ジーコとは、
である。本項では、1.について説明する。
1953年3月3日生まれ。ジーコ(Zico)は愛称で やせっぽちの意味。
現役時代のポジションは攻撃的MF。172cm72kg。利き足は右足。
ジーコの本名はアルトゥール・アントゥネス・コインブラ(Arthur Antunes Coimbra)。ブラジル、リオデジャネイロ出身のサッカー選手、監督である。元サッカーブラジル代表。
現役時代は「白いペレ」と呼ばれ、日本では「サッカーの神様」と呼ばれている。
ブラジルを代表するサッカー選手であり、1980年代におけるサッカー界の世界的なスーパースターである。1971年フラメンゴでデビュー。1981年にはトヨタカップを制している。ブラジル代表ではFIFAワールドカップに3回出場、通算66得点。サッカー史上最高の選手と評されるペレは、「今までの間、私に最も近づいたのはジーコだった」と述べている。1989年に一旦引退する。
1991年、住友金属サッカー部で現役に復帰。Jリーグ開幕後は鹿島アントラーズで選手(兼実質的なコーチ)として活躍。アントラーズを初年度前期王者に導くなど、常勝鹿島の礎を築き、日本サッカーの発展に多大な功績を残している。1994年7月に二度目の引退をし、これを最後に選手生活を終えている。
彼の功績を称え、カシマサッカースタジアムのすぐ隣になるカシマスポーツセンターの敷地内に銅像が建てられている。
監督としては鹿島アントラーズで初めて監督業に携わった後、2002年から2006年までサッカー日本代表監督を務め、2004年のAFCアジアカップに優勝。2006 FIFAワールドカップでも指揮を執ったが、グループリーグ敗退に終わっている。
その後はフェネルバフチェやCSKAモスクワ、イラク代表監督などを努めた後、2018年より鹿島アントラーズのテクニカルディレクターに就任。2022年からは、クラブアドバイザーとしてブラジルから鹿島を支援している。
レイクのCMで発言した「ひとりででき太」が、漫画などでネタにされ、ニコニコ動画にも活用されている。
1953年3月3日、ブラジル・リオデジャネイロで5男1女の末子として生まれる。父親はパン職人(後に洋服仕立屋)で母親はイタリア系。ポルトガルの移民の家系であり、厳格な中流家庭であったという。父親はフラメンゴとプロ契約寸前まで行ったGKであったが、母親はジーコをピアニストにさせたかった。しかし、兄のアンツネスとエドゥの影響もあり、多くのブラジル人と同様に、サッカー選手を目指すようになる。
子供の頃は学校をサボっては路上でサッカーをしており、サッカーへの情熱は近所でも有名になり、年上の子供やティーンエイジャーを相手に彼が華麗なプレーを繰り広げる姿を見ようと、人々が集まるほどだった。当時、彼は兄や友人が運営する地元のストリートフットサルチーム「フベントゥーデ」でプレーしており、日曜日にはフットサルクラブ「リーベル・フテボル・クルベ」でもプレーしていた。
14歳となった1967年、リオデジャネイロの名門クラブであるCRフラメンゴのユースチームのトライアルに合格し、入団。当時は155cm37kgと華奢だったことからクラブによる特別プログラムが組まれ、サイボーグと揶揄されるほど徹底的に体を鍛えあげられる。このプログラムは筋力アップのみならず、ホルモン注射や食事療法、歯の端正及び顔のシコリまで取り除く厳しいものだった。
この厳しいプログラムを弱音を吐かずにやり遂げたことで、ジーコの肉体は強靭なものへと変貌していき、アスリートとして成功するための下地を築くこととなった。弱点を克服したことで選手としての才能をみるみると開花させ、ユースチームでは116試合81得点という記録を残している。
1971年、18歳にしてフラメンゴのトップチームに昇格。プロ1年目のシーズンでは17試合2得点を記録。2年目となった1972年には監督が交代した影響でまだ若すぎると判断されて一度ユースに戻ることになるが、ユースチームで最初の監督を務めたジュベールがトップチームの新監督に就任したことで完全にトップに定着する。
