ロマーリオ(Romário de Souza Faria、1966年1月29日 - )とは、ブラジルの元サッカー選手、政治家である。元サッカーブラジル代表。
現役時代のポジションはFW。167cm70kg。利き足は右足。
ブラジル・リオデジャネイロ出身。1980年代から1990年代を代表するストライカーであり、非公式戦を含めて生涯1000ゴールを決めている。天才的な閃きと驚異的とも言えるボールコントロールがもたらす得点嗅覚は歴代トップクラスとも言われており、3つの異なるクラブで100ゴールを決めている。
1993年にはFCバルセロナに移籍し、ヨハン・クライフ率いる「ドリームチーム」の一員として、フリスト・ストイチコフと抜群のストライカーコンビを組み、1年目にしてラ・リーガを制覇し、33試合で30ゴールを挙げて得点王に輝いている。
ブラジル代表には1987年にデビューし、FIFAワールドカップに二度出場。1994 FIFAワールドカップではブラジルのエースストライカーとして5ゴールを決め、ブラジルの24年ぶり4度目の優勝に大きく貢献。この年のFIFA最優秀選手賞に選ばれている。その後もロナウドとの「Ro・Roコンビ」で猛威を振るったが、1998 FIFAワールドカップではまさかの落選となり、当時大きな話題となった。
一方、自由奔放で破天荒な性格のため「悪童」としても知られており、たびたび監督やクラブ、ひいてはチームメイトと衝突するトラブルメーカーだった。そのためこれだけ実績のあるストライカーながら何度も移籍を繰り返している。
2010年には政治家に転身し、ブラジル下院議員選挙にリオデジャネイロ州選挙区から当選。
1966年1月29日、アフリカ、ヨーロッパ、中東などにルーツを持つ混血種の家系である塗装職人の長男として生まれる。ロマーリオという名前の由来は著名なテレビ番組の登場人物「ドン・ロマーリオ博士」からに由来している。幼い頃は貧民街のジャカレジーニョで過ごし、4歳のときにリオ郊外北側へ位置するビラ・ダ・ペーニャへ引っ越した。
貧しい環境で育ったことから小児喘息の持病と栄養不足で身長が伸びず、「バイシーニョ(チビ)」のあだ名で呼ばれていた。そんなひ弱な体ながら、リオっ子らしく路上やコパカバーナ海岸でひたすら友達とのボール蹴りに熱中になっていた。9歳のときに父親は、息子のためにジュニアチーム「エストレリーニャ」を結成。ここから正式にサッカーを始めて才能を伸ばしていき、すぐに年長者のチームでプレーするようになる。
13歳のとき名門CRヴァスコ・ダ・ガマからオファーを受けるが、「背が小さすぎる」という理由で契約は見送られた。それでもスカウトから2部のオラリアACを紹介され、入団する。ここでストライカーとしての才能を開花させ、ゴールを量産してジュニアユースの大会での優勝に貢献。そして16歳となった1981年に晴れてヴァスコ・ダ・ガマの下部組織に入団。
19歳となった1985年にヴァスコ・ダ・ガマのトップチームに昇格。2月のコリチーバ戦でプロデビューを飾る。このときの監督だったジーコの実兄であるエドゥーは驚異的な才能を見抜いて積極的に起用。1年目のリオデジャネイロ州選手権では21試合11ゴールを記録すると、続く1986年シーズンには25試合20得点で20歳にしてリオデジャネイロ州選手権得点王を獲得。カンピオナート・ブラジレイロ・セリエAでは23試合で9得点を記録し、エースストライカーとして定着していた。
1987年シーズンのリオデジャネイロ州選手権では16ゴールを決め、2年連続の得点王と共にバスコ・ダ・ガマを5シーズンぶりの優勝に導く。1988年シーズンも16ゴールを決め、得点王は逃したものの、州選手権連覇の立役者となった。こうして若きストライカーの活躍は海外にも届き、欧州有力クラブからの注目を集めるようになっていた。
