フランク・ランパード(Frank James Lampard Jr. OBE, 1978年6月20日 - )とは、イングランドの元サッカー選手、サッカー指導者である。
イングランド・EFLチャンピオンシップのコベントリー・シティ監督。元サッカーイングランド代表。
現役時代のポジションはMF。183cm88kg。利き足は右足。
イングランド・ロンドン出身。愛称は「ランプス」。セントラルミッドフィルダーながらもプレミアリーグで10年連続二桁得点を記録し、プレミアリーグ通算146ゴールを挙げるほどの得点力を発揮。チェルシーFCの歴代最多得点記録保持者となった。プレミアリーグ164試合連続出場記録の持ち主であることから「鉄人」と呼ばれている。
恵まれた体格と豊富な運動量で守備を支え、狙い澄ましたロングパスでチャンスを創出し、さらに左右の足から強烈なシュートを放ち、多くの得点を生み出したハイブリッド型のMFであり、そのオールラウンドな能力でジョゼ・モウリーニョ監督からは「世界最高の選手」と称賛された。
父親も所属していたウェストハム・ユナイテッドで頭角を現し、2001年にチェルシーFCに移籍すると、石油王ロマン・アブラモビッチ会長のもとでビッグクラブと化したチームの中核として長年活躍。プレミアリーグ3回、UEFAチャンピオンズリーグ、UEFAヨーロッパリーグと多くのタイトルをもたらしたチェルシーのレジェンドであり、2004-05シーズンにはFWA年間最優秀選手賞に選ばれている。
イングランド代表には1999年にデビューし、106試合29得点を記録。FIFAワールドカップに3回、UEFA欧州選手権に1回出場しており、デイヴィッド・ベッカム、スティーヴン・ジェラードらと共に豪華な中盤を形成したが、タイトルは獲得できず、2010 FIFAワールドカップのドイツ戦ではゴールが誤審によって認められなかったことが有名になっている。
現役引退後は監督としてのキャリアをスタートさせ、2019年には古巣のチェルシーの監督に就任したが、おもわしい成績を残すことができず1年半で解任されている。
1978年6月20日、ロンドン北東部に位置するロンフォードのヘイヴァリング地区に生まれる。父親のフランク・ランパード・シニアはウェストハム・ユナイテッドで500試合以上に出場したレジェンドであり、イングランド代表でも2試合に出場した経歴の持ち主。母方の叔父であるハリー・レドナップもかつてウェストハムで活躍したサッカー選手であり、生粋のフットボール一族で育ったサラブレッドだった。
裕福な家庭で育ち、サッカーのほかクリケットでも地域の代表選手に選ばれるなどスポーツ万能。また150を越えるIQを持ち、エリート校のブレントウッド・スクールに通うなど学業でも優秀な成績を収めていたという。
5歳で地元クラブのヒース・パークへ入団。11歳の時には父親がコーチを務めるウェストハムの下部組織に加入し、天性の才能を磨いていく。1994年にはユースチームに昇格。ちなみにこの頃のハマーズのアカデミーにはランパードの他にリオ・ファーディナンド、ジョー・コール、マイケル・キャリックといった後にプレミアリーグを代表する名プレイヤーに育つ逸材が在籍していた。
1995年、17歳でウェストハム・ユナイテッドとプロ契約を結ぶ。同年10月にはディビジョン1(2部)のスウォンジー・シティーへレンタル移籍。ブライトン&ホーヴ・アルビオン戦でキャリア初ゴールを決めるなど、半年間で公式戦11試合1ゴールとまずまずの結果を残し、1996年1月に復帰。1月31日のコヴェントリー・シティ戦で途中出場によりプレミアリーグデビューを果たしている。
1996-97シーズンは1996年8月17日のアーセナル戦で初めてスタメンとして起用される。ウェストハムでも1年目と比べて出場時間を増やしていたが、1997年3月15日のアストン・ヴィラ戦で足を骨折する重傷を負い、担架で運ばれるアクシデントに見舞われる。このとき、ウェストハムのサポーターから野次を飛ばされたことでサッカーを辞めようかと考えたという。これによってひと足早くシーズンが終了してしまい、公式戦16試合の出場にとどまる。
