マルコ・ファン・バステン(Marco van Basten, 1964年10月31日 - )とは、オランダの元サッカー選手、サッカー指導者である。元サッカーオランダ代表。
現役時代のポジションはFW(CF)。188cm80kg。利き足は右足。
オランダ・ユトレヒト出身。3度のバロンドール受賞を誇る1980年代から1990年代初頭を代表する名選手。UEFA欧州選手権1988決勝でオランダ代表を初優勝に導いたボレーシュートは20世紀最高のゴールと賞賛されている。
度重なる怪我のため選手生命は長くなかったが、スピード・パワー・テクニック・高さ・アイディア・メンタル・瞬発力・決定力・スター性とFWに必要な能力を全てを兼ね備えた万能ストライカーで、史上最高のFWの一人として多くの人が名を挙げている。
現役時代はアヤックス・アムステルダム、ACミランでプレーし、エールディヴィジ得点王4回、セリエA得点王2回の実績を持つ。ACミラン時代はルート・フリット、フランク・ライカールトと共に「オランダトリオ」の一人として活躍し、グランデ・ミランと称された黄金期のエースストライカーとしてスクデット獲得やUEFAチャンピオンズカップ優勝など数多くのタイトルをもたらしている。
度重なる怪我によって30歳の若さで現役を引退。その後は指導者となり、オランダ代表や古巣であるアヤックスの監督などを歴任。
愛称は「ユトレヒトの白鳥」。イタリアのファンからは旧約聖書になぞらえ「神は8日目にマルコを創造した」と称えられ、「聖マルコ」と呼ばれていた。
1964年10月31日、オランダのユトレヒトで生まれ、ウーグ・イン・アル地区で育つ。幼少の頃の憧れはヨハン・クライフであり、いつかクライフと共にアヤックス・アムスデルダムでプレーする日を夢見ていた。
6歳のとき地元クラブのEDOに入団し、本格的にサッカーを始める。元サッカー選手の父親にサッカーを教わり、兄と共に毎日ボールを蹴っていた。父が期待していたという兄は他のスポーツへと移ってしまうが、寝るときもサッカーのことを考える少年となっていた。
7歳となった1971年にFCユトレヒトの下部組織に入団。当時から並々ならぬ才能を発揮しており、オランダ国内でも将来を嘱望される存在となる。9年間ユトレヒトでプレーした後、1980年にUSVエリンベイクのユースチームに加入する。
1981年、16歳にしてアヤックス・アムステルダムとプロ契約を交わす。加入当初は細身で痩せ気味であったことからなかなか試合に出場できるチャンスが巡ってこなかった。しかし、彼の才能を見抜いて高く評価していたのが、英雄ヨハン・クライフだった。クライフはア・デモス監督にファン・バステンの起用を進言し、1982年4月3日NECナイメーレン戦で憧れのクライフとの交代でトップチームデビューを果たす。すると、後半23分に早速プロ初ゴールを決め、クライフの期待に応えてみせる。
1982-83シーズンは前シーズンにヨーロッパ・ゴールデンブーツを獲得したヴィム・キーフトとポジションを争うことになるが、得た出場機会でしっかりと結果を残し、20試合9得点を記録。この年、アヤックスはエールディヴィジとKNVBカップの二冠を達成。シーズン終了後、クラブはキーフトをピサ・カルチョに売却し、18歳のファン・バステンを新たなエースストライカーとして起用する方針を採る。
1983-84シーズンにはFWとしての確固たる地位を確保。天性の得点感覚を開花させ、第2節のヴィレムⅡ戦で4ゴールを決め、宿敵フェイエノールトとのデ・クラシケルでハットトリックを決めるなどゴールを量産。シーズン中盤に体調不良で離脱したため26試合の出場にとどまったが、28ゴールを記録し、初となるエールディヴィジ得点王のタイトルを手にする。オランダ国内のみならず欧州中から注目される存在となった1984-85シーズンは得点のみならずアシストでも貢献するなど、プレーの幅を広げ、22ゴール19アシストを記録。アヤックスを2シーズンぶりの優勝に導き、2年連続の得点王を獲得。
クライフが実質監督に就任した1985-86シーズンはまさに記録的なシーズンとなった。エールディヴィジ第7節ヘラクレス・アルメロ戦で5ゴールを決め、第17節のスパルタ・ロッテルダム戦ではキャリア最多となる6ゴールのダブルハットトリックを達成するなどゴールショーを披露。26試合37得点という圧巻の数字を残し、3年連続のエールディヴィジ得点王のみならずゴールデンブーツを受賞。さらに1985年のオランダ年間最優秀選手賞を受賞する。一方このシーズンの第22節フローニンヘン戦で相手DFと接触した際に左足首の軟骨に異常が出て手術を受けることになり、この先のキャリアを苦しめる負傷の始まりとなる出来事に見舞われる。
