スティーヴン・ジェラード(Steven George Gerrard MBE, 1980年5月30日 - )とは、イングランドの元サッカー選手、サッカー指導者である。
現役時代のポジションはMF。183cm83kg。利き足は右足。
イングランド・ウィストン出身。9歳の頃から2015年までリヴァプールFC一筋で過ごしたクラブのバンディエラであり、地元サポーターから絶大な人気を誇ったレジェンド中のレジェンド。中盤であればあらゆるポジション、役割をこなせたオールラウンダーであり、強靱な肉体から放たれる破壊的なミドルシュートで相手ゴールを脅かし、ダイナミックな動きと正確な中長距離のパス、激しいタックルで攻守に躍動、その闘う姿勢とリーダーシップでいくつもの奇跡を起こしたリヴァプールの英雄である。
2000-01シーズンにはユース時代からの仲間であるマイケル・オーウェンとともにFAカップ、リーグカップ、UEFAカップの三冠獲得に貢献。23歳の若さでキャプテンを任されると、2005年のUEFAチャンピオンズリーグ決勝ではACミランを相手にイスタンブールの奇跡と称される奇跡の大逆転勝利によってビッグイヤー獲得をもたらすことでクラブの伝説となった。在籍中にプレミアリーグ優勝こそ果たせなかったものの、リヴァプールの象徴といえる存在である。
イングランド代表には2000年にデビューし、2014年7月に引退するまで114試合21得点を記録。デイヴィッド・ベッカム、ポール・スコールズ、フランク・ランパードらと共に豪華な中盤を構成し、FIFAワールドカップには2006年、2010年、2014年の三度出場、UEFA欧州選手権には二度出場。しかしいずれの国際大会でもタイトルとは無縁で、期待されたほどの結果を残せずに終わっている。
キャリアの晩年はMLSのロサンゼルス・ギャラクシーでプレーし、2016年に現役を引退。引退後は指導者となり、2021年にはレンジャーズFCの監督として10年ぶりのスコティッシュ・プレミアシップ優勝に導いている。しかしその後の監督キャリアはアストン・ヴィラ、アル・イテファクと結果を残せずに解任されている。
1980年5月30日、マージサイド州ウィストンで次男として生まれる。地元のウィストン・ジュニアーズに入団し本格的にサッカーを始めると、才能が認められて1989年に9歳でリヴァプールの下部組織に入団。
アカデミーに加わった頃の1989年4月、FAカップ準決勝のリバプールvsノッティンガム・フォレスト戦で、「ヒルズボロの悲劇」と呼ばれる大惨事が発生する。イングランドスポーツ史上最悪とされる事故によって亡くなった犠牲者の中には1歳上だった従兄弟も含まれており、この事故で心に深い傷を負うことになる。また、この「ヒルズボロの悲劇」は85年の「ヘイゼルの悲劇」とともに、強豪リヴァプールを地盤沈下させる要因となった。
子供時代のヒーローはジョン・バーンズ、イアン・ラッシュ、ポール・ガスコインであった。少年時代に庭のフォークが右足の親指を刺す事故に遭い、一時はキャリアを断念する可能性もあったが、父とリヴァプール・アカデミーのディレクターであるスティーブ・ハイウェイが、彼のつま先を切断する不必要な手術を防いでくれたとされている。
ユース時代は半年早く生まれた「神童」マイケル・オーウェンと切磋琢磨していた。14歳の時に様々なクラブのトライアルを受けたことがあり、その中にはマンチェスター・ユナイテッドのトライアルも含まれていたが、自伝の中で、それは単に「リバプールにユーストレーニングスキーム契約を結ばせるよう圧力をかけるため」だったと認めている。
1998-99シーズンにトップチームに昇格し、オーウェンから遅れること1年半となる1998年11月29日、プレミアリーグのブラックバーン・ローヴァーズ戦の試合終盤に途中出場し、18歳でトップチームデビューを飾る。プロ1年目では負傷したジェイミー・レドナップの代わりにセンターハーフとしてプレーした他、右サイドバックでも起用され、公式戦13試合に出場している。