1973年に完全にレギュラーに定着すると、1974年に背番号10を付けることになる。この年は50試合に出場して32得点を記録し、ブラジル最優秀選手に選出。1975年はMFながらも41得点という驚異的な数字を残し、フラメンゴのエースとして絶対的な地位を築いていき、4度のリオデジャネイロ選手権優勝に導く活躍を見せる。1977年には南米最優秀選手に選出され、名実ともにブラジルを代表するスター選手となっていった。ゲームを組み立てながらも得点も狙えるジーコを他のチームは止めることができず、その才能は欧州のクラブからも注目されるようになっていた。
1980年代に入り、ジーコとフラメンゴは黄金時代を築くことになる。1980年にはフラメンゴをカンピオナート・ブラジレイロ・セリエA初優勝に導く。1981年のコパ・リベルタドーレスでは、決勝のブレロア戦において1stレグで2ゴールを決めて勝利に貢献、2ndレグを0-1と落としたが、優勝決定戦となった3rdレグで2ゴールを決め、フラメンゴを初の南米王者へと導く。自身大会通算11ゴールを決めて得点王のタイトルも獲得。さらに二度目となる南米最優秀選手にも選ばれている。
初来日となったこの年のトヨタカップでは当時欧州最強と言われたリヴァプールFCと対戦し、ヌネスの2ゴールをアシストするなど3-0での勝利に貢献。大会のMVPに選出されている。このとき、イタリアのACミランへの移籍話が進んでいたが、破談に終わっている。
1982年と1983年のカンピオナート・ブラジレイロ・セリエAでは連覇しており、1982年は36試合20得点という成績に加え、1982 FIFAワールドカップでの活躍もあって2度目のブラジル最優秀選手賞と2年連続3回目の南米最優秀選手賞を受賞という個人二冠を達成。1983年のリーグ戦では48試合42得点という驚異の成績を残している。しかし、1983年夏、フラメンゴの財政事情もあって欧州へと活躍の場を移すことになる。
1983年、ACミランやASローマが獲得に乗り出していたが、移籍先はイタリア・セリエAのウディネーゼ・カルチョだった。当時弱小クラブに過ぎなかったウディネーゼへの移籍は、イタリア国内でも大騒動となり、イタリアサッカー協会により移籍が合法的に行われたかの調査が行われるほどだった。8月21日のコッパ・イタリア、グループリーグのボローニャ戦で移籍後初ゴールを決め、9月12日、セリエA開幕節のジェノア戦で2ゴールを挙げる鮮烈なイタリアデビューを飾り、更に第2節のカターニャ戦でも2ゴールを決め、その後、さらに2試合連続ゴールとセリエA開幕戦から4試合連続ゴール(合計6ゴール)を決める大活躍ぶりだった。一時はチームを3位にまで押し上げる大躍進を実現させ、後半戦に失速し最終的に9位に終わったが、自身は得点ランク2位の19得点という期待通りの活躍を披露。サポーターから絶大な支持を得て、愛される存在となった。
1984-85シーズンは、怪我による長期離脱や主審に対する抗議による出場停止に悩まされていた。また、クラブとの関係も悪化するようになり、競争力のある選手を獲得しない経営陣の野心のなさ、そしてチームが彼に依存しすぎていることに不満を漏らしていた。さらには、イタリアの税務当局から脱税で告発もされていた。そんな中、1985年3月31日のインテル戦で約半年振りのゴールを決めると、次節のユベントス戦でもゴールを決める。結局、契約の問題で、このシーズンを最後にイタリアを去ることとなる。ラストマッチとなったディエゴ・マラドーナを擁するSSCナポリ戦で素晴らしいパフォーマンスを見せ、惜しまれながらも母国ブラジルへと戻るのだった。
1985年、古巣であるCRフラメンゴに復帰。復帰早々3試合で3ゴールと変わらない実力を発揮していたが、復帰4試合目のバングーAC戦で激しいタックルを受けて膝に重傷を負い、翌年の1986 FIFAワールドカップに影響を及ぼすほどの長期の離脱を強いられてしまう。
