ウェイン・ルーニー(Wayne Mark Rooney, 1985年10月24日 - )とは、イングランドの元サッカー選手・サッカー指導者である。元サッカーイングランド代表。
現役時代のポジションはFWまたはMF。176cm82kg。利き足は右足。
イングランド・マージサイド州リヴァプール出身。21世紀初頭のイングランドを代表するストライカーであり、時には中盤に下がってゲームメイクをこなすオールラウンドな能力を持ったアタッカー。守備時には時には自陣深い位置まで下がって相手を追いかけ回し、テクニックとパワーと運動量、献身性を合わせ持ったプレイヤーだった。
エヴァートンの下部組織で育ち、2002年に16歳という若さでプレミアリーグにデビュー。2004年に名門マンチェスター・ユナイテッドに移籍してからはアレックス・ファーガソン監督時代の黄金期のエースとして5度のプレミアリーグ優勝を果たし、UEFAチャンピオンズリーグやUEFAヨーロッパカップ、FIFAクラブワールドカップなど数多くのタイトルをもたらしている。個人としては2009-10シーズンにPFA年間最優秀選手賞を受賞。ユナイテッドでの通算得点数253ゴールはクラブ歴代トップの記録となっている。
イングランド代表には当時の最年少記録となる17歳と111日という若さでデビューしており、マイケル・オーウェンに次ぐネクスト・ワンダーボーイとして期待を寄せられる。代表では120試合53得点という記録を残し、15年間に渡って中心選手として活躍。FIFAワールドカップには2006年と2010年と2014年の3回、UEFA欧州選手権には2004年と2012年と2016年の3回出場。しかし、代表ではユナイテッドのときのような栄光を最後まで掴めず、タイトルと無縁のままだった。ちなみにワールドカップでのゴール数は1ゴールのみである。
2021年に現役を引退した直後に指導者に転身するが、結果を残せてはいない。現在は解説者として活動。
若くしてスターになったこともあってピッチ外でのトラブルが多いことから「悪童」と呼ばれ、飲酒運転や泥酔状態での逮捕歴まである。喫煙、浮気などのスキャンダルも多く、パパラッチの格好の標的となっていた。なお、若い頃から薄毛だったが、2011年6月4日に植毛手術を受けたことが報道され、ルーニー自身もツイッターでそのことを認める発言をした。
1985年10月24日、リヴァプールの北東部に位置するクロクステス地区で生まれる。父親は元アマチュアボクサーで地元の大会に出場してトロフィーを持ち帰るほどの実力者であり、父方の叔父もボクサーだった。弟が二人いる長男であり、弟のジョンもサッカー選手となっている。父のルーツがアイルランド系であり、ローマカトリック教徒として育てられた。
幼少期はエヴァートンFCのファンであり、この頃からライバルチームであるリヴァプールFCのことを嫌っていた。父親が少年サッカーのコーチであったこともあり、次第にサッカーの魅力に魅入られたことで練習に励み、幼少期から才能を発揮するようになる。ちなみに、子供の頃の憧れの選手はブラジルのロナウドだった。
9歳のとき、ルーニーは地元のウォルトン・アンド・カークデール・ジュニアリーグのコップルハウス・ボーイズクラブでプレーし、最終シーズンに99ゴールを記録。この活躍がエヴァートンのスカウトに注目され、オファーを受ける。
10歳となった1996年、エヴァートンFCの下部組織に入団。この頃、サッカーの練習に取り組む一方で叔父が経営していたボクシングジムにも定期的に通っており、ボクサーとしても優秀だったらしい。しかし、1995-96シーズンのU-10、U-11のリーグで29試合114ゴールを記録するなど才能を発揮していたルーニーに対してエヴァートンは決断を迫り、すでにU-19チームでプレーしていた15歳のときにボクシングを辞めてフットボールに専念するようになる。
2002年のFAユースカップでは8試合8ゴールを記録し、決勝のアストン・ヴィラ戦でゴールを決め、チームを優勝へと導く。下部組織でも特別な存在となったことで、この年の夏にはトップチームのキャンプへと招集されるのだった。