1999-00シーズンはポール・インスの移籍によってセンターハーフのポジションに固定され、前年よりも出場時間が大きく増える。1999年12月5日のシェフィールド・ウェンズデイ戦ではプレミアリーグ初ゴールを記録。この頃はレドナップとのコンビで定着し、守備的な役割を担っていたが、新しい役割への適応と鼠径部の怪我に苦しみ、リーグ戦29試合に出場したが後半戦になるにつれて伸び悩んでいた。
2000-01シーズン、ジェラール・ウリエ監督よりこれまでよりも攻撃を意識した役割を求められるようになり、ボックス・トゥ・ボックスの動きを意識した新たなプレースタイルを築くようになる。これによってゴールに直結したプレーが増え、レギュラーに定着。守備的な役割を相棒のディートマー・ハマンに任せ、果敢に前へ飛び出していく姿はリヴァプールサポーターから人気を博していく。またこのシーズンはジェラード、オーウェンの他にスティーブ・マクマナマン、ロビー・ファウラー、ジェイミー・キャラガーといった下部組織出身の若手が次々と台頭していた。公式戦50試合に出場して10ゴールとブレイク。オーウェン&ヘスキーの強力2トップとのホットラインで、CL出場権の得られる3位確保に貢献。さらにFAカップとEFLカップを制し、UEFAカップも優勝し、EFLカップ決勝のマンチェスター・ユナイテッド戦では先制ゴールも決めている。また、UEFAカップ決勝のアラベス戦では、チームの2点目を決めるなど大舞台で勝負強さを発揮。攻守の活躍でカップ・トレブル達成に大きな役割を果たし、PFA選定のベストイレブンと最優秀若手選手賞に輝き、オーウェンと並ぶチームの看板選手となった。
2001-02シーズンは再び鼠蹊部の負傷に苦しみ、なかなか調子があがらなかったものの、プレミアリーグ発足以来最高順位となる2位でのフィニッシュに貢献。
2002-03シーズンは調子を取り戻し、攻守にわたってチームを牽引。しかし2003年5月11日のプレミアリーグ最終節チェルシーFC戦では、勝った方が4位でCL出場権獲得という状況で、試合中にレッドカードを貰い退場となってしまう。10人になったチェルシーに敗れ、5位に終わり、CL出場権を逃すことになる。これまでも激しいタックルでボールを奪いに行くスタイルのため、シーズン中のイエローカードが多かったが、大事な試合で悪い癖が出る形となった。
2003-04シーズンの途中、サミー・ヒーピアからキャプテンを引き継ぐことになる。これより後、退団する2015年までの11年間リヴァプールのキャプテンを務めることになる。それまで試合中に熱くなりすぎるなど未熟さも見かけられたが、若くしてのキャプテン就任にしたことでプレーの質向上と精神的成長を促すことになり、プレイヤーとして一皮むけるきっかけとなる。この年もCL出場権を争う位置にいたが、シーズン終盤戦の大活躍によってCL出場権獲得をもたらす。もっともこの頃のプレミアリーグはマンチェスター・ユナイテッドとアーセナルの2強に加え、新興勢力のチェルシーが台頭。「ビッグ4」と呼ばれながら、リバプールは上位の壁を破れずにいたこともあり、盟友であるオーウェンがレアル・マドリードに移籍。ジェラードもチェルシー移籍の話が持ち上がったが、記者会見で残留を明言する。
2004-05シーズンより恩師といえるウリエ監督が退任し、スペイン人のラファエル・ベニテスが監督に就任。オーウェン、ヘスキーの2トップが揃ってチームを去り、自身もクラブの本気度を疑い、移籍へと気持ちが傾きかけたが、ベニテス監督との話し合いにより思い留まることになった。スペインから多くの選手が加入し新たなサイクルに入ったチームだったが、プレミアリーグでは故障者の多さやエースの不在もあって5位に終わる。自身もつま先の骨折によって前半戦の2か月ほどを欠場している。一方、CLでも自身が欠場していた期間に星を落とし、2004年12月18日のグループステージ最終節オリンピアコス戦は勝利が義務付けられた瀬戸際に立たされていた。だが、この試合の終了間際にハーフボレーでの弾丸ミドルシュートを決め、逆転で2位に順位を上げての決勝ラウンド進出を果たす。その後、けっして前評判は高くなかったリヴァプールだったが、バイヤー・レヴァークーゼン、ユヴェントス、チェルシーFCといった強豪を打ち破り、決勝まで辿り着く。