田中マルクス闘莉王(Marcus Tulio Tanaka, 1981年4月24日 - )とは、日本の元サッカー選手、YouTuberである。元サッカー日本代表。
現役時代のポジションはDF(CB)、FW(CF)。185cm85kg。利き足は右足。
ブラジル・サンパウロ州出身の日系三世。2003年に帰化し、現在の名前に至る。出生名はマルクス・トゥーリオ・リュージ・ムルザニ・タナカ(帰化前の登録名はトゥーリオ)。
ポジションはDFだが、よく攻撃参加する超攻撃的CBで知られ、サッカー日本代表としても得点を挙げている。得点力の高さを買われてFWとして起用されることもあった。また、相手チームには睨みをきかせ、自チームの動きの悪い選手を一喝する様から闘将とも呼ばれている。
サンフレッチェ広島でプロとしてデビューし、その後水戸ホーリーホック、浦和レッズ、名古屋グランパス、京都サンガでプレー。浦和時代の2006年にはJリーグ優勝に貢献。さらにこの年のJリーグ最優秀選手賞、日本年間最優秀選手賞を受賞。名古屋時代の2010年にはチームを優勝に導く働きを見せる。
2004年にU-23日本代表としてアテネオリンピックに出場し、2006年に日本代表デビュー。2010 FIFAワールドカップでは中澤佑二とコンビを組み、少ない失点でグループリーグ突破に貢献。ラウンド16のパラグアイ戦でもその存在を大きくアピールし、相手に得点を許さなかった。
2019年シーズンを最後に現役を引退してからはブラジルへ戻り、YouTuberとして活動。日本代表の監督や選手に対して辛辣な批評をおこなうことからセルジオ越後の後釜を狙っているとも言われている。
1981年4月24日、ブラジル・サンパウロ州パルメイラ・ド・オエスチで父親が日系ブラジル人で、母親がイタリア系ブラジル人の日系三世として生まれる。父方の祖父は広島県出身で、祖母は富山県出身。父親は小学校教師とレストラン経営の傍ら、40歳を過ぎてから弁護士資格を取得している。
物ごころをついた頃にはサッカーボールを蹴っていたが、本格的にサッカーを始めたのは9歳の時で、ボランティア活動で子どもたちにサッカーを教えていたコーチが近所に引っ越してきたことがきっかけだった。少年時代は困っている友達を見ると放っておけない優しい性格だったらしく、意外にも小学生の頃は勉強が得意だったらしい。父親が数学教師だった影響なのか、得意な教化は数学だった。サッカー教室に通いサッカーを上達させていたが、次第に物足りなさを感じるようになり、大人に混じって試合に出ることもあった。
父親は「自分のお金は自分で稼げ」という厳格な教育方針だったこともあり、昼間は会計事務所で働き、夜間はオレステス中学校夜間部へ通う生活を送っていた。この頃はサッカーから離れており、中学校では体育教師の熱心な勧誘でバレーボール部に所属してエースアタッカーとして活躍し、地区大会で優勝するほどだった。また、数学教師の推薦で学校代表としてブラジル数学オリンピックに出場し、全国大会にまで進んでいる。
1997年、ミラソウFCのセレクションに合格し、ユースチームに入団。この頃からプロサッカー選手を目指すようになる。1ヶ月後の1998年1月、留学生を探しにミラソウFCを視察していた千葉県の渋谷教育学園幕張高等学校のサッカー部監督・宗像マルコス望に才能を見出され、日本の高校への留学を誘われる。
1998年3月、16歳にして単身来日し、渋谷教育学園幕張高等学校のサッカー部に入部。来日当初は日本語が分からないためにたいへんな思いをし、ブラジルとの文化の違いもあって最初の1年は人生で最も辛かったという。必死に日本語を勉強し言葉が理解できるようになり、流暢な日本語を話せるようにもなる。
ブラジルでは攻撃的MFをやっていたが、宗像監督の意向でセンターバックにコンバートされる。それまでヘディングの練習をしてこなかったことから毎日ヘディングの練習を繰り返していた。幼少期の乗馬の経験や中学時代のバレーの経験が空中戦におけるバランス感覚やポジショニング、跳躍力とタイミング判断に大きく役立つことになり、やがてヘディングの強さがセールスポイントの選手へと成長する。