1988年夏、先のソウルオリンピックでの活躍もあり、UEFAチャンピオンズカップ優勝を果たしたばかりのオランダ・エールディヴィジの名門PSVアイントホーフェンに移籍する。移籍して早々に「今日は寒いから練習には参加しない」とワガママぶりで首脳陣からの不振を買うが、ピッチに立てば結果を残し、1988-89シーズンは公式戦33試合で26ゴールを記録。エールディヴィジとKNVBカップの両方で得点王に輝いてチームをタイトル2冠に導き、結果で周囲を黙らせた。前回王者として臨んだチャンピオンズカップではベスト4に終わるも、6得点を挙げて大会の得点王となる。
1989-90シーズンもゴールを量産し、168㎝のコンパクトな身体を巧み使い、高度なテクニックと驚異的な決定力で次々とゴールを陥れていた。フース・ヒディンク監督のもとで黄金期に差し掛かっていたPSVはエールディヴィジ三連覇こそ逃したものの、KNVBカップを三連覇。リーグ戦では23ゴールを決め、2年連続での得点王を獲得。しかし、結果を残すことで悪童・ロマーリオはますます増長するのだった。
1990-91シーズンにヒディンク監督が退任し、ボビー・ロブソンが監督に就任。この頃のロマーリオは大事な試合が控えていても朝までディスコで踊り、連絡が取れなくなることもしばしば。シーズン中もたびたびリオに帰り「俺はカリオカ。サンバとカーニバルが生き甲斐なんだ」と悪びれることなく嘘ぶき、問題行動を繰り返してはロブソン監督を悩ませていた。しかし圧倒的な得点力を見せるロマーリオを諫められるものはいなかった。このシーズンでは前の2年を上回るリーグ戦25試合25ゴール、公式戦30ゴールという驚異のペースでゴールを量産。3シーズン連続でリーグ得点王に輝き、PSVはこの悪童の力によって2シーズンぶりのリーグ優勝を果たす。
1991-92シーズンは怪我によって14試合のみの出場に終わったが、それでも9ゴールを記録。1992-93シーズンは26試合22得点を記録。UEFAチャンピオンズリーグではチームはグループステージで敗退したものの、当時世界最強だったACミラン相手にゴールを決めるなど7ゴールを記録し、2度目の得点王となっている。PSVに在籍した5シーズンで公式戦128ゴールを挙げて3度の得点王に輝き、リーグ優勝3回、国内カップ2回、スーパーカップ1回のタイトル獲得に大きな役割を果たし、世界最高クラスのストライカーと称されるようになっていた。
1993年夏、スペイン・リーガ・エスパニョーラの強豪FCバルセロナに移籍し、ヨハン・クライフ監督率いる「エル・ドリームチーム」の一員となる。入団会見では「30ゴールを決めてみせる」という強気のロマーリオ節を見せる。すると、デビュー戦となったリーガ開幕戦のレアル・ソシエダ戦でハットトリックをやってのけ、早くも口だけではないことを証明する。カンプノウでおこなわれた第18節のエル・クラシコではハットトリックの大活躍でレアル・マドリードを5-0で撃破する歴史的な大勝に貢献。相棒となったフリスト・ストイチコフと抜群のコンビネーションを見せ、5度のハットトリックを重ねて得点を稼ぎ、最終節のセビージャ戦で有言実行の30ゴールを達成。1年目でピチーチ賞(得点王)を獲得するとともにリーガ4連覇に大きく貢献する。CLでも決勝まで進出するが、決勝ではミランの世界最高峰の守備陣に完封されてしまい、チームは大敗。スペインでも自由奔放なパーソナリティは相変わらずで、夜遊びを繰り返し、練習にも何度も遅刻していた。結果を出すことで周囲を黙れせてきたロマーリオだったが、クライフ監督との関係は日増しに悪化していた。
1994-95シーズンは、先のワールドカップ優勝で大きな目的を叶えたことでモチベーションを失い、欧州に戻る気を失せていた。結局スペインへ戻ってきたのは予定よりも23日遅れてであり、シーズンが始まってもやる気を失っていたことから調子が上がらず、ついにはベンチに座ることも増えていた。セビージャFC戦では挑発してきたディエゴ・シメオネの顔に左フックをお見舞いし、5試合の出場停止処分を受ける。クライフ監督やクラブとの関係はもはや修復不能となっており、半ば喧嘩別れの形で退団する。