プロ3年目の1997-98シーズンに才能が開花するようになり、プレミアリーグ開幕戦のバーンズリー戦で交代出場からわずか1分後にこの試合の決勝ゴールを決め、このゴールがプレミアリーグ初ゴールとなった。11月19日、EFLカップのウォルソールFC戦ではプロになってのキャリア初となるハットトリックを記録。中盤のレギュラーの座も手にし、リーグ戦31試合5ゴール、公式戦42試合10ゴールという好成績を残す。一方で監督が叔父のハリー・レドナップ、コーチが父親のランパード・シニアという事情により、サポーターからは「優遇されている」と白い目を向けられてしまうというサラブレッドならではの悩みを抱え、チームの調子が悪い時には批判の対象となっていた。
1998-99シーズンは開幕から主力として定着し、豊富な運動量とタイミングの良い中盤からの飛び出しによるゴール関与はレドナップ監督にとって欠かせないものであった。このシーズンのハマーズはプレミアリーグ創設以降最高順位となる5位で終え、UEFAインタートトカップ出場権を獲得。ランパードもリーグ戦全38試合に出場し、貢献度は高かった。
1999-00シーズンはクラブとの契約を2005年まで延長。1999年7月24日、インタートトカップのヨリケット戦で欧州のコンペディションでの初ゴールを記録。準決勝のヘーレンフェーン戦、決勝のメスFC戦でもゴールを決め、チームの優勝とUEFAカップ出場権獲得に貢献。しかしプレミアリーグが開幕すると、慣れない過密日程に苦しんだチームの成績が低迷。2000年2月のブラッドフォード・シティ戦ではPKを獲得した際にキッカーを巡ってパオロ・ディ・カーニオとキッカーを巡ってボールの取り合いをする一幕があった(チームで決められたキッカーはランパードだった)。公式戦49試合14ゴールという成績で得点数はチーム3位と活躍したが、チームは15位という成績に終わる。
2000-01シーズン、チームは移籍したリオ・ファーディナンドの穴を埋めることができずに低迷。自身はフレデリック・カヌーテ、ディ・カーニオに次ぐ公式戦9ゴールという安定成績を残していたが、成績低迷に加えて不用意な発言がサポーターの不評を買った叔父のレドナップ監督が退任。それに伴い父のシニアもコーチを退任となり、これまでサポーターからの不当な批判に悩まされていたこともあり、自身も環境を変えるため、プロキャリアの7年を過ごしたクラブから離れることを決意する。
2001年6月、同じロンドンを本拠地にするチェルシーFCに移籍金1100万ポンドで移籍することが発表される。新天地でも開幕からクラウディオ・ラニエリ監督の信頼を得ることに成功し、これまでチェルシーの主力を担っていたグスタボ・ポジェを控えに追いやり、すぐに不動の中盤の地位を掴む。2001-02シーズンは移籍1年目ながらプレミアリーグでは9月にキャリア初のレッドカードを貰ったことで出場停止となった1試合に欠場したのみの37試合に出場し、5ゴール2アシストという成績を残す。
2002-03シーズンは2002 FIFAワールドカップのメンバーから落選という悔しさを味わった直後のシーズンとなったが、チェルシーでは絶大な存在感を持った選手に成長していた。開幕戦のチャールトン・アスレティック戦でゴールを決めると、リーグ戦全試合に出場。前年から休むことなく2シーズンで101試合に出場するという鉄人ぶりを発揮していた。
2003年7月、チェルシーはロシアの石油王ロマン・アブラモビッチがオーナーになり、豊富な資金力をバックにチェルシーのビッグクラブ化を推進。大物選手を次々と買い集めた改革を施すが、中心選手としての地位は揺らぐことなく、9月にはプレミアリーグ月間最優秀選手、10月にはPFAファン月間最優秀選手に選ばれるなど好調を維持。ポジションもこれまで一列前で起用されるようになったことで持ち前の得点力にさらに磨きがかかり、プレミアリーグではキャリア初となる二桁得点を記録。チームもこの年に無敗優勝を遂げたアーセナルに次ぐ2位という成績を収め、2シーズン続けて38試合全試合に出場し10ゴール7アシストを記録。UEFAチャンピオンズリーグでも14試合5ゴールを記録し、ベスト4進出に貢献。準決勝のASモナコ戦で敗れはしたが、この試合でもゴールを決めている。