才能がデイヴィッド・モイーズ監督に認められ、2002-03シーズンに16歳でトップチームに昇格。2002年8月17日、プレミアリーグ開幕戦のトッテナム・ホットスパー戦で早速デビューを飾る。10月2日のEFLカップ2回戦レクサムFC戦でトップチーム初ゴールを含む2ゴールを決める活躍を見せる。10月19日のアーセナル戦では当時のプレミアリーグ最年少得点記録となる16歳360日でのゴールを決める[1]。同時にこのゴールはアーセナルの連続無敗記録を止める歴史的ゴールともなった。これらの活躍から早くも主力に定着すると、とても17歳になったばかりの若者とは思えない貫禄のあるたたずまいとプレーを披露し、新たなワンダーボーイとして海外からも注目を集める。結局最初のシーズンは公式戦37試合8ゴールで終えている。
2003-04シーズンも2年目のジンクスなど感じさせない活躍を見せ、2003年12月28日のバーミンガム・シティ戦では早くもプレミアリーグ50試合出場を果たし、この試合で自らゴールを決めている。2004年1月には18歳となったことでエヴァートンとプロ契約を締結。2月21日のサウサンプトン戦ではプレミアリーグでは初の1試合2ゴールを記録。2年目のシーズンも公式戦40試合9得点という成績を残すが、シーズン中から次第にモイーズ監督との関係が悪化し、シーズン終了後に退団を決意する。
2004年8月31日、移籍金2560万ポンド、契約期間6年間の契約でアレックス・ファーガソン監督率いるマンチェスター・ユナイテッドに移籍する。代表戦での負傷によってシーズン序盤戦の試合は欠場を余儀なくされたが、2004年9月28日のUEFAチャンピオンズリーグ、オールド・トラッフォードでのフェネルバフチェSK戦では、ハットトリックおよび1アシストを記録する活躍を見せてチームの勝利に貢献。この試合のゴールにより最年少ハットトリック記録を18歳と335日で更新。名門ユナイテッドにもすぐに適応し、スター軍団の中でも存在感を発揮。2005年5月21日、FAカップの決勝戦でチームはアーセナルFCを相手にPK戦で敗れるも、自身はMVPを受賞。イエローカード17枚とフェアプレー面での課題は残ったが、チーム最多の公式戦17得点を記録し、PFA年間最優秀若手選手賞を受賞。
2005-06シーズンはさらに得点力を増し、もはや赤い悪魔のエースと呼べる存在となっていた。2006年2月26日、EFLカップ決勝のウィガン・アスレティック戦での2ゴールの活躍によって自身のキャリア初となるタイトル獲得を呼び込む。プレミアリーグ終盤の4月29日、チェルシーFCとの試合でパウロ・フェレイラと接触し、右足第4中足骨ほか複数個所を骨折してシーズンを終えたものの、公式戦18ゴール10ゴールというチーム最高の成績を残し、2シーズン連続でPFA年間最優秀若手選手賞に選出される。
2006-07シーズンは先の2006 FIFAワールドカップでの一件からクリスティアーノ・ロナウドとの関係悪化が取り沙汰されたが、和解。しかし、プレシーズンマッチでFCポルトのペペの顔に肘打ちして退場したことが問題視され、FAから3試合の出場停止処分を下される。このとき、ルーニーはFAに対して処分を取り消さなければ自身の肖像権を使わせないという脅しを述べている。そういった騒動が影響したのか、シーズン前半戦は10試合ノーゴールを経験するが、ボルトン・ワンダラーズ戦でハットトリックを達成して以降はコンスタントにゴールを奪う。2007年4月には古巣エヴァートンとのアウェイ戦において、1ゴール1アシストの活躍で勝利に貢献。ゴールの際は裏切り者として非難するエヴァートンサポーターに対し、ユナイテッドのエンブレムにキスする挑発的なパフォーマンスを披露している。このシーズンのユナイテッドはライバルであるチェルシーFC、アーセナルとの争いを制し、4年ぶりのプレミアリーグ王者に戴冠。自身にとっては加入3年目での初のリーグ優勝となった。一方、CLでは準々決勝のASローマ戦、準決勝のACミランとの第1戦で2ゴールを決めるが、チームはベスト4で敗れている。