在籍5年目となった1986-87シーズンはキャプテンマークを巻いて試合に出場する機会が増え、エースとしてのみならずチームリーダーとしても結果が求められるようになる。クライフ監督のもと、ヨーロッパでも戦える戦力を揃えたアヤックスはUEFAカップウィナーズカップで決勝に進出。1987年5月13日、決勝のロコモティフ・ライプツィヒ戦では前半21分に決勝ゴールを決め、アヤックスに1973年以来となる欧州のタイトルをもたらす。9試合6ゴールとエースストライカーの役割を果たし、キャプテンとしてカップを掲げる栄誉を手にするのだった。国内リーグでは右足首の負傷で離脱した時期があったものの、27試合31得点という異次元の活躍で4年連続得点王に輝く。
1987年7月、イタリア・セリエAのACミランへ移籍する。クラブのオーナーであるシルヴィオ・ベルルスコーニはファン・バステンのプレー映像を見て即座に「金はいくらかかってもいいから獲ってこい」と命じたという。1987-88シーズンは8月23日のコッパ・イタリアのグループリーグ、バーリ戦で移籍後初出場初ゴールを挙げ、セリエAデビューとなったピサ戦でもいきなりゴールを決める。しかし足首の負傷によって長期離脱を強いられ、移籍1年目は11試合3得点と期待外れに終わる。それでもチームはアリーゴ・サッキ監督による革新的なプレッシングサッカーによってスクデットを獲得。
1988-89シーズンは前年からコンビを組んでいたルート・フリットに加えてアヤックス時代のチームメイトだったフランク・ライカールトが加入し、「オランダトリオ」を結成。怪我に泣かされた1年目とは違って2年目のシーズンは開幕から本領を発揮。先の欧州選手権での活躍によってバロンドールを獲得したことで注目度を増した中でコンスタントにゴールを決める。6月18日のFCアスコリ戦ではセリエAで初のハットトリックを達成。スクデットこそ宿敵インテルに逃したものの、リーグ戦19ゴールをマーク。また、UEFAチャンピオンズカップでは1回戦のレフスキ・ソフィア戦で4ゴールと爆発し、2回戦のレッドスター戦でも1ゴール1アシストを記録。事実上の決勝戦といわれた準決勝のレアル・マドリード戦では1stレグで同点ゴールを決め、2ndレグでは5点を決めた圧勝劇でゴールを決める。1989年5月24日、ステアウア・ブカレストとの決勝ではフリットと揃って2ゴールを決め、ミランに20年ぶり3回目のビッグイヤーをもたらす。チャンピオンズカップでは10得点を決め、得点王となり、世界最強チームと呼ばれたミランでエースストライカーとして君臨し、2年連続でのバロンドールを受賞。
1989-90シーズンは序盤こそ怪我で欠場となったが、復帰後は前年を上回るペースでゴールを量産。26試合19得点で初のセリエA得点王を獲得。1989年12月17日、東京・国立競技場で開催されたトヨタカップのナシオナル・メデシン戦ではアルベリゴ・エヴァーニの決勝ゴールをアシストし、ミランの20年ぶりのクラブ世界一に貢献。チャンピオンズカップの舞台ではまたもや輝きを放ち、ベスト16のレアル・マドリード戦では1ゴール1アシストを記録。準決勝のバイエルン・ミュンヘン戦ではホームで貴重な決勝ゴールを決め、ファイナル進出に貢献。決勝のベンフィカ戦ではライカールトの決勝ゴールをアシストし、2年連続での欧州王者獲得に貢献。
1990-91シーズンは前年に続いてトヨタカップ出場のため来日し、1990年12月9日のオリンピア戦では2アシストの活躍でミランの連覇に貢献。しかし、セリエAでは11ゴール7アシストと物足りない出来に終わり、チャンピオンズカップでは2回戦のクラブ・ブルージュ戦で退場となり、出場停止となったオリンピック・マルセイユ戦でミランは敗退。
1991-92シーズンにファビオ・カペッロが監督に正式に就任しチームはより守備的なスタイルとなるが、ミランのエースストライカーであることに変わりはなかった。前年の不調から輝きを取り戻し、1992年1月19日のフォッジャ戦、2月2日のカリアリ戦、3月1日のアタランタ戦でそれぞれハットトリックを決めるなど25ゴールを決め、2度目のセリエA得点王になる活躍でセリエA無敗優勝に貢献。1991年10月27日のバーリ戦で直接FKを決め、ミランでの通算100ゴールを達成。グランデ・ミランは健在ぶりを見せ、1992年は自身3度目となるバロンドールと初のFIFA最優秀選手賞を受賞。ヨハン・クライフとミシェル・プラティニに続き同賞を3度受賞した3人目の選手となった。
