ディディエ・ドログバ(Didier Yves Drogba Tébily, 1978年3月11日 - )とは、コートジボワールの元サッカー選手である。元サッカーコートジボワール代表。
現役時代のポジションはFW。189cm93kg。利き足は右足。
コートジボワール・アビジャン出身。怪物級のパワーで並み居る敵をなぎ倒し、驚異の身体能力による力技でゴールをこじ開けたフィジカルモンスターであり、インテリジェンスにも優れ、オフ・ザ・ボールの動きで味方のチャンスを作るなど、硬軟兼ね備えたストライカー。2006年と2009年の2度のアフリカ年間最優秀選手賞に選出されたアフリカを代表するスター選手である。
プロサッカー選手として頭角を現したのは25歳のときと遅咲きだが、ジョゼ・モウリーニョ監督に才能を見出されて2004年にチェルシーFCに移籍すると、たちまちその才能を爆発させて、2度のプレミアリーグ得点王を獲得し、ヨーロッパの新興勢力となったチェルシーのエースストライカーとして君臨。通算9シーズン在籍し104ゴールを記録。プレミアリーグ優勝4回、FAカップ優勝4回、UEFAチャンピオンズリーグ制覇1回など多くのタイトルをもたらしている。
コートジボワール代表には2002年にデビュー。5歳からフランスに住んでいたため、フランスサッカー連盟からフランス代表入りの打診を受けていたがそれを断りコートジボワール代表を選択。2014年の代表引退までに104試合65得点を記録。2006 FIFAワールドカップでは大黒柱として同国史上初となるW杯出場に導く。当時コートジボワールでは内戦が続いており、その中で出場権を獲得して生放送で内戦をやめるよう訴えかけ、内戦を止めさせたというのは有名である。そのため国民からは「コートジボワールの英雄」と敬愛された。
1978年3月11日、当時はコートジボワールの首都だったアビジャンのヨプゴン・シコギ地区に生まれる。幼い頃からの愛称である「ティト」は、母親が尊敬するユーゴスラビアのヨシップ・ブロズ・チトー大統領に因んで付けられたものである。両親とも銀行員として働き家庭の暮らしは安定していたが、国内の食料事情の悪さと、息子に高い教育を受けさせたいという両親の方針により5歳のときにフランスに住む叔父のもとに預けられる。
叔父は、当時フランスの下部リーグでプレーするサッカー選手であり、ドログバがホームシックで悲しんでいたことから、所属するダンケルクの下部組織でサッカーを習わせる。だが、ドログバのホームシックはいつまで経っても収まらず、8歳のときに故郷に戻ることになる。帰国後は毎日のように街頭でサッカーを楽しんでいた。
11歳のとき、国内は深刻な経済危機に陥り、銀行員の両親も失職したことから再びフランスの叔父の元へ送り返される。その後、両親もフランスへと移住し、13歳でヴァンヌのユースに入り、ここでポジションをサイドバックからFWへとコンバート。15歳になるとアマチュアクラブのルヴァロワSCと契約し、セミプロとしてプレーする。ルヴァロワのユースチームで2シーズン連続二桁得点を挙げたことで頭角を現していた。
高校卒業後、1997年にプロクラブであるル・マンUCの下部組織に入団。同時にル・マンの大学に通い、会計学を学びながらサッカー選手としての成功を目指すようになる。
20歳となった1998年にフランス・ディヴィジョン・ドゥのル・マンUCのトップチームに昇格し、リーグ戦2試合に出場。トップチームでのデビューを果たす。
1999-00シーズンは出場機会が増え、トップチームでの初ゴールも記録。1999年に晴れてクラブとプロ契約を交わし、プロサッカー選手としてのキャリアをスタートさせる。2部とはいえ30試合7ゴールを記録したことで将来を嘱望されるようになる。
2000-01シーズンからは度重なる怪我に悩まされ、満足な活躍ができなくなっていた。加えて、フランス社会に根付く黒人差別にも悩まされ、2年目のシーズンは11試合0得点に終わる。それでも2001-02シーズンになって調子を取り戻し、前半戦の時点で21試合5ゴールの成績を残し、秘めたポテンシャルを開花させ初めていた。