2007-08シーズン、背番号をこれまでの8から「10」に変更。これにより長らくユナイテッドの10番はルーニーの代名詞的なナンバーとなる。しかしシーズン開幕戦となった2007年8月12日のレディング戦で左足中足骨を骨折し、6週間の戦線離脱を強いられる。復帰戦となった10月2日のCLグループステージASローマ戦でゴールを決めるが、11月9日にはトレーニング中に足首を負傷し2週間離脱。シーズン前半戦は欠場が多くなったが、その間にクリスティアーノ・ロナウドがゴールマシーンとなって飛躍的に覚醒し、チームは首位に立っていた。コンディションが回復した後半戦はクリスティアーノ・ロナウド、カルロス・テベスと共に魅力的な攻撃のトリオを形成。バランサー的な役割となったことからフィニッシュの機会が減ったものの、12ゴール13アシストという数字を残し、プレミアリーグ連覇に貢献。また、CLでは決勝に進出し、PK戦までもつれ込んだチェルシーFCとの同国対決を制してビッグイヤーを獲得。
2008-09シーズンもクリスティアーノ・ロナウド、テベスと共に若く強力な攻撃陣を牽引し、ゲームメイクや前線からの守備の部分でもチームに貢献し、プレーの幅を着実に増やしていた。2008年10月4日のブラックバーン・ローヴァーズ戦では史上最年少となる23歳でのプレミアリーグ200試合出場を達成。2008年12月にはFIFAクラブワールドカップ出場のため来日し、準決勝のガンバ大阪戦で2ゴール、決勝のLDUキト戦では決勝ゴールを決め、チームのクラブ世界一のタイトルに貢献し、大会得点王と大会MVPを獲得。プレミアリーグではハムストリングの負傷で離脱した期間があったが、30試合12得点8アシストで3連覇に貢献。一方、CLでは2シーズン連続で決勝まで進出するが、リオネル・メッシ擁するFCバルセロナの前に敗れ、連覇を逃している。
2009-10シーズンはクリスティアーノ・ロナウドとテベスが揃って退団したこともあり、フィニッシャーとしての役割に比重を置くようになる。2009年8月22日のプレミアリーグ第2節ウィガン・アスレティック戦で2ゴールを決め、クラブでは通算20人目となるユナイテッドでの公式戦100ゴールを達成。11月28日のポーツマスFC戦では3年ぶりとなるハットトリックを達成。2010年1月23日のハル・シティ戦ではキャリア初となる1試合4ゴールを記録。2月16日のCLラウンド16第1戦ACミラン戦で2ゴールを決め、クラブ史上初となるサン・シーロでの勝利に貢献。ホームでの第2戦でも2ゴールを決め、自身初となる公式戦30ゴールを達成。3月30日、CL準々決勝のバイエルン・ミュンヘンとの第1戦で足首を負傷。第2戦には完治しないまま強行出場したが、チームはアウェイゴールの差で敗れたうえに怪我を悪化させてしまう。リーグ戦でも4連覇を逃したが、キャリアハイを大幅に上回るリーグ戦26ゴール、公式戦34ゴールを記録。それでも得点王には一歩及ばなかった。それでも個人としてのパフォーマンスが評価され、自身初となるPFA年間最優秀選手賞を受賞する。
2010-11シーズンは開幕から出遅れ、一時は移籍願望を表明していたものの、2010年10月22日に2015年まで契約を延長。移籍騒動が沈静化してからは調子を取り戻し、例年通りのプレークオリティを披露する。そして、2011年2月12日、マンチェスター・シティとのマンチェスター・ダービーにおいて右からのクロスをアクロバティックなオーバーヘッドで合わせるスーパーゴールを決める。このゴールは自身もファーガソン監督も絶賛するゴラッソであり、プレミアリーグ20周年を記念したベストゴール投票で1位に選ばれる。4月2日のウェストハム・ユナイテッドFC戦でハットトリックを挙げ、ユナイテッド移籍後のプレミアリーグ通算100得点を達成。この試合の3点目を決めた後の勝利を祝う際、ピッチサイドのカメラに向かって罵倒し、その後FAから侮辱的な言葉を使ったとして告発され、2試合の出場停止処分を受ける。プレミアリーグでは2シーズンぶりの優勝を果たしたが、CLでは決勝で再びバルセロナと対戦したが、さらに進化したペップ・バルサの前に完敗。それでもこの試合で一矢を報いるゴールを決めている。
