ジーコ 単語


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ジーコ

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ジーコとは、

  1. ブラジルの元サッカー選手監督
  2. 永井先生ニックネーム 。本名(浩二)を逆さ読みしたもの
  3. ダイヤル式電話ダイヤルを回す音を表す擬音。ジーコジーコ

である。本項では、1.について説明する。

概要

1953年3月3日生まれ。ジーコ(Zico)は愛称で やせっぽちの意味。
現役時代のポジションは攻撃的MF。172cm72kg。利き足は右足。

ジーコの本名はアルトゥール・アントゥネスコインブラArthur Antunes Coimbra)。ブラジルリオデジャネイロ出身のサッカー選手監督である。元サッカーブラジル代表
現役時代は「ペレ」と呼ばれ、日本では「サッカー神様」と呼ばれている。

ブラジルを代表するサッカー選手であり、1980年代におけるサッカー界の世界的なスーパースターである。1971年フラメンゴでデビュー1981年にはトヨタカップを制している。ブラジル代表ではFIFAワールドカップに3回出場、通算66得点サッカー史上最高の選手と評されるペレは、「今までの間、私に最も近づいたのはジーコだった」と述べている。1989年に一旦引退する。

1991年、住友金属サッカー部で現役に復帰。Jリーグ開幕後は鹿島アントラーズで選手(兼実質的なコーチ)として活躍。アントラーズを初年度前期王者に導くなど、常勝鹿島の礎を築き、日本サッカーの発展に多大な功績を残している。1994年7月に二度引退をし、これを最後に選手生活を終えている。
彼の功績を称え、カシマサッカースタジアムのすぐ隣になるカシマスポーツセンターの敷地内に像が建てられている。

監督としては鹿島アントラーズで初めて監督業に携わった後、2002年から2006年までサッカー日本代表監督を務め、2004年AFCアジアカップ優勝2006 FIFAワールドカップでも揮を執ったが、グループリーグ敗退に終わっている。

その後はフェネルバフチェやCSKAモスクワイラク代表監督などを努めた後、2018年より鹿島アントラーズテクニカルディレクターに就任。2022年からは、クラブドバイザーとしてブラジルから鹿島支援している。

レイクCMで発言した「ひとりででき太」が、漫画などでネタにされ、ニコニコ動画にも活用されている。

現役時代の経歴

生い立ち

1953年3月3日ブラジルリオデジャネイロで5男1女の末子として生まれる。父親パン職人(後に洋仕立屋)で母親イタリア系。ポルトガル移民系であり、厳格な中流庭であったという。父親はフラメンゴとプロ契約寸前まで行ったGKであったが、母親はジーコをピアニストにさせたかった。しかし、アンツネスとエドゥのもあり、多くのブラジル人と同様に、サッカー選手すようになる。

子供の頃は学校サボっては路上でサッカーをしており、サッカーへの情熱は近所でも有名になり、年上の子供ティーンエイジャーを相手に彼が麗なプレーを繰り広げる姿を見ようと、人々が集まるほどだった。当時、彼は友人運営する地元のストリートフットサルチーム「フベントゥーデ」でプレーしており、日曜日にはフットサルクラブリーベル・フテボル・クルベ」でもプレーしていた。

フラメンゴ

14歳となった1967年リオデジャネイロの名門クラブであるCRフラメンゴのユースチームトライアルに合格し、入団。当時は155cm37kgと華奢だったことからクラブによる特別プログラムが組まれ、サイボーグと揶揄されるほど底的に体を鍛えあげられる。このプログラムは筋力アップのみならず、ホルモン注射食事療法、の端正及び顔のシコリまで取り除く厳しいものだった。

この厳しいプログラムを弱音を吐かずにやり遂げたことで、ジーコの体は強なものへと変貌していき、アスリートとして成功するための下地を築くこととなった。弱点をしたことで選手としての才をみるみると開させ、ユースチームでは116試合81得点という記録を残している。