1987年になって怪我が完治し、本来のパフォーマンスを取り戻すと、チームを4度目となるカンピオナート・ブラジレイロ・セリエA優勝へと導く。1988年には日本のトヨタ入りの話が出て、条件などが話し合われていたが、交渉はまとまらず、トヨタが1部昇格を逃したこともあり、移籍は消滅。
1989年をもって現役引退を表明。12月のマラカナンで開催されたカンピオナート・ブラジレイロ・セリエAのフルミネンセ戦がフラメンゴでの最後の公式戦となった。フラメンゴ在籍中に731試合に出場し、クラブの歴代最多となる508得点の記録を残し、マラカナンスタジアムではスタジアムの個人最多ゴール記録となる333得点を記録している。
2か月後、マラカナンでフラメンゴの一員として引退試合を開催し、マリオ・ケンペス、パウル・ブライトナー、カール=ハインツ・ルンメニゲ、ファルカンといった面々が名を連ねるワールドカップ・マスターズと対戦した。
1990年のブラジル初の大統領選挙によって誕生したフェルナンド・コロール・デ・メロ大統領によってスポーツ担当大臣に任命される。この政務に約1年間携わり、最も重要な貢献はスポーツチームのビジネス面に関する法案の成立だった。
1991年、将来のプロリーグ(Jリーグ)参加を表明していた日本サッカーリーグ(JSL)2部の住友金属工業蹴球団(現・鹿島アントラーズ)のオファーを受け、サッカーでの町おこしという、これまでに無い挑戦に魅力を感じ、3年契約で入団。日本で現役復帰を決意する。こうして、サッカーの神様と日本の関係がスタートするのだった。7月26日の磐田市長杯サマーサッカー、ヤマハ発動機戦で直接FKから住友金属移籍後初ゴールを決めると、8月18日のJSL、三菱戦で公式戦初ゴールを決める。1991-92年のJSL2部では21得点で得点王のタイトルを獲得する活躍で、チームの2部リーグ2位確保に貢献する。
加入当初はアマチュア気質から抜け出せない日本人のサッカーの姿勢の低さに激怒するなど、チームメイトの意識改革からスタートしなければならない状況だった。それでも、ジーコがクラブやチームに対して助言しながらプロとしての在り方を植え付けていき、クラブは当初は厳しいと見られた初年度からのJリーグ参入が決定する。1992年10月のJリーグヤマザキナビスコカップでは準々決勝のサンフレッチェ広島戦でハットトリックを達成し、チームをベスト4進出へと導く。Jリーグ開幕直前には自らのコネクションでチームのイタリア遠征を実現させ、またブラジルから新戦力としてアルシンドを呼び寄せるなど、チームの強化に余念がなかった。1993年5月4日、カシマサッカースタジアムのこけら落としとなったプレシーズンマッチのフルミネンセ戦では、スタジアム第1号となるゴールを決めている。
40歳で迎えた1993年5月15日のJリーグ開幕戦では、ゲーリー・リネカー擁する名古屋グランパスエイトと対戦。この試合でいきなりJリーグ初のハットトリックを成し遂げ、後の世にまで語られる伝説を作りあげる。第2節以降は怪我で離脱し、1stステージはほとんど欠場することになるが、チームは戦前の予想を覆してのステージ優勝を果たす。2ndステージになるとコンディションが整い、13試合6得点を記録。また、この年の天皇杯2回戦東北電力戦では、その後も語り継がれるヒールボレーでのスーパーゴールを決めている。Jリーグ初代王者を賭けたヴェルディ川崎とのチャンピオンシップでは、第2戦では判定に抗議して三浦知良がPKを蹴る直前にボールに唾を吐き、一発退場となる。