2011-12シーズンは2シーズン前のゴールの量産を再現する。第3節のアーセナル戦ではFK2本とPKによるハットトリックを達成し、アーセン・ヴェンゲル監督が思わずパニック・バイに走る8-2の歴史的大勝に貢献。直後のボルトン・ワンダラーズ戦では2試合連続でのハットトリックを記録。12月21日のフラムFC戦ではプレミアリーグ通算300試合出場を果たし、長距離のロングシュートによるリーグ通算130ゴールを記録する。2012年2月11日、リヴァプールFCとのノースウエスト・ダービーでは2ゴールを決め、宿敵相手の勝利に貢献。リーグ戦では27ゴールと自身のキャリアハイ記録を塗り替えたが、チームは最終節でマンチェスター・シティの劇的な優勝によってタイトルに一歩及ばなかった。
2012-13シーズンはロビン・ファンペルシーと香川真司が加入し、新たな攻撃陣を形成することになる。開幕直後に負傷し、4週間の離脱を余儀なくされたことからシーズン初ゴールは10月20日のストーク・シティ戦となった。フィニッシャーであるファン・ペルシーが加入したことでトップ下気味のチャンスメーカーとしての役割が多くなるが、2012年12月19日のマンチェスター・シティとのダービーマッチで2ゴールを決めるなど、要所で結果を残し、チームの大黒柱として君臨。リーグ戦27試合12ゴール10アシストと二桁得点二桁アシストと安定した成績を残し、退任を表明したファーガソン監督の最後のシーズンでのプレミアリーグ優勝に貢献。その後、ファーガソン監督より移籍リクエストを提出したことが明らかにされる。
2013-14シーズンよりファーガソン監督の後釜としてエヴァートン時代に不仲に陥ったデイヴィッド・モイーズが就任したことで移籍話に拍車がかかる。しかし、最終的にクラブへの残留を表明する。2013年9月17日のCLグループステージ、バイヤー・レヴァークーゼン戦で2ゴールを決め、ユナイテッドでの通算200ゴールを達成。リーグ戦では17ゴール10アシストと得点、アシスト両方でチームトップの成績を残したが、チームはモイーズ監督の古くさい戦術によって低調な出来に終わる。
2014-15シーズンは新監督のルイス・ファン・ハールから新キャプテンに任命される。2014年8月16日のプレミアリーグ開幕戦スウォンジー・シティ戦でバイシクルキックによるシーズン初ゴールを記録。ファン・ハール監督はポール・スコールズの引退以降の懸案事項となっていたプレーメーカー不在という問題を解決するため、たびたびルーニーをセンターハーフとして起用し、プレーメーカーとして新境地を開く。2015年2月28日のサンダーランド戦で2得点を挙げ、11シーズン連続でプレミアリーグで二桁得点以上を記録した初の選手となる。
2015-16シーズンはジョゼ・モウリーニョが監督に就任したが、前任と同様に中盤として起用されることも多かった。2016年1月2日のスウォンジー戦で自身プレミアリーグ通算188得点を記録し、プレミアリーグ歴代得点ランキング2位に浮上。1月17日に行われたリヴァプールFC戦でゴールを記録し、ユナイテッドでのリーグ戦通算ゴール数が、元アーセナルのティエリ・アンリ氏が保持していた、単一クラブでのプレミアリーグ最多ゴール記録を塗り替える快挙を達成している。しかし、チーム状態の悪さに加えて下がり目の位置でプレーすることが多くなったことから8ゴール6アシストという成績に終わり、プレミアリーグでの連続二桁得点記録が11シーズンで途絶えることに。5月21日のFAカップ決勝クリスタル・パレスFC戦ではセンターハーフとして120分間を戦い抜き、キャプテンとしての初タイトルを獲得。
