ガブリエル・バティストゥータ(Gabriel Omar Batistuta , 1969年2月1日 - )とは、アルゼンチンの元サッカー選手である。元サッカーアルゼンチン代表。
現役時代のポジションはFW。185cm73kg。利き足は右足。
選手引退後は、ポロの選手として活躍している模様…。
アルゼンチン・サンタフェ出身。1990年代を代表するストライカー。イタリアのセリエAにおいて、長年活躍し、セリエAの外国人通算得点記録である200得点を保持している。アルゼンチン代表でも78試合56ゴールと当時の最多得点記録保持者となった。FIFAワールドカップに3度エースストライカーとして出場。1991年と1993年のコパ・アメリカ連覇に貢献している。
破壊力抜群の右足と、多彩なシュートテクニックでゴールを量産。打点の高いヘディングやマークを外す動きも得意とした。強引な突破から、猛々しく長髪をなびかせゴールに迫る勇壮な姿で「レ・レオーネ(獅子王)」と呼ばれた。また、豪快かつ強烈なシュートを放つため、彼のゴールは「バティ・ゴール」と呼ばれ、ファンを魅了した。
1990年からフィオレンティーナに移籍し、1994‐95シーズンのセリエAでは得点王にも輝き、1995‐96シーズンでコッパ・イタリアで優勝を果たすなど多大な功績を残す。チームがセリエBに降格して、多くの名選手が他のチームに移籍しても、彼はフィオレンティーナに残り続けてきたため、フィレンツェの英雄とも呼ばれた。本当にフィオレンティーナに愛していた男だった。
しかし、2000年にASローマに移籍。そこで初のスクデットを獲得。そのあとは、2003年にインテルにローン移籍し、最後は2005年3月に、カタールのアル・アラビで選手としてのキャリアを終わらせた。本当はフィオレンティーナでキャリアを終わらせたかったなど、やはりフィオレンティーナに対する愛着心は変わらなかったらしい。
日本でも人気の高い選手であり、1998 FIFAワールドカップでの日本の歴史的な初試合において決勝ゴールを決めた選手としても知られている。
1969年6月1日、アルゼンチン北部のサンタフェ州レコンキスタで生まれる。父親が養鶏場を経営していたことから毎日鶏肉と卵を食べて育ち、肥満児だったことで友達から「エル・ゴルド(おデブちゃん)」とからかわれていた。肥満対策からスポーツを始めることにするが、彼が興味を持ったのはサッカーではなくバスケットボールだった。
1978年に地元開催のFIFAワールドカップでアルゼンチンが優勝し、そのときのエースだったマリオ・ケンペスの活躍に触発されてサッカーに興味を持つようになる。子供たちで草サッカーに興じ、大会に出るため皆でチーム「グルッポ・アッレグリーア」を結成。とはいえ、このときはまだバスケと平行してサッカーを楽しむというレベルであり、父親が学業や家業の手伝いをおろそかにしないことを求めたため、地元の大会に出場する程度にとどまっていた。
16歳で地元チームのプラテンセのジュニアチームに所属。レコンキスタの州選抜チームとしてサンタフェ州の選手権に出場した際、ニューウェルズ・オールドボーイズの下部組織相手に2ゴールを決めて勝利する。このとき相手チームの監督マルセロ・ビエルサが才能を高く評価したことで、彼の運命は大きく変わるのだった。
1987年、17歳のときにニューウェルズ・オールドボーイズの下部組織に入団し、ここでようやく本格的にサッカー選手のキャリアをスタートさせることになる。マルセロ・ビエルサに徹底的に鍛えられ、食生活の改善もあって82㎏の体重はあっという間に75㎏まで落ち、サッカー選手らしい体つきとなる。ずっと我流でプレーしていたこともあって技術的にはやっと及第点というレベルだったが、天性の得点感覚は一級品であり、家業を手伝っていたおかげで頑丈な身体を持ち、爆発的なパワーから「エル・カミオン(ダンプカー)」のニックネームが付けられていた。
1988年には本格的にサッカーを始めてまだ1年ながらもトップチーム昇格を果たす。プリメーラ・ディヴィシオンでのデビューも果たし、主力として22試合7ゴールを記録。また、コパ・リベルタドーレスでは5試合3ゴールをマークし、チームの準優勝に貢献する。
1989年に名門リーベル・プレートに移籍。シーズン当初はレギュラーとして起用されるが、途中解任された監督の後任としてやってきたダニエル・パサレラに評価されず、ベンチに追いやられ、出場の機会を失ってしまう。リーベルはこの年リーグ優勝を果たすが、出番のなかったバティは移籍を直訴する。