選手としても1998年と1999年の国体に千葉県選抜の一員として出場し、連覇を果たすとともに2年連続で大会優秀選手に選出。3年生となった2000年度には全国高等学校サッカー選手権千葉県大会の決勝でFKからの直接ゴールを決め、渋谷幕張を初の選手権出場に導いている。選手権では、初戦となった2回戦で日章学園相手に敗退。
高校卒業後の2001年、祖父の故郷のクラブでもあるJ1リーグのサンフレッチェ広島に入団。J1リーグ開幕戦となった3月11日の鹿島アントラーズ戦でベンチ入りすると、前半10分に負傷したポポヴィッチとの交代で出場し、Jリーグデビューを果たす。すると、投入から5分後にJリーグ初ゴールを記録。ポポヴィッチ復帰後は控えに回ることになるが、一定の出場機会は与えられ、プロ1年目でリーグ戦17試合に出場。
2002年シーズン開幕当初は控えCBだったが、日韓ワールドカップによる中断明け以降に監督が交代したことでレギュラーを獲得。この頃の広島は森崎兄弟や駒野友一といった同年代の若手が多かったが、チームとして未成熟だったうえに前監督の不可解な采配や起用法のツケを払しょくすることができず低迷。1年目よりも出場時間を増やしたものの、チームはJ2降格となる。さらに1年での昇格を目指すためクラブはベテランの外国籍選手を獲得することとなり、外国人選手の保有枠に入れなくなってしまう。
2003年シーズンは出場機会を得るためにJ2リーグの水戸ホーリーホックへ期限付き移籍する。この水戸への移籍がキャリアにおける大きな転機となる。選手の個性を重視する前田秀樹監督の方針によって3バックのリベロとして起用され、攻撃面での才能を開花させる。3月15日のJ2開幕戦アビスパ福岡戦で試合終盤に決勝ゴールを決め、好スタートを切る。その後も守備を固めると共に、機を見てどんどん攻め上がり攻撃に厚みを加えるスタイルを確立。この頃から日本への帰化の話が浮上し、ファンからは日本代表入りを望む声が多くなる。そして10月、日本国籍取得が認められ、登録名を「トゥーリオ」から「田中マルクス闘莉王」に変更。日本人となって直後には3試合連続ゴールを記録。DFでありながらチーム内得点王となる10ゴールを記録し、水戸を7位にまで押し上げる。
2004年、保有先の広島からJ1リーグの浦和レッズに完全移籍。オリンピック予選で負った怪我によって開幕から出遅れるが、5月2日、J1リーグ第5節古巣の広島戦で新天地のデビューを果たす。その後は3バックの中央が定位置となり、すぐにチームの中心選手となる。5月15日、J1第10節ジェフユナイテッド市原戦で移籍後初ゴールを決める。闘莉王加入後、浦和の守備が安定するようになり、2ndステージでクラブ史上初のステージ優勝を果たす。チャンピオンシップで横浜F・マリノスに敗れ、年間優勝は逃すが、初のJリーグベストイレブンに選出される。
2005年は坪井慶介、内館秀樹、堀之内聖と共にリーグ最少失点を達成。攻撃面でも7月の6試合で4ゴールを挙げるなど持ち味の得点力をJ1でも発揮するようになり、チームトップとなる9得点を記録。攻撃陣に故障者が多かったチームにとって貴重な得点源となっていた。2年連続でのJリーグベストイレブンに選出される。この年、天皇杯で優勝し、キャリア初となるビッグタイトルを獲得。
2006年シーズンは浦和にとっても闘莉王にとっても最高の1年となる。攻守にタレントが揃い、ギド・ブッフバルト監督の戦術が熟成したチームは開幕から順調に白星を積み上げ、優勝争いの中心に立つ。激しい闘争心と強烈なリーダーシップでチームを牽引し、守備ではリーグ最少失点の堅守に貢献し、攻撃面では優勝争いが佳境を迎えた第25節京都パープルサンガ戦、第26節ジェフユナイテッド千葉戦、第27節福岡戦で3試合連続ゴールを決める。12月2日、リーグ最終節ガンバ大阪戦は奇しくも優勝を争う直接対決となり、さいたまスタジアムに当時のJリーグ最高記録となる62,241人を動員した試合を激闘の末に制し、悲願であったJ1リーグ初優勝を果たす。33試合7得点を記録し、浦和の初優勝に大きく貢献したことが評価され、Jリーグ最優秀選手賞と日本年間最優秀選手賞を受賞。天皇杯でも決勝で再びG大阪を下し、シーズン二冠を達成。2006年シーズンの主役となる。
