを決める。ACLでは、グループステージ第4節のアデレート・ユナテッド戦で大会初ゴール記録4月27日頂スティーラース戦ではまたも槇野とのトリックPKを披露。過密日程に苦しみながらも例年通りゴールを重ねていたが、9月8日ナビスコカップ準々決勝ガンバ大阪との第2戦で右肩鎖関節脱臼という重傷を負い、約2ヶ離脱。キャリアにおいて怪による長期の離脱はこれが初めてとなった。それでも復帰初戦となった11月7日の第27節浦和戦で後半アディショナルタイムに決勝点を挙げ7年連続二桁得点を達成。

2011年東日本大震災によりリーグ戦が中断されたが、その後のリーグ再開初戦となった4月24日ホームでのG大阪戦で巧みにDFラインの裏を取り、ダビド・ムジリからのスルーパスを受けて倒れこみながら左足でポストに当てながらのシーズンゴール記録11月26日に行われたJ1第33節の大宮戦でPKを決めて8年連続二桁得点を達成。最終的に11得点記録した。

2012年、退任したミシャ監督の後任として仙台時代のチームメイトだった森保一監督に就任。3月10日の開幕戦ではミシャ監督が率いる浦和と対戦し、決勝ゴールを決める。4月7日J1第5節G大阪戦では2ゴールを決め、史上10人左利きの選手としては史上初となるJリーグ通算100ゴールを達成。さらに開幕から5試合で5ゴールとハイペースでのスタートとなった。その後もゴールペースは止まらず、5月26日第13節コンサドーレ札幌戦ではJリーグ史上初となる9年連続二桁得点を達成。6月には藤田俊哉に代わる日本プロサッカー協会の5代目会長に就任。7月には4試合で4ゴールと好調ぶりを見せ、9月29日サガン鳥栖戦で2ゴールを決め、J1での自身のキャリアハイを更新するシーズン20ゴールに到達。首位を走るチーム11月24日の第33節ホームC大阪戦の勝利優勝決定という状況となり、この試合でPKによるゴールを決め、広島J1リーグ優勝を決定させる。30歳になってのキャリア初となるリーグタイトル獲得決定の間に歓喜のあまり泣き崩れる姿はこのシーズンハイライトとなった。個人としても22得点記録して初の得点王のタイトルを獲得。Jリーグアウォーズでは、得点王に加え、MVPベストイレブン、フェアプレー賞を受賞し史上初の四冠を達成。Jリーグ王者として出場した12月FIFAクラブワールドカップでは3ゴールを決め、セサル・デルガドと共に大会得点王を獲得。これらの活躍が評価され、2012年度の日本年間最優秀選手賞に選出。まさに個人タイトルを総なめにした1年となった。

2013年3月30日の第4節清水戦での2ゴールシーズンゴールとなる。ACLではノーゴールに終わり、チームグループ最下位での敗退となるが、以降のリーグ戦で調子が上向きとなり、5月18日の第12節ヴァンフォーレ甲府戦では7年ぶりとなるハットトリックを達成。さらに7月10日の第15節川崎戦でシーズン2度ハットトリックを達成し、これにより10年連続での二桁得点を達成。シーズン終盤戦は疲労もあってゴールから遠ざかったものの、チームの先頭に立って牽引し続け、最終節での大逆転でのリーグ連覇に貢献。シーズン通算17ゴール記録している。

2014年3月8日J1第2節川崎戦でゴールに背を向けた状態で、後方からの縦パスをトラップで浮かせ、反転しながら左足でのボレーシュートを決める。このゴール2014年FIFAプスカシュ賞の補に入り、最終補の3ゴールに残る快挙となった。この年は怪を抱えながらだったこともあって欠場も多かったが、2014 FIFAワールドカップの中断期間明けから調子を取り戻し、終盤戦の3試合連続ゴールなどの固め取りでシーズン11ゴール記録