1990年、リーベルのライバルクラブであるボカ・ジュニアーズに移籍。当初は本来のポジションでプレーできなかったこともあり、なかなかベストコンディションを掴めずにいたが、1991年初頭に就任したオスカル・タバレス監督によって、サイドアタッカーからセンターフォワードにコンバートされ、ストライカーとして頭角を現す。1991年からのクラウスーラ(後期リーグ)では19試合で11ゴールを叩き出し、優勝に貢献。一躍、アルゼンチンでも若手の有望なストライカーとして注目される。
1991年夏、コパ・アメリカ1991での活躍が認められ、イタリア・セリエAのフィオレンティーナへ移籍する。第2節のジェノア戦で早速セリエ初ゴールを記録すると、第20節フォッジャ戦ではイタリアでは初のハットトリックを達成。世界最高峰のリーグと呼ばれた当時のセリエAにおいて移籍1年目にして27試合13ゴールという結果を残す。ヴィオラサポーターはロベルト・バッジョに代わる新たなクラブの象徴として期待を寄せるのだった。
1992-93シーズン、チームはシュテファン・エッフェンベルク、ブライアン・ラウドルップ、フランチェスコ・バイアーノらを補強。前年よりもサポートに恵まれたこともあり、開幕からゴールを決めていく。ところが、フロントとのいざこざで監督が交代すると一時は2位に居たチームは急失速。低調なチームの中で自身も9試合ノーゴールという時期があったが、それでも前年を上回る16ゴールを記録。しかし、チームは54年ぶりのセリエB降格となる。
セリエB降格となったことで現地のサポーターですらバティがチームを去ることを覚悟していたが、チームに愛着を抱くバティは残留を決意。1993-94シーズンのセリエBではクラウディオ・ラニエリ監督のもとで立て直したチームにおいて16ゴールを記録。セリエB優勝と共に1年でのセリエA復帰を決める立役者となった。このことでフィレンツェのシンボルとなり、市民から敬愛される選手となる。
セリエAに舞い戻ってきた1994-95シーズンは開幕戦のカリアリ戦でゴールを決めたのを皮切りに、11月27日のサンプドリア戦まで開幕から11試合連続ゴールという偉業を成し遂げ、セリエA新記録を達成する。この年、司令塔のマヌエル・ルイ・コスタが加入し、セリエAでもトップクラスの破壊力を持ったホットラインを形成。バイアーノを合わせた攻撃トリオを擁したフィオレンティーナはリーグの台風の目として躍進する。最終的な順位こそ10位に落ち着いたものの、キャリアハイを大きく上回るシーズン26ゴールを記録し、セリエA得点王のタイトルを獲得。
1995-96シーズンよりチームのキャプテンに任命される。このシーズンでもルイ・コスタ、バイアーノとのコンビネーションは冴え渡り、クラブの15試合無敗の記録達成に貢献し、19ゴールで最終的にチームをリーグ戦4位に押し上げる。また、コッパ・イタリアではアタランタとの決勝においてホーム&アウェイの2試合連続でゴールを決め、クラブに21年ぶりとなるタイトルをもたらす。
1996-97シーズンは13ゴールとやや物足りない成績に終わったが、1997年2月にはイタリアでの通算100ゴールを記録。UEFAカップウィナーズカップでは7試合4ゴールを記録し、ベスト4進出に貢献。。チームで確固たる地位を築き、市民に愛されたバティは「フィレンツェの英雄」と称えられ、本拠地アルテミオ・フランキの前には、ファンによって彼の銅像が建てられた。
1997-98シーズンは開幕戦のウディネーゼ戦でハットトリックという派手なスタートを切ると、自身にとって2度目の20ゴール超えとなるシーズン21ゴールを記録。しかし、チームは上位に進出はするものの、リーグのタイトルを奪うだけの力はなく、優勝争いに加わることはできずにいた。クラブに愛着はあるものの、リーグのタイトルを欲するバティは移籍を考えるようになる。
1998-99シーズン、クラブは優勝請負人と呼ばれる名将ジョヴァンニ・トラパットーニ監督を招聘。さらに、これまでにない大型補強を敢行しスクデット獲得への本気を見せる。これは移籍に傾き始めたバティを引き留めるためのクラブ側の誠意でもあった。初のスクデットを目標に並々ならぬモチベーションでシーズンに入ると、第3節ACミラン戦、第17節カリアリ戦と二度のハットトリックを達成するなど開幕から絶好調を維持し、17試合17ゴールというハイペースでゴールを量産する。エースの爆発ぶりに引っ張られたチームは前半戦を首位で折り返し、フィレンツェ市民は念願のスクデットへ大きく期待を膨らませる。ところが、優勝争いが佳境を迎えたシーズン終盤戦に左足肉離れによって無念の1か月の戦線離脱を強いられる。エースの離脱に加え、エジムンドがカーニバル参加のためブラジルに帰国したチームは失速してしまい、結局3位でシーズンを終える。得点王争いでも離脱期間が響き、最終節に得点を挙げたウディネーゼのアモローゾに追い抜かれ、2度目の得点王を逃す。