1995年1月、ブラジルのCRフラメンゴへ移籍し、母国へ復帰する。フラメンゴではロマーリオに負けず劣らずの問題児であったエジムンドが所属しており、エジムンドとの「悪童2トップ」に注目が集まった。周囲の心配をよそに二人の強烈な個性はうまく化学反応をし、「バッドボーイズ」は息のあったコンビネーションを披露。移籍1年目のリオデジャネイロ州選手権では22試合26得点を決め、ここでも結果は残す。一方、コパ・リベルタドーレスでは試合中にエジムンドに対してパンチを見舞った相手チームのDFに対し、報復として胸を蹴飛ばすなど悪童ぶりも健在だった。
1996年シーズンのリオデジャネイロ州選手権では29試合32得点の成績で得点王となり、フラメンゴの5年ぶりの優勝に貢献する。
1996年夏、バレンシアCFへと移籍し、再びスペインに復帰する。新天地でも相変わらずの決定力を発揮していたが、ルイス・アラゴネス監督と衝突したことから干されてしまい、1997年になって出戻りという形でフラメンゴにレンタル移籍する。問題を起こしてもピッチに立てば結果を残すのがロマーリオという選手でリオデジャネイロ州選手権で26ゴールを決め、2年連続での得点王となる。
1997年夏に保有元のバレンシアへ戻ることに。新監督のクラウディオ・ラニエリは、選手の意思に反してクラブに残留させたくないと主張していたが、フランスワールドカップへの準備の必要性を主張し、シーズン中のリーグ戦わずか6試合で退団する。
1998年にフラメンゴに完全移籍という形で復帰。ブラジル代表復帰を目標に掲げていたこともあってモチベーションが高く、公式戦40試合で35ゴールを記録。ワールドカップ出場が叶わず、モチベーションの低下も心配されたが、1999年シーズンでも驚異的なペースでゴールを量産し、前年を上回る公式戦47ゴールを記録する。ところが、練習をサボったことがきっかけでまたもクラブとの関係が悪化し、契約解除によって退団となる。
2000年1月、キャリアのスタートとなった古巣のCRヴァスコ・ダ・ガマへ復帰。34歳とベテランに差し掛かっていたが、新天地で再び恐るべし才能を発揮する。ヴァスコでは再びエジムンドとの「バッドボーイズ」を結成し、見事なコンビネーションでゴールを量産。加入してすぐにブラジルで開催されたFIFAクラブワールドカップ2000では、グループステージ第2戦のマンチェスター・ユナイテッド戦で2ゴールを決めるなど、通算3ゴールで大会得点王とブロンズボウルを獲得し、チームの準優勝に貢献。リオデジャネイロ州選手権では31ゴールを決め、5年連続で得点王となる。カンピオナート・ブラジレイロ・セリエAでも29試合19ゴールという成績で初の得点王とともにヴァスコを3年ぶり4度目の優勝に導く。コパ・メルスコール決勝のパルメイラス戦では試合終了間際にチームにタイトルをもたらす決勝ゴールなど4ゴールの大活躍。公式戦通算ではキャリアハイとなる65ゴールを記録し、5つの大会で得点王を獲得。さらにチームに2つのタイトルをもたらし、この年の南米最優秀選手に選出される。
2001年シーズンも前年ほどではないものの、カンピオナート・ブラジレイロ・セリエAでは22ゴールを決め、2年連続での得点王を獲得。2002年シーズンになると出場機会が減り、退団する。
2002年シーズン途中にフルミネンセFCに加入。2002 FIFAワールドカップ出場という目標を断たれたロマーリオの次なる野望はあのペレを超えるキャリア1000ゴールの達成だった。前年にセリエAに復帰した古豪でも類まれな得点感覚は健在で、カンピオナート・ブラジレイロ・セリエAでは16ゴールをマーク。
2003年2月、カタール・スターズリーグのアル・サッドに3か月のレンタル移籍。3試合に出場した後、予定通りフルミネンセに復帰。