1994年シーズンは1stステージ限りで現役引退を表明。怪我の影響で5月14日のサンフレッチェ広島戦から復帰、6月1日のガンバ大阪戦でシーズン初ゴールを決め、6月8日の浦和レッズ戦、6月11日ベルマーレ平塚戦では2ゴールを決める。最後の公式戦となった6月15日のジュビロ磐田戦では直接FKでゴールを決めると、相馬直樹のパスからボレーシュートで、通算817ゴール目となる決勝ゴールを決める。怪我の影響で後半11分にピッチを後にした際は、鹿島サポーターのみならず、磐田サポーターからもジーココールが続いた。なお、この日決めた41歳と3か月12日での得点は2025年7月の時点でJ1最年長ゴール記録となっている。7月23日のJリーグオールスターサッカーにフル出場したのを最後にブラジルへ帰国する。
1994年秋に再来日し、ジーコカーニバル(引退記念イベント)として、カシマスタジアムで行われたロベルト・リベリーノ監督が率いたJリーグ選抜vs鹿島アントラーズの試合に出場している。
1972年、ミュンヘンオリンピック代表に選出され、南米予選では5試合に出場し、アルゼンチン戦でゴールを決めるなど活躍する。ところが、ミュンヘンオリンピック本大会のメンバーからまさかの落選。このとき大きなショックを受け、父親にサッカーを辞めたいと告げるほど落胆。フラメンゴの練習も10日間ほど欠席。兄弟たちの説得でどうにか立ち直ることができた。
1976年2月25日のウルグアイ戦でブラジル代表デビューを飾り、得意のFKからデビュー戦での代表初ゴールを記録している。続くアルゼンチン戦でもゴールを決め、新たなブラジル代表のエースとして国民から期待を寄せられるようになる。この頃は「白いペレ」という異名を付けられていたが、本人はこれをあまり好きではなかった。
1978年6月にはアルゼンチンで開催された1978 FIFAワールドカップに出場。1次リーグ初戦のスウェーデン戦で試合終了間際にCKからの直接ゴールを決めるが、シュート体勢に入る直前、ボールが空中にある状態で試合終了の笛を吹いたとしてゴールを取り消された。2次リーグ初戦のペルー戦ではPKを決め、ワールドカップでの初ゴールを記録。しかし、2次リーグではいずれの試合でも僅かな出場時間しか得られず、スタメン出場したポーランド戦では開始わずか7分で負傷交代。ブラジルは最終的に3位になったが、自身は残りの試合は欠場となり、初のワールドカップは不本意なものとなった。
1982年6月には、スペインで開催された1982 FIFAワールドカップに出場。このときの代表では名将と呼ばれたテレ・サンターナのもとでソクラテス、トニーニョ・セレーゾ、ファルカンと共に「黄金のカルテット」を形成。4人のスター選手が揃った中盤は加齢なパスワークと抜群の攻撃力を誇り、優勝候補の大本命と目されていた。その中で10番を背負ったジーコはこの大会でもっとも注目される存在となっていた。1次リーグ第2戦のスコットランド戦では直接FKによってゴールを決めると、第3戦のニュージーランド戦では2ゴールを決め、前評判通りの強さを見せつける。2次リーグ第1戦では若き日のディエゴ・マラドーナを擁したアルゼンチンと対戦し、1ゴール2アシストの活躍によって勝利に貢献。第2戦のイタリア戦では華麗なパスワークからソクラテスの同点ゴールをアシストしたが、パオロ・ロッシのハットトリックによって敗戦。準決勝に進むことはできず、ブラジル国民は大きく落胆することになる。しかし、このときのチームは「ブラジルサッカー史上最も魅了したチーム」と称えられ、タイトルは取れなかったものの伝説のチームとされている。
1986年6月、メキシコで開催された1986 FIFAワールドカップが3度目のワールドカップとなった。33歳とベテランに差し掛かりながらセレソンの10番を付けていたが、前年に負った膝の負傷が癒えず、控えに回ることに。今大会初出場となったグループリーグ第3戦の北アイルランド戦では、カレッカの決勝ゴールをアシスト。準々決勝はミシェル・プラティニを擁するフランスと対戦。交代出場直後に絶妙なスルーパスからPKを獲得するが、このPKを失敗。絶好のチャンスを逃したブラジルはPK戦の末に敗れ、ベスト8敗退。結局、代表ではビッグタイトルを獲得できないまま現役を終えるのだった。