1971年18歳にしてフラメンゴのトップチームに昇格。プロ1年シーズンでは17試合2得点記録。2年となった1972年には監督が交代したでまだ若すぎると判断されて一度ユースに戻ることになるが、ユースチームで最初の監督を務めたジュベールトップチームの新監督に就任したことで全にトップに定着する。

1973年全にレギュラーに定着すると、1974年背番号10を付けることになる。この年は50試合に出場して32得点記録し、ブラジル最優秀選手に選出。1975年MFながらも41得点という驚異的な数字を残し、フラメンゴのエースとして絶対的な地位を築いていき、4度のリオデジャネイロ選手権優勝に導く活躍を見せる。1977年には南米最優秀選手に選出され、名実ともにブラジルを代表するスター選手となっていった。ゲームを組み立てながらも得点も狙えるジーコを他のチームは止めることができず、その才欧州クラブからも注されるようになっていた。

1980年代に入り、ジーコとフラメンゴは黄金時代を築くことになる。1980年にはフラメンゴをカンピオナート・ブラジレイロ・セリエA優勝に導く。1981年コパ・リベルタドーレスでは、決勝のブレロア戦において1stレグで2ゴールを決めて勝利に貢献、2ndレグを0-1と落としたが、優勝決定戦となった3rdレグで2ゴールを決め、フラメンゴを初の南米王者へと導く。自身大会通算11ゴールを決めて得点王のタイトルも獲得。さらに二度となる南米最優秀選手にも選ばれている。
初来日となったこの年のトヨタカップでは当時欧州最強と言われたリヴァプールFCと対戦し、ヌネスの2ゴールアシストするなど3-0での勝利に貢献。大会のMVPに選出されている。このとき、イタリアACミランへの移籍話が進んでいたが、破談に終わっている。

1982年1983年カンピオナート・ブラジレイロ・セリエAでは連覇しており、1982年は36試合20得点という成績に加え、1982 FIFAワールドカップでの活躍もあって2度ブラジル最優秀選手賞と2年連続3回南米最優秀選手賞を受賞という個人二冠を達成。1983年リーグ戦では48試合42得点という驚異の成績を残している。しかし、1983年、フラメンゴの財政事情もあって欧州へと活躍の場を移すことになる。

ウディネーゼ

1983年ACミランASローマが獲得に乗り出していたが、移籍先はイタリアセリエAウディネーゼ・カルチョだった。当時弱小クラブに過ぎなかったウディネーゼへの移籍は、イタリア内でも大騒動となり、イタリアサッカー協会により移籍が合法的に行われたかの調が行われるほどだった。8月21日コッパ・イタリアグループリーグボローニャ戦で移籍後初ゴールを決め、9月12日セリエA開幕節のジェノア戦で2ゴールを挙げる鮮イタリアデビューを飾り、更に第2節のカターニャ戦でも2ゴールを決め、その後、さらに2試合連続ゴールセリエA開幕戦から4試合連続ゴール(合計6ゴール)を決める大活躍ぶりだった。一時はチームを3位にまで押し上げる大躍進を実現させ、後半戦に失速し最終的に9位に終わったが、自身は得点ランク2位の19得点という期待通りの活躍を披露。サポーターから絶大な支持を得て、される存在となった。

1984-85シーズンは、怪による長期離脱や審に対する抗議による出場停止に悩まされていた。また、クラブとの関係も悪化するようになり、競争力のある選手を獲得しない経営の野心のなさ、そしてチームが彼に依存しすぎていることに不満を漏らしていた。さらには、イタリアの税務当局から脱税告発もされていた。そんな中、1985年3月31日インテル戦で約半年振りのゴールを決めると、次節のユベントス戦でもゴールを決める。結局、契約の問題で、このシーズンを最後にイタリアを去ることとなる。ラストマッチとなったディエゴ・マラドーナを擁するSSCナポリ戦で素晴らしいパフォーマンスを見せ、惜しまれながらもブラジルへと戻るのだった。