2004-05シーズンよりFCポルトをCL優勝に導いたポルトガルの「スペシャル・ワン」ジョゼ・モウリーニョが監督に就任。強烈な個性を持つ新監督に触発され、ディディエ・ドログバ、アリエン・ロッベンと強力な攻撃陣を構成。2004年8月28日、プレミアリーグ第2節サウサンプトンFC戦でシーズン初ゴールを記録すると、その後も中心選手として大車輪の活躍を披露。モウリーニョ監督が採用する4-3-3において、インサイドハーフとしてプレーするランパードのことを「愛弟子」と称し、攻守両面で多大な影響を与えるキープレイヤーとして絶大な信頼を置いていた。2005年1月15日のトッテナム・ホットスパー戦では2ゴールによって勝利をもたらし、3月19日のクリスタル・パレスFC戦ではパワフルな長距離からのシュートを叩き込む。この年、チェルシーは勝ち点95、得失点差57という驚異的な成績でプレミアリーグを独走。3シーズン連続で全試合に出場し、13ゴール16アシストとキャリアハイを大幅に上回るスタッツを残したことでチームの50年ぶりのリーグ優勝に大きく貢献した。さらにEFLカップでも準決勝のマンチェスター・ユナイテッド戦でゴールを決めるなど二冠獲得にも貢献。これらの功績が認められ、2004年のFWA年間最優秀選手賞とリーグベストイレブンに選ばれる。また、2005年のバロンドール及びFIFA最優秀選手賞ではロナウジーニョに次ぐ2位の得票数を獲得。名実ともにワールドクラスのプレイヤーに飛躍した。
2005-06シーズンはチームの副キャプテンに就任。中盤に無尽蔵のスタミナを持つマイケル・エッシェンが加入したことでより攻撃に出る比重が高くなり、MFながらその得点能力はさらに威力を増す。2004年9月30日のブラックバーン・ローヴァーズ戦では25ヤードの位置からのFKを含む2ゴールを記録。2005年12月28日に病気が理由でマンチェスター・シティ戦を欠場したため連続試合出場記録はストップしたが、2001年から4年間で164試合連続出場という記録はプレミアリーグの新記録となり、まさに「鉄人」ぶりを象徴する記録となった。シーズン通算35試合16ゴール9アシストとゴール数は前年のキャリアハイをさらに更新し、チェルシーのプレミアリーグ連覇に貢献。モウリーニョ監督はその功績を大とし、「世界最高の選手」と称賛を贈った。
2006-07シーズンはキャプテンのジョン・テリーが背中の負傷で長期離脱をしたことから、シーズンの大半でキャプテンマークを巻いて出場していた。CLグループステージのFCバルセロナ戦では非常に角度のない位置からのシュートを決め、引き分けに持ち込む。2007年1月6日、FAカップ3回戦のマカルズフィールド・ユナイテッド戦でチェルシー移籍後初のハットトリックを記録。3月30日の準々決勝トッテナム戦では2ゴールを決め、5月19日の決勝マンチェスター・ユナイテッド戦では延長戦でのドログバの決勝ゴールをアシストし、EFLカップと合わせての国内カップ戦二冠に貢献。プレミアリーグでも11ゴール11アシストと変わらぬ活躍を見せていたが、新加入のアンドリー・シェフチェンコとミヒャエル・バラックが機能しなかったことで三連覇を逃す。
2007-08シーズンはこれまで鉄人として奮闘していた疲労が蓄積したのか、珍しく相次ぐ負傷に悩まされてしまいリーグ戦の出場は24試合にとどまる。2008年2月16日、FAカップ5回戦のハダースフィールド・タウン戦でチェルシーでの100ゴールを記録。2008年3月12日のダービー・カウンティ戦ではキャリア初の1試合4ゴールを達成。シーズン序盤に数々のタイトルをもたらしたモウリーニョ監督が辞任したチームは最後に息を吹き返したもののマンチェスター・ユナイテッドに優勝を譲る形になる。CLではベスト4まで勝ち上がり、4月30日のリヴァプールFC戦ではファイナルに繋がるPKを決めると、このゴールを6日前に亡くなったばかりの母に捧げた。5月21日、ヘルシンキで開催されたマンチェスター・ユナイテッドとの決勝では1点ビハインドを背負った前半終了間際に同点ゴールを決める。その後PK戦でもつれ込み、3人目のキッカーとして成功するが、チームは敗れ、ビッグイヤー獲得をあと一歩で逃している。
2008-09シーズン開幕前にチェルシーと新たに5年契約を結び、プレミアリーグで最高額の給与を受け取る選手となる。開幕からリーグ戦11試合で5ゴールと好調を維持し、10月29日のハル・シティ戦では20ヤードの位置からの左足のチップキックでのスーパーゴールを決める。この年の10月はキャリアで3度目となるプレミアリーグ月間最優秀選手に選出。2009年1月17日、ストーク・シティ戦でチェルシーでの400試合出場を達成し、試合終了間際に決勝ゴールを決める。5月30日、FAカップ優勝のエヴァートン戦では決勝ゴールを決め、このシーズンのチーム唯一のタイトル獲得に貢献。