1999-00シーズン、クラブはさらなる大型補強をおこない、エンリコ・キエーザ、アンジェロ・ディ・リービオ、プレドラグ・ミヤトビッチ、アベル・バルボが加入。ところが、前に選手が偏り過ぎた前輪駆動の編成となったことでチームバランスは崩れ、上位から引き離されてしまう。自身のキャリア2位となる23ゴールと孤軍奮闘したものの、チームは7位に終わる。一方、初出場となったUEFAチャンピオンズリーグではマンチェスター・ユナイテッド戦、アーセナル戦でゴールを決めるなど存在感を見せたが、こちらも2次リーグで敗退。シーズン終了後、トラッパトーニ監督が退任したこともあり、スクデット獲得を実現させるためにとうとう9年間を過ごした愛するクラブを出ることを決意する。
2000年5月、セリエAのASローマに移籍することが決定。移籍金は3490万ユーロと当時としては破格の金額であり、30歳以上に支払われた金額としては史上最高額となった。2000-01シーズンセリエA第2節レッチェ戦で早速シーズン初ゴールを記録。第5節のブレシア戦ではハットトリックを達成するなど、期待通りの働きを見せる。その後もフランチェスコ・トッティ、ヴィンチェンツォ・モンテッラと共に強力な攻撃陣を形成し、チームは序盤から首位を走り続ける。2000年11月26日には、アルテミオ・フランキで古巣であるフィオレンティーナとの対戦が実現し、らしい右足での豪快なボレーシュートを決める。このときバティはゴールセレブレーションを拒否し、試合後は涙を浮かべてスタジアムを去っている。2001年6月17日、ホームでのパルマAC戦でゴールを決め、勝利したことでローマの18年ぶりのスクデット獲得が決定。28試合20得点で大きく貢献したバティ自身にとっても愛するクラブを出てまで欲した悲願のリーグタイトル戴冠となった。
2001-02シーズンは前年のスクデット獲得で全てを使い果たしてしまったのか、怪我や年齢的な衰えによってこれまでのような怖さが薄れてしまい、次第にスタメンから外れることも多くなる。これまでが嘘のようにゴールも決められなくなり、シーズン6ゴールとイタリアに渡ってからワーストの成績に終わる。
2002-03シーズンもアントニオ・カッサーノの台頭、トッティのFW起用もあってさらに出場機会が減ってしまう。
2003年1月、セリエAのインテル・ミラノにレンタル移籍。負傷で離脱したエルナン・クレスポの代役として白羽の矢が立った形となったが、12試合2ゴールと目立った活躍はできなかった。2003年12月16日のコモ戦のゴールがセリエAでのラストゴールとなる。
2003年夏、13年間を過ごしたイタリアを離れてカタール・スターズリーグのアル・アラビへ移籍。慣れない中東での生活となったが、加入1年目の2003-04シーズンは18試合25ゴールとバティゴールを大量に叩き込み、リーグ得点王に輝く。それまでカタールの伝説的選手マンスール・ムフタが保持していた最多得点記録を塗り替える偉業の達成となった。
2004-05シーズンは怪我でほとんど稼働することができず、わずか3試合の出場に終わる。シーズン終了後、35歳での現役引退を表明。
1991年6月、アルゼンチン代表に初めて招集されると、6月27日のブラジルとの親善試合で22歳と26日でのフル代表デビューを果たす。その直後の7月にチリで開催されたコパ・アメリカ1991のメンバーに選出。グループリーグ初戦となったベネズエラ戦でスタメンに抜擢されると代表初ゴールを含めた2ゴールという最高の国際大会デビューを飾る。グループリーグではその後もゴールを決め、3試合連続ゴールを記録。決勝リーグでも勢いは止まらず、大一番となったブラジルとの初戦でも決勝ゴールを決め、勝利に貢献。最終戦となったコロンビア戦でも決勝ゴールを決め、アルゼンチンを優勝に導く。さらに大会6試合で6ゴールという荒稼ぎで得点王となり、センセーショナルな国際大会デビューとなる。そして一気にアルゼンチン代表のエースストライカーとなる。