フラメンゴ復帰

1985年、古巣であるCRフラメンゴに復帰。復帰々3試合で3ゴールと変わらない実力を発揮していたが、復帰4試合バングーAC戦でしいタックルを受けて膝に重傷を負い、翌年の1986 FIFAワールドカップを及ぼすほどの長期の離脱を強いられてしまう。

1987年になって怪治し、本来のパフォーマンスを取り戻すと、チームを4度となるカンピオナート・ブラジレイロ・セリエA優勝へと導く。1988年には日本トヨタ入りの話が出て、条件などが話し合われていたが、交渉はまとまらず、トヨタが1部昇格を逃したこともあり、移籍は消滅。

1989年をもって現役引退を表明。12月マラカナンで開催されたカンピオナート・ブラジレイロ・セリエAフルミネンセ戦がフラメンゴでの最後の公式戦となった。フラメンゴ在籍中に731試合に出場し、クラブの歴代最多となる508得点記録を残し、マラカナンスタジアムではスタジアムの個人最多ゴール記録となる333得点記録している。
2か後、マラカナンでフラメンゴの一員として引退試合を開催し、マリオケンペス、パウルブライトナー、カール=ハインツ・ルンメニゲ、ファルカンといった面々が名を連ねるワールドカップマスターズと対戦した。

最初の引退

1990年ブラジル初の大統領選挙によって誕生したフェルナンド・コロール・デ・メロ大統領によってスポーツ担当大臣に任命される。この政務に約1年間携わり、最も重要な貢献はスポーツチームビジネス面に関する法案の成立だった。

住友金属 / 鹿島アントラーズ

1991年、将来のプロリーグJリーグ)参加を表明していた日本サッカーリーグJSL)2部の住友金属工業蹴球団(現・鹿島アントラーズ)のオファーを受け、サッカーでの町おこしという、これまでにい挑戦に魅力を感じ、3年契約で入団。日本で現役復帰を決意する。こうして、サッカー神様日本の関係がスタートするのだった。7月26日磐田市長杯サマーサッカーヤマハ発動機戦で直接FKから住友金属移籍後初ゴールを決めると、8月18日JSL、三菱戦で公式戦初ゴールを決める。1991-92年のJSL2部では21得点得点王のタイトルを獲得する活躍で、チームの2部リーグ2位確保に貢献する。

加入当初はアマチュア気質から抜け出せない日本人サッカーの姿勢の低さに激怒するなど、チームメイトの意識改革からスタートしなければならない状況だった。それでも、ジーコがクラブチームに対して助言しながらプロとしての在り方を植え付けていき、クラブは当初は厳しいと見られた初年度からのJリーグ参入が決定する。1992年10月Jリーグヤマザキナビスコカップでは準々決勝のサンフレッチェ広島戦でハットトリックを達成し、チームベスト4進出へと導く。Jリーグ開幕直前には自らのコネクションでチームイタリア遠征を実現させ、またブラジルから新戦力としてアルシンドを呼び寄せるなど、チームの強化に余念がなかった。1993年5月4日カシマサッカースタジアムこけら落としとなったプレシーズンマッチフルミネンセ戦では、スタジアム第1号となるゴールを決めている。

40歳で迎えた1993年5月15日Jリーグ開幕戦では、ゲーリー・リネカー擁する名古屋グランパスエイトと対戦。この試合でいきなりJリーグ初のハットトリックを成し遂げ、後の世にまで語られる伝説を作りあげる。第2節以降は怪で離脱し、1stステージはほとんど欠場することになるが、チーム戦前の予想を覆してのステージ優勝を果たす。2ndステージになるとコンディションが整い、13試合6得点記録。また、この年の天皇杯2回戦東北電力戦では、その後も語り継がれるヒールボレーでのスーパーゴールを決めている。Jリーグ初代王者を賭けたヴェルディ川崎とのチャンピオンシップでは、第2戦では判定に抗議して三浦知良がPKを蹴る直前にボールを吐き、一発退場となる。