2009-10シーズンは開幕からこれまで以上のハイペースでゴールを重ね、2009年10月24日のブラックバーン戦で2ゴールを決めるなど活躍。12月20日、古巣であるウェストハム戦では選手が早く動きすぎたことによって蹴りなおしによりPKを3回も蹴る珍事に見舞われるが、3回とも決めている。2010年3月27日のアストン・ヴィラ戦ではキャリアで2度目となる1試合4得点を挙げ、5シーズン連続で公式戦でのゴール数を20に伸ばす。4月25日のストーク・シティ戦では2ゴールを決めたことで、初めてプレミアリーグでのゴール数が20ゴールに到達。5月2日には優勝争いに向けて重要となったプレミアリーグ第37節リヴァプール戦でゴールを決め、貴重な勝ち点3をもたらす。最終節のウィガン・アスレティック戦でもゴールを決め、チームはマンチェスター・ユナイテッドとのレースを制して4シーズンぶり4回目の優勝を決める。最終的に36試合22ゴール16アシストとキャリアハイを大幅に更新する数字を残し、タイトル獲得に大きく貢献。さらにFAカップも制し、シーズンダブルを達成。公式戦27ゴールというMFとは思えないゴール数を残し、31歳にしてキャリアのピークを迎える。
2010-11シーズンは開幕直後にヘルニアを患っていることが発覚し、手術を受けることで数か月戦列を離れる。復帰が近づいた11月中旬のトレーニング中には脚の外転筋を負傷し、再び離脱。結局ほぼ前半戦を欠場することになり、復帰したのは12月12日のトッテナム戦と当初の予定より大幅に遅れることとなった。2011年1月12日のアストン・ヴィラ戦でPKを決め、シーズン初ゴールを記録。流石に連続二桁得点記録は途絶えるかと思われたが、後半戦は本来の調子を取り戻し、例年通りのストライカー顔負けの脅威の得点力を発揮し、最終的に10ゴールまで到達している。
2011-12シーズンは2011年8月27日プレミアリーグ第3節ノリッジ・シティ戦でシーズン初ゴールを含む1ゴール1アシストの活躍を見せる。10月2日のボルトン・ワンダラーズ戦ではチェルシーで5度目となるハットトリックを記録するなど好調を維持。2012年2月25日、ボルトン戦でシーズン10ゴール目を決め、プレミアリーグで初めて9年連続二桁得点を記録した選手となる。一方、チームは前半戦半ばあたりから低迷するようになり、6位に終わる。これに対し、CLではロベルト・ディ・マッテオ新監督のもとで快進撃を見せ、4月12日準決勝、FCバルセロナをホームに迎えた第1戦ではリオネル・メッシからボールを奪い、ドログバの決勝ゴールの起点となる。アウェイでの第2戦では試合序盤にテリーが退場して10人となり、2点を先制された絶望的な状況の中、スルーパスからラミレスのゴールをアシストし、反撃の火ぶたを切る。その後はバルセロナの猛攻を防ぐためにチームを鼓舞しながら守備に専念し、試合終了間際のフェルナンド・トーレスの同点ゴールによって決勝進出を果たす。5月12日、決勝のバイエルン・ミュンヘン戦では出場停止のテリーに代わってキャプテンとして出場。PK戦の末にチェルシーは初のCL優勝を果たし、誰も予想してなかったシーズンで悲願の欧州王者となる。ランパードにとってもようやく味わうことができた悲願達成であり、キャプテンとしてビッグイヤーを掲げる栄誉を手にするのだった。
2012-13シーズンは長年共に攻撃を牽引してきたドログバが退団し、新加入のエデン・アザールが新たにエースとして地位を築いていた。シーズン前半戦に6週間の負傷離脱を経験しながらも、ベテランとして苦戦するチームを牽引。2012年12月にはFIFAクラブワールドカップ2012に出場するが、決勝でコリンチャンスに敗れている。12月23日のアストン・ヴィラ戦でプレミアリーグ通算500試合出場を達成。2013年3月17日、古巣であるウェストハム戦でヘディングによるゴールを決め、プレミアリーグ通算200ゴールに到達。5月11日のアストン・ヴィラ戦で2ゴールを決め、クラブの歴代最多得点記録となる通算203得点を達成。UEFAヨーロッパリーグでは優勝を果たし、決勝でキャプテンを務めていたことから前年のビッグイヤーに続いて欧州の主要カップを掲げることとなる。2013年が契約最終年となっていたことから去就が注目されたが、5月16日に1年間契約を延長し、チェルシーに残留。