2000-01シーズン途中、ディヴィジョン・アンのEAギャンガンに移籍。トップリーグでのデビューを果たし、初ゴールも決めるが、半年間で11試合3ゴールとインパクトを残せず、首脳陣やファンからの期待値も低かった。
2002-03シーズン、コーチのマーク・ヴェスターロッペから私生活の不摂生ぶりを指摘され、食生活を中心に厳しい制約を課されると才能を開花。ハードワークの大切さを理解できたことで凄まじいスピードで成長を遂げ、飛躍的に向上したパフォーマンスをギー・ラコンブ監督からも認められたことで定位置を掴む。ストライカーとしてゴールを量産するようになり、リーグ戦34試合17ゴールの活躍ぶりによって前半戦は残留争いをしていたチームを7位にまで押し上げる原動力となる。これにより、25歳にして一気に注目されるストライカーとなるのだった。
2003年6月20日、フランス国内屈指の名門であるオリンピック・マルセイユに5年契約で移籍。加入当初はビッグクラブへの適応を不安視されたが、すぐにそんな声を吹き飛ばすくらいの活躍を披露。2004年1月と5月の二度リーグの月間最優秀選手に選ばれるなど、このシーズンのリーグ・アンで主役といえるだけの活躍を見せる。最終的に35試合19ゴール7アシストと前年を上回る成績を残し、リーグ・アンの年間最優秀選手を受賞。初出場となったUEFAチャンピオンズリーグではチームはグループステージ敗退となったが、5ゴールを記録。さらにUEFAカップにも出場し、得点王となる6ゴールを挙げて準優勝に貢献。欧州でも注目されるストライカーにまで飛躍し、特にCLで対戦したFCポルトのジョゼ・モウリーニョ監督はドログバの才能に惚れ込むのだった。
2004年7月、イングランド・プレミアリーグのチェルシーFCに移籍金2500万ポンドで移籍。前述したように2004-05シーズンからチェルシーの監督に就任したモウリーニョからラブコールを受けての加入となり、このシーズンのマーケットでもっとも高額な取引となった。加入3試合目となったクリスタル・パレスFC戦で初ゴールを決めると、1トップのレギュラーに定着。負傷による2ヶ月の戦線離脱もあって26試合10ゴールと数字はやや物足りないものとなったが、フランク・ランパードやジョー・コール、アリエン・ロッベンと共に形成する攻撃陣は迫力満点であり、チェルシーの50年ぶりのリーグ優勝に貢献。EFLカップ決勝のリヴァプールFC戦では延長戦で決勝ゴールを決め、国内二冠達成に貢献。ベスト4に進出したCLでも5ゴールを決めている。
2005-06シーズンはコミュニティシールドのアーセナル戦で2ゴールを挙げ、タイトル獲得をもたらす好スタートを切る。前年の故障の影響が残っていたものの、モウリーニョ監督の指導によってポストプレーが飛躍的に向上し、ストライカーとしてのみならず周りを使うチャンスメーカーとしての才能を開花。特に中盤から飛び出して得点源となっていたランパードとは好連携を披露していた。2006年3月のマンチェスター・シティ戦ではゴールを決めた際にハンドを犯していたことが発覚。続くフラムFC戦でも同様の事件を起こしたことで批判を受けることになる。モウリーニョ2年目のチェルシーは前年同様にホームのスタンフォード・ブリッジで無類の強さを見せ、プレミアリーグ連覇を達成。29試合に出場し12ゴール15アシストとチャンスメーカーとしても貢献。15アシストはリーグ最多アシストとなった。