1992年10月にサウジアラビアで開催されたキング・ファハド・カップ1992では準決勝のコートジボワール戦で2ゴールを決め、アルゼンチンの初優勝に貢献。1993年6月にエクアドルで開催されたコパ・アメリカ1993では、決勝のメキシコ戦で2ゴールを決めるなどチームトップの3ゴールを記録し、アルゼンチンを連覇に導く。その後の1994 FIFAワールドカップ南米予選では苦しむことになるが、大陸間プレーオフのオーストラリアとの第2戦で本大会出場へ導くゴールを決める。
1994年6月、アメリカで開催された1994 FIFAワールドカップに出場。ディエゴ・マラドーナ、クラウディオ・カニーヒア、アベル・バルボと共に形成した攻撃陣は大会でも屈指の破壊力を持ち、初戦のギリシャ戦では早速ハットトリックを達成。最高のワールドカップデビューを飾る。ところが、グループリーグ第2戦のナイジェリア戦に勝利した後、英雄マラドーナが禁止薬物の使用が発覚したことで大会を追放されるとチームは失速。ラウンド16のルーマニア戦でPKによるゴールを決めるが、ゲオルゲ・ハジの一撃に沈み敗退。自身はチームトップの4ゴールを挙げたが、不満の残る大会となった。
アメリカW杯後、リーベル・プレート時代に冷遇を受けたダニエル・パサレラが代表監督に就任。異常なまでに規律を重視するパサレラ監督は代表選手に「長髪禁止令」を発令し、これに反発したカニーヒアとフェルナンド・レドンドは代表を拒絶する。これに対し、バティはトレードマークの長髪を切って従う姿勢を見せる。1995年7月にウルグアイで開催されたコパ・アメリカ1995ではチリ戦の2ゴールなど、大会4ゴールで2度目となるコパ・アメリカ得点王に輝く。しかしチームは準々決勝で宿敵ブラジルに敗れる。
フランスW杯南米予選では当初はエースとして活躍していたが、パサレラ監督は愛弟子でもある成長著しいエルナン・クレスポを重用するようになり、1997年になって代表に呼ばれなくなってしまう。パサレラ監督との対立は論争を呼んだが、1998年になって代表に復帰。5月15日のボスニア・ヘルツェゴビナ戦でハットトリックを達成するなど、本大会前の親善試合では5試合7ゴールと絶好調ぶりを見せ、クレスポとのポジション争いを制して代表のエースの座を取り戻す。
1998年6月、フランスで開催された1998 FIFAワールドカップに出場。グループリーグ初戦ではこれが初めてのワールドカップの舞台となる日本と対戦。前半28分守備的に戦う日本の一瞬の隙を見逃さずにゴールを決め、勝利をもたらす。続くジャマイカ戦では、ワールドカップ史上初となる2大会連続でのハットトリックという記録を作り出す。ラウンド16のイングランド戦ではPKによるゴールを決める。その後クレスポとの交代でベンチに下がった後にチームは同点に追いつかれるが、PK戦で勝利している。準々決勝のオランダ戦はアリエル・オルテガの退場で10人となり、試合終了間際のデニス・ベルカンプのゴール前に敗れている。大会通算5ゴールを記録したが、またもタイトルには届かなかった。
自らをプロの世界に導いた恩師であるマルセロ・ビエルサ監督のもと、2002年6月に日本と韓国で開催された2002 FIFAワールドカップに出場。33歳となったこともあり、キャリアの絶頂期となったクレスポの控えになると予想する声もあったが、ビエルサ監督は本大会のFWに指名したのはバティだった。グループリーグ初戦のナイジェリア戦では3大会連続となるゴールを決める。しかし、続くイングランド戦、スウェーデン戦と不発に終わると、チームはまさかのグループリーグ敗退に終わる。大会後、代表からの引退を表明。
アルゼンチン代表通算77試合56ゴール。
2016年にリオネル・メッシが塗り替えるまでは代表の最多得点記録保持者だった。
| シーズン | 国 | クラブ | リーグ | 試合 | 得点 |
|---|---|---|---|---|---|
| 1988-89 | ニューウェルズ | プリメーラ・ディヴィシオン | 24 | 7 | |
| 1989-90 | リーベル・プレート | プリメーラ・ディヴィシオン | 21 | 4 | |
| 1990-91 | ボカ・ジュニアーズ | プリメーラ・ディヴィシオン | 34 | 13 | |
| 1991-92 | フィオレンティーナ | セリエA | 27 | 13 | |
| 1992-93 | フィオレンティーナ | セリエA | 32 | 16 | |
| 1993-94 | フィオレンティーナ | セリエB | 26 | 16 | |