1989年3月27日、かつて在籍していたウディネーゼの本拠地であるイタリアのフリウリにおいて、世界選抜チームとのブラジル代表引退記念試合が開催され、ブラジル代表のユニフォームに別れを告げる。
| シーズン | 国 | クラブ | リーグ | 試合 | 得点 |
|---|---|---|---|---|---|
| 1971 | フラメンゴ | カンピオナート・セリエA | 15 | 2 | |
| 1972 | フラメンゴ | カンピオナート・セリエA | 6 | 0 | |
| 1973 | フラメンゴ | カンピオナート・セリエA | 35 | 8 | |
| 1974 | フラメンゴ | カンピオナート・セリエA | 50 | 32 | |
| 1975 | フラメンゴ | カンピオナート・セリエA | 55 | 41 | |
| 1976 | フラメンゴ | カンピオナート・セリエA | 47 | 32 | |
| 1977 | フラメンゴ | カンピオナート・セリエA | 47 | 36 | |
| 1978 | フラメンゴ | カンピオナート・セリエA | 22 | 19 | |
| 1979 | フラメンゴ | カンピオナート・セリエA | 22 | 27 | |
| 1980 | フラメンゴ | カンピオナート・セリエA | 45 | 21 | |
| 1981 | フラメンゴ | カンピオナート・セリエA | 41 | 28 | |
| 1982 | フラメンゴ | カンピオナート・セリエA | 36 | 20 | |
| 1983 | フラメンゴ | カンピオナート・セリエA | 48 | 42 | |
| 1983-84 | ウディネーゼ | セリエA | 24 | 19 | |
| 1984-85 | ウディネーゼ | セリエA | 16 | 3 | |
| 1985 | フラメンゴ | カンピオナート・セリエA | 3 | 2 | |
| 1986 | フラメンゴ | カンピオナート・セリエA | 4 | 3 | |
| 1987 | フラメンゴ | カンピオナート・セリエA | 17 | 6 | |
| 1988 | フラメンゴ | カンピオナート・セリエA | 18 | 4 | |
| 1989 | フラメンゴ | カンピオナート・セリエA | 19 | 4 | |
| 1991-92 | 住友金属 | JSL2部 | 22 | 21 | |
| 1993 | 鹿島アントラーズ | Jリーグ | 16 | 9 | |
| 1994 | 鹿島アントラーズ | Jリーグ | 7 | 5 |
1995年、鹿島アントラーズのテクニカル・アドバイザーに就任。鹿島とはその後も関係を続け、1994 FIFAワールドカップ優勝メンバーでもある現役ブラジル代表のレオナルドとジョルジーニョ、ヴェルディ川崎の黄金期を支えた元ブラジル代表のビスマルクの加入などに尽力している。
プロとしての現役からは退いたものの、ビーチサッカーのブラジル代表ではプレーしており、ビーチサッカーチャンピオンシップ(後のFIFAビーチサッカーワールドカップ)では1995年と1996年の2大会で優勝し、1995年の大会ではMVPおよび得点王にも輝いている。
1996年にはリオデジャネイロにCFZ(ジーコ・フットボール・センター)を設立。ブラジル国内の選手育成や、鹿島の若手選手育成の場として用いられている。
1998年、ブラジルサッカー連盟の要請を受けブラジル代表のテクニカル・ディレクターに就任。マリオ・ザガロ監督を補佐する役割となり、1998 FIFAワールドカップではベンチに入って準優勝に貢献している。
ワールドカップ後、鹿島のテクニカル・アドバイザーに復帰。ブラジルでの事業をこなしながら、来日した際はベンチに入って選手の動きに目を光らせていた。
1999年シーズンには8月にゼ・マリオ監督が解任されたことで事実上の「監督」として残りのシーズンの現場の指揮を執る。これが監督キャリアとしてのスタートとなった。また、この年ブラジリアにCFZ・ド・ブラジリアを設立している。