1994年シーズン1stステージ限りで現役引退を表明。怪5月14日サンフレッチェ広島戦から復帰、6月1日ガンバ大阪戦でシーズンゴールを決め、6月8日浦和レッズ戦、6月11日ベルマーレ平塚戦では2ゴールを決める。最後の公式戦となった6月15日ジュビロ磐田戦では直接FKでゴールを決めると、相馬直樹のパスからボレーシュートで、通算817ゴールとなる決勝ゴールを決める。怪で後半11分にピッチを後にした際は、鹿島サポーターのみならず、磐田サポーターからもジーココールが続いた。なお、この日決めた41歳と3か12日での得点2025年7月の時点でJ1最年長ゴール記録となっている。7月23日Jリーグオールスターサッカーフル出場したのを最後にブラジルへ帰する。

1994年再来日し、ジーコカーニバル(引退記念イベント)として、カシマスタジアムで行われたロベルトリベリー監督が率いたJリーグ選抜vs鹿島アントラーズ試合に出場している。

ブラジル代表

1972年ミュンヘンオリンピック代表に選出され、南米予選では5試合に出場し、アルゼンチン戦でゴールを決めるなど活躍する。ところが、ミュンヘンオリンピック本大会のメンバーからまさかの落選。このとき大きなショックを受け、父親サッカーを辞めたいと告げるほど落胆。フラメンゴの練習も10日間ほど欠席。兄弟たちの説得でどうにか立ち直ることができた。

1976年2月25日ウルグアイ戦でブラジル代表デビューを飾り、得意のFKからデビュー戦での代表初ゴール記録している。続くアルゼンチン戦でもゴールを決め、新たなブラジル代表のエースとして民から期待を寄せられるようになる。この頃は「ペレ」という異名を付けられていたが、本人はこれをあまり好きではなかった。

1978年6月にはアルゼンチンで開催された1978 FIFAワールドカップに出場。1次リーグ初戦のスウェーデン戦で試合終了間際にCKからの直接ゴールを決めるが、シュート体勢に入る直前、ボール中にある状態で試合終了のを吹いたとしてゴールを取り消された。2次リーグ初戦のペルー戦ではPKを決め、ワールドカップでの初ゴール記録。しかし、2次リーグではいずれの試合でも僅かな出場時間しか得られず、スタメン出場したポーランド戦では開始わずか7分で負傷交代。ブラジルは最終的に3位になったが、自身は残りの試合は欠場となり、初のワールドカップは不本意なものとなった。

1982年6月には、スペインで開催された1982 FIFAワールドカップに出場。このときの代表では名将と呼ばれたテレ・サンターナのもとでソクラテストニーニョ・セレーゾ、ファルカンと共に「黄金カルテット」を形成。4人のスター選手がった中盤は加齢なパスワークと抜群の攻撃力を誇り、優勝補の大本命とされていた。その中で10番を背負ったジーコはこの大会でもっとも注される存在となっていた。1次リーグ第2戦のスコットランド戦では直接FKによってゴールを決めると、第3戦のニュージーランド戦では2ゴールを決め、前評判通りの強さを見せつける。2次リーグ第1戦では若き日のディエゴ・マラドーナを擁したアルゼンチンと対戦し、1ゴール2アシストの活躍によって勝利に貢献。第2戦のイタリア戦では麗なパスワークからソクラテスの同点ゴールアシストしたが、パオロ・ロッシハットトリックによって敗戦。準決勝に進むことはできず、ブラジル民は大きく落胆することになる。しかし、このときのチームは「ブラジルサッカー史上最も魅了したチーム」と称えられ、タイトルは取れなかったものの伝説チームとされている。