| 1994-95 | フィオレンティーナ | セリエA | 32 | 26 | |
| 1995-96 | フィオレンティーナ | セリエA | 31 | 19 | |
| 1996-97 | フィオレンティーナ | セリエA | 32 | 13 | |
| 1997-98 | フィオレンティーナ | セリエA | 31 | 21 | |
| 1998-99 | フィオレンティーナ | セリエA | 28 | 21 | |
| 1999-00 | フィオレンティーナ | セリエA | 30 | 23 | |
| 2000-01 | ASローマ | セリエA | 28 | 20 | |
| 2001-02 | ASローマ | セリエA | 23 | 6 | |
| 2002-03 | ASローマ | セリエA | 12 | 4 | |
| インテル(loan) | セリエA | 12 | 2 | ||
| 2003-04 | アル・アラビ | スターズリーグ | 18 | 25 | |
| 2004-05 | アル・アラビ | スターズリーグ | 3 | 0 |
引退後はオーストラリアのパースに移住。アルゼンチンでコーチの資格を取得するがサッカー界からは離れ、建築会社の運営にも携わっていた。
2011年には出身地である母国アルゼンチンのサンタフェ州レコンキスタ近郊に複数の農場を所有。同時にでポロ選手として活躍。
2014年には長年酷使した右足首の痛みに悩まされることになり、歩行も困難になるほどの激痛で、苦しみに堪えかねて担当医に右足の切断を懇願するほどだったことが明らかにされる。それでも医者のアドバイスと複数にわたる手術で症状も和らぎ、現在は軽い運動ならこなせる程度に回復したという。
2015年、ACFフィオレンティーナの殿堂入り。またスクデット獲得に貢献したことが評価され、ASローマの殿堂入りを果たす。
問答無用の「バティゴール」で豪快にゴールネットを揺らす、パワー、スピード、テクニックを兼ね備えた究極のストライカー。ゴールへの執念とフィジカルの強さを武器に、多くの記録を打ち立てた歴史に残るセンターフォワードである。
圧倒的な得点能力と多彩なシュートバリエーションが特徴であり、代名詞でもある豪快なパワーシュートと正確なコントロールシュートを使い分ける技術は他のストライカーには真似できない独自の武器であった。ミドルレンジからのシュートだけでなく、ゴール前でのポジショニングの巧みさによって、こぼれ球を確実に得点に結びつける技術もある。また、FKからの弾丸シュートでゴールを決めることも多かった。
フィジカルも強く、ディフェンダーに囲まれながらも体勢を崩さずにシュートを打てるため、厳しいマークを受ける場面でも決定的なゴールを生み出すことが多かった。これに加えて、高い打点のヘディングシュートは、長身を生かした強力な武器となっていた。
動き出しの速さとポジショニングの巧みさも際立っており、常にゴールを狙う準備を怠らず、ボールを受ける前からゴールへの最短ルートをイメージしていた。そのため、味方のパスに対する反応が速く、最適な位置に瞬時に移動することで、ディフェンダーを置き去りにする場面が多かった。
弱点はスタミナ面であり、長時間にわたって高いパフォーマンスを維持することが難しく、試合終盤には動きが鈍くなることがあった。この弱点を補うために、彼は前半から全力で攻め続け、相手にプレッシャーを与える戦術を取っていた。
ニックネームは、数多く持っており、獅子王、バティ(Bati)、バティゴル(Batigol)、また、フィオレンティーナで銅像が建つほどの活躍をしたため、フィレンツェの英雄とも呼ばれている。日本のWOWOWでのセリエA中継では「狂乱の貴公子」「ランボー」と呼ばれていた。
フィオレンティーナ在籍時初期はゴールを挙げた際にイタリア建国の祖ジュゼッペ・ガリバルディを真似た「ガリバルティポーズ」をしてスタジアムを沸かせた。
1997年ごろからマシンガンをぶっ放す「マシンガンポーズ」をやるようになる。バティのゴールパフォーマンスといえばこっちを想像する人が多い。
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最終更新:2025/12/06(土) 03:00
最終更新:2025/12/06(土) 03:00
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