1992-93シーズンは開幕から爆発し、第2節のペスカーラとの対戦でハットトリック、第9節のSSCナポリ戦では4得点を決めるなど、13試合で12ゴールと得点ランキング首位に立っていた。11月のUEFAチャンピオンズリーグ、IFKイエテボリ戦では1試合4ゴールと異次元の活躍を見せていた。ところが、バロンドール受賞の翌日に足首に鉄板を入れる大手術をおこない、怪我の影響で以降の大半の試合を欠場。足の痛みは酷くなり、以前のようなシュートやボールタッチはできなくなっていた。第29節のウディネーゼ戦で復帰し、第30節のアンコナ戦でゴールを決めるがこれが現役最後の試合となった。1993年5月26日、CL決勝マルセイユ戦に痛み止めの注射を打って出場したものの、後半にバジール・ボリの激しいタックルを受けて負傷し、後半40分に交代。これが現役最後の試合とはこのとき誰も思わなかった。
足首の関節の痛みはますます悪化し、回復の兆しが見えないまま1993-94シーズンは一度もピッチに立つことはできなかった。1994年の夏、ミランのフロントは復帰への希望を捨てず、無給ながら、1996年夏まで契約を延長。復帰に向けてリハビリや手術を繰り返すが、1995-96シーズン開幕目前の1995年8月17日に30歳の若さでの現役引退を表明。稀代の天才ストライカーはあまりにも悲運なキャリアの幕引きとなってしまった。
1982年、U-19オランダ代表に選出され、この年のUEFA U-19欧州選手権では3試合4ゴールの活躍。1983年6月にはメキシコで開催されたFIFAワールドユース選手権1983にU-20オランダ代表として出場し、4試合2得点の活躍でチームをベスト8まで導き、評価を高める。
1983年7月9日、UEFA欧州選手権1984予選のアイスランド戦で18歳でのオランダ代表デビューを果たす。9月21日のベルギーとの親善試合で代表初ゴールを記録。EURO1984予選には2試合に出場し、1983年10月12日のアイルランド戦では1ゴール1アシストの活躍を見せたが、オランダは予選敗退に終わっている。
その後、オランダ代表でも中心選手となっていくが、アヤックスで見せるような圧倒的な存在感を見せることができずにいた。1986 FIFAワールドカップ欧州予選ではわずか1ゴールに終わり、オランダはここでも予選敗退。またしても国際大会への出場を逃すこととなった。
UEFA欧州選手権1988予選では5試合2得点を記録し、三度目の正直で本大会出場の切符を手にしたものの、予選を通して調子を落としていた。
1988年6月、西ドイツで開催されたUEFA欧州選手権1988に出場。不調に陥っていたこともあって初戦のソ連戦はベンチスタートとなる。しかしこの試合を落とすと、リヌス・ミケルス監督は第2戦のイングランド戦でファン・バステンをスタメンに復帰させる。すると、初戦のスタメン落ちの鬱憤を晴らすかのようにハットトリックと大暴れし、自らの価値を示すと共に12年ぶりの決勝トーナメント進出に貢献する。準決勝の開催国・西ドイツとの対戦では1-1の同点で迎えた後半44分にスライディングしながらの劇的な逆転ゴールを決め、オランダを初の決勝へ導く。決勝のソ連戦では、まず前半にフリットの先制ゴールをアシスト。そして後半9分左サイドからのクロスを厳しい角度の位置からダイレクトボレーで合わせたスーパーゴールを決める。このゴールは「20世紀最高のゴール」とも称されるサッカー史に残る伝説のゴールと位置づけられている。オランダは初のメジャー・トーナメント優勝となるタイトルを獲得し、通算5得点で得点王となったファン・バステンはこの年、初のバロンドールを獲得。この時の2位はルート・フリット、3位はライカールトであり、オランダトリオで上位3人を占めた。
1990年6月、イタリアで開催された1990 FIFAワールドカップに出場。前年に2年連続でのバロンドールを獲得していたこともあり、大きな期待を集めた大会となったが、フリットと揃ってミランで見せるようなハイパフォーマンスを見せられず、グループリーグで何とか3位で通過したものの、ラウンド16で西ドイツ相手に敗退。結局4試合ノーゴールに終わってしまい、期待を裏切る結果となる。