1986年6月メキシコで開催された1986 FIFAワールドカップが3度ワールドカップとなった。33歳とベテランに差し掛かりながらセレソンの10番を付けていたが、前年に負った膝の負傷が癒えず、控えに回ることに。今大会初出場となったグループリーグ第3戦の北アイルランド戦では、カレッカの決勝ゴールアシスト。準々決勝はミシェル・プラティニを擁するフランスと対戦。交代出場直後に絶妙なスルーパスからPKを獲得するが、このPKを失敗。絶好のチャンスを逃したブラジルPK戦の末に敗れ、ベスト8敗退。結局、代表ではビッグタイトルを獲得できないまま現役を終えるのだった。

1989年3月27日、かつて在籍していたウディネーゼの本拠地であるイタリアのフリウリにおいて、世界選抜チームとのブラジル代表引退記念試合が開催され、ブラジル代表のユニフォームに別れを告げる。

ブラジル代表通算71試合出場48得点

個人成績

シーズン クラブ リーグ 試合 得点
1971 フラメンゴ カンピオナート・セリエA 15 2
1972 フラメンゴ カンピオナート・セリエA 6 0
1973 フラメンゴ カンピオナート・セリエA 35 8
1974 フラメンゴ カンピオナート・セリエA 50 32
1975 フラメンゴ カンピオナート・セリエA 55 41
1976 フラメンゴ カンピオナート・セリエA 47 32
1977 フラメンゴ カンピオナート・セリエA 47 36
1978 フラメンゴ カンピオナート・セリエA 22 19
1979 フラメンゴ カンピオナート・セリエA 22 27
1980 フラメンゴ カンピオナート・セリエA 45 21
1981 フラメンゴ カンピオナート・セリエA 41 28
1982 フラメンゴ カンピオナート・セリエA 36 20
1983 フラメンゴ カンピオナート・セリエA 48 42
1983-84 ウディネーゼ セリエA 24 19
1984-85 ウディネーゼ セリエA 16 3
1985 フラメンゴ カンピオナート・セリエA 3 2
1986 フラメンゴ カンピオナート・セリエA 4 3
1987 フラメンゴ カンピオナート・セリエA 17 6
1988 フラメンゴ カンピオナート・セリエA 18 4
1989 フラメンゴ カンピオナート・セリエA 19 4
1991-92 住友金属 JSL2 22 21
1993 鹿島アントラーズ Jリーグ 16 9
1994 鹿島アントラーズ Jリーグ 7 5

個人タイトル

引退後・指導者経歴

現役引退直後

1995年鹿島アントラーズテクニカル・アドバイザーに就任。鹿島とはその後も関係を続け、1994 FIFAワールドカップ優勝メンバーでもある現役ブラジル代表のレオナルドとジョルジーニョ、ヴェルディ川崎黄金期を支えた元ブラジル代表のビスマルクの加入などに尽力している。

プロとしての現役からは退いたものの、ビーチサッカーブラジル代表ではプレーしており、ビーチサッカーチャンピオンシップ(後のFIFAビーチサッカーワールドカップ)では1995年1996年の2大会で優勝し、1995年の大会ではMVPおよび得点王にもいている。

1996年にはリオデジャネイロCFZ(ジーコ・フットボールセンター)を設立。ブラジル内の選手育成や、鹿島の若手選手育成の場として用いられている。

指導者としての初期

1998年ブラジルサッカー連盟の要請を受けブラジル代表のテクニカルディレクターに就任。マリオ・ザガロ監督を補佐する役割となり、1998 FIFAワールドカップではベンチに入って準優勝に貢献している。

ワールドカップ後、鹿島テクニカル・アドバイザーに復帰。ブラジルでの事業をこなしながら、来日した際はベンチに入って選手の動きにらせていた。

1999年シーズンには8月にゼ・マリオ監督が解任されたことで事実上の「監督」として残りのシーズンの現場の揮を執る。これが監督キャリアとしてのスタートとなった。また、この年ブラリアCFZ・ド・ブラリアを設立している。