2006-07シーズンからは背番号を11に変更。この年はアンドリー・シェフチェンコが加入したことでレギュラーから外れることも予想されたが、3年目となってプレミアリーグのリズムにもすっかり慣れ、トップコンディションも取り戻したことで驚異的な身体能力を活かしたスーパーゴールを連発。2006年9月17日プレミアリーグ第5節リヴァプール戦ではジェイミー・ギャラガーを背負った状態でロングボールを胸でトラップすると、反転しながらの左足の強烈なボレーシュートを決める、9月27日、CLグループステージ第2節レフスキ・ソフィア戦ではチェルシー加入後初となるハットトリックを達成。プレミアリーグでもワトフォード戦でハットトリックを記録。2007年3月には初のアフリカ最優秀選手に選ばれる。新戦力のシェフチェンコとミヒャエル・バラックがフィットしなかったことでリーグ三連覇こそ逃したが、キャリアハイの20ゴールを記録し初のプレミアリーグ得点王に輝く。また、EFLカップ決勝のアーセナル戦では2ゴールを決め、FAカップ決勝のマンチェスター・ユナイテッド戦では決勝ゴールを決め、カップ戦二冠の立役者となる。公式戦全体では34ゴールを決め、PFA年間ベストイレブンに選出される。
2007-08シーズン序盤、ロマン・アブラモビッチ会長との確執から厚い信頼関係を築いていたモウリーニョ監督が事実上の解任となる。このことに悲しみと不満を抱き、移籍を口走るようにもなる。それでも1結果を残していたが、2007年12月に膝を負傷。手術を受けたことで長期の戦線離脱を強いられる。復帰後は調子を上げ、CL準決勝のリヴァプール戦では決勝ゴールを決め、チームを初のファイナル進出へ導く。2008年5月21日、マンチェスター・ユナイテッドとの決勝では延長戦に1か月前のプレミアリーグの試合でいざこざのあったネマニャ・ビディッチの顔に平手打ちをし、一発退場となる。その後チームはPK戦の末に敗れ、初のビッグイヤーを逃している。
2008-09シーズンは序盤に度重なる負傷に見舞われ、膝の問題で8月から11月まで欠場。復帰後もコンディションが整わず、ルイス・フェリペ・スコラーリ監督の信頼を失い、ベンチに座ることが増えていた。しかし2009年2月にスコラーリ監督が解任され、フース・ヒディンク監督が就任するとニコラ・アネルカとの2トップでレギュラーに返り咲き、5試合4ゴールを記録するなど復調。CLラウンド16と準々決勝の4試合では4ゴールを決める。プレミアリーグでは25試合5ゴールとチェルシー加入後最低の成績となったが、FAカップでは決勝のエヴァートン戦では同点ゴールと決勝ゴールの2ゴールを決め、タイトル獲得に貢献。一方、物議を醸す判定で敗れたCL準決勝のFCバルセロナ戦の試合後、カメラに向かって審判団に対する暴言を吐き、UEFAによりヨーロッパの大会で3試合の出場停止処分を受ける。
2009-10シーズンは開幕前に移籍を希望したが、最終的に契約を延長し、カルロ・アンチェロッティ新監督のもとで残留することを決意。老獪な手腕を持つアンチェロッティ監督のもとで見事に復活を遂げ、プレミアリーグ開幕戦のハル・シティ戦で2ゴールを記録。その後も重要なゴール、アシストを記録し続け、開幕11試合の時点で8ゴールというハイペースで量産。2009年11月29日、アウェイのアーセナル戦ではFKからの直接ゴールを含む2ゴールにより勝利をもたらす。2010年1月からアフリカネイションズカップ出場のため1か月間チームを離れるが、復帰後も勢いは止まらず、3月24日のポーツマスFC戦のゴールによって自身のキャリア初となる公式戦30ゴールを記録。5月9日、プレミアリーグ最終節ウィガン戦でハットトリックを達成し、マンチェスター・ユナイテッドとのデッドヒートを制しての4シーズンぶり4度目の優勝をもたらす。さらにリーグ戦でのゴール数は自己ベストを上回る29ゴールとなり、2度目のリーグ得点王のタイトルを獲得。シーズン102得点という記録を叩き出した攻撃陣をランパードと共に牽引し続けた。5月16日にはFAカップ決勝のポーツマス戦でFKによる決勝ゴールを決め、5シーズンぶりの国内二冠をもたらす。これらの活躍もあり、二度目となるアフリカ最優秀選手に選ばれる。
