ロベルト・カルロス(Roberto Carlos da Silva Rocha, 1973年4月10日 - )とは、ブラジルの元サッカー選手、指導者である。元サッカーブラジル代表。
現役時代のポジションはDF(左サイドバック)。168cm80kg。利き足は左足。
ブラジル・サンパウロ州出身。現役時代は世界最高の左サイドバックと呼ばれ、敢な攻撃参加によりサイドバックの概念を変えた選手であり、「サッカー史上最も攻撃的な左サイドバック」と評されている。彼の左足から放たれる強烈なキックは「悪魔の左足」と呼ばれ、左足から放たれるフリーキックは威力、精度を兼ね備えた反則級の凶器として多くのGKを震え上がらせた。
1996年から2007年までスペイン1部リーグのレアル・マドリードに所属し、「銀河系軍団」と称されるスタープレーヤー軍団の一員としてリーガ優勝4回、UEFAチャンピオンズリーグ優勝3回と多くのタイトルをもたらしている。特に左サイドでのジネディーヌ・ジダンとのコンビネーションは銀河系軍団の最大の武器となっており、ジダンが中に入ったスペースに爆速で走り込む姿は当時のファンの記憶に鮮明に焼き付いている。
ブラジル代表でも数多くの栄光を手にしており、1992年にデビューしてから127試合に出場。FIFAワールドカップには3度出場しており、1998 FIFAワールドカップの準優勝と2002 FIFAワールドカップに貢献している。1997年6月3日のフランス戦で放ったあり得ない弾道の直接FKによるゴールは彼を語るうえで欠かせない伝説のゴールとなっている。
1973年4月10日、サンパウロ州にある小さな村ガルサで末っ子として生まれる。家族は両親と姉3人。家庭は貧しく、幼少期からコーヒー農園で働く両親を手伝い、数十キロ離れた学校には走って通っていたという。家計を助けるため学校を辞め、13歳の頃から繊維工場で働き始めるという苦難の少年時代を過ごしていた。
そんな彼の唯一の楽しみは、仕事終わりに仲間たちと興じるサッカーだった。工場で単調な流れ作業を繰り返す毎日に「サッカー選手になりたい」の想いを募らせていった。あるとき、地域の対抗戦で彼のプレーを見た地元クラブのスカウトの目にとまり、すぐに入団が決定。左SBのポジションを与えられると、持ち味の走力とキック力が注目されるようになる。生活の苦しさから午前中は仕事、午後は練習という生活が続いていたが、それを見かねたクラブの部長から父親を説得したこともあってサッカーに専念できるようになる。
15歳となった1988年に地元のウニオン・サンジョアンの下部組織に移籍。1989年にはサンパウロ州のクラブユース大会に出場し、準優勝したチームの主力として活躍する。翌年にはU-20ブラジル代表に選出され、ブラジル国内でも注目の若手となっていた。
1991年にウニオン・サンジョアンのトップチームに昇格。当時チームは2部にあたるカンピオナート・ブラジレイロ・セリエBに所属していたが、すぐにポジションを掴むと1年目は公式戦24試合1得点を記録。2年目は公式戦42試合に出場。
1992年8月にはアトレティコ・ミネイロにレンタル移籍し、ヨーロッパツアーに参加。スペイン遠征の3試合でインパクトを残し、後のヨーロッパ移籍での足掛かりを残している。本人も後にこのときにツアーに参加させてもらったことに感謝の言葉を述べている。
1993年にサンパウロ州の名門SEパルメイラスに移籍。当時のパルメイラスはイタリアの食品会社であるパルマラットがスポンサーについていたことから豊富な資金力によって戦力補強をおこなっており、ブラジル代表の中心選手だったジーニョを筆頭にエバイール、セザール・サンパイオ、エジムンド、リバウド、マウロ・シウバといった国内有数のスター選手を多く抱えているチームだった。そんなスター軍団の中でも20歳ながらすぐに主力に定着。サンパウロ州選手権に優勝すると、カンピオナート・ブラジレイロ・セリエAでは20年ぶりの優勝。パルメイラスの黄金期到来に貢献する。