2015年シーズンは33歳となったことで流石理が効かなくなり、開幕から10試合で2ゴールに留まっていた。しかし、監督によってシーズン途中からスタメンで出場し、60分過ぎあたりでスーパーサブ浅野拓磨と交代するローテーション制が採用され、コンディションが維持しやすくなる。さらにドウグラス柴崎と形成した前線トリオが予想以上に機し、6月20日1stステージ第16節モンテディオ山形戦では2年ぶりのハットトリックを達成。これによりJ1J2通算200得点を達成。11月7日ガンバ大阪戦で6年ぶりにイエローカードを貰い、連続警告記録が193試合ストップ2ndステージになって攻撃爆発するようになったチームは寿人、浅野ドウグラスの3人で41ゴール記録2ndステージ最終節の湘南戦ではチームステージ優勝を決めるゴールを挙げると共に中山雅史の持つJ1通算記録157ゴールに並び、歴代トップタイとなる。その後、G大阪とのJリーグチャンピオンシップを制し、2年ぶり3度となるJリーグ年間王者にく。

2016年2月20日ゼロックス・スーパーカップ G大阪戦で先制ゴールを決め、タイトル獲得に貢献。3月6日J1第2節名古屋グランパス戦でゴールを決めたことで通算158得点となり、J1最多得点記録者となる。しかし、前年同様プレー時間を制限して出場していたものの、衰えが見えるようになり、ピーターウタカや浅野レギュラーの座を奪われ、FWの3番手以下まで序列が下がったことで出場機会が大幅に低下。2かぶりのスタメンとなった10月29日2ndステージ第16節アビスパ福岡戦でゴールを決めたが、19試合4ゴールに終わり、連続二桁得点記録も12年で途絶える。シーズン終了後、出番が少なくなったことで移籍が報道され、広島での11年間で383試合178得点を残したレジェンドはこの年で退団する。

名古屋グランパス

2017年J2リーグに降格していた名古屋グランパスエイト全移籍し、チームキャプテンに任命される。開幕からスタメンで起用され、4月1日の第6節ロアッソ熊本戦で移籍後初ゴールを決める。前半戦はしばらくの間レギュラーを奪われ、出場機会を失うが、8月6日愛媛FC戦と8月12日松本山雅FC戦で2試合連続ゴールを決め、以降はスタメンとしての機会を増やす。ゴール数は5ゴールだったが、J1昇格プレーオフを制しての1年でのJ1復帰を果たす。

2年ぶりにJ1に戻ってきた2018年だったが、元ブラジル代表のジョー玉田、後半戦に台頭した前田とのポジション争いに敗れ、前年よりも出場機会が減していた。4月11日、第7節の仙台戦で史上20人となるJ1通算400試合出場を達成するが、チームJ1残留争いに巻き込まれた終盤戦は全く出場のチャンスが訪れず、契約満了により退団となる。

ジェフユナイテッド千葉

2019年、古巣であるJ2リーグジェフユナイテッド市原・千葉に18年ぶりに復帰し、である佐藤勇人と久々に同じチームプレーすることになる。4月3日J2第7節FC琉球戦でゴールを決め、千葉の選手として18年ぶりのゴール記録する。途中出場が中心ながら21試合に出場し、2ゴール記録

2020年8月12日松本山雅戦でシーズンゴール記録11月8日山形戦でのゴールが現役としての最後のゴールとなった。12月19日、現役引退を表明。

日本代表

1997年よりU-16日本代表に選出され、飯尾一慶との2トップで立ち上げ時から中心選手として活躍。1998年9月に開催されたAFC U-16選手権1998に出場。グループリーグの4試合全てでゴールを決めるが、チームグループリーグ敗退に終わっている。

1999年からはU-19日本代表の常連メンバーとして選出され続け、2000年11月AFCユース選手権2000に出場。2001年6月にはU-20日本代表メンバーとしてアルゼンチンで開催されたFIFAワールドユース選手権2001に出場。2試合に途中出場したがグループリーグで敗退となった。

2006年2月フル代表に初めて招集され、2月11日アメリカ戦に途中出場し日本代表デビューを果たす。2月22日AFCアジアカップ2007予選では途中出場から代表初ゴール記録3月30日エクアドル戦でもゴールを決め、短い出場時間でアピールするが、ジーコ監督が代表での貢献度を重視したことと同タイプ玉田との較から2006 FIFAワールドカップメンバーには入れなかった。

イビチャ・オシム監督就任後の日本代表では常連として選出されるが、レギュラー獲得には至らず、2006年8月16日イエメン戦でゴールを決めたが、限られた出場時間で結果を出せずにいた。2007年7月東南アジアで開催されたAFCアジアカップ2007メンバーに選出。グループリーグ第3戦のベトナム戦で初出場して以降の計4試合に全て途中出場したが、結果を残すことはできなかった。