2004年シーズンは怪我もあって欠場が多く、ここでもトレーニング中に生きた鶏6羽を投げつけたファンを襲撃したり、監督と衝突したりとトラブルを起こし、10月21日に契約解除で退団となる。
2005年にCRヴァスコ・ダ・ガマに4年ぶりに復帰。39歳となり限界説も囁かれるようになっていたが、年齢を感じさせないパフォーマンスを披露。カンピオナート・ブラジレイロ・セリエAでは32試合22ゴールを記録し、通算3度目となる得点王に輝く。
40歳となった2006年にアメリカW杯ブラジル代表でチームメイトだったジーニョと共にアメリカ・USL-1のマイアミFCに移籍。リーグ戦25試合で19得点を記録。
シーズン後の11月、オーストラリア・Aリーグのアデレード・ユナイテッドと5試合のゲスト出場契約を交わす。最終戦のセントラルコースト・マリナーズ戦で初ゴールを決める。
2007年は古巣のヴァスコ・ダ・ガマに実に4度目の加入。1年間の内に2度移籍をしてはいけないというFIFAの規定によってFIFA側はその移籍を正式には認めていなかったが、クラブ側は「アデレード・ユナイテッド在籍は『招待』であり『移籍』ではない」と言う主張を掲げチームに帯同させていた。
そして、5月20日、セリエAのスポルチ・レシフェ戦でPKを決め、キャリア1000ゴールを達成。この大記録の達成はブラジル国内でも大きな関心事となっており、サポーターの祝福のため試合は20分以上中断された。なお、この1000ゴールは「自己申告による1,000ゴール」と報道される場合もあったが、1,000ゴールは全て試合日と対戦相手が判明しており、内訳はユース以下の選手として77ゴール、プロの選手として923ゴールとなっている。
10月24日には選手兼監督として契約を交わしたことが発表される。
2008年になると現役引退をほのめかしながら撤回してプレーを続けるというのを繰り返していたが、4月15日に正式に現役引退を表明。同時に監督も退任している。
引退から1年が過ぎた2009年7月、リオデジャネイロ州2部のアメリカFCに加入し現役復帰することが発表される。しかし実際にプレーしたのは11月の1試合のみとなり、その後再び現役を退く。
プロデビューした年である1985年1月、U-20ブラジル代表のメンバーとしてパラグアイで開催された南米ユース選手権に出場し、大会得点王となる4ゴールを挙げてブラジル3度目の優勝に貢献。エースとしてFIFAワールドユース選手権1985のメンバーにも選出されるが、開催地のモスクワに飛び立つ寸前まで夜遊びにうつつを抜かすという問題児ぶりを発揮。首脳陣を激怒させチームを外されてしまう。
1987年5月、フル代表に初めて招集され、5月23日のアイルランド戦で19歳でのセレソンデビューを飾る。3日後のフィンランドとの親善試合では代表初ゴールを決め、代表に定着。同年6月にアルゼンチンで開催されたコパ・アメリカ1987に出場し、初戦のベネズエラ戦でゴールを決めて勝利に貢献するが、第2戦のチリ戦では0-4で完敗。ブラジルはグループリーグ敗退となる。
1988年9月開催のソウルオリンピックではブラジルオリンピック代表として出場。初戦のナイジェリア戦で2ゴールを決めれば、第2戦のオーストラリア戦ではハットトリックを達成。準決勝の西ドイツ戦では同点ゴールを決め、PK戦でも成功させている。決勝のソ連戦でも先制ゴールを決めるが、チームは延長戦の末に逆転負けを喫し、銀メダルに終わる。それでも大会通算7ゴールを記録し、得点王となり、国際的な評価を得るきっかけとなった。
1989年7月、自国開催となったコッパ・アメリカ1989に出場。この大会ではオリンピックでも2トップを組んだベベットとのコンビで攻撃陣を牽引し、決勝ラウンド第1戦ではディエゴ・マラドーナを擁するアルゼンチン相手にゴールを決め、勝利に貢献。続くベネズエラ戦でもゴールを決めれば、事実上の決勝となったマラカナン・スタジアムでのウルグアイ戦で決勝ゴールを決め、ブラジルに40年ぶり4度目の優勝をもたらす。ウルグアイ戦のシチュエーションは39年前の「マラカナンの悲劇」をそのまま再現したものであり、ブラジル国民のトラウマを払拭させる勝利だったことからロマーリオは一躍国民的ヒーローとなった。