1994年もサンパウロ州選手権とカンピオナート・ブラジレイロ・セリエAをそれぞれ連覇。すでにブラジル代表でも主力として定着しつつあったことからも欧州のビッグクラブから獲得オファーが舞い込むようになっていた。
1995年夏、イタリア・セリエAのインテル・ミラノに移籍。デビュー戦となったセリエA開幕戦のヴィチェンツァ戦で代名詞でもある直接FKによるゴールを決め、鮮烈な欧州デビューを果たす。続く第2節のパルマAC戦でもゴールを決め、順調なスタートを切る。しかし、シーズン途中にロイ・ホジソン監督が就任すると、本職の左SBではなく一列前の左SHで起用されるようになり本来の持ち味が出せなくなってしまう。加えて、イタリアの守備的なスタイルにもフラストレーションを溜め、シーズン終了後にマッシモ・モラッティ会長に移籍を直訴する。
1996年夏、スペイン・リーガ・エスパニョーラのレアル・マドリードに移籍。ファビオ・カペッロ監督はロベルト・カルロスが移籍可能になったことを知ったとき信じられず、会長のロレンソ・サンスにすぐにミラノへ行くように頼み、合意は24時間後に成立していたという。他にも、プレドラグ・ミヤトビッチ、ダヴォール・シュケル、クラレンス・セードルフなど大型補強をおこなったマドリーは圧倒的な強さでリーガを制覇。左サイドを鬼神の如く駆け抜けるロベカルの姿はマドリティスタの心を掴むのだった。
1997-98シーズンはユップ・ハインケス監督のもとでリーガでは成績不振に陥っていたが、UEFAチャンピオンズリーグでは決勝まで進出。決勝ではユヴェントスとの対戦となり、前評判ではユヴェントスが有利と予想されていたが、後半21分に左サイドからの高速クロスでミヤトビッチの決勝ゴールに繋げ、抜群の存在感でマドリーの32年ぶりのビッグイヤー獲得に貢献。
1998-99シーズンは1998年12月のトヨタカップで来日し、南米王者のCRヴァスコ・ダ・ガマと対戦。前半25分に左サイドから放ったクロスが相手のオウンゴールを誘い、先制ゴールを生み出す。チームはその後もゴールを決め、2度目のクラブ世界一に輝く。このシーズンではマドリーの選手の中で出場時間が最も長く、押しも押されぬ不動の左サイドバックとなっていた。
1999-00シーズンは成績不振によってジョン・トシャック監督が解任となり、後任にビセンテ・デル・ボスケが就任。CLでは決勝まで進出すると、同国対決となったバレンシアCFを破り、加入後2度目のビッグイヤーを獲得。
2000-01シーズン、クラブの会長にフロレンティーノ・ペレスが就任。ここからクラブはスター選手獲得による事業収益拡大化方針を打ち出し、00年にはルイス・フィーゴ、01年にジネディーヌ・ジダン、02年にロナウド、03年にデイヴィッド・ベッカムと、毎年のように大物選手が加入。既存の選手は冷遇されがちとなるが、ロベカルはラウール・ゴンザレス、イケル・カシージャスの生え抜き組と共に主力の地位を維持し、ロス・ギャラクティコス(銀河系軍団)の一員となる。銀河系軍団誕生1年目のシーズンにリーガのタイトルを獲得。
2001-02シーズンにジダンが加入。デル・ボスケ監督はジダンを左サイドハーフで起用し、攻撃時は左から中に入ってゲームメイクするジダンが作った大外のスペースにロベカルが爆速で走り込むスタイルが定着するようになる。デル・ボスケ監督は左サイドの広大なエリアを一人でカバーできるロベカルの能力に絶大な信頼を寄せており、ジダンが自由に振る舞えるのもロベカルの超人的なアップダウンがあってこそであった。そしてこの年のCLでは決勝でバイヤー・レヴァークーゼンと対戦。前半45分左サイドを駆け上がり、山なりのクロスをゴール前に送り、伝説となるジダンのダイレクトボレーによるゴールをアシスト。このスーパーゴールが決勝ゴールとなり、加入後3度目となる欧州制覇を達成。