2010-11シーズンも開幕戦のウェストハム戦でハットトリックを達成し、続くウィガン戦では3アシストを記録するなど好調を維持。ところが、2010年10月ごろから体調不良を訴えるようになり、11月8日にマラリアに感染していたことが発覚し、チームを離脱。しばらくして回復したもののコンディションに問題を抱えるようになり、36試合11ゴールに終わる。
2011-12シーズン、プレミアリーグ第2節ノリッジ・シティ戦でGKと衝突し、脳震盪を起こすアクシデントに見舞われ、しばらくの間戦線を離脱。復帰後はクラブとの契約交渉で揉めていたことも影響してか調子が上がらずにいた。2012年3月10日のストーク・シティ戦でゴールを決め、アフリカ出身の選手では初となるプレミアリーグ通算100ゴールを達成。この年のプレミアリーグでのチェルシーは過去10年間で最低の6位と低迷、自身も24試合5ゴールという成績に終わる。しかし、ロベルト・ディ・マッテオ監督が就任してからはカップ戦で結果を残しており、5月5日、FAカップ決勝のリヴァプール戦では決勝ゴールを決め、タイトル獲得に貢献。そしてCLでは4月12日のバルセロナとの準決勝第1戦でゴールを決め、このゴールがファイナル進出に大きく役立つ。5月19日、決勝のバイエルン・ミュンヘン戦では敗色濃厚となった後半終了間際にCKから起死回生の同点ゴールを決める。延長戦に入り、フランク・リベリを倒してPKを与えてしまうが、ペトル・チェフのファインセーブによって救われる。決着を委ねるPK戦では1点リードの場面で5人目のキッカーとして登場し、これを確実に決めたことでチェルシーは悲願だった初のビッグイヤーを獲得。決勝のMOMに選ばれたドログバは欧州制覇の栄冠を置き土産に8年間過ごしたブルースを退団する。ちなみにチェルシー在籍時は9回の決勝で9ゴールを決めるという無類の勝負強さを見せている。
2012年6月19日、中国スーパーリーグの上海申花に週休20万ポンドという高額年俸での2年契約で移籍することが発表。元チームメイトであるアネルカとのコンビが復活することなり、11試合8ゴールと好成績を挙げていたが、給与未払いのトラブルによりわずか半年で退団する。
2013年1月28日、トルコ・スュペル・リグのガラタサライに1年半の契約で移籍。新天地でのデビュー戦となったアクヒサル・ベレディエシュポル戦で途中出場からわずか5分後に初ゴールを決める。4月9日、CL準々決勝レアル・マドリード戦でゴールを決める。5月12日、フェネルバフチェとのダービーマッチでは同郷のエマニュエル・エブエと共に相手サポーターから人種差別的なチャントを受ける。
2年目となった2013-14シーズンは公式戦27試合11ゴールという成績を残す。シーズン終了後、契約満了により退団。
2014年7月25日、監督に復帰したモウリーニョからの誘いにより、古巣であるチェルシーFCに1年契約で復帰。2014年10月21日、CKのNKマリボル戦でチェルシー復帰後初ゴールを挙げる。しかし、年齢的な衰えが見えていたこともあって新たな世代が台頭するようになったチェルシーでは以前のような絶大な存在感を発揮できなかった。2015年5月24日のサンダーランド戦がチェルシーでの最後の試合となり、シーズン終了後に退団する。
2015年7月27日、MLSのモントリオール・インパクトに18か月間の指定選手としてフリートランスファーで加入。移籍後初スタメンとなった9月5日の試合ではMLS初ゴールを含むハットトリックを達成。ここからリーグ戦5試合で7ゴールを記録し、9月の月間最優秀選手に選出。レギュラーシーズンでは11試合11ゴールという活躍を見せ、チームを初のMLSカップ・プレーオフに導く。
2016年シーズン開幕前には古巣であるチェルシーにコーチとして復帰する話が浮上したが、インパクトへの残留を決意。膝の負傷のため人工芝での出場を拒否するという話も出たが、2016年7月21日のMLSオールスターに出場し、アーセナル相手にゴールを決めている。2年目は22試合10ゴールと前年ほどの活躍はできなかったが、チームをカンファレンスプレーオフ決勝にまで導いている。しかし、シーズン途中にスタメンを外されたことでプレーを拒否するなどの騒動を起こしたこともあり、退団となる。