2007年はAFCチャンピオンズリーグで勝ち上がっていき、決勝のセパハン戦では完全アウェイとなった第1戦を1失点に抑え、満員のさいたまスタジアムでの第2戦でも相手の猛攻を完封し、初のアジア王者戴冠を成し遂げる。ACLでは8試合に出場し、厳しいアウェイの環境でも闘志を見せていた。ACL優勝によって出場権を得たFIFAクラブワールドカップでは準決勝でACミランとの対戦が実現し善戦しながら敗れたものの、世界3位という結果を残す。一方、リーグ戦では最終節まで首位に立ちながら、最下位の横浜FCに敗れたことで目前で連覇を逃す。この試合は累積警告によって出場停止だったため、余計に悔しい結果となった。また、この年からチームを率いていたホルガー・オジェック監督の守備的な戦術に反発し、衝突していた。
2008年は開幕直後に就任したゲルト・エンゲルス監督によってトップ下で起用される。この起用法によって持ち前の得点力が発揮され、4月26日のJ1第8節京都サンガ戦では1試合2ゴールを記録。7月17日、第17節東京ヴェルディ戦ではプロとなってからはキャリア初となるハットトリックを達成。しかし守備に綻びが見られるようになったことで終盤になってCBに戻ることになる。この年キャリアハイとなる11ゴールを記録し、J1リーグでは初の二桁得点を成し遂げるが、チームは7位と不本意な成績に終わり、浦和に移籍して初めてシーズン無冠に終わる。
2009年に就任したフォルカー・フィンケ監督によって4バックのCBで起用されるが、ハイラインによるシステマチックなポゼッションサッカーに戸惑う選手も多かった。闘莉王もフィンケ監督のやり方に反発しており、8月にはベテラン選手をクラブから去らせるなどの方針を採った浦和のフロントとフィンケ監督の方針に苦言を呈する。しかし、クラブとの話し合いは合意に至らず、2009年シーズン終了後に契約満了により浦和を退団。ちなみに、浦和に在籍した6シーズン全てでJリーグベストイレブンに選出されている。
2010年、J1リーグの名古屋グランパスエイトに完全移籍する。浦和退団後、欧州のクラブからもオファーがあったが、ドラガン・ストイコビッチ監督から「来年はワールドカップがあるから、日本でプレーするべきだ」というメッセージが名古屋移籍の最大の決め手となった。移籍会見で「リーグ優勝できなければ名古屋に来た意味はない」と語ったことから優勝請負人としてメディアやサポーターから大きな期待を寄せられ、最終ラインを巧みに統率して守備を安定させ、空中戦でも圧倒的な強さを発揮。さらに高精度のフィードを前線に届けて攻撃の起点になりながら、機を見て攻め上がりゴールにからむ決定的な仕事もこなすという大車輪の活躍を見せる。8月14日には古巣である浦和を相手に恩返しのゴールを決める。終盤戦には右膝と太腿裏を負傷し、リーグ優勝の瞬間にはピッチに立つことができなかった闘莉王加入で戦う集団と化したチームは初のJリーグ王者となる。この年MVPに選出されたのは楢崎正剛だったが、その楢崎から「MVPは闘莉王である」と評されるほど、万年中位と揶揄されたチームにもたらしたものは大きかった。
2011年前半は怪我で欠場が多く、ACLによる過密日程の影響もあってチームは不安定になる。負傷から復帰してからは攻守に存在感を見せ、終盤の6連勝で優勝争いに加わるが、首位の柏レイソルに届かず、2位に終わる。この年は攻撃参加は自重して守備を引き締めていたが、セットプレーではジョシュア・ケネディと共に主導権を握り、前年と同じ6ゴールを記録している。シーズン終了後、家族がブラジルへの帰国を希望したことからブラジルのボタフォゴへの移籍話が持ち上がるが、名古屋の大黒柱としての責任感を理由に日本に残ることを決意。
2012年は中村直志の怪我による長期離脱、玉田圭司のコンディション不良に加え、ケネディがフルシーズン働けなかったことからシーズン途中からFWで起用されるようになる。8月4日のヴィッセル神戸戦ではなんと1試合4ゴールをマーク。この活躍ぶりからFWとして日本代表に復帰させるべきという意見まで出るようになる。最終的にチーム2位となる9得点を挙げたが、闘莉王のFW起用によって今度は守備の安定が失われ、チームはリーグ12位と低迷する。