2002-03シーズンでは盟友のロナウドが加入。29歳と選手としてのピークを迎え、12月のトヨタカップではオリンピアを破り、2度目のクラブ世界一を戴冠。リーガではレアル・ソシエダとの激しい優勝争いを演じ、勝利が絶対条件となった最終節のアスレティック・ビルバオ戦ではFKからの直接ゴールで勝ち越しゴールを奪い、勝利に貢献。自身にとって3度目となるリーガ優勝を果たす。
2003-04シーズンはフェルナンド・イエロ、クロード・マケレレという守備的な選手が移籍し、攻守のバランスが崩壊。さらにスター軍団をまとめあげていたデル・ボスケ監督が退任したことで銀河系軍団は崩壊へと歩んでいた。守備の面でたびたび批判に晒されるようになるが、それを持ち前の攻撃力で補い続けていた。2003年12月6日、カンプノウで開催されたエル・クラシコでは先制ゴールを決め、FCバルセロナ相手の勝利に貢献。しかしチームは無冠に終わる。
2005年クラブのEU外国籍の選手枠を空ける為にスペイン国籍を取得。さらにアルフレッド・ディ・ステファノを抜いてレアル・マドリードで最も多くの試合に出場した外国人選手となる。だが、フィーゴ、ロナウドの退団、ジダンの引退によってチームは様変わりし始め、ペレス会長も2006年2月に辞任したことで銀河系軍団は終焉となっていた。チームでも古参となり、34歳となっていたことから世代交代の波とは無縁ではなくなっていた。
2006-07シーズンはマドリーに誘ってくれた恩師のファビオ・カペッロが監督に復帰。依然として左サイドバックのレギュラーではあったが、怪我や後釜であるマルセロが加入したことで出場時間はこれまでよりも減っていた。CLラウンド16第2戦のバイエルン・ミュンヘン戦ではキックオフ早々にミスから失点を献上する失態を犯し、チームは敗退。戦犯としてメディアから批判の矢面に晒され、2007年3月9日にシーズン終了後の退団を表明。その後、残りのマドリーの時間で最後の奮闘を見せ、第36節レクレアティボ戦では試合終了間際に値千金の決勝ゴールを決め、30回目となるリーガ優勝に貢献。最終節のサンティアゴ・ベルナベウでのRCDマジョルカ戦がレアル・マドリードでのラストマッチとなった。
レアル・マドリードでは11シーズンに在籍し、公式戦512試合67ゴールを記録。明るく、人懐っこいキャラクターで長くチームメイトやサポーターから愛された。
2007年6月19日、祖国の英雄ジーコが監督を務めるトルコ・スュペル・リグの王者フェネルバフチェに2年契約で移籍する。8月25日のスィヴァススポルとのリーグ戦では、ダイビングヘッドでフェネルバフチェでの初ゴールを記録。新天地でも悪魔の左足でサポーターを魅了したが、シーズン終盤は怪我で欠場。チームもガラタサライに優勝を持っていかれる。
2008-09シーズンは先のEURO2008でスペイン代表を優勝に導いたルイス・アラゴネス監督が就任するが、ジーコの人脈で連れてきたブラジル人選手たちとアラゴネスが連れてきたスペイン人選手の間で対立が勃発。空中分解したチームはCLでは1勝もできずに敗退、リーグでも4位と不本意な成績に終わる。それでも個人としては公式戦50試合7得点と前年を上回る成績を残している。
2009-10シーズン、フェネルバフチェでの3年目を送っていたが、シーズン途中での退団を発表。
2010年1月、ブラジルのコリンチャンスへ2年契約で移籍。14年ぶりの母国復帰となった。コリンチャンスではロナウドと再びチームメイトとなる。6月4日、カンピオナート・ブラジレイロ・セリエAのインテルナシオナル戦では決勝ゴールを決め、チームの首位浮上に貢献。リーグ優勝は果たせなかったものの、リーグのベストイレブンに選出されるなど、健在ぶりを見せる。
2011年シーズンでは1月16日のポルトゲーザ戦でCKからの直接ゴールを決める。しかしその直後のコパ・リベルタドーレスで敗れた際にサポーターから脅迫を受ける。身の危険を感じ、クラブに対して契約の解除を要求し、受諾されたことで退団となる。