ジョゼ・モウリーニョ監督が6年ぶりに復帰した2013-14シーズンは、開幕戦のハル・シティ戦でFKによるゴールを決め、幸先の良いスタートを切る。35歳となり負傷も増え、流石に衰えも見られるようになっていたが、2014年4月2日のCL準々決勝パリ・サンジェルマン戦でCL通算100試合出場を達成。リーグ戦でのゴール数は6ゴールに終わり、10年間続いていたプレミアリーグでの連続二桁得点は途切れることになる。2014 FIFAワールドカップ期間中の6月3日、13年間を過ごしたチェルシーを退団することが発表される。チェルシーでは通算648試合211得点という記録を残している。
2014年7月24日、翌年より新たなにアメリカ・MLSに参入するニューヨーク・シティFCに加入することが発表され、8月3日にMLSが開幕する2015年までの半年間は同グループのマンチェスター・シティにレンタル移籍することが決定する。
2014年9月21日には古巣であるチェルシー戦に途中出場し、貴重な同点ゴールを決める。このとき、古巣への敬意から喜びの表情は見せなかった。シティではレギュラーを確保していたわけではなかったが、負傷者が多かったこともあって貴重な戦力となっていた。2014年12月31日、マヌエル・ペジェグリーノ監督の希望によってレンタル期間を半年間延長し、シーズン終了まで在籍することが決定する。2015年3月15日、バーンリーFC戦でプレミアリーグ600試合出場を達成。5月24日リーグ最終節のサウサンプトンFC戦ではキャプテンとして出場し、通算177ゴール目となるゴールを決める。後半32分に交代し、これがプレミアリーグでの最後の出場となった。
2015年夏に当初よりも半年遅れでアメリカへ渡り、ニューヨーク・シティFCに合流。8月1日、ヤンキース・スタジアムでのモントリオール・インパクト戦で新天地でのデビューを飾る。9月16日のトロントFC戦でMLS初ゴールを記録。チームにはアンドレア・ピルロ、ダビド・ビジャといったスター選手が在籍していたが、イースタン・カンファレンス8位に終わり、プレーオフ進出を逃している。
2016年シーズンは序盤をふくらはぎの負傷で欠場していたが、5月22日のニューヨーク・レッドブルズ戦がシーズン初出場となる。しかし、この試合は0-7というこれまでのキャリアで経験したことのない大敗を喫する。6月18日のフィラデルフィア・ユニオン戦でシーズン初ゴールを決めると調子が上向きになり、7月31日のコロラド・ラピッズ戦でニューヨーク・シティの選手として初めてとなるハットトリックを成し遂げる。MLSでの2年目はレギュラーシーズンで19試合出場13得点3アシストという成績を残し、イースタン・カンファレンスで2位でのMLSカップ・プレーオフ進出に貢献。2016年11月14日、契約満了をもってニューヨーク・シティを退団することが発表される。
2017年2月2日、自身のFacebookで現役を引退することを発表。
1997年にU-18イングランド代表に選出され、同年に飛び級でU-21イングランド代表に選出。11月13日のギリシャ戦でU-21代表デビューを果たす。
1999年10月、フル代表に初めて招集され、10月8日のベルギーとの親善試合に途中出場し、22歳でイングランド代表デビューを果たす。だが、この当時は一介の若手という立ち位置のためその後はしばらく代表に招集されず、U-21代表で中心選手として活躍していた。2000年3月にはルーマニアで開催されたUEFA U-21欧州選手権2000にU-21代表として出場。第2戦のトルコ戦でゴールを決めているが、グループリーグで敗れている。
2001年になって再びフル代表に呼ばれるようになるが、中盤にタレントが揃ったスリーライオンズでなかなかポジションを得られず、目立った活躍もできなかったことから2002 FIFAワールドカップのメンバーからも外れることとなった。
2003年になると、チェルシーでの活躍からコンスタントに試合に出場するようになり、8月20日のクロアチアとの親善試合で代表初ゴールを決める。