2017-18シーズンも中盤での起用が多くなっていたが、2017年1月21日、プレミアリーグ第22節ストーク・シティFC戦にて終了間際に、自身のクラブ通算250ゴール目となる直接FKを決め、ボビー・チャールトンの持つクラブ歴代最多得点記録249ゴールを更新。1月29日のFAカップ4回戦のウィガン・アスレティック戦の試合前、クラブの歴代最多得点者となったことを称えられ、ボビー・チャールトン氏から記念のゴールデンブーツを贈呈される。もっとも32歳となったことから衰えが見られ始め、徐々にスタメンから外れ、出場機会が激減したことで移籍話も取り沙汰されるようになる。5月24日、UEFAヨーロッパカップ決勝のアヤックス・アムステルダム戦に1分間だけ出場し、タイトル獲得を戴冠。そしてこの試合が13年間を過ごしたユナイテッドでの最後の試合となった。
2017年7月9日、プロデビューを飾った古巣であるエヴァートンFCに13年ぶりに2年契約で復帰することが発表される。8月12日のプレミアリーグ開幕戦ストーク・シティ戦で早速復帰後初ゴールを記録。8月21日のマンチェスター・シティ戦でゴールを決め、アラン・シアラー以来史上二人目となるプレミアリーグ通算200ゴールを達成。11月29日のウェストハム戦ではエヴァートンでの初めてのハットトリックを達成。エヴァートンではほぼ前線での起用で固定されたこともあり、31試合10ゴールと3シーズンぶりに二桁得点を達成し、あらためて存在をアピールする結果となった。しかし、古巣でのプレーはわずか1年で終了することになる。
2018年6月28日、アメリカ・MLSのD.C.ユナイテッドに3年契約で加入することが発表される。2018年シーズン途中での加入となったものの、出場3試合目にしてチームのキャプテンに任命される。キャプテンとしての最初の試合となった7月28日のコロラド・ラピッズ戦で移籍後初ゴールを記録。ちなみにこのときのGKはユナイテッド時代のチームメイトのティム・ハワードだった。10月にはチームのプレーオフ進出に貢献したことでMLS月間最優秀選手に選出される。MLSでの1年目は20試合12ゴール6アシストという期待通りの成績となり、シーズン終了後にはクラブのMVPに選出。
2年目の2019年シーズンも開幕から好調を維持し、3月16日のレアル・ソルトレイク戦ではMLS移籍後初のハットトリックを達成。6月27日のオーランド・シティ戦ではキャリアで3度目となる自陣内のハーフウェイラインからロングシュートを決める。レギュラーシーズンは28試合11ゴール7アシストと1年目以上の成績を残すが、シーズン途中に宣言した通り、このシーズンを最後に退団し、母国で新たな挑戦をおこなうことに。10月19日のMLSカッププレーオフ1回戦がアメリカでの最後の試合となった。
2020年1月より、イングランド・EFLチャンピオンシップのダービー・カウンティに選手兼監督として加入する。デビュー戦となった1月2日の第26節バーンリー戦でアシストを記録。1月29日のルートン・タウン戦で移籍後初ゴールを記録。3月5日にはFAカップ5回戦で古巣マンチェスター・ユナイテッドと対戦し、試合には3-0で敗れたが、好パスや直接FKからゴールを脅かすなど好プレーを披露。リーグ戦20試合で5ゴール3アシストという成績を残す。チームの成績はリーグ戦10位だった。
2020-21シーズン、チャンピオンシップ第4節でのノリッジ戦でFKからのゴールでシーズン初ゴールを記録。そしてこれが現役での最後のゴールとなった。チームは不振に陥り、ルーニーも低調なパフォーマンスが続いたことで批判を受けていた。11月26日に成績不振によってフィリップ・コクー監督が解任されると、正式な監督に就任するために2021年1月15日に現役引退を表明。
父方がアイルランドにルーツを持つことからアイルランド代表に入る資格も有し、15歳の頃にアイルランド代表入りを誘われたがこれを断り、イングランド代表としてプレーすることを決めている。
2001年にU-17イングランド代表に選出され、2002年4月にデンマークで開催されたUEFA U-17欧州選手権に出場。3位決定戦のスペイン戦でハットトリックを達成するなど、通算5ゴールを記録し3位入賞に貢献。大会のMVPに選ばれている。