UEFA欧州選手権1992では、予選で8試合8ゴールと活躍していたものの、1992年6月スウェーデンで開催された本大会では、準決勝まで勝ち進んだものの、準決勝のデンマーク戦ではPK戦でピーター・シュマイケルに止められたことでよもやの失敗をしてしまい、オランダは敗退。2年前のワールドカップ同様に4試合ノーゴールに終わり、失意のまま大会を去ることになる。結局、大会直前のウェールズとの親善試合のゴールが代表での最後のゴールとなった。
1994 FIFAワールドカップの際、ディック・アドフォカート監督はミランで試合に出ていないにも関わらず、メンバーに招集しようとしたが、ミラン側の強い反対により実現しなかった。
| シーズン | 国 | クラブ | リーグ | 試合 | 得点 |
|---|---|---|---|---|---|
| 1981-82 | アヤックス | エールディヴィジ | 1 | 1 | |
| 1982-83 | アヤックス | エールディヴィジ | 20 | 9 | |
| 1983-84 | アヤックス | エールディヴィジ | 26 | 28 | |
| 1984-85 | アヤックス | エールディヴィジ | 33 | 22 | |
| 1985-86 | アヤックス | エールディヴィジ | 26 | 37 | |
| 1986-87 | アヤックス | エールディヴィジ | 27 | 31 | |
| 1987-88 | ACミラン | セリエA | 11 | 3 | |
| 1988-89 | ACミラン | セリエA | 33 | 19 | |
| 1989-90 | ACミラン | セリエA | 26 | 19 | |
| 1990-91 | ACミラン | セリエA | 31 | 11 | |
| 1991-92 | ACミラン | セリエA | 31 | 25 | |
| 1992-93 | ACミラン | セリエA | 15 | 13 | |
| 1993-94 | ACミラン | セリエA | 0 | 0 | |
| 1994-95 | ACミラン | セリエA | 0 | 0 |
1995年に現役を引退してからはしばらくの間、サッカー界から離れていたが、2003年に古巣であるアヤックス・アムステルダムのユースチームのアシスタントコーチに就任。かつては監督となることはないと宣言していたが、前言を撤回し指導者としての道を歩むことになる。
2004年7月29日、ディック・アドフォカート監督の後任としてオランダ代表監督に就任。指導者としてのキャリアが無いに等しいファン・バステンの就任に不安視する声も多かったが、就任初戦から16試合連続無敗と順調なスタートを切る。監督としての特徴は、オランダ3大クラブ以外の所属選手やまだ実績の少ない若手を積極的に登用する反面、パトリック・クライファートやクラレンス・セードルフといったスター選手であっても代表にフィットしなければ容赦なく構想外としたことだった。
2006 FIFAワールドカップでは、欧州予選を10勝2分の無敗という好成績で突破。2006年6月にドイツで開催された本大会ではアルゼンチン、コートジボワール、セルビア・モンテネグロと同居した死のグループを2勝1分の2位で通過。しかし、ラウンド16のポルトガル戦は両チーム2人ずつ退場者を出しての大荒れの試合となり、0-1で敗れ、ベスト16敗退に終わる。大会後、主力のルート・ファン・ニステルローイとマルク・ファン・ボメルがファン・バステンの起用法に不満を吐露し、代表招集を拒否する意向を示す。
ドイツ・ワールドカップ後、KNVBとの契約を2010年まで延長。EURO2008予選ではグループ2位で本大会出場権を獲得。2007年5月には対立していたファン・ニステルローイと和解し、代表に復帰する。一方、長らく確執のあったセードルフも復帰させるが、ロビン・ファン・ペルシやヴェスレイ・スナイデルら若手を重宝したことから結局2008年に再び対立することとなった。
2008年6月にスイスとオーストリアの共同開催となったEURO2008では、グループリーグでイタリア、フランス、ルーマニアといった難敵と同居したグループCを9得点1失点という圧倒的な内容で3連勝し、大会序盤の話題を集める。ところが、準々決勝ではこの大会台風の目となっていたフース・ヒディンク監督率いるロシア相手に延長戦の末に敗れ、ベスト8敗退となる。大会後、代表監督を辞任。在任時の成績は52試合35勝11分6敗だった。