2004年6月にポルトガルで開催されたEURO2004ではセンターハーフとしてレギュラーを掴み、グループリーグ初戦のフランス戦ではデイヴィッド・ベッカムのFKをヘディングで合わせて先制ゴールを決める。しかし後半に不用意なバックパスをティエリ・アンリに奪われ、逆転ゴールに繋がるPKを献上することになる。ほろ苦い国際舞台のデビューとなったが、グループリーグ第3戦のクロアチア戦では貴重な追加点を挙げ、グループリーグ突破に貢献。準々決勝のポルトガル戦では延長後半5分にチームの敗退を救う同点ゴールを決める。PK戦でも3人目のキッカーとして成功させるが、チーム惜しくも敗れている。それでも4試合3ゴールという成績を残し、大会の優秀選手に選出され、代表での地位を確立させる。
2004年9月からスタートした2006 FIFAワールドカップ欧州予選ではポール・スコールズが代表から引退したこともあってスティーヴン・ジェラードと共に中盤の核を担う存在となり、10試合5ゴールの活躍によって首位での予選突破に大きく貢献。2003年に続いてイングランド年間最優秀選手に選ばれている。
2006年6月、ドイツで開催された2006 FIFAワールドカップは自身にとって初のワールドカップとなった。この大会のイングランドの中盤はランパードに加えてベッカム、ジェラード、ジョー・コールと大会屈指のタレントが揃い、国民からの期待も大きかった。グループリーグ初戦のパラグアイ戦ではMOMに選出され、全5試合にフル出場。準々決勝のポルトガル戦は10人になりながらもPK戦まで耐え抜くが、PK戦では1人目のキッカーを務めるがこれを失敗。その後もGKリカルドに2人が止められたイングランドはベスト8で敗退となる。大会を通してチェルシーで見せるほどの存在感は見せられなかった。
ワールドカップ終了後のEURO2008予選では、チームと共に低調なプレーが続き、自国サポーターからブーイングを浴びることもあった。結局、予選を通してクロアチア戦の1ゴールのみに終わり、チームも予選敗退で本大会出場を逃している。2009年9月9日、2006 FIFAワールドカップ欧州予選クロアチア戦では2ゴールを決め、イングランドの本大会出場権獲得をもたらす。
2010年6月、南アフリカで開催された2010 FIFAワールドカップに出場。キャリアのピークで迎えたこともあり、大会の主役候補に挙げる声もあったが、前回と同様に似たプレースタイルのジェラードとのコンビの役割が整理されず、チェルシーで見せるような攻撃力が影を潜めていた。ラウンド16のドイツ戦では1点ビハインドで迎えた前半38分にループシュートを放つと、ボールはクロスバーを叩いてゴールラインを割ったかと思えたが、主審はノーゴールを判定。リプレイによって誤審であることが明らかにされるが、判定は覆られなかった。その後、チームはドイツの猛攻の前に1-4で完敗。結局、この大会も全4試合にフル出場したものの、ノーゴールという結果に終わっている。
2011年11月12日、世界王者スペインとの親善試合にキャプテンマークを巻いて出場し、決勝ゴールを決めている。EURO2012では本大会のメンバーに選出されていたが、大会直前の2012年5月31日に太ももの負傷によって大会の欠場が発表される。
2012年9月からの2014 FIFAワールドカップ欧州予選では初戦のモルドバ戦で2ゴールを記録するなど、7試合4ゴールでイングランドの首位通過に貢献。2013年9月10日のウクライナ戦では代表通算100試合出場を達成。一方で代表では最年長となっていたこともあり、スタメンから外れることが多くなっていた。
2014年6月、ブラジルで開催された2014 FIFAワールドカップに出場。しかし、本大会ではジョーダン・ヘンダーソンの控えとなり、グループリーグ最初の2試合では出番が与えられず、イングランドは2連敗で早くも敗退が決定する。消化試合となった第3戦のコスタリカ戦でスタメンとして起用される。若手が多く起用されたメンバー構成でキャプテンを任されたが、0-0の引き分けに終わる。8月26日、代表からの引退を表明。結局、3度出場したワールドカップで一度もゴールを決めることができなかった。
| シーズン | 国 | クラブ | リーグ | 試合 | 得点 |
|---|---|---|---|---|---|
| 1995-96 | ウェストハム | プレミアリーグ | 2 | 0 | |