2011年2月、ロシア・プレミアリーグのアンジ・マハチカラに2年契約で移籍。アンジではこれまでと違うボランチとしてプレーし、3月8日にはキャプテンに任命される。4月25日のディナモ・モスクワ戦でPKを決め、移籍後初ゴールを記録。9月30日、ガジ・ガジエフの解任に伴いアンジの暫定監督に就任し、その後アンドレイ・ゴルデエフが暫定監督に就任してからは選手兼コーチとなる。アンジでは新境地を開き、公式戦28試合5得点を記録するが、シーズン中の3月と6月の二度に渡ってバナナを投げつけられ、人種差別の被害に遭う。シーズン終了後の2012年8月に現役を引退。
1991年にU-20ブラジル代表に選出。南米ユース選手権に優勝に貢献し、6月にはポルトガルで開催されたFIFAワールドユース選手権1991に出場。決勝で黄金世代の揃ったポルトガルに敗れたが、準優勝に貢献し、大会の優秀選手に選ばれている。
1992年3月、まだプロサッカー選手として大きな実績を残せていない時期だったが、カルロス・アウグスト・パレイラ監督からブラジル代表に招集される。3月26日のアメリカとの親善試合で19歳でのフル代表デビューを飾る。その後も何度か代表に選出されるが、当時ブラジルの左SBにはレオナルドとベテランのブランコがいたことからレギュラー獲得に至らず、21歳という経験の浅さも考慮されて1994 FIFAワールドカップのメンバーから落選する。
アメリカ・ワールドカップ後は左SBのレギュラーに定着するようになり、1995年6月6日アンブロカップの日本戦で弾丸ミドルシュートを叩き込み、代表初ゴールを記録。7月にウルグアイで開催されたコパ・アメリカ1995が初の国際大会となったが、レギュラーとして出場。敗れはしたが、決勝のウルグアイ戦のPK戦では最初のキッカーを任され、成功している。
1996年7月にはU-23ブラジル代表としてアトランタオリンピックに出場。日本では「マイアミの奇跡」と呼ばれた日本戦にも出場し、主力として銅メダル獲得に貢献。ブラジルが敗れた準決勝のナイジェリア戦ではオウンゴールを献上した他、守備対応の甘さから失点に関与してしまう。
1997年6月3日、トゥルノワ・ドゥ・フランスのフランス戦では前半25分にゴール正面35mの位置から放ったFKがボールが一旦右に行った後、左方向に鋭くカーブして、ゴールポストに当たりゴールインするという「あり得ない軌道」のゴールを決める。このゴールは史上最高のフリーキックとして現在でも語り継がれる伝説のスーパーゴールとされており、「悪魔の左足」の異名を世界中に轟かせることとなった。後にフランスの科学者チームがこの「「凶器の弾丸」と呼ばれるボールの軌道を説明する論文を発表している。
その直後には、ボリビアで開催されたコパ・アメリカ1997に出場。ロマーリオ、ロナウドの「Ro - Roコンビ」を擁したブラジルは圧倒的な強さで勝ち抜き、決勝で地元ボリビアを3-1と下して5度目の優勝を果たす。12月にサウジアラビアで開催されたFIFAコンフェデレーションズカップ1997の優勝にも貢献し、いくつものビッグタイトルを手にしたことで「世界最高の左サイドバック」の称号を得るようになる。この年のFIFA世界最優秀選手賞の選考ではロナウドに次ぐ2位の得票を獲得している。
1998年6月、フランスで開催された1998 FIFAワールドカップに出場し、左SBの主力として全7試合にフル出場。優勝候補筆頭と見られたブラジルは前評判通りの攻撃力でトーナメントを勝ち抜いていき、準々決勝のデンマーク戦では軽率なオーバーヘッドでのクリアミスによってブライアン・ラウドルップのゴールを献上することもあったが、死闘となった準決勝のオランダ戦をPK戦の末に制し、2大会連続で決勝へ進む。しかし決勝当日の朝、同室のロナウドが発作を起こして昏倒するのを発見し、すぐに助けを呼ぶ。そのロナウドが強行出場したフランスとの決勝では本来の力を発揮できないまま完敗。優勝は逃したものの、大会ベストイレブンに選ばれている。