1990年6月にイタリアで開催された1990 FIFAワールドカップのメンバーに選出されるが、大会3ヶ月前に腓骨骨折の重傷を負った影響でコンディション不良とみなされ、大会でのレギュラーの座をカレッカとミューレルに譲ることになる。結局出場したのはグループリーグ第3戦スコットランド戦の25分のみとなった。
イタリアW杯後、チームの輪を乱すトラブルメーカーぶりを危惧したカルロス・アルベルト・パレイラ監督の方針もあってしばらくの間代表から遠ざかっていた。1992年になって再び招集されるようになるが、12月のドイツとの親善試合でスタメンを外されたことに激怒し、パレイラ監督と口論となる。事態を重くみたパレイラ監督はロマーリオを代表から追放する。
1994 FIFAワールドカップ・南米予選でブラジルは初めてボリビアに敗れるなど苦戦を強いられ、ブラジル国内ではロマーリオ待望論が噴出していた。本大会出場がかかった最終戦のウルグアイ戦においてミューレルが負傷してしまったことで、パレイラ監督は頑なに招集を見送っていたロマーリオの復帰を決断。すると、大事なウルグアイ戦で2ゴールの大活躍を見せて本大会出場へと導き、母国の救世主となる。
1994年6月、アメリカで開催された1994 FIFAワールドカップに出場。この大会ではブラジルのエースとしてだけではなく、イタリアのロベルト・バッジョと並んでもっとも注目されるスター選手として期待されていた。大会が始めると、世界最強とも言われたベベットとの2トップが猛威を振るう。初戦のロシア戦ではFKからヘディングシュートによるワールドカップ初ゴールを記録。第2戦のカメルーン戦でも先制ゴールを決めれば、第3戦のスウェーデン戦でも同点ゴールを決め、グループリーグで3試合連続ゴールを記録。準々決勝のオランダ戦はベベットとの2トップが揃ってゴールを決め、準決勝ではスウェーデンの堅守に手を焼きながらも後半35分に値千金の決勝ゴールを決め、ブラジルを決勝へと導く。決勝のイタリア戦はPK戦までもつれ込み、2人目のキッカーとして成功。大会通算5ゴールを決め、ブラジルの24年ぶり4回目となる優勝の立役者となり、大会MVPに該当するゴールデンボールに選出される。優勝後の記者会見では「この大会は、まさにロマーリオの大会だった」と自画自賛のコメントを残している。この功績が認められ、1994年のFIFA最優秀選手賞に選出。悪童が世界の頂点に立った瞬間となった。
アメリカW杯後はしばらくの間代表から離れていたが、1997年に復帰すると台頭していた怪物・ロナウドと「Ro・Roコンビ」と呼ばれた最強の2トップを形成。同年6月にボリビアで開催されたコパ・アメリカ1997では通算3ゴールを決め、優勝に貢献。12月にサウジアラビアで開催されたFIFAコンフェデレーションズカップ1997はRo・Roコンビの独壇場の大会となった。グループリーグ初戦のサウジアラビア戦で2ゴールを決めれば、準決勝のチェコ戦ではロナウドとのアベックゴールで勝利。そして決勝のオーストラリア戦ではロナウドと2人揃ってハットトリックを達成するという驚くべき偉業を成し遂げ、ブラジルの初優勝に貢献。Ro・Roコンビは2人で合計11ゴールを記録しており、ロマーリオは大会通算7ゴールで得点王となっている。この怪物コンビを擁するブラジルは半年後となったフランスワールドカップの大本命と見られていた。
1998年6月、1998 FIFAワールドカップのメンバーに選出されると思われていたが、大会前のメディカルチェックで筋肉系の故障が判明し、マリオ・ザガロ監督はロマーリオをメンバーから外すというまさかの決断を下す。落選直後のインタビューで涙ながらに無念を語る姿は世界中に衝撃を与えた。自分を代表から外したザガロ監督やジーコTDに憤懣をぶつけ、裁判沙汰のトラブルにもなった。