日本代表監督

2002年7月22日フィリップ・トルシエ監督の後任としてサッカー日本代表監督に就任。就任当初は、中田英寿中村俊輔小野伸二稲本潤一の4人を並べた「黄金カルテット」を採用したが、怪全員海外組ということもあってスケジュールの都合でなかなかわず、頓挫することになる。前任のトルシエシステマチックチーム作りだったの対し、ジーコのチーム作りは選手の自性を尊重するという方針であったが、具体的な戦術に乏しいスタイルを疑問視するが噴出するようになっていた。

2003年6月フランスで開催されたFIFAコンフェデレーションズカップ2003が就任後初の公式戦となるが、初戦で格下のニュージーランド相手に勝利したものの、その後フランスコロンビアを相手に善戦しながらも敗れ、1勝2敗のグループリーグ敗退に終わっている。

2004年2月鹿島市での合宿中に久保竜彦大介、小笠原満男山田卓也、都築太、茂庭照幸、大久保嘉人の7人が断で合宿を抜け出し、内のキャバクラに行くスキャンダルが発覚。この出来事に対し、「裏切り行為と感じた。信頼関係を失った」とコメントし、当該選手を一時期代表から追放する。この年スタートした2006 FIFAワールドカップ アジア一次予選では、直前に合流した海外組を積極的に起用したことが裏に出てしまい、格下相手に苦戦。その後も直前の試合内組がスタメンに入るが、本番の公式戦では直前に合流した海外組を優先的に起用しており、そのことが後々チームにとって火種となる。一方、4月6月におこなった欧州遠征ではチェコイングランドといった強相手に好成績を残す。

2004年9月しい反日感情に包まれた中国で開催されたAFCアジアカップ2004では、苦しい戦いを強いられながらもGK川口能活の神がかり的なセービングもあって劇的な勝利を重ね優勝。大会2連覇を達成し、監督として初のビッグタイトル獲得となる。

2005年からの2006 FIFAワールドカップ アジア最終予選になると、海外組を優先する起用法に不満を抱く選手が現れ、チーム内で裂が生まれていた。さらに、戦術を選手のクオリティ任せにするジーコの采配もこの問題に拍をかけていた。ジーコは怪で長らく代表を離れていた中田英寿を復帰させ信頼を寄せるも、頭一つ抜けた実績を持つ彼の存在はチームにとって劇薬のようになり、チーム内で浮いた存在となっていた。それでも最終予選の大一番と見られたアウェイバーレーン戦でチームが一丸となって勝利。最終的には通算成績でも11勝1敗の好成績を残し、世界最速での本大会出場権を獲得する。
2005年6月FIFAコンフェデレーションズカップ2005では、グループリーグ第3戦でであるブラジルとの対戦が実現し2-2で引き分けるが、1勝1分1敗でグループリーグ敗退となる。

2006年6月ドイツで開催された2006 FIFAワールドカップメンバー選考では、怪からの復帰が間に合わなかった久保竜彦に代えてムァキ(巻一郎)を招集するサプライズ人事が話題となる。直前の開催ドイツとのテストマッチでは2-2の引き分けに持ち込む好ゲームを演じる。だが、グループリーグ初戦のオーストラリア戦では1点リードを奪ってからの采配の意図が伝わらず、交代策が失敗したことで残り15分間で立て続けに3失点を許し、痛い敗戦を喫する。続くクロアチア戦では子でもある柳沢敦の決定機でのミスいてスコアレスドロー。第3戦ではブラジル相手に大敗し、1分2敗でグループリーグ敗退。過去最高と言われたタレントえながらも、期待を裏切る結果に終わる。