しばらくフリーの期間を経て、2017年4月12日、北米サッカーリーグ(USL)のフェニックス・ライジングFCにサッカー界では史上初となる選手兼共同オーナーとして加入。6月10日のデビュー戦では1ゴール1アシストの活躍を見せる。10月20日のポートランド・ティンバー戦ではゴールから40mほどの位置から強烈なFKを決め、話題となる。
2018年シーズンは8試合4ゴールと出場機会は少なかったが、チームはUSLカンファレンスリーグで優勝。シーズン終了後の11月21日、40歳での現役引退を表明。
2002年7月にコートジボワール代表に初めて招集され、9月の南アフリカ戦で24歳での代表デビューを果たす。2003年2月11日のカメルーンとの親善試合で代表初ゴールを記録。6月8日のアフリカネーションズカップ2004予選のブルンジ戦ではハットトリックを記録。以降、代表のエースとして定着する。
2004年6月からスタートした2006 FIFAワールドカップ・アフリカ予選ではコロとヤヤのトゥーレ兄弟、エマニュエル・エブエらと共にタレントが揃っていたことから初出場への期待はこれまでにないくらい高まっていた。そんな中でエースとしてチームを牽引し、9試合9ゴールの大活躍によってサミュエル・エトーを擁するカメルーンを押しのけてコートジボワールをワールドカップ初出場に導く。帰郷するたびに南北の地域対立による内戦によって荒んでいく祖国に心を痛めていたドログバは、本大会後出場が決定した直後のインタビューにおいて「これでコートジボワール人が一致団結できる(ドログバは南部出身、一方の主力であるココとヤヤのトゥーレ兄弟は北部出身)ことを証明した。どうか対立する人たちはすべての武器を置いて下さい。そして選挙で争いを解決して下さい」と心に響くスピーチをおこない、1週間後の停戦合意に重要な役割を果たす。ドログバが「コートジボワールの英雄」となった瞬間でもあった。
2006年1月、エジプトで開催されたアフリカネーションズカップ2006にキャプテンとして出場。準々決勝のカメルーン戦のPK戦では誰も失敗することなく2巡目に突入する異例の事態となったが、2度とも成功させ、勝利に貢献。準決勝のナイジェリア戦では決勝ゴールを決め、チームを1992年大会以来のファイナル進出に導く。決勝では開催国エジプトと対戦し、PK戦までもつれ込むが、1人目のキッカーとしてまさかの失敗。結果、準優勝に終わり、タイトル獲得を逃す。
2006年6月、ドイツで開催された2006 FIFAワールドカップに出場。初戦のアルゼンチン戦では2点のビハインドを背負った後半37分にワールドカップ初ゴールを決め、一矢を報いる。続くオランダ戦でも前線するが及ばず、連敗で早くもグループリーグ敗退が決定。累積警告によって出場停止となったセルビア・モンテネグロ戦でチームは歴史的な初勝利を挙げるが、強豪揃いの死のグループを勝ち残ることはできなかった。
2008年1月にガーナで開催されたアフリカネーションズカップ2008では3ゴールを記録しベスト4に進出するが、準決勝で前回決勝で敗れたエジプトに再び敗退に追い込まれる。同年6月からの2010 FIFAワールドカップ・アフリカ予選では5試合6ゴールを記録し、8勝4分け無敗の圧倒的強さで2大会連続の出場を決める。2010年1月、アンゴラで開催されたアフリカネーションズカップ2010では優勝候補筆頭と見られていたが、ベスト8止まりとなり、自身も1ゴールのみとなった。
2010年6月、南アフリカで開催された2010 FIFAワールドカップに出場。ところが、大会直前の日本との親善試合で田中マルクス闘莉王と交錯した際に右ひじを骨折。本大会出場は絶望的と見られていた。それでも初戦のポルトガル戦では後半途中からギブスを付けて強行出場するが、スコアレスドローとなる。第2戦のブラジル戦ではスタメンとして出場。3点を奪われ敗色濃厚となった中で後半34分にヘディングシュートを決め一矢を報いる。第3戦の北朝鮮でフル出場し、チームは勝利するが、1勝1分1敗でグループリーグ敗退となる。