2002年7月22日、フィリップ・トルシエ監督の後任としてサッカー日本代表の監督に就任。就任当初は、中田英寿、中村俊輔、小野伸二、稲本潤一の4人を並べた「黄金のカルテット」を採用したが、怪我や全員海外組ということもあってスケジュールの都合でなかなか揃わず、頓挫することになる。前任のトルシエがシステマチックなチーム作りだったの対し、ジーコのチーム作りは選手の自主性を尊重するという方針であったが、具体的な戦術に乏しいスタイルを疑問視する声が噴出するようになっていた。
2003年6月にフランスで開催されたFIFAコンフェデレーションズカップ2003が就任後初の公式戦となるが、初戦で格下のニュージーランド相手に勝利したものの、その後フランス、コロンビアを相手に善戦しながらも敗れ、1勝2敗のグループリーグ敗退に終わっている。
2004年2月、鹿島市での合宿中に久保竜彦、奥大介、小笠原満男、山田卓也、都築龍太、茂庭照幸、大久保嘉人の7人が無断で合宿を抜け出し、市内のキャバクラに行くスキャンダルが発覚。この出来事に対し、「裏切り行為と感じた。信頼関係を失った」とコメントし、当該選手を一時期代表から追放する。この年スタートした2006 FIFAワールドカップ アジア一次予選では、直前に合流した海外組を積極的に起用したことが裏目に出てしまい、格下相手に苦戦。その後も直前の親善試合は国内組がスタメンに入るが、本番の公式戦では直前に合流した海外組を優先的に起用しており、そのことが後々チームにとって火種となる。一方、4月と6月におこなった欧州遠征ではチェコやイングランドといった強豪相手に好成績を残す。
2004年9月、激しい反日感情に包まれた中国で開催されたAFCアジアカップ2004では、苦しい戦いを強いられながらもGK川口能活の神がかり的なセービングもあって劇的な勝利を重ね優勝。大会2連覇を達成し、監督として初のビッグタイトル獲得となる。
2005年からの2006 FIFAワールドカップ アジア最終予選になると、海外組を優先する起用法に不満を抱く選手が現れ、チーム内で亀裂が生まれていた。さらに、戦術を選手のクオリティ任せにするジーコの采配もこの問題に拍車をかけていた。ジーコは怪我で長らく代表を離れていた中田英寿を復帰させ信頼を寄せるも、頭一つ抜けた実績を持つ彼の存在はチームにとって劇薬のようになり、チーム内で浮いた存在となっていた。それでも最終予選の大一番と見られたアウェイのバーレーン戦でチームが一丸となって勝利。最終的には通算成績でも11勝1敗の好成績を残し、世界最速での本大会出場権を獲得する。
2005年6月のFIFAコンフェデレーションズカップ2005では、グループリーグ第3戦で母国であるブラジルとの対戦が実現し2-2で引き分けるが、1勝1分1敗でグループリーグ敗退となる。
2006年6月にドイツで開催された2006 FIFAワールドカップのメンバー選考では、怪我からの復帰が間に合わなかった久保竜彦に代えてムァキ(巻誠一郎)を招集するサプライズ人事が話題となる。直前の開催国ドイツとのテストマッチでは2-2の引き分けに持ち込む好ゲームを演じる。だが、グループリーグ初戦のオーストラリア戦では1点リードを奪ってからの采配の意図が伝わらず、交代策が失敗したことで残り15分間で立て続けに3失点を許し、痛い敗戦を喫する。続くクロアチア戦では愛弟子でもある柳沢敦の決定機でのミスが響いてスコアレスドロー。第3戦ではブラジル相手に大敗し、1分2敗でグループリーグ敗退。過去最高と言われたタレントを揃えながらも、期待を裏切る結果に終わる。
大会後、日本代表監督を退任。これによって日本を離れることになり、15年間に及ぶ日本との関係が一度途切れることになる。