オランダ代表監督辞任直後の2008年7月に古巣であるアヤックス・アムステルダムの監督に就任。シーズン序盤は好調だったものの、冬の移籍マーケットでクラース・ヤン・フンテラールがレアル・マドリードに移籍してからチームは失速。早々とエールディヴィジの優勝争いから脱落し、リーグ終盤に連敗したことで3位以下が確定し、CL出場権を逃してしまう。2009年5月、シーズン終了を待たずに辞任する。
2012年7月、SCへ―フェンフェーンの監督に就任。2012-13シーズンは低迷し悲惨な成績となるが、超守備的な5バックシステムなどの採用で守備が安定した後半に巻き返しに成功。最終的にPO圏内の8位に進む一定の成果を挙げる。
2年目の2013-14シーズンは前年を大きく上回る勝ち点を獲得した一方で攻撃はカウンター頼みで自分たちで主導権を取ったフットボールが全く前進せず、守備もミスが多く不安定な戦いとなっていたことを批判されていた。シーズン途中の2014年1月、フロントの大規模な入れ替えがあった影響もありヘーレンフェーンが契約延長のオファーを出すか微妙な状況だったこともあり辞任する。
2014年4月18日、2014-15シーズンよりAZアルクマールの監督に就任することが発表される。しかし、開幕して間もない8月28日、体調不良によって休養に入る。9月16日、監督からの退任が発表され、2016年までの契約でアシスタントコーチに就任。結局監督として指揮を執ったのはわずか5試合のみとなった。シーズン終了後の2015年7月にAZを退団。
2015年7月、オランダ代表監督であるダニー・ブリントの下でアシスタントコーチに就任。
2016年8月、オランダ代表アシスタントコーチを退任を表明。10月よりFIFAのテクニカルディレクターに就任。就任の背景にはフットボール・インターナショナル誌での週刊コラムが評価されたことがあった。
同時に解説者としての活動を始め、ESPNから「FIFAの問題について熟考し、オフサイドルールの変更を提案する、かなり知的な」解説者と評される。2019年11月23日、FOXスポーツ・ネットワークのオランダ版で解説を務めていた際、生放送中にナチス式敬礼に関連する口頭の挨拶である「ジーク・ハイル」(ドイツ語で「勝利万歳」の意)を発言したことで炎上する。
卓越した決定力と高い技術、そして優れたパス能力を兼ね備えた万能型のストライカーであり、188cmと長身だが、パワーよりもテクニックで他を圧倒するタイプだった。ボックス内でのプレーが非常に上手く、逆足の精度が高く、パスやドリブル、スピードなどの総合的な能力が高く評価されていた。
彼の傑出したストライカーとしての才能はその優れたテクニックとゴールへの冷静なフィニッシュに基づいており、優れたシュート力と正確性を持っているため、どんな状況からでもゴールを決めることができた。当初はラインブレイカーとして知られていましたが、キャリアを通じてボックスでのプレーの評価が高まり、最終的にはボックスストライカーとしての評価を得るようになった。これだけの選手でありながらセットプレーからの得点時にはフリーでボールを受ける場面も多く、DFのマークを振り切る技術にも長けていた。
柔軟なボールタッチ、両足を使った正確無比なキック、空中戦の強さ、技術を備えたヘディング、スピードとテクニックでDFを抜き去るドリブル、全体重をのせた豪快なミドルシュートとストライカーに必要な能力を完璧に備えるまさに完全無欠の選手であった。
ゴールだけでなくアシストのセンスにも秀でたものがあり、中盤に下がってボールをもらい、周りを使ったプレーでゲームメイクにも加わることができ、サイドに流れてのチャンスメイクもこなしていた。
執拗なきついあたりやバックチャージなどを度々受けていたが見事なボディーバランスで倒れようとはしなかったため、そのことが怪我をまねく原因と見る声もある。
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最終更新:2025/12/10(水) 23:00
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