2003年2月、フル代表に初招集され、2月17日のオーストラリアとの親善試合に後半から出場し、当時マイケル・オーウェンの持っていた最年少出場記録を塗り替える17歳と111日でイングランド代表デビューを果たす。同年9月6日のEURO2004予選マケドニア戦で17歳317日で代表初ゴールを記録し、イングランド代表最年少得点記録を更新。9月10日のリヒテンシュタイン戦ではEURO2004予選2試合連続となるゴールを決めている。この活躍により、代表でのレギュラーの座を掴むようになる。
2004年6月にポルトガルで開催されたEURO2004で国際大会でのデビューを果たし、グループリーグ第2戦のスイス戦で2ゴールを決め、大会史上最年少得点記録を更新する。[2]第3戦のクロアチア戦でも2試合連続での2ゴールを決め、グループリーグだけで4ゴールをマーク。しかし準々決勝のポルトガル戦では試合中に足を骨折し、チームもPK戦で敗れて敗退。オーウェンとの新旧ワンダーボーイ2トップが注目された中でそのオーウェンを上回る輝きを放ち、大会ベストイレブンに19歳にして選出される。
2006年6月、ドイツで開催された2006 FIFAワールドカップに出場。プレミアリーグで負った足の故障を抱えていたことから酸素テントを使用して回復を早め、初戦を欠場したものの、グループリーグ第2戦のトリニダード・トバゴ戦に途中出場し、ワールドカップデビューを果たす。決勝トーナメントに入ってからはオーウェンが大怪我を負って戦線離脱したことで1トップに固定される。準々決勝のポルトガル戦では後半17分にリカルド・カルヴァーリョの股間を踏みつけたとして退場処分を受け、チームはPK戦の末に敗退。結局大会ではノーゴールに終わる。この退場の場面で当時チームメイトだったクリスティアーノ・ロナウドがベンチにウインクしたことが問題視され、敗退の原因を作ったルーニーよりもクリスティアーノ・ロナウドのほうがイギリスメディアからバッシングされる事態となる。
代表ではしばらくゴールから遠ざかっていたが、2006年11月15日のオランダ戦で1年ぶりにゴールを決める。EURO2008予選では負傷の影響もあって欠場が多く、チームは予選敗退に終わる。2008年9月からスタートした2010 FIFAワールドカップ欧州予選ではカザフスタン戦、ベラルーシ戦で2試合連続での2ゴールを記録するなど、チームトップの9ゴールを挙げ、本大会出場権獲得に大きく貢献。2009年11月14日のブラジルとの親善試合では初めてキャプテンを務めている。
2010年6月に南アフリカで開催された2010 FIFAワールドカップでは直前のプレミアリーグで26ゴールを挙げ、代表で10番を背負うようになったことからエースとして大きな期待が寄せられていた。ところが、大会ではよもやの不振に悩まされ、グループリーグ第3戦のアルジェリア戦では自国のサポーターからブーイングをされ、「ブーイングしてくれてうれしいね。これが忠実なサポートというもんだ」と吐き捨てる。チームはラウンド16でドイツに敗れ、自身も2大会連続でノーゴールに終わり、期待外れに終わる。
2012年6月、ポーランドとウクライナで開催されたEURO2012に出場。EURO2012予選のモンテネグロ戦で相手選手を蹴り一発退場処分を受けたことでUEFAから本大会最初の2試合を出場停止処分[3]とされたことにより、大会初出場となったグループリーグ第3戦のウクライナ戦でイングランドをグループ首位通過に導く決勝ゴールを決める。準々決勝のイタリア戦ではスコアレスのままPK戦となり、1人目のキッカーとして成功させるが、その後二人が失敗したことで敗退。
2014年6月、ブラジルで開催された2014 FIFAワールドカップに出場。グループリーグ第2戦のウルグアイ戦で後半30分に3度目の出場にして待望のワールドカップ初ゴールを記録する。しかしチームはイタリア戦に続いての連敗で早々とグループリーグ敗退が決定。消化試合となったコスタリカ戦は15分のみの出場となった。1ゴール1アシストで大会におけるチームの全ゴールに関与したが、メディアからはパフォーマンスを批判される。