2013年はDFに専念するが、主力の多くがピークを過ぎた感のあったチームをカバーしきることができず、中位に終わる。2004年から9年連続で選出されていたベストイレブン入りもこの年に途絶え、シーズン終了後にストイコビッチ監督は退任し、サイクルの終焉を感じさせる結果となる。
西野朗が監督に就任した2014年はキャプテンに任命される。ディフェンスラインが経験不足の若手が多く起用されたことで負担が大きく、フラストレーションを溜めることが多くなっていた。練習試合の際に西野監督と衝突して「おっさん」呼ばわりするなど、イライラを爆発させることもあった。それでもチーム2位の7得点を挙げるなど、貢献度は高かった。
2015年は楢崎と共に守備陣を支えるが、チームの得点力不足もあって不安定な戦いぶりとなる。シーズン終盤戦になると、得点力不足のときの伝家の宝刀と化したFW起用がまたもなされ、9月19日の川崎フロンターレ戦、9月26日のヴィッセル神戸戦で2試合連続ゴールを決めるなど、期待に応えてみせる。しかし、やはり今度は闘莉王不在となったディフェンスラインが崩壊してしまい、最後まで噛み合わないシーズンとなってしまう。シーズン終了後、チームへの貢献度は高かったものの大幅な減俸での契約更新を提示されたことからこれに応じず、退団。
名古屋退団後の2016年はブラジルへ帰国し無所属の状態となっていたが、悪夢の小倉政権によって大きく低迷したチームの危機を救うべく、8月26日に名古屋に半年契約で復帰。7試合の出場で戦績を上向かせる働きぶりを見せるが、結局最終節でクラブ史上初のJ2降格が決定。シーズン後、契約満了となり退団。
2017年1月6日、J2リーグの京都サンガF.C.への加入が発表される。3月4日に行われたJ2第2節の徳島ヴォルティス戦では、Jリーグ18ヶ月ぶりゴールとなる移籍後初得点を決めてシーズン初勝利に貢献。FWで起用された4月15日の第8節愛媛FC戦ではハットトリックを達成。35歳11カ月22日でのハットトリックはJ2最年長記録を更新し、JリーグのDF登録の選手としては初めてJ1・J2・ルヴァンカップの通算得点が100点を越えた選手となった。1年を通してDFとFWの二刀流をこなし、15得点と奮闘したが、チームは12位と低迷。
2018年はJ3降格の危機に直面するほど、チームは大きく低迷。DFとしての起用が多かったものの、年齢的なスピード面の衰えが隠せなくなり、シーズン半ばにはスタメン落ちも経験。しかし、シーズン終盤戦になって調子を取り戻し、9月30日のロアッソ熊本戦では2ゴールで勝利に貢献。その後も低迷するチームを鼓舞するリーダーシップを発揮し、J2残留に重要な働きを見せた。
2019年シーズンは開幕からスタメンを外れ、以降は途中出場が多くなる。J1昇格争いに加わったチームにあって途中出場から流れを変える役割を担っていたが、5か月ぶりのスタメン出場となった9月8日の第31節ファジアーノ岡山戦では0-3の完敗に終わる。シーズン終盤はスタメンとして出場する機会も増えたが、以前のような絶対的な存在感は薄れていた。11月24日の最終節・柏レイソル戦で1-13という歴史的な大敗を喫した試合が現役最後の試合となった。
2019年12月1日、現役引退を表明。Jリーグ通算529試合104得点。
2003年10月に日本国籍を取得すると、山本昌邦監督はすぐに招集の意思を表明し、2004年2月に初めてU-23日本代表に選出される。2月8日のイランとの親善試合で初めて日の丸を背負ってプレーすると、すぐにディフェンスリーダーとしてチームに欠かせない存在となる。3月からのアテネオリンピックアジア最終予選も3バックの中央で出場していたが、第4戦のバーレーン戦では左太もも肉離れにより交代となり、最後の2試合を欠場している。2004年8月に開催されたアテネオリンピックにも出場し、全3試合にフル出場するが、3試合で7失点を喫しグループリーグ敗退となる。