大会後、日本代表監督を退任。これによって日本を離れることになり、15年間に及ぶ日本との関係が一度途切れることになる。

フェネルバフチェ

日本代表監督退任直後の2006年7月4日トルコスュペル・リグの名門フェネルバフチェSKの監督に就任。このときのチームにはアレックスロベルト・カルロスといったブラジル代表の選手を擁し、リーグ戦では序盤で首位に立ってから一度もその座を譲ることなく2007年5月13日に記念すべきクラブ創立100周年に17回リーグ優勝を達成。就任1年にして結果を残す。

就任2年の2007-2008シーズンではUEFAチャンピオンズリーグ揮を執り、インテルPSVアイントホーフェンCSKAモスクワと同居したグループGを3勝2分1敗で2位という成績を残し、決勝トーナメント進出に導く。ラウンド16ではセビージャFCを相手にPK戦の末に勝利し、トルコクラブとして史上2度となるベスト8進出を果たす。準々決勝でも強チェルシーFC相手にホーム1stレグ勝利するが、アウェイ2ndレグ逆転を許し、敗退。リーグでは2位という成績を残すが、クラブと次シーズンについての意見が合わず退任することとなる。コーチでもあったエドゥのインタビューによると、アジ会長の現場への介入に関する対立が原因であったという。

ブニョドコル

2008年9月26日ウズベキスタンの強FCブニョドコルの監督に就任。就任直後に行われたAFCチャンピオンズリーグはアデレード・ユナテッドに相手に敗退したが、ウズベキスタンカップウズベキスタンリーグはともに優勝し、内二冠を達成。また、ウズベキスタン代表のアドバイザーも兼任しており、2010 FIFAワールドカップ アジア最終予選ではミルジャラル・カシモフ監督日本代表対策を伝授したとされており、アウエーでの1-1の引き分けに貢献している。

CSKAモスクワ

2009年1月ロシアプレミアリーグCSKAモスクワ監督に就任。ブニョドコルとの契約は残っていたが、クラブとの話し合いの末に退団となった。ロシアカップには優勝したものの、UEFAカップではラウンド16で敗退。リーグ戦では首位に大きく引き離されて4位と低迷。そのため、9月10日に成績不振により就任から8かで解任となる。

オリンピアコス

CSKAモスクワを解任となったわずか1週間後の2009年9月16日ギリシャスーパーリーグのオリンアコFC監督に就任。CLではベスト16進出を果たしたものの、カップ戦でフルメンバーを率いて2部チームに1回戦で敗退し、リーグ戦でも一時は勝ち点2差の2位に付けたもののその後勝ち点7差まで引き離されてしまう。サポーターから結果のみならず采配に対しても不満が募るようになり、2010年1月19日に解任となる。

2010年~2011年

2010年6月、現役時代に数々の栄誉を獲得したCRフラメンゴのテクニカルディレクターに就任。しかし、クラブ内での対立を理由に10月で退任。

2011年6月4日、5年ぶりに来日し、カシマスタジアムで開催された震災復チャリティマッチに出場。鹿島アントラーズ時代のかつての仲間たちと共にプレーし、先制ゴールも決めている。

イラク代表

2011年8月29日イラク代表監督に就任。契約期間は1年。元々はイラクW杯に出場させた経験を持つエドゥに来たオファーだったが、から譲られたことでイラク代表監督に就任することとなった。就任最初の試合となった2014 FIFAワールドカップ アジア3次予選のヨルダン戦に敗れるが、その後の試合で5連勝を飾り、3次予選を首位で通過する。

2012年からのアジア最終予選では、最初の2試合引き分ける。9月11日には埼玉スタジアム2002日本代表との対戦が実現。組織的な守備で格上の日本を苦しめるが、前半に奪われた1点を取り返すことができずに敗れる。11月14日ホームヨルダン戦で初勝利を飾るが、直後の11月27日していたイラクサカー協会からの給与未払いが履行されなかったことを理由に辞任。イラク代表としては21試合で10勝6分5敗という成績だった。