2012年1月、ガボンと赤道ギニアで共同開催となったアフリカネーションズカップ2012に出場。準々決勝の赤道ギニア戦で2ゴールを決めるなど、大会3ゴールの活躍によって三度目のファイナル進出を果たす。決勝のザンビア戦では試合中に絶好の機会で得たPKのキッカーを務めるが、これを失敗。チームはPK戦で敗れ、三度目の正直での優勝は果たせなかった。
2014年6月、ブラジルで開催された2014 FIFAワールドカップに出場。大会直前の親善試合である6月2日のボスニア・ヘルツェゴビナ戦で代表通算100試合出場を達成していたが、すでに36歳となり衰えも見られていたことからスーパーサブという立場となっていた。グループリーグ初戦の日本戦では本田圭佑のゴールで先制された後半17分に切り札として投入される。すると、ドログバの登場だけで会場の空気が変わり、チームは浮足立った日本を相手に逆転勝利を飾る。第2戦のコロンビア戦も後半15分に投入されるが、敗戦。初の決勝トーナメント進出を賭けた第3戦のギリシャ戦ではスタメンとして出場するが、自身がベンチに下がった後に土壇場での逆転を許し、またもグループリーグ敗退となる。大会後の8月8日、代表からの引退を発表。
| シーズン | 国 | クラブ | リーグ | 試合 | 得点 |
|---|---|---|---|---|---|
| 1998-99 | ル・マン | ディヴィジョン・ドゥ | 2 | 0 | |
| 1999-00 | ル・マン | ディヴィジョン・ドゥ | 30 | 7 | |
| 2000-01 | ル・マン | ディヴィジョン・ドゥ | 11 | 0 | |
| 2001-02 | ル・マン | ディヴィジョン・ドゥ | 21 | 5 | |
| ギャンガン | ディヴィジョン・アン | 11 | 3 | ||
| 2002-03 | ギャンガン | リーグ・アン | 34 | 17 | |
| 2003-04 | マルセイユ | リーグ・アン | 35 | 19 | |
| 2004-05 | チェルシー | プレミアリーグ | 26 | 10 | |
| 2005-06 | チェルシー | プレミアリーグ | 29 | 12 | |
| 2006-07 | チェルシー | プレミアリーグ | 36 | 20 | |
| 2007-08 | チェルシー | プレミアリーグ | 19 | 8 | |
| 2008-09 | チェルシー | プレミアリーグ | 24 | 5 | |
| 2009-10 | チェルシー | プレミアリーグ | 32 | 29 | |
| 2010-11 | チェルシー | プレミアリーグ | 36 | 11 | |
| 2011-12 | チェルシー | プレミアリーグ | 24 | 5 | |
| 2012 | 上海申花 | スーパーリーグ | 11 | 8 | |
| 2012-13 | ガラタサライ | スュペル・リグ | 13 | 5 | |
| 2013-14 | ガラタサライ | スュペル・リグ | 24 | 10 | |
| 2014-15 | チェルシー | プレミアリーグ | 28 | 4 | |
| 2015 | モントリオール・インパクト | MLS | 11 | 11 | |
| 2016 | モントリオール・インパクト | MLS | 22 | 10 | |
| 2017 | フェニックス・ライジング | USL | 13 | 9 | |
| 2018 | フェニックス・ライジング | USL | 8 | 4 |