| スウォンジー | ディビジョン2 | 11 | 1 | ||
| 1996-97 | ウェストハム | プレミアリーグ | 13 | 0 | |
| 1997-98 | ウェストハム | プレミアリーグ | 31 | 5 | |
| 1998-99 | ウェストハム | プレミアリーグ | 38 | 5 | |
| 1999-00 | ウェストハム | プレミアリーグ | 34 | 7 | |
| 2000-01 | ウェストハム | プレミアリーグ | 30 | 7 | |
| 2001-02 | チェルシー | プレミアリーグ | 37 | 5 | |
| 2002-03 | チェルシー | プレミアリーグ | 38 | 6 | |
| 2003-04 | チェルシー | プレミアリーグ | 38 | 10 | |
| 2004-05 | チェルシー | プレミアリーグ | 38 | 13 | |
| 2005-06 | チェルシー | プレミアリーグ | 35 | 16 | |
| 2006-07 | チェルシー | プレミアリーグ | 37 | 11 | |
| 2007-08 | チェルシー | プレミアリーグ | 24 | 10 | |
| 2008-09 | チェルシー | プレミアリーグ | 37 | 12 | |
| 2009-10 | チェルシー | プレミアリーグ | 36 | 22 | |
| 2010-11 | チェルシー | プレミアリーグ | 24 | 10 | |
| 2011-12 | チェルシー | プレミアリーグ | 30 | 11 | |
| 2012-13 | チェルシー | プレミアリーグ | 29 | 15 | |
| 2013-14 | チェルシー | プレミアリーグ | 26 | 6 | |
| 2014-15 | マンチェスター・シティ | プレミアリーグ | 32 | 6 | |
| 2015 | ニューヨーク・シティ | MLS | 10 | 3 | |
| 2016 | ニューヨーク・シティ | MLS | 19 | 12 |
引退後は指導者に転身し、2018年5月31日にEFLチャンピオンシップのダービー・カウンティの監督に就任し、監督としてのキャリアをスタートさせる。公式戦初采配となった8月3日のアウェイのレディング戦では試合終了間際の劇的な決勝ゴールで勝利している。9月25日、EFLカップ3回戦ではジョゼ・モウリーニョ監督率いるマンチェスター・ユナイテッド相手にPK戦の末に金星を挙げる。10月31日の4回戦では古巣であるチェルシーFCとの対戦が実現するが、敗れている。2018-19シーズンのリーグ戦は6位で終え、昇格プレーオフに進出。準決勝でリーズ・ユナイテッドを破って決勝まで進出するが、アストン・ヴィラに敗れて惜しくもプレミアリーグ昇格は果たせなかった。
2019年7月4日、古巣であるプレミアリーグのチェルシーFCの監督に就任。監督としての実績の少なさから不安視する声も挙がったが、チェルシーの女帝と呼ばれたマリーナ・グラノフスカヤのプッシュもあって就任に至った。2019-20シーズン開幕戦のマンチェスター・ユナイテッド戦で0-4と大敗し、厳しい船出となってしまう。それでも補強禁止処分というチーム事情もあってメイソン・マウント、ダミー・エイブラハム、リース・ジェームズといった若手を積極的に起用し、主力として育てることで上位争いに食い込んでいく。最後は大混戦となったCL出場権争いを制し、最終節で4位を確定させノルマであるCL出場権を獲得。
2年目の2020-21シーズンはクラブが総額2億ユーロ以上を費やした大型補強をおこない、前年に育った選手たちと融合させたチーム作りを目指す。前半戦は公式戦17試合無敗を記録し、リーグ戦でも12月5日に暫定首位に浮上するなど安定した戦いを見せていたが、新戦力の適正ポジションをなかなか見出せなかったことで直後に極度の不振に陥ってしまい、監督としての引き出しの少なさが露呈されるようになる。主力との確執、グラノフスカヤとの関係悪化も伝えられるようになり、2021年1月25日に解任となる。