アル・ガラファ

2013年8月カタールスターズリーグアルガラファの監督に就任。しかしわずが5ヶ後の2014年1月に成績不振により監督を解任される。

FCゴア

2014年9月、この年から創設されたインドインディアンスーパーリーグFCゴアの初代監督に就任。リーグ戦を2位の好成績で終え、ファイナルシリーズにまで進出するが、準決勝で敗れる。

2年2015年は元ブラジル代表のルッシオやJリーグプレーした経験のあるレイナウドが加入。リーグ戦では7勝4分3敗で1位となり、2年連続でファイナルシリーズに進出。決勝まで進出するが、マルコ・マテラッツィが選手兼監督を務めるチェンナイインFCに敗れ、優勝を逃す。

3年2016年は不振に陥り、リーグ戦8位と低迷。2017年1月、3年契約の満了により退任することが発表される。クラブや地元ファンの間でゴアの新たなレジェンドとされており、退任後も友好的な関係を築いている。これを最後に監督業からは離れている。

その後

2016年8月日本サッカー協会より日本サッカー殿堂入りが発表される。
その後はたびたび来日し、再び日本との関係を深めていた。

2018年7月鹿島アントラーズテクニカルディレクターに就任。およそ16年ぶりに鹿島に復帰することとなる。8月にはコーチとして役員登録される。

2021年J1リーグシーズン終了後、テクニカルディレクターを退任。ブラジルに帰するが、以降もクラブドバイザーとしてブラジルから鹿島の側面支援を行う。

2025年7月27日エディオンピースウイング広島で自らが宰となったチャリティーマッチ「ジーコオールスターゲーム広島2025」を開催。「ジャパンレジェンズ」の監督として中田英寿監督を務める「ワールドレジェンズ」と戦った。

2025年10月23日には鹿島クラブドバイザーとして来日し、シーズン終了までチームに帯同。12月6日には鹿島の9年ぶり9回Jリーグ優勝を見届けると、試合後の表式の際にはサプライズピッチに姿を見せ、シャーレリフトに参加する。

プレースタイル

1980年代を代表する典的な10番タイプMFで、並外れたテクニックボールコントロール、ドリブルスキル、そして相手の意表を突いたトリッキープレーフェイントを使う。優麗ながらも破壊力は抜群で、相手を背にしての反転速さ、絶妙のタイミングで放たれるラストパス、抜群の決定力と「ペレ」にふさわしい10番らしい10番と言えた。

右足インサイドに引っかけるジャックナイフのようなフェイントモーションや、右足1本で左回りにターンするシングルルーレット、単純に足裏で抑える切り返しも、その俊敏性で効果抜群だった。そしてボールと敵を操りながら、後方から飛び出してくる味方の動きを完璧把握していた。それを裏付けているのが卓越した視野の広さで、視野の外から上がってくる味方をほぼ見ておらず、パスを出す間には「そこ」に来ているのがあらかじめわかっているパスの出し方だった。全盛期はすべてを見透かしたようなプレービジョンと抜群のスキルゲームを支配していた。

ベテランになってからはゲームメイクに専念していたが、全盛期はドリブル突破から複数のDFをかわして一人で局面を打開することも多く、左右両足から強シュートも放てるため、スコアラーとしても卓越していた。さらにFKの名手としても知られ、正確なキックで数々のゴール記録している。デッドボールの状況からボールを曲げて得点する力で知られ、史上最高のFKキッカーの一人とにも挙げられている。ジーコのFKは独特で、立っている足にかなりの重点を置いており、甲でボール蹴るときに体を反らせて膝を非常に高く上げることが多く、を越える高さまでボールを蹴り上げ、再び落としている。

人物・エピソード

ジーコサッカー

1994年3月4日に発売されたジーコが監修するスーパーファミコンソフト・・・・なのだが

いろいろな意味で後世にまで語り継がれるゲームとなっている。

詳細は「ジーコサッカー」の記事を参照。

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最終更新:2025/12/24(水) 14:00

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