1999年6月にパラグアイで開催されたコパ・アメリカ1999では決勝でウルグアイを破り、大会連覇を果たす。2002年ワールドカップ南米予選のパラグアイ戦では相手GKホセ・ルイス・チラベルトから顔に唾を吐きかけられてしまう。この行為により退場となったチラベルトは3試合の出場停止処分を受けるが、この行為に至った経緯に人種差別的な発言があったことを示唆している。
2002年6月、日本と韓国で共同開催された2002 FIFAワールドカップに出場。大会ではルイス・フェリペ・スコラーリ監督が3バックを採用したことから左ウイングバックで起用され、右のカフーと共にブラジルのサイド攻撃を一手に担うことに。グループリーグ第2戦の中国戦ではFKから弾丸ライナーの直接ゴールを決める。このゴールはワールドカップ初ゴールであり、代表における公式戦の初ゴールでもあった。本大会では主力を温存させたコスタリカ戦を除く6試合にフル出場。ロナウド、リバウド、ロナウジーニョの「3R」と共に攻撃の重要な役割を担い、決勝でブラジルはドイツを破って2大会ぶり5度目の優勝を果たす。前大会の雪辱を果たし、キャリアにおいて全てのビッグタイトルを手中に収めることとなった。
2006年6月、ドイツで開催された2006 FIFAワールドカップに3度目の出場。33歳とベテランとなりながらも依然として不動の左サイドバックに君臨し、温存により休養となった日本戦を除く全試合にフル出場。準々決勝ではチームメイトであるジネディーヌ・ジダンを擁するフランスと対戦。後半にジダンのFKの場面でティエリ・アンリにマークを剥がされたうえに決勝ゴールを許してしまう。ベスト8敗退という結果に終わり、失点に関与したことからブラジル国内では猛烈なバッシングを浴びせられる。そして大会後、ブラジル代表からの引退を表明。15年間で125試合10得点という記録を残している。
| シーズン | 国 | クラブ | リーグ | 試合 | 得点 |
|---|---|---|---|---|---|
| 1991 | ウニオン・サンジョアン | カンピオナート・セリエB | - | - | |
| 1992 | ウニオン・サンジョアン | カンピオナート・セリエB | 21 | 3 | |
| 1993 | パルメイラス | カンピオナート・セリエA | 20 | 1 | |
| 1994 | パルメイラス | カンピオナート・セリエA | 24 | 2 | |
| 1995 | パルメイラス | カンピオナート・セリエA | 0 | 0 | |
| 1995-96 | インテル | セリエA | 30 | 5 | |
| 1996-97 | レアル・マドリード | リーガ・エスパニョーラ | 37 | 5 | |
| 1997-98 | レアル・マドリード | リーガ・エスパニョーラ | 35 | 4 | |
| 1998-99 | レアル・マドリード | リーガ・エスパニョーラ | 35 | 5 | |
| 1999-00 | レアル・マドリード | リーガ・エスパニョーラ | 35 | 4 | |
| 2000-01 | レアル・マドリード | リーガ・エスパニョーラ | 36 | 5 | |
| 2001-02 | レアル・マドリード | リーガ・エスパニョーラ | 31 | 3 | |
| 2002-03 | レアル・マドリード | リーガ・エスパニョーラ | 37 | 5 | |
| 2003-04 | レアル・マドリード | リーガ・エスパニョーラ | 32 | 5 | |
| 2004-05 | レアル・マドリード | リーガ・エスパニョーラ | 34 | 3 | |
| 2005-06 | レアル・マドリード | リーガ・エスパニョーラ | 35 | 5 | |