フル代表には浦和での活躍ぶりから待望論が出ていたが、結局ジーコ監督の時代には一度も呼ばれることがなかった。しかし、2006年8月にイビチャ・オシム監督によって初招集され、8月9日のトリニダード・トバゴ戦で待望の日本代表デビューを果たす。11月15日のAFCアジアカップ2007予選サウジアラビア戦で代表初ゴールをマーク。その後も代表の主力CBに定着するが、2007年7月のAFCアジアカップ2007は怪我によって欠場となる。
2008年に就任した岡田武史監督のもとでもCBのレギュラーとして定着し、中澤佑二と当時歴代最強とも言われたディフェンスラインを形成。積極的なオーバーラップや中村俊輔のプレスキックに合わせるセットプレーの軸によって攻撃面でも貢献していた。この年からスタートした2010 FIFAワールドカップ・アジア最終予選には8試合全てにフル出場し、11月19日の第3節カタール戦と2009年6月17日の第8節オーストラリア戦ではゴールを決めるなど、日本の4大会連続での本大会出場に貢献している。
ワールドカップ直前のテストマッチとなった2010年5月30日のイングランド戦では先制ゴールを決めたものの、後半にクリアミスによるオウンゴールを献上しチームは敗北。6月4日のコートジボワール戦では2試合連続となるオウンゴールを与えたのみならず、コートジボワールのスター選手であるディディエ・ドログバに対し、交錯した際に右腕を骨折させてしまい、コートジボワール国民のみならず世界中のサッカーファンから非難されてしまう。その後、ドログバに対してJFAを通して謝罪の言葉を送っている。
2010年6月に南アフリカで開催された2010 FIFAワールドカップでは中澤と鉄壁のディフェンスラインを構築し、初戦のカメルーン戦を完封。その後もオランダ戦とデンマーク戦はいずれも1失点で抑え、冷静な読みとカバーリング、空中戦でゴールにカギをかけた結果、2勝1敗でのグループリーグ突破に貢献。ラウンド16のパラグアイ戦でも気迫の守備で120分間無失点で抑えるが、PK戦の末に敗れてしまう。この大会での闘莉王と中澤のコンビは、アーセン・ベンゲルから「日本代表の最高の武器だった」と絶賛され、各国のメディアからも高く評価された。なお、大会後本人はブラジルに一時帰国するが、記者会見で今野泰幸が闘莉王が出演するケンタッキーのCMの「集まれ~」をモノマネしたことで話題となる。
アルベルト・ザッケローニ監督が就任してからは一度も代表に呼ばれず、南アフリカワールドカップが最後の代表での出場となった。
2020年3月24日より、自身のYouTubeチャンネル「闘莉王TV」を開設。立ち上げ当初はブラジルでの暮らしや仲間たち、牧場での仕事を紹介していたが、現在では日本代表の試合後に選手や監督を辛口に批評するチャンネルとなっている。内容は賛否あるが、話題性はあることから登録者数は10万人を超えている。
2022 FIFAワールドカップでは、NHK総合テレビジョン、フジテレビジョンの中継において、スタジオコメンテーターを務めている。また、事前に日本代表の惨敗を予想していたが、実際はドイツとスペインに勝利してのベスト16進出だったことから、公約していた通り自身のYouTubeチャンネルでパンツ一丁でランニングする姿を公開している。
| シーズン | 国 | クラブ | リーグ | 試合 | 得点 |
|---|---|---|---|---|---|
| 2001 | サンフレッチェ広島 | J1リーグ | 17 | 1 | |
| 2002 | サンフレッチェ広島 | J1リーグ | 22 | 1 | |
| 2003 | 水戸ホーリーホック | J2リーグ | 42 | 10 | |
| 2004 | 浦和レッズ | J1リーグ | 21 | 3 | |
| 2005 | 浦和レッズ | J1リーグ | 26 | 9 | |
| 2006 | 浦和レッズ | J1リーグ | 33 | 7 | |
| 2007 | 浦和レッズ | J1リーグ | 26 | 3 | |
| 2008 | 浦和レッズ | J1リーグ | 31 | 11 | |