日本代表監督退任直後の2006年7月4日、トルコ・スュペル・リグの名門フェネルバフチェSKの監督に就任。このときのチームにはアレックス、ロベルト・カルロスといったブラジル代表の選手を擁し、リーグ戦では序盤で首位に立ってから一度もその座を譲ることなく2007年5月13日に記念すべきクラブ創立100周年目に17回目のリーグ優勝を達成。就任1年目にして結果を残す。
就任2年目の2007-2008シーズンではUEFAチャンピオンズリーグで指揮を執り、インテル、PSVアイントホーフェン、CSKAモスクワと同居したグループGを3勝2分1敗で2位という成績を残し、決勝トーナメント進出に導く。ラウンド16ではセビージャFCを相手にPK戦の末に勝利し、トルコのクラブとして史上2度目となるベスト8進出を果たす。準々決勝でも強豪チェルシーFC相手にホームの1stレグで勝利するが、アウェイの2ndレグで逆転を許し、敗退。国内リーグでは2位という成績を残すが、クラブと次シーズンについての意見が合わず退任することとなる。兄でコーチでもあったエドゥのインタビューによると、アジズ会長の現場への介入に関する対立が主原因であったという。
2008年9月26日、ウズベキスタンの強豪FCブニョドコルの監督に就任。就任直後に行われたAFCチャンピオンズリーグはアデレード・ユナイテッドに相手に敗退したが、ウズベキスタンカップとウズベキスタンリーグはともに優勝し、国内二冠を達成。また、ウズベキスタン代表のアドバイザーも兼任しており、2010 FIFAワールドカップ アジア最終予選ではミルジャラル・カシモフ監督に日本代表対策を伝授したとされており、アウエーでの1-1の引き分けに貢献している。
2009年1月、ロシア・プレミアリーグのCSKAモスクワの監督に就任。ブニョドコルとの契約は残っていたが、クラブとの話し合いの末に退団となった。ロシア・カップには優勝したものの、UEFAカップではラウンド16で敗退。リーグ戦では首位に大きく引き離されて4位と低迷。そのため、9月10日に成績不振により就任から8か月で解任となる。
CSKAモスクワを解任となったわずか1週間後の2009年9月16日、ギリシャ・スーパーリーグのオリンピアコスFCの監督に就任。CLではベスト16進出を果たしたものの、国内カップ戦でフルメンバーを率いて2部チームに1回戦で敗退し、リーグ戦でも一時は勝ち点2差の2位に付けたもののその後勝ち点7差まで引き離されてしまう。サポーターから結果のみならず采配に対しても不満が募るようになり、2010年1月19日に解任となる。
2010年6月、現役時代に数々の栄誉を獲得したCRフラメンゴのテクニカルディレクターに就任。しかし、クラブ内での対立を理由に10月で退任。
2011年6月4日、5年ぶりに来日し、カシマスタジアムで開催された震災復興チャリティマッチに出場。鹿島アントラーズ時代のかつての仲間たちと共にプレーし、先制ゴールも決めている。
2011年8月29日、イラク代表監督に就任。契約期間は1年。元々はイラクをW杯に出場させた経験を持つ兄エドゥに来たオファーだったが、兄から譲られたことでイラク代表監督に就任することとなった。就任最初の試合となった2014 FIFAワールドカップ アジア3次予選のヨルダン戦に敗れるが、その後の試合で5連勝を飾り、3次予選を首位で通過する。
2012年からのアジア最終予選では、最初の2試合に引き分ける。9月11日には埼玉スタジアム2002で日本代表との対戦が実現。組織的な守備で格上の日本を苦しめるが、前半に奪われた1点を取り返すことができずに敗れる。11月14日のホームのヨルダン戦で初勝利を飾るが、直後の11月27日に主張していたイラクサッカー協会からの給与未払いが履行されなかったことを理由に辞任。イラク代表としては21試合で10勝6分5敗という成績だった。
2013年8月、カタール・スターズリーグのアル・ガラファの監督に就任。しかしわずが5ヶ月後の2014年1月に成績不振により監督を解任される。
2014年9月、この年から創設されたインドのインディアン・スーパーリーグのFCゴアの初代監督に就任。リーグ戦を2位の好成績で終え、ファイナルシリーズにまで進出するが、準決勝で敗れる。