それでも2002年のワールドカップ出場を目指し、30代半ばとなりながらも結果を残し続けることで2000年にブラジル代表に復帰。ロナウドが大怪我を負って不在となった2002年W杯南米予選ではリバウドと共にチーム最多の8ゴールを記録。ところが、2001年のコパ・アメリカを仮病を使って欠場したことが発覚したことでルイス・フェリペ・スコラーリ監督の怒りを買い、構想外となってしまう。その結果、2002 FIFAワールドカップのメンバーにも選出されなかった。
2004年になりブラジル代表からの引退を表明。ホルヘ・カンポスと合同での代表引退試合をおこなう。
2005年4月、1試合限定でブラジル代表に復帰。4月27日、サンパウロで開催されたグアテマラとの親善試合にキャプテンマークを巻いて出場し、2ゴールを記録。この試合が本当の代表ラストマッチとなった。
なお、2005年5月にはビーチサッカーブラジル代表として2005 FIFAビーチサッカーワールドカップに出場。3位決定戦の日本戦で2ゴールを決めている。
| シーズン | 国 | クラブ | リーグ | 試合 | 得点 |
|---|---|---|---|---|---|
| 1985 | ヴァスコ・ダ・ガマ | カンピオナート・セリエA | 7 | 0 | |
| 1986 | ヴァスコ・ダ・ガマ | カンピオナート・セリエA | 23 | 9 | |
| 1987 | ヴァスコ・ダ・ガマ | カンピオナート・セリエA | 17 | 8 | |
| 1988 | ヴァスコ・ダ・ガマ | カンピオナート・セリエA | - | - | |
| 1988-89 | PSVアイントホーフェン | エールディヴィジ | 25 | 19 | |
| 1989-90 | PSVアイントホーフェン | エールディヴィジ | 20 | 23 | |
| 1990-91 | PSVアイントホーフェン | エールディヴィジ | 25 | 25 | |
| 1991-92 | PSVアイントホーフェン | エールディヴィジ | 14 | 9 | |
| 1992-93 | PSVアイントホーフェン | エールディヴィジ | 26 | 22 | |
| 1993-94 | バルセロナ | リーガ・エスパニョーラ | 33 | 30 | |
| 1994-95 | バルセロナ | リーガ・エスパニョーラ | 13 | 4 | |
| 1995 | フラメンゴ | カンピオナート・セリエA | 16 | 8 | |
| 1996 | フラメンゴ | カンピオナート・セリエA | 3 | 0 | |
| 1996-97 | バレンシア | リーガ・エスパニョーラ | 5 | 4 | |
| 1997 | フラメンゴ(loan) | カンピオナート・セリエA | 4 | 3 | |
| 1997-98 | バレンシア | リーガ・エスパニョーラ | 6 | 1 | |
| 1998 | フラメンゴ | カンピオナート・セリエA | 20 | 14 | |
| 1999 | フラメンゴ | カンピオナート・セリエA | 18 | 12 | |
| 2000 | ヴァスコ・ダ・ガマ | カンピオナート・セリエA | 27 | 19 | |
| 2001 | ヴァスコ・ダ・ガマ | カンピオナート・セリエA | 19 | 22 | |
| 2002 | ヴァスコ・ダ・ガマ | カンピオナート・セリエA | - | - | |
| フルミネンセ | カンピオナート・セリエA | 26 | 16 | ||
| 2003 | フルミネンセ | カンピオナート・セリエA | 21 | 13 | |
| アル・サッド(loan) | スターズリーグ | 3 | 0 | ||