2005年5月25日、トルコのイスタンブールでおこなわれたACミランとの決勝はフットボール史に残る伝説の夜となった。前半、自力で勝るミランが3点のリードを奪い、この時点で誰もがミランの勝利を確信していた。しかし、ハーフタイムに「笑い者になりたくない」と魂のスピーチによってチームを奮い立たせると、後半9分にジョン・アルネ・リーセのクロスから魂のヘディングシュートを叩き込み、反撃の狼煙をあげる。キャプテンのゴールで息を吹き返したリヴァプールはその後ヴラディミール・シュミツェル、シャビ・アロンソのゴールによってわずか6分間で試合を振り出しに戻すという奇跡を起こす。勢いづいたチームはPK戦でイェジー・ドゥデクが3本を阻止する活躍を見せ、「イスタンブールの奇跡」と呼ばれる5度目のビッグイヤー戴冠を果たす。キャプテンとしてビッグイヤーを掲げたジェラードはこの夜を境にクラブの伝説的プレイヤーへと昇華するのだった。この活躍が認められ、UEFA年間最優秀選手賞を受賞。
2005-06シーズン開幕前、チェルシーへの移籍を志願したという報道が出され、ショックと怒りで我を忘れたサポーターたちによってクラブに押しかけて抗議運動を起こし、経営幹部、そしてジェラード本人や家族も身の危険を感じるような騒動へと発展。こうした事態に移籍志願を撤回し、クラブとの契約延長も成立。あらためて生涯リヴァプールを誓うのだった。シーズンではCL予備予選のTNS戦でプロキャリア初のハットトリックを達成。より高い位置でプレーすることで得点力が飛躍的に向上し、プレミアリーグでは初めて二桁得点を記録。2005年12月には日本開催のFIFAクラブワールドカップ2005に出場し、準決勝のサプリサ戦では豪快なボレーシュートを決めている。決勝でサンパウロFCに敗れ、クラブ世界一のタイトルは逃したが、FAカップ決勝では2-3とリードされた後半ロスタイムに35mの距離から火を噴くロングシュートで同点に追いつき、イスタンブールの奇跡を思わせるような逆転劇によって優勝をもたらす。公式戦53試合23ゴールの好成績を残した活躍により、自身初のPFA年間最優秀選手賞を受賞。
2006-07シーズンは得点数こそ前年を下回ったが、それでもプレミアリーグで36試合7得点という成績を残している。一方、CLでは2シーズンぶりのCL決勝進出に貢献し、イスタンブールのときと同じACミランとタイトルを争うことになる。しかし、今度はフィリッポ・インザーギの2ゴールによってミランのリベンジを許し、準優勝となる。
2007-08シーズンのプレミアリーグでは新戦力のフェルナンド・トーレスが24ゴールと爆発するが、やはり3強の牙城を崩すには至らず、4位に終わる。一方、FAカップ3回戦では、ルートン・タウン戦でハットトリックを達成。CLではグループステージのベシクタシュ戦からラウンド16のインテル戦ファーストレグまで5試合連続ゴールを決めるなど、チームを準決勝まで導く。しかし、チェルシーとの準決勝では延長戦の末に競り負け、2シーズン連続のファイナル進出を逃す。
2008-09シーズンはポジションを一列前のトップ下がメインポジションとなったことで再び得点力が向上。CLグループステージのPSVアイントホーフェン戦では、自身キャリア100ゴール目となるフリーキックを決める。2009年3月22日のアストン・ヴィラ戦では、プレミアリーグでは初のハットトリックを達成。多くのベテラン勢がチームを去り、顔ぶれを刷新したなかでプレミアリーグでは久々に優勝争いを演じたものの、マンチェスター・ユナイテッドに及ばず2位に終わる。それでも、リーグ戦では自身のキャリアハイを更新する得点ランク3位の16ゴール並びに11アシストを記録。公式戦全体でも44試合22得点とストライカー顔負けの数字を残している。
2009-10シーズンはゲームメーカーのシャビ・アロンソが移籍した穴を埋めきれず、チームは不振に陥ってしまう。自身も度重なる怪我に苦しみ、なかなかトップフォームが維持できていなかった。シーズン後半戦になって調子を上げたものの、中盤の展開力不足、ジェラードとフェルナンド・トーレスへの依存度が更に高まるなどチームが機能せず最終的に7位で終了。シーズン終了後、ベニテス監督は退任となる。