| 2009 | 浦和レッズ | J1リーグ | 31 | 4 | |
| 2010 | 名古屋グランパス | J1リーグ | 29 | 6 | |
| 2011 | 名古屋グランパス | J1リーグ | 31 | 6 | |
| 2012 | 名古屋グランパス | J1リーグ | 33 | 9 | |
| 2013 | 名古屋グランパス | J1リーグ | 27 | 3 | |
| 2014 | 名古屋グランパス | J1リーグ | 31 | 7 | |
| 2015 | 名古屋グランパス | J1リーグ | 30 | 5 | |
| 2016 | 名古屋グランパス | J1リーグ | 7 | 0 | |
| 2017 | 京都サンガ | J2リーグ | 31 | 15 | |
| 2018 | 京都サンガ | J2リーグ | 31 | 4 | |
| 2019 | 京都サンガ | J2リーグ | 30 | 0 |
高さと強さを活かした守備と高い得点力が特徴的な超攻撃的センターバック。空中戦で圧倒的な強さを持ち、正確なフィードで攻撃の起点にもなれる。自陣ゴール前での絶大なる存在感はもちろんのこと、コーチングを含めた統率力も高い。「闘将」と呼ばれるほど強烈なリーダーシップの持ち主で、守備面のみならず攻撃の場面でも周りにコーチングをおこなえる。
競り合いの際は相手の動きを見て駆け引きをしてくるタイプで、人を見て対応することが多い。ブラジル出身らしく駆け引きをしながら省エネで賢く守る。ヘディングの競り合いでも相手の落下地点の入り方を見るタイプで、相手が入ってこないと見ると競り合いをしない。スピードはあまりないが、それをカバーするだけのクレバーさを持っており、1対1のときはあまり飛び込まずに相手が仕掛けてくるタイミングを見極めて狙って動いてくる。
ヘディングの強さは中澤と並んで歴代の日本人センターバックでもトップクラスと言われ、最高打点でヘディングするよりも相手によってどの高さでヘディングするかを変えてくる。体感の強さから相手と竸って少し体勢を崩してもしっかりヘディングして、味方のところにパスになるように出すことができる。球筋を読むのが速く、落下点に入るのがうまい。
ビルドアップの局面では相手の状況に応じて緩急を使い分けることができ、ドリブルで持ち上がることもあれば、ロングフィードで攻撃の起点にもなれるので、非常に選択肢が多い。ボールを足で扱う技術も優れ、決定力もあるため、しばしばボランチ、トップ下、1トップに至るまで、センターラインのあらゆるポジションで起用されていた。
弱点はやはりスピード不足で、快速ドリブラーとのマッチアップでは置いていかれることがある。また、相手が待って勝負をすると駆け引きで負けてしまい、先に勝負して動いてくるタイプを苦手としていた。さらに不利になるとすぐ手を出している手癖の悪さも欠点で、不要なファウルの多さが指摘されていた。
ネット上では「闘莉王→Tulio→つりお→釣男」と表記される事が多い。
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掲示板
38 ななしのよっしん
2020/07/04(土) 17:27:37 ID: bnVAd+YqmQ
39 ななしのよっしん
2021/01/15(金) 11:29:26 ID: TjAtq+QdcU
運がないんじゃなくて、これまでやって来た行いの悪さだろ。
再建途上のチームを放り投げて監督の悪口言うわ、自分が思い通りにできなきゃかんしゃくを起こすわ。ドログバも壊すわ。
それが現役最後の試合に全部報いとして受けたってだけ。
良い気味だ。
40 ななしのよっしん
2021/03/02(火) 18:00:40 ID: I+T7UhSbHF
>>39
一三スコアのページでも言ってて草
癇癪起こしてるのは誰なんすかね…
急上昇ワード改
最終更新:2025/12/11(木) 04:00
最終更新:2025/12/11(木) 04:00
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