| 2004 | フルミネンセ | カンピオナート・セリエA | 13 | 5 | |
| 2005 | ヴァスコ・ダ・ガマ | カンピオナート・セリエA | 32 | 24 | |
| 2006 | ヴァスコ・ダ・ガマ | カンピオナート・セリエA | - | - | |
| マイアミFC | USL-1 | 25 | 19 | ||
| アデレード・ユナイテッド(loan) | Aリーグ | 4 | 1 | ||
| 2007 | ヴァスコ・ダ・ガマ | カンピオナート・セリエA | 6 | 3 | |
| 2009 | アメリカFC | カンピオナート・セリエB | - | - |
2010年10月、ブラジル下院議員選挙にリオデジャネイロ州選挙区からブラジル社会党所属として立候補し、146,000票の得票で当選。半年後には、ハンディキャップを持った人が仕事を失った場合、政府から補助金がもらえる法案の成立に尽力する。
2012年、難病患者への理解を示し、政府の援助を拡大するためのセミナーを開く。
2014年10月、ブラジル上院議員選挙に当選。リオデジャネイロ州を代表する候補者として史上最多の票を獲得。その後、障がい者へのより手厚い保護を求める法案を通す。
同年10月、現役最後のクラブとなったアメリカFCの会長となる。
2017年6月、ブラジル社会党から離党し、中道政党のポデモスに入党。リオデジャネイロ州の同党の党首に就任。2014年のブラジルW杯では、多くの汚職やマネーロンダリングが行なわれたと告発、また2018年のW杯については、「本来ならイギリスで行なわれるはずが、ロシアに売り渡された」と、FIFAの幹部たちを糾弾。
2018年、ポデモスの候補者として、ブラジル総選挙のリオデジャネイロ州知事選へ出馬するが、得票数が伸びず落選。
2021年4月、極右政党の自由党へ移籍。ジャイル・ボルソナーロ大統領支持を表明する。
2024年4月、58歳にして現役復帰を表明し、会長を務めるアメリカFCの選手として登録される。
167cmと、サッカー選手としては決して高くないが、卓越したゴール感覚と驚異的なボディバランスを武器に、世界トップレベルのストライカーとして活躍。ヨハン・クライフは「ゴールエリアの天才」であると同時に、自分が指導した中で最高の選手と評している。
低身長でありながら、細かいステップと爆発的なスプリント力を活かし、DFを翻弄する。特にPA内での動きは圧巻で、瞬時に相手をかわし、ゴールを奪う能力に長けていた。低重心の体格によって鋭いターンが可能で、特にDFを背負ったままボールをトラップし、軸足を中心に180度ターンする「ラーボ・デ・バッカ」と呼ばれるテクニックを得意としていた。さらに、小さな動きの中で相手の逆を突くのが得意で、わずかなスペースさえあればゴールへと結びつける技術を持っている。
シュートの精度も高く、DFのファウルをものともせず、GKをあざ笑うようなループシュートや、角度を変えるボレーシュートなど、多彩なシュートを放っていた。何よりも他の選手とは明らかに異なるタイミングでシュートを放つことができ、右足のシュートはインステップ・サイドは勿論、アウトサイド、時にはトゥーキックでゴールし、加えてダイレクトシュートの精度も高い。
小柄であるが、簡単に倒れないボディバランスを持ち、天性のポジショニングセンスによって誰よりも早くこぼれ球を押し込める。ドリブル突破も柔らかいボディバランスと重心の低さでドリブルの方向転換を瞬時におこない、短い距離の異常なスプリント能力で相手を置き去りにしてしまう。
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最終更新:2025/12/05(金) 18:00
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