2年目の2015年は元ブラジル代表のルッシオやJリーグでプレーした経験のあるレイナウドが加入。リーグ戦では7勝4分3敗で1位となり、2年連続でファイナルシリーズに進出。決勝まで進出するが、マルコ・マテラッツィが選手兼監督を務めるチェンナイインFCに敗れ、優勝を逃す。
3年目の2016年は不振に陥り、リーグ戦8位と低迷。2017年1月、3年契約の満了により退任することが発表される。クラブや地元ファンの間でゴアの新たなレジェンドとされており、退任後も友好的な関係を築いている。これを最後に監督業からは離れている。
2016年8月、日本サッカー協会より日本サッカー殿堂入りが発表される。
その後はたびたび来日し、再び日本との関係を深めていた。
2018年7月、鹿島アントラーズのテクニカルディレクターに就任。およそ16年ぶりに鹿島に復帰することとなる。8月にはコーチとして役員登録される。
2021年J1リーグのシーズン終了後、テクニカルディレクターを退任。母国のブラジルに帰国するが、以降もクラブアドバイザーとしてブラジルから鹿島の側面支援を行う。
2025年7月27日、エディオンピースウイング広島で自らが主宰となったチャリティーマッチ「ジーコオールスターゲーム広島2025」を開催。「ジャパンレジェンズ」の監督として中田英寿が監督を務める「ワールドレジェンズ」と戦った。
2025年10月23日には鹿島のクラブアドバイザーとして来日し、シーズン終了までチームに帯同。12月6日には鹿島の9年ぶり9回目のJリーグ優勝を見届けると、試合後の表彰式の際にはサプライズでピッチに姿を見せ、シャーレリフトに参加する。
1980年代を代表する典型的な10番タイプのMFで、並外れたテクニック、ボールコントロール、ドリブルスキル、そして相手の意表を突いたトリッキーなプレーやフェイントを使う。優雅で華麗ながらも破壊力は抜群で、相手を背にしての反転の速さ、絶妙のタイミングで放たれるラストパス、抜群の決定力と「白いペレ」にふさわしい10番らしい10番と言えた。
右足インサイドに引っかけるジャックナイフのようなフェイントモーションや、右足1本で左回りにターンするシングル・ルーレット、単純に足裏で抑える切り返しも、その俊敏性で効果抜群だった。そしてボールと敵を操りながら、後方から飛び出してくる味方の動きを完璧に把握していた。それを裏付けているのが卓越した視野の広さで、視野の外から上がってくる味方をほぼ見ておらず、パスを出す瞬間には「そこ」に来ているのがあらかじめわかっているパスの出し方だった。全盛期はすべてを見透かしたようなプレービジョンと抜群のスキルでゲームを支配していた。
ベテランになってからはゲームメイクに専念していたが、全盛期はドリブル突破から複数のDFをかわして一人で局面を打開することも多く、左右両足から強烈なシュートも放てるため、スコアラーとしても卓越していた。さらにFKの名手としても知られ、正確なキックで数々のゴールを記録している。デッドボールの状況からボールを曲げて得点する能力で知られ、史上最高のFKキッカーの一人とにも挙げられている。ジーコのFKは独特で、立っている足にかなりの重点を置いており、甲でボールを蹴るときに体を反らせて膝を非常に高く上げることが多く、壁を越える高さまでボールを蹴り上げ、再び落としている。
1994年3月4日に発売されたジーコが監修するスーパーファミコン用ソフト・・・・なのだが
いろいろな意味で後世にまで語り継がれるゲームとなっている。
詳細は「ジーコサッカー」の記事を参照。
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最終更新:2025/12/24(水) 14:00
最終更新:2025/12/24(水) 13:00
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