ブラジルワールドカップ後、代表引退したスティーヴン・ジェラードの後任としてイングランド代表のキャプテンに任命される。2014年11月15日、EURO2016予選のスロベニア戦で代表通算100試合出場を達成。2015年9月8日、同予選のスイス戦でPKにより代表通算50ゴール目を決め、ボビー・チャールトンが持っていたイングランド代表最多得点記録を更新する。
2016年6月にフランスで開催されたEURO2016では本来のFWではなく4-3-3のインサイドハーフとして出場。初戦のロシア戦ではプレーメーカーとして高いパフォーマンスを披露し、MOMに選出。ラウンド16のアイスランド戦ではPKでゴールを決めるが、チームは逆転負けを喫し敗退となる。
EURO2016後も代表に選出されていたが、世代交代によって序列が低下。2017年8月23日、FAから代表引退が発表される。2018年11月4日のアメリカとの親善試合で1試合限定で代表に復帰し、この試合が代表引退試合となった。
| シーズン | 国 | クラブ | リーグ | 試合 | 得点 |
|---|---|---|---|---|---|
| 2002-03 | エヴァートン | プレミアリーグ | 33 | 6 | |
| 2003-04 | エヴァートン | プレミアリーグ | 34 | 9 | |
| 2004-05 | マンチェスター・ユナイテッド | プレミアリーグ | 29 | 11 | |
| 2005-06 | マンチェスター・ユナイテッド | プレミアリーグ | 36 | 16 | |
| 2006-07 | マンチェスター・ユナイテッド | プレミアリーグ | 35 | 14 | |
| 2007-08 | マンチェスター・ユナイテッド | プレミアリーグ | 27 | 12 | |
| 2008-09 | マンチェスター・ユナイテッド | プレミアリーグ | 30 | 12 | |
| 2009-10 | マンチェスター・ユナイテッド | プレミアリーグ | 32 | 26 | |
| 2010-11 | マンチェスター・ユナイテッド | プレミアリーグ | 28 | 11 | |
| 2011-12 | マンチェスター・ユナイテッド | プレミアリーグ | 34 | 27 | |
| 2012-13 | マンチェスター・ユナイテッド | プレミアリーグ | 27 | 12 | |
| 2013-14 | マンチェスター・ユナイテッド | プレミアリーグ | 29 | 17 | |
| 2014-15 | マンチェスター・ユナイテッド | プレミアリーグ | 33 | 12 | |
| 2015-16 | マンチェスター・ユナイテッド | プレミアリーグ | 28 | 8 | |
| 2016-17 | マンチェスター・ユナイテッド | プレミアリーグ | 25 | 5 | |
| 2017-18 | エヴァートン | プレミアリーグ | 31 | 10 | |
| 2018 | D.C.ユナイテッド | MLS | 20 | 12 | |
| 2019 | D.C.ユナイテッド | MLS | 28 | 11 | |
| 2019-20 | ダービー・カウンティ | EFLチャンピオンシップ | 20 | 5 | |
| 2020-21 | ダービー・カウンティ | EFLチャンピオンシップ | 10 | 1 |
現役引退直後の2021年1月15日、EFLチャンピオンシップのダービー・カウンティの監督に正式に就任。就任当時のチームは降格圏手前を彷徨っていたが、就任してからはゲームプランや守備の杜撰さを指摘されながらも最終節でチームを降格の危機から救う。
2021-22シーズンはダービーが破産申請したことによるペナルティで勝ち点21を剥奪される厳しいシーズンとなり、23位に低迷し3部のEFLリーグ1へ降格。2022年6月24日に辞任。
2022年7月12日、古巣であるアメリカ・MLSのD.C.ユナイテッドの監督に就任。シーズン最後の14試合で9ポイントを獲得したが、チームはイースタン・カンファレンス最下位に終わる。
就任2年目の2023年シーズンもレギュラーシーズンでリーグ23位と低迷。2年連続でプレーオフ進出を逃したことでシーズン終了後に退任。