2010-11シーズンはオーナーが変わり、監督もロイ・ホジソンが就任するものの、チームは資金不足もあって満足な補強ができずに低迷。自身も2010年11月14日のUEFAカップ、グループステージのSSCナポリ戦でハットトリックを達成するが、長年悩まされてきた鼠蹊部の負傷によってシーズンの大半を欠場することになり、満足の結果を出せずプレミアリーグでは21試合の出場にとどまる。リーグ戦の順位は6位に終わり、12年ぶりの欧州のカップ戦出場権を逃すことになる。
2011-12シーズンも右足首の負傷などによってシーズンの大半を欠場することになる。2012年2月26日のEFLカップ準決勝マンチェスター・シティ戦でリヴァプールでの400試合出場を達成。3月13日、エヴァートンとのマージサイド・ダービーでハットトリックを達成するなどトピックスはあったが、プレミアリーグでは18試合の出場に終わり、低迷期の続くチームは8位に終わるが、EFLカップ優勝を果たし、5シーズンぶりのタイトルを獲得。
2012-13シーズンより就任したブレンダン・ロジャース監督はポゼッションスタイルを導入。この年は久々に大きな怪我もなくシーズンをフル稼働し、2012年9月23日のマンチェスター・ユナイテッドとのノース・ウェスト・ダービーでは先制ゴールを決め、勝利に貢献。公式戦46試合10得点8アシストを記録。このシーズンもリーグ戦7位と3年連続で中位に終わるが、それでも一筋の光明を見出したシーズンとなった。
2013-14シーズンはロジャース監督によってアンカーにコンバートされ、かつてのシャビ・アロンソのように後方からのゲームメイクを担い、チーム全体をコントロールしながら攻撃陣を操るオーガナイザーとしての役割を任される。このジェラードのアンカー起用が大当たりし、中長距離のパスでルイス・スアレスとダニエル・スターリッジの強力2トップを操り、自らも攻め上がってのミドルシュートでゴールを狙うスタイルによって低迷していたリヴァプールは蘇り、久々に優勝争いへと加わる。2013年10月19日のニューカッスル・ユナイテッド戦のPKによるゴールによってプレミアリーグ100ゴールを達成。獅子奮迅の働きによってリヴァプールを残り5試合の時点での首位浮上に導き、キャリア初のプレミアリーグ優勝がいよいよ目前となっていた。ところが、勝てば優勝がほぼ確実となる第35節のチェルシー戦でママドゥ・サコからの横パスを受ける際にまさかのスリップによってボールを奪われ、失点に繋がってしまう。この失点が原因でチームは敗れ、次節のクリスタル・パレス戦では3-0から追いつかれるという失態を犯し、最終的に首位から陥落してリーグ優勝を逃すことになる。アンカーながらも13ゴールを挙げ、リーグトップとなる13アシストを記録した完璧なシーズンを過ごしながらも大一番での大きなミスによって優勝を逃し、悔やんでも悔やみきれないシーズンとなってしまう。
2014-15シーズンもアンカーの位置でゲームメイクを担うが、前のシーズンで全てを出し尽くしてしまったのか35歳となったこともあって年齢的な衰えが見られるようになり、CLグループステージのレアル・マドリード戦ではスタメンを外れてしまう。2015年1月1日、このシーズンを最後にリヴァプールを退団することを発表。ワンクラブマンでキャリアを終えると思われたレジェンドの発表に全世界に衝撃が走る。その後も、ロジャース監督の意向によってプレー時間が制限されていたが、年明けの公式戦2試合連続1試合2ゴールを記録する。2月4日のQPR戦ではクラブ史上3人目となる通算700試合出場を達成。一方、3月22日のマンチェスター・ユナイテッド戦では途中出場からわずか38秒で相手の足を踏みつけ、退場となる。4月25日のWBA戦ではリーグ戦500試合出場を達成。第35節のQPR、第36節のチェルシー戦で連続ゴールを記録。リヴァプールでのラストマッチとなった最終節のストーク・シティ戦でゴールを決め、17シーズンを過ごした愛するクラブに別れを告げる。