| 2006-07 | レアル・マドリード | リーガ・エスパニョーラ | 23 | 3 | |
| 2007-08 | フェネルバフチェ | スュペル・リグ | 22 | 2 | |
| 2008-09 | フェネルバフチェ | スュペル・リグ | 32 | 4 | |
| 2009-10 | フェネルバフチェ | スュペル・リグ | 11 | 0 | |
| 2010 | コリンチャンス | カンピオナート・セリエA | 35 | 1 | |
| 2011 | コリンチャンス | カンピオナート・セリエA | 0 | 0 | |
| 2011-12 | アンジ・マハチカラ | RPL | 29 | 4 | |
| 2015 | デリー・ディナモス | ISL | 2 | 0 |
現役引退後は指導者に転身し、2013年6月にトルコ・スュペル・リグのスィヴァスポルの監督に就任し、本格的に指導者としてのキャリアをスタートさせる。就任1年目はリーグ5位とチームを躍進させる好成績を残す。しかし、2年目はチームは降格圏に低迷してしまい、2014年12月21日に辞任。
1か月後の2015年1月、トルコ・スュペル・リグのアクヒサル・ベレディイエスポルの監督に就任。シーズン途中の就任で5勝7分8敗で12位で終え、シーズン終了後の6月に退任。
2015年7月、インド・スーパーリーグのデリー・ディナモスFCと選手兼監督として契約し、引退から3年ぶりに現役に復帰する。1シーズン在籍し、シーズン終了後に退任。
2016年1月、レアル・マドリードのアジア大使兼下部組織のコーチ、レアル・マドリードTVの解説者として約9年ぶりに古巣復帰を果たす。
2018年、日本のフットサルリーグであるFリーグにFリーグ選抜の選手として9月8日のエキシビジョンマッチと9月9日の公式戦の2試合に出場。9日のヴォルクスオーレ仙台戦では2ゴールを決め、Fリーグ選抜の勝利に貢献している。
サイドバックの固定概念を変えた超攻撃的な左サイドバックとして知られ、全盛期の頃はスプリント速度秒速40m超、シュートは時速169kmという規格外の数値を叩き出している。短距離、中距離、長距離のどの走力においてもトップレベルという驚異的なアスリート能力の持ち主。
ドリブルで駆け上がることもあるが、基本的には左SHの選手がキープしているところをフリーランニングによって長い距離を走って追い越していくオーバーラップとそこからの低くて速いクロスを得意としていた。特にレアル・マドリード時代にコンビを組んだジネディーヌ・ジダンと相性が良く、ジダンが中に絞って作った大外のスペースに走り込む形が多かった。
彼を語るうえで欠かせないのが「悪魔の左足」と呼ばれた左足のキックである。アウトサイドに引っ掛けたスライス系のシュートを得意とし、その速さとパワーから「凶器の弾丸」と評されていた。ゴールからやや遠めの位置から独特の長い助走から放つ弾丸FKが彼の代名詞となっており、物理法則に逆らったような軌道を生み出すシュートはもはや「キャプテン翼」の世界である。FKの壁になった選手が顔面に直撃して脳震盪を起こしたこともあり、壁になる選手にとっては恐怖でしかない。
無尽蔵のスタミナの持ち主でもあり、圧倒的なスピードを活かして左サイドの全般を一人でカバーすることもできた。小さな体ながらも強靭な肉体の持ち主でもあり、スライディングを多用する守備スタイルながらもクリーンな選手でもあった。
守備対応が欠点であり、相手サイドアタッカーに対して食いつきすぎて置き去りにされることがたびたびあり、攻撃に意識が行き過ぎて背後のスペースを狙われることも多かった。
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最終更新:2025/12/05(金) 21:00
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