2023年10月、EFLチャンピオンシップのバーミンガム・シティFCの監督に就任。就任した当時は6位に位置していたが、ルーニーが監督となってからチームは降格圏に転落するほど成績が悪化。2024年1月に就任からわずか3か月で解任される。
2024年5月25日、EFLチャンピオンシップのプリマス・アーガイルFCの監督に就任。ここではジョゼップ・グアルディオラ監督をロールモデルとしたポゼッションスタイルにチャレンジするが、チームは最下位に沈むほど低迷し、2024年12月31日に就任から半年で退任する。
プリマスの監督を退任した2025年3月からはBBCテレビの解説者として活動。他のレジェンドたちと共に過激な言動を繰り広げている。特に低迷の続く古巣マンチェスター・ユナイテッドに対してはかなり辛口な批判を述べている。
メインポジションはセカンドトップのストライカーだが、1トップでもサイドでも中盤でもプレーできるオールラウンドなプレイヤー。空間認識とインテリジェントに優れているためゲームメイクにも才能が有り、ベテランとなってからはセンターハーフとしてプレーしていた。
万能性と得点力に特徴があり、スピード、パワー、テクニックを兼ね備えたアタッカーで、若い頃は豊富な運動量でボックス内へ積極的に走り込むタイプだったが、キャリアを重ねるにつれて、中盤に下がってボールに触りながらゴール前へと抜け出す動きが増え、よりクレバーな判断で決定的な瞬間を捉えるプレーへと変化した。
ストライカーとしてはシュートレンジが広く、コンパクトかつ振りが速いモーションで高精度威力のシュートを放つことができ、ボレーシュートなどのアクロバティックなシュートも得意としていた。ゴール前での技術と駆け引きも一級品で、相手を欺くようなシュートでゴールを決めることも多かった。
FWとして高い決定力を有していながら、「周囲を活かす技術」や「視野の広さ」もチームのなかで突出しており、チームメイトの特徴を瞬時に理解できるIQを持っていたことで誰とでも良質のコンビネーションを構築できる。強面とは裏腹に、器用で繊細なプレーができ、動きの幅も広い。
守備の際の労を惜しまない献身性も特徴的であり、ファーストディフェンスとして相手をしつこく追い回すだけでなく、自陣にまで戻ってディフェンスラインを助けることも多い。2センターハーフとしてプレーできたのも守備力の高さがあったからである。つまりは本当に何でもできる選手だった。
欠点は気性の荒さであり、すぐに頭に血が昇ってファウルをしたり、主審に無駄なクレームをつけたり、時には報復行為をおこなったりでカードを貰い、退場して複数試合の出場停止処分を受けていた。また、何度も怪我をしたことや体重の問題によってキャリアが進むにつれてスピードと機動力に影響を与え、潜在能力を十分に発揮できていないと非難されることとなった。
ニコニコにおいては、「ルー兄」(るーにい)や「ルニキ」(ルーニー+兄貴から)の愛称で親しまれている。
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2022/11/14(月) 23:10:37 ID: ZUL6f3Ftfw
ルーニー氏はこれまで古巣復帰後のロナウドについて「マンUは彼を放出すべきだ。もう彼はかつての彼ではない」などと批判的に話してきた。
インタビューの中でそれについて触れられたロナウドは「なぜ彼(ルーニー氏)が僕のことをそんなに批判するのか分からない。たぶん彼がもう引退していて、僕がまだハイレベルでプレーできているからじゃないかな」と話し、ルーニー氏の発言が自分への嫉妬から来ていると強調した。
さらにロナウドは「僕の方が格好良いからとは言わないよ。本当のことだけど」とばかにするように付け加えたという。
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最終更新:2025/12/16(火) 13:00
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