2015年1月7日、2015年7月よりアメリカ・MLSのロサンゼルス・ギャラクシーに移籍することが発表される。ちなみに欧州を離れた理由は「リヴァプールと戦いたくない」からとのこと。7月18日、サンノゼ・アースクエイクス戦にてデビューすると、早速1ゴール2アシストを記録する鮮烈なデビューを飾る。2015年シーズンのレギュラーシーズンには13試合に出場し、2得点を記録。このシーズンのMLSカッププレーオフで敗退した後、アメリカでの長距離移動の負担を理由に次の年で最後になる可能性を述べている。
2016年シーズンはレギュラーシーズン21試合に出場し3得点を記録。怪我で欠場が多かったものの11アシストを記録。2016年11月6日、MLSカップのプレーオフ準々決勝、コロラド・ラピッズ戦2ndレグでPK戦の末チームは敗れ、11月15日、同年シーズンをもってLAギャラクシーを退団することが発表された。2016年11月24日、現役引退を表明。18年の現役生活に終止符を打った。
1996年にU-16イングランド代表に選出され、その後はU-18代表、U-21代表と各年代の代表としてプレー。
20歳の誕生日を迎えた1日後の2000年5月31日、ウクライナとの親善試合でイングランド代表デビューを果たす。このまま同年6月にオランダとベルギーで開催されたEURO2000のメンバーに選出。グループリーグ第2戦のドイツ戦で後半16分に出場したが、イングランドは1勝2敗でグループリーグ敗退に終わり、1試合のみの出場に終わる。
その後の2002 FIFAワールドカップ欧州予選では代表に定着し、レギュラーの座も獲得。2001年9月1日のアウェイでのドイツ戦では得意のミドルシュートを炸裂させて代表初ゴールを記録。この試合ではオーウェンがハットトリックを決めるなど、ドイツ相手に5-1と歴史的勝利を収める。予選では本大会出場に重要な働きを見せていたが、鼠蹊部の負傷で手術を受けたことから本大会に出場することはできなかった。
2004年6月、ポルトガルで開催されたEURO2004に出場。グループリーグ第2戦のスイス戦では国際大会での初ゴールを決め、勝利に貢献。この大会ではデイヴィッド・ベッカム、ポール・スコールズ、フランク・ランパードと共に豪華な中盤を構成し、全4試合にスタメンとして出場したが、イングランドは準々決勝のポルトガル戦でPK戦の末に敗れている。
2006年6月、ドイツで開催された2006 FIFAワールドカップが初のワールドカップ出場となる。グループリーグ第2戦のトリニダード・トバゴ戦でワールドカップ初ゴールを決めれば、今大会唯一の途中出場となった第3戦のスウェーデン戦では2試合連続となるゴールを決め、グループリーグ突破に貢献。しかし、PK戦までもつれ込んだ準々決勝のポルトガル戦では3人目のキッカーを務めるが、GKリカルドに完璧にコースを読まれて失敗し、ベスト8での敗退となる。
EURO2008予選では2007年3月28日のアンドラ戦で代表では初の1試合2ゴールを決めるなど3ゴールを記録するが、チームはロシア、クロアチアの後塵を拝し、よもやの予選敗退となる。
2010年6月に南アフリカで開催された2010 FIFAワールドカップでは直前に負傷離脱したリオ・ファーディナンドに代わってキャプテンを任される。グループリーグ初戦のアメリカ戦では前半4分にイングランドの大会初ゴールとなる先制ゴールを決める。深刻な得点力不足に陥ったイングランドはグループリーグで苦戦を強いられながらも1勝2分の2位で突破を決める。しかしラウンド16では強豪ドイツを相手に4失点を喫して敗退。今大会では全4試合にフル出場し、最初の2試合はセンターハーフ、最後の2試合は左サイドハーフとしてプレーしている。ちなみに大会中、元キャプテンであるジョン・テリーとの関係が悪化し、リーダー格の二人の確執がチームに悪い影響を与えたと言われている。
南アフリカW杯後、正式にイングランド代表のキャプテンに任命される。2010年8月11日、ハンガリーとの親善試合では2ゴールを決める。9月3日のEURO2012予選初戦のブルガリア戦では3アシストの大活躍で勝利に貢献。イングランドは無敗で2大会ぶりの本大会出場を勝ち取る。