2018年、モナコに拠点を置き、モナコ大公アルベール2世の後援を受け、人々が互いに疎遠になっている世界中の地域で活動する独立組織である平和とスポーツの副会長に任命される。
2019年12月2日、ドログバはジャーナリストのサンディ・ヘリベールと共にパリで2019年のバロンドール授賞式の共同司会を務め、その後も2024年の授賞式まで務めている。
2021年6月、サッカーと祖国の平和回復への貢献により、 RUSTAから名誉学位を授与される。
2022年にコートジボワール・サッカー連盟の会長選に立候補するが、僅差で落選。
強靭なフィジカルと高い得点能力を活かし、ターゲットマンとしてボールを収めるだけでなく、ラインブレイカーとしても活躍するセンターフォワード。モウリーニョ監督から絶大な信頼を得ていたように繊細なボールタッチ、両足で放つ精確なシュート、世界最高峰のポストプレー、そして何より重要な試合で必ず結果を出す勝負強さを有した現代的なストライカーだった。
やはり最大の特徴は並外れた身体能力であり、走れば速く、ボディコンタクトには無類に強い。相手ディフェンダーとの競り合いでは理不尽ともいえるほど圧倒的な強さを誇り、シンプルにボールを放り込まれても、その体格とパワーで押し切ってしまう。単に力が強いだけでなく、そのパワーをボールキープやシュートに効果的に変換する技術を持っており、背中でボールを受けて体を入れ、相手を完全に背負った状態からでもターンしてシュートまで持ち込むことができた。
左右どちらの足でもパワフルなシュートを放つことができ、ミドルレンジからの強烈なシュートも得意とし、FKからのゴールもレパートリーに入っている。それでいて冷静にコースを狙ったシュートも上手く、ゴールキーパーが反応できないコーナーを正確に突く技術を持っていた。ゴール前での嗅覚も鋭く、わずかなスペースやチャンスを見逃さない。シュートの選択肢も豊富で、状況に応じて最適なシュート方法を選択できる判断力も持ち合わせている。どんなに厳しいマークを受けていても、一瞬の隙を見逃さず、そこから確実にゴールを奪う集中力は並外れていた。
189cmという長身を活かしたヘディングも大きな武器であり、空中戦での強さは圧倒的で、クロスボールに対して競り勝つ確率が非常に高かった。高さだけでなく、ジャンプのタイミング、ボールへの飛び込み方、そして着地後のバランスまで、すべてが計算されており、セットプレーの守備でも高さを活かして貢献していた。
ゴール以上に前線で体を張ってボールをキープし、味方の上がりを待つポストプレーは世界最高レベルと言われ、足元のテクニックそのものはスバ抜けてうまいわけではないが、身体能力と身体の使い方のうまさによってしっかりとボールをキープすることができ、背中でボールを受け、強靭なフィジカルで相手ディフェンダーを背負いながら、周囲の味方にパスを供給する能力は、チェルシーの攻撃において非常に重要な役割を果たしていた。ランパードが中盤の選手でありながらあれだけの得点力を有していたのも、ドログバが攻め上がる時間を作るからだった。アバウトなボールだろうと収めてしまうため、ボールの預けどころとしてこれほど頼もしい選手もなかなかいない。それでいて視野の広さと正確なパス技術を持ち、決定的なラストパスを供給する場面も数多く見られた。
攻撃だけでなく守備面でも献身的に働き、ウリーニョ監督のもとでは、守備時の役割も明確に与えられており、前線からのプレッシングや相手ディフェンスラインへのプレッシャーを欠かさなかった。チーム全体のバランスを保つために走り回る姿勢は、多くのチームメイトから信頼を得ていた。ただし、労を惜しまない守備が災いしてファウルが多く、カードを貰って出場停止をたびたび喰らうのが欠点となっていた。
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最終更新:2025/12/06(土) 07:00
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