1年間のフリーの期間を経て、2022年1月31日にプレミアリーグのエヴァートンFCの監督に就任。就任時にチームは16位と降格の危機に立たされていたが、就任後も厳しい戦いが続き、第30節終了時点で降格圏に沈んでいた。それでも5月20日に行われた第33節クリスタル・パレス戦で前半に2点取られるも後半にマイケル・キーンとリシャルリソンが試合を振り出しに戻し、キャルバート=ルーウィンが逆転ゴールを決める劇的勝利で残留を決める。
2022-23シーズンもチームは低迷し、11試合でわずか1勝しか挙げられず、2023年1月の時点でリーグ19位と再び降格の危機に立たされていた。オーナーであるファルハド・モシリはランパードの地位は安泰であることを言及したが、1月23日のウェストハム戦に敗れ10試合未勝利となったことで解任となる。
2023年4月16日、2022-23シーズン終了までの暫定監督としてチェルシーFCに2シーズンぶりに復帰。低迷するチームの立て直しを期待されるが、就任後しばらくは連敗が続き、最後の希望となっていたCLでも準々決勝でレアル・マドリードに連敗したことで敗退。結局、指揮を執った11試合で1勝しか挙げることができず、チームは12位とプレミアリーグ発足後ワースト2位の成績に終わる。
2024-25シーズン途中の2024年11月28日、EFLチャンピオンシップのコベントリー・シティの監督に就任。就任時のチームは17位と降格の危機に直面していたが、坂元達裕を主力として重用するなど戦力の見直しをおこない、立て直しに成功。後半戦はいままでの不振が嘘かのような快進撃を見せ、リーグ戦5位まで上昇させることで昇格プレーオフ進出を果たす。しかし、プレーオフ準決勝でサンダーランドAFCに敗れ、プレミアリーグ昇格は果たせなかった。
メインポジションはセントラルミッドフィルダーだが、中盤のセンターであればトップ下でもボランチでもこなすことができた。ボックス・トゥ・ボックス型のMFとして攻守両面で貢献できる選手であり、優れたキック精度とパワー、そしてゴール前への飛び出しのタイミングの良さによるMFとは思えない高い得点能力が最大の特徴だった。
中盤の選手でありながらストライカー顔負けの得点力を有していたのは、優れたポジショニングセンスと状況判断能力、さらにはシュートチャンスに「そこ」にいる運動量の持ち主だったからである。ボールがどこに落ちるかを的確に予測し、相手ディフェンスの間に入り込む動きが秀逸であり、特にゴール前でのこぼれ球への反応は素早く、シュートチャンスを逃さなかった。絶妙なタイミングで前線へ飛び込む姿はチェルシーで長く攻撃陣の黄金パターンとされてきた。なお、同タイプとされたスティーヴン・ジェラードと比べてもよりフィニッシャーに特化したタイプだった。
ミドルシュートの精度と積極性も彼の得点力を支える重要な要素だった。ボールコントロールが巧みで、正確無比かつパワフルなミドルシュートを得意としており、「ランパード砲」と称されるほど彼のミドルシュートは代名詞的な存在となっていた。また、FKからも多くのゴールを記録した選手でもあり、パワーと精度のバランスが取れていたことが特徴的だった。壁を越えた後に急激に落ちる軌道を描くシュートが多かったが、低弾道でゴールの隅を狙うシュートも得意としており、状況に応じて蹴り分けることができた。
正確なパスと冷静なゲームメイク能力を持ち、中盤の組み立てにも大きく関与し、ゴールのみならずアシストでもシーズン二桁を記録することもあった。キャリアの晩年はアンカーとして低い位置からのゲームメイクを担当したこともあった。味方の選手に合わせるキックも正確だった。セットプレーからのアシストも多かった。
タフでメンタルも強かったため90分間ハードワークをこなすことができ、守備面ではチームのバランスを保つ動きを意識しながらボールホルダーにプレッシャーをかけるタイプだった。ただし、攻撃的な役割を求められるため、守備面でのバランスが崩れやすくなるというリスクもあり、最大限に力を発揮するには、守備的MFとのバランスが不可欠だった。そのため、代表では同じタイプのジェラードとコンビを組んだことで守備の負担が軽減されず、持ち前の攻撃力が最大限には活かされなかった。
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最終更新:2025/12/05(金) 21:00
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