2012年6月、ポーランドとウクライナで開催されたEURO2012に出場。フランス、スウェーデン、ウクライナとの顔合わせとなったグループリーグでは3試合連続でのアシストを記録し、首位での決勝トーナメント進出をもたらす。準々決勝のイタリア戦ではスコアレスのままPK戦に突入し、1人目のキッカーとして成功させるが二人が失敗したイングランドは敗退。今大会ではゲームメーカーとしての役割に徹し、リーダーシップを発揮してチームを牽引。これらが評価され、イングランドでは唯一大会優秀選手に選ばれている。
2012年11月14日、スウェーデンとの親善試合で代表通算100試合出場を達成。
2014年6月、ブラジルで開催された2014 FIFAワールドカップに前回に続いてキャプテンとして出場。しかしグループリーグ第2戦のウルグアイ戦で2失点に絡むなど不振に陥ってしまい、2試合でグループリーグ敗退が決まってしまう。第3戦のイタリア戦はスタメンを外れ途中出場となったが、これが代表での最後の試合となった。
大会後の2014年7月21日、代表からの引退を表明。
| シーズン | 国 | クラブ | リーグ | 試合 | 得点 |
|---|---|---|---|---|---|
| 1998-99 | リヴァプール | プレミアリーグ | 12 | 0 | |
| 1999-00 | リヴァプール | プレミアリーグ | 29 | 1 | |
| 2000-01 | リヴァプール | プレミアリーグ | 33 | 7 | |
| 2001-02 | リヴァプール | プレミアリーグ | 28 | 3 | |
| 2002-03 | リヴァプール | プレミアリーグ | 34 | 5 | |
| 2003-04 | リヴァプール | プレミアリーグ | 34 | 4 | |
| 2004-05 | リヴァプール | プレミアリーグ | 30 | 7 | |
| 2005-06 | リヴァプール | プレミアリーグ | 32 | 10 | |
| 2006-07 | リヴァプール | プレミアリーグ | 36 | 7 | |
| 2007-08 | リヴァプール | プレミアリーグ | 34 | 11 | |
| 2008-09 | リヴァプール | プレミアリーグ | 31 | 16 | |
| 2009-10 | リヴァプール | プレミアリーグ | 33 | 9 | |
| 2010-11 | リヴァプール | プレミアリーグ | 21 | 4 | |
| 2011-12 | リヴァプール | プレミアリーグ | 18 | 5 | |
| 2012-13 | リヴァプール | プレミアリーグ | 36 | 9 | |
| 2013-14 | リヴァプール | プレミアリーグ | 34 | 13 | |
| 2014-15 | リヴァプール | プレミアリーグ | 29 | 9 | |
| 2015 | LAギャラクシー | MLS | 13 | 2 | |
| 2016 | LAギャラクシー | MLS | 21 | 3 |
2017年1月20日、古巣であるリヴァプールFCのアカデミーコーチに就任。
2017-18シーズンよりアカデミーのU-18カテゴリーの監督に就任。また、2017-18シーズンのUEFAユースリーグではU-19チームの監督として出場している。
2018年5月4日、スコットランド・スコティッシュ・プレミアシップのレンジャーズFCの監督に就任することが発表され、初めてトップチームの監督を任される。1年目の2018-19シーズンでは開幕から公式戦12試合無敗と好スタートを切り、12月19日のセルティックFCとのオールドファーム・ダービーでは2012年以来の勝利をもたらす。しかし最終的にセルティックに及ばず、リーグ2位に終わる。
2019-20シーズンはニューカッスル・ユナイテッドの監督に就任する噂が流れたが、レンジャーズに残留。このシーズンもセルティックの後塵を拝し、2位に終わっている。