岡田武史監督が就任して以降の2008年チームが降格したにも関わらず代表に選出されていた。2009年11月18日AFCアジアカップ2011予選の香港戦で代表では3年ぶりとなるゴールを決める。しかし、プレースタイル岡田監督大木コーチの描くFW像とマッチせず、起用されても慣れないサイドでの起用だったことから持ち味を出せずにいた。2010 FIFAワールドカップアジア最終予選では岡崎慎司が台頭したこともあって代表に呼ばれなくなっていた。リーグ戦では好調を維持していたが、本大会のメンバーからは外れた。

アルベルト・ザッケローニ監督時代の2012年10月、負傷離脱した前田遼一の代役として2年ぶりに代表に復帰するが、出場機会は訪れず、その後も待望論は出たが代表に呼ばれることはなかった。

日本代表通算31試合4得点

個人成績

シーズン クラブ リーグ 試合 得点
2000 ジェフユナイテッド市原 J1リーグ 8 0
2001 ジェフユナイテッド市原 J1リーグ 14 2
2002 セレッソ大阪(loan) J2リーグ 13 2
2003 ベガルタ仙台(loan) J1リーグ 30 9
2004 ベガルタ仙台 J2リーグ 44 20
2005 サンフレッチェ広島 J1リーグ 32 18
2006 サンフレッチェ広島 J1リーグ 33 18
2007 サンフレッチェ広島 J1リーグ 34 12
2008 サンフレッチェ広島 J2リーグ 40 28
2009 サンフレッチェ広島 J1リーグ 34 15
2010 サンフレッチェ広島 J1リーグ 27 10
2011 サンフレッチェ広島 J1リーグ 33 11
2012 サンフレッチェ広島 J1リーグ 34 22
2013 サンフレッチェ広島 J1リーグ 34 17
2014 サンフレッチェ広島 J1リーグ 29 11
2015 サンフレッチェ広島 J1リーグ 34 12
2016 サンフレッチェ広島 J1リーグ 19 4
2017 名古屋グランパス J2リーグ 28 5
2018 名古屋グランパス J1リーグ 9 0
2019 ジェフユナイテッド千葉 J2リーグ 21 2
2020 ジェフユナイテッド千葉 J2リーグ 10 2

個人タイトル

引退後

現役引退後はテレビYouTubeサッカー解説者を務めている。また、高校サッカー部を訪れて選手とプレーしたり、茨城県サッカー協会のチューターとして導に当たったりしています。また、NPO法人「LEGARE FC HIROSHIMA」を設立し、プロサッカー選手の輩出をす活動にも関わっている。

2024年5月週刊誌フライデー」にて不倫が報じられる。本人もこれを認め、解説者としての活動を一時自粛することとなった。

プレースタイル

特段、足が速いわけではないが間的なスピードに長け、ディフェンラインの一の隙をついて裏に抜け出し、ワンタッチでのゴールを得意としていたストライカー。ルーボールや裏へのパスに対する嗅覚も高く、供給されるクロスゴールに結びつける技術は歴代の日本人FWでもトップクラスと評されている。

ポジショニングのうまさも秀逸で、動きながらピッチ上のスペースを探し出すオフ・ザ・ボールポジショニングで、相手をかわすことを意識する。最終的に自分が飛び込みたいスペースけるために、動き続けることによって得意のワンタッチゴールへと持ち込んでいた。得点を奪うための準備も周到で、一度DFに防がれたとしても諦めずに違う動き方をするなど、相手との駆け引きを根気強く繰り返す。

ミシャことミハイロ・ペトロヴィッチ監督によって1トップとして起用されるようになってからは足元でのポストプレーをこなすようになり、スペースだけでなく足元で受けることを意識するようになったことでプレーの選択が増え、裏への飛び出しも相手からすると捕まえづらくなっていた。

一方、フィニッシャーに特化したタイプであるが故に現代のFWにめられる多様性という点では物足りなさがあり、サイドや2列で起用されると持ち味を生かすことができなかった。また、独力での局面が得意なタイプではなく、周囲に自分の欲しいタイミングを理解してもらう必要があったため、寄せ集めの集団である代表では結果を出せなかった。

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