2020-21シーズンはライバルのセルティックとのダービーマッチに連勝するなど快進撃を実現させ、リーグ戦では無敗のまま92得点13失点で勝ち点102という記録的な成績を残し、セルティックの9連覇を阻止して低迷していた名門を10年ぶりのリーグ制覇を無敗優勝で成し遂げる。ジェラードにとっても監督キャリアでの初のタイトル獲得であった。
2021-22シーズン開幕時もレンジャーズで指揮を執るが、開幕から2か月後、新たなステップを求めてシーズン途中で退団する。
2021年11月11日、イングランド・プレミアリーグのアストン・ヴィラの監督に就任。解任されたディーン・スミスの後任としてシーズン途中での就任となり、降格の危機に直面していたチームの立て直しを期待される。就任後の成績はいまいちだったとはいえ、一時の不振からは救い、14位でのプレミアリーグ残留を果たしている。
2022-23シーズンは開幕から12試合で2勝しかもわずか7得点という大不振に陥り、2022年10月に解任される。
2023年7月23日、サウジアラビアのサウジ・プロフェッショナルリーグに所属するアル・イテファクFCの監督に就任。1年目の2023-24シーズンは12勝12分10敗で6位で終えている。
2年の契約延長を交わした2024-25シーズンだったが、成績は低迷し、2025年1月29日に解任となった。
メインポジションはセンターハーフだが、トップ下、アンカー、サイドハーフでもプレーすることができるオールラウンドなMF。。中盤センターからピッチ中を駆け回り、パス、ドリブル、シュート、タックル全てに秀でた万能型。彼のプレースタイルは時代によって変化しており、若手時代は守備的な役割をメインとする潰し屋だったが、攻撃的センスを買われて中盤から前線に飛び出すボックス・トゥ・ボックスタイプに変化し、ベテランとなってからはアンカーの位置でゲームを組み立てるプレーメーカーとなっている。
代名詞といえる武器は右脚から放たれる強烈なミドルシュートであり、長い脚を可動粋限界まで伸ばして使うジェラードのシュートはまるでバレーボールを蹴った様な弾速で飛んでいく。中長距離のパスの質も高く、正確に芯をとらえるキックにより、爆発音と共に伸びのある弾道で前線にボールを届けることができる。アンドレアス・ピルロやシャビ・アロンソのような優雅なパスではないものの、縦への意識が高いハイテンポなプレミアリーグのスタイルには非常にマッチしたものであった。
試合の流れを読み、味方の攻撃を活性化させるための最適なタイミングで前線に飛び出す判断力に優れ、中盤の底から前線、時にはペナルティエリア内まで、ピッチ中を精力的に駆け回る豊富な運動量も持ち合わせていた。攻撃のスイッチとして最適解を素早く見つけ、相手の守備が整う前に先を取ることを得意としていた。飛び出しからのプレーも多岐にわたり、得点やアシストに直結していた。
ゲームメーカーとしてのセンスも高く、カウンター時にボールを受けると高精度のパスで逆サイドに振ったり、裏に抜け出す選手を狙い、バイタル付近手詰まった時にも下がってきてボールを受けたりと積極的にボールに絡む。
守備面でも身体能力とパワーを活かし、相手の攻撃をしっかりと潰すことができ、空中戦でも屈強なリーグの中でもしっかりと競り合える。空中戦でも負けず、DFラインより後ろまで下がってタックルをかます事もしばしば。中盤の底で睨みをきかせ相手の攻撃をしっかりと食い止め、強烈なキャプテンシーで中盤に強い影響力を発揮する。
欠点はその闘争心が行き過ぎて熱くなりすぎることで、若い頃は感情むき出しのプレーが行き過ぎてチームにマイナスの影響を与える時もあった。中盤の底に配置された場合、攻撃参加した際の守備のカバーが遅れることがあり、非常にハードなプレイスタイルであったため、シーズンが進むと体力の消耗が激しくなり、パフォーマンスが落ちることもあった。
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最終更新:2025/12/05(金) 23:00
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