鈴木隆行 単語


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スズキタカユキ

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鈴木隆行すずたかゆき1976年6月5日 - )とは、日本の元サッカー選手である。
サッカー日本代表

現役時代のポジションはFW。182cm75kg。利き足は左足。

概要

茨城県日立市出身。1995年鹿島アントラーズに入団。プロ入り後、しばらくの間は不遇の日々を過ごしていたが、2000年鹿島三冠獲得に大きく貢献したことでブレイク2001年日本代表に選出され、FIFAコンフェデレーションズカップ2001で活躍。2002 FIFAワールドカップメンバー入りを果たし、ベルギー戦で日本の初めての勝ち点獲得に繋がる重な同点ゴールを決めている。

ベルギー戦での活躍から海外移籍を果たし、2011年水戸ホーリーホックへ入団した際は東日本大震災によって経営が苦しいチーム事情を考慮して報酬のアマチュア契約を自ら直訴するという男気を見せる。2015年12月に現役を引退引退後はサッカースクールを開校し、子供たちにサッカーを教えている。

ポジションはFWだが、FWであるにも関わらず長期間ゴールがなかった事からDFWと揶揄されていた。"ノーゴール師匠"や"鈴木師匠"と呼ばれるようになってしまったが、フィジカルの高さを生かしたポストプレー前線での献身的なプレイ、そしてあの2002年W杯ベルギー戦で挙げたゴールもあり、彼を"師匠"と呼ぶ際は賛辞・尊敬の念で使う者の方が現在は多いようだ。

甘い顔立ちからシンデレラボーイと呼ばれているが、顔に似合わず泥臭いプレイを好む方で何度倒されても立ち上がり、気迫あふれるプレイを見せる。一方で、玉田ゴールを奪う『ゴール』や弾丸シュートアコーディオンカーテン、巧みな演技力(?)、野球観戦など数々の試合インパクトを与えている。

経歴

生い立ち

1976年6月5日茨城県日立市で生まれる。父親学生社会人サッカーをやっており、幼い頃から父親の実業団の試合を見に行っていたで物ごころつくまえからサッカーが好きになり、父親からもサッカーを教え込まれていた。当時テレビ東京で放送されていた「三菱ダイヤモンドサッカー」を見て海外サッカー興味を持っており、子供の頃からプロサッカー選手になることがだった。

小学校3年生のときに通っていた小学校サッカーチームに入る。当時は体は小さいほうだったが、ポジションはFWだった。エースとしてゴールを量産していたが、周りにパスを出さなかったことから母親からも注意されていたという。日立市の選抜にも入り、全日少年サッカー大会に出場しベスト4まで進出。準決勝で西澤明訓がいた清水FCに敗れている。

中学校日立市中学校に進学し、サッカー部へ入部。この頃身体が急に成長し、2年生のときには180cm近くになっていた。フィジカルで何でもできてしまうようになっていた。中学での3年間は全大会には出場できなかったが、関東選抜に選ばれるなど頭を現していた。ちなみにこの関東選抜には中田英寿も選出されていた。

高校は強校からも誘われていたが、校である日立工業高校に進学。日立工業のサッカー部には有名な監督がいたものの高齢になっていたことからキャプテンとなった3年生のときには鈴木練習メニューを考えていた。本人は1年生のときに国体茨城県選抜に入り、力として国体ベスト4進出を果たす。そこでの活躍から世代別の日本代表に選出されるなど全区の選手となっており、2年生のときに鹿島アントラーズからオファーを受け、他にも浦和レッズジェフ市原からもオファーが届いていた。

鹿島アントラーズ / レンタル移籍

1995年Jリーグ鹿島アントラーズに入団。決めてとなったのは高校生のときに鹿島から招待された試合ジーコヒールキックでのゴールを見たことだという。しかし、日本代表や現役のブラジル代表が名を連ねたチームで技術不足を露呈し、試合に出場することが困難となっていた。

1996年10月16日Jリーグ第24節柏レイソル戦で途中出場し、プロ2年Jリーグデビューを果たす。だが、公式戦に出場できたのはこの試合のみであり、サテライトで過ごす日々が続いていた。

1997年3月ジーコが出資し設立したブラジルリオデジャネイロリーグ3部CFZ・ド・リオに半年間のレンタルで移籍する。これまでの人生でもっとも過酷な時期だったというほど恵まれない環境だったが、ここで21試合7ゴールという成績を残し、チームの2部昇格に貢献する。ちなみに昇格が決まった試合で自らPKを決め、試合が終わるとすぐに空港へ向かい、日本へ帰ったという。

1998年シーズン鹿島に復帰。3月31日Jリーグ開幕戦のアビスパ福岡戦で途中出場し、後半44分にJリーグゴールを決める。しかし当時の鹿島のFWはマジーニョ、柳沢敦長谷川祥之、眞中靖夫とタレントっていたことからやはり出場機会に恵まれなかった。

1998年10月、出場機会を得るためにジェフユナイテッド市原レンタル移籍。11月26日アビスパ福岡とのJ1参入決定戦では重な先制ゴールを決め、チームJ1リーグ残留の立役者となる。

1999年2月、再びリオデジャネイロ州2部のCFZ・ド・リオレンタル移籍するが、5試合0ゴールに終わる。8月下旬に鹿島に復帰。ナビスコカップでは準決勝の2試合にスタメンで起用され、決勝の戦でも途中出場し、PK戦では2人キッカーを務めるがこれを失敗。一方、リーグ戦では相変わらず出場機会を得られず、1試合のみの出場となった。

2000年シーズンよりJ1リーグに昇格したばかりの川崎フロンターレレンタル移籍。リーグ戦11試合に出場したもののゴールは奪えず、チームもうまくいかない中、ミーティングでチーム内に溜まっていた不満を代弁したことで出場機会を失い、最終的には戦力外扱いとなっていた。

2000年8月川崎とのレンタル契約打ち切り、当時FWが不足していたチーム事情もあって鹿島に復帰。復帰してすぐの8月30日ナビスコカップ準々決勝横浜F・マリノスとの第1戦でスタメンに抜され、同点ゴールを決める。9月6日の第2戦でもゴールを決めるとトニーニョ・セレーゾ監督の信頼を得てレギュラーを獲得。ナビスコカップでは5試合3得点記録し、鹿島優勝に貢献し、ニューヒーロー賞にも選ばれる。リーグ戦でも重な働きを見せ、12月9日横浜FMとのJリーグチャンピオンシップ第2戦では先制ゴールを決める。2001年元旦天皇杯決勝の清水エスパルス戦では勝ち越しゴールを決める。鹿島復帰後の半年間の公式戦で15試合7ゴール記録し、大事な局面で重要な働きを見せ、鹿島三冠獲得に欠かせない重要なピースとなった。この半年間が鈴木サッカー人生を大きく変える転機となった。

2001年柳沢との2トップレギュラーを掴み、3月11日J1リーグ開幕戦サンフレッチェ広島戦でチームシーズン最初となるゴールを決める。5月には日本代表に選出されるなど、さらに飛躍を果たし、ゴール数は少ないものの前線からの献身的な動きやフィジカルの強さ、ボールキープチームを助けるいぶし銀の働きを見せる。10月31日アビスパ福岡戦ではJリーグでは初めて1試合2ゴール記録。自身にとっては初めて1年を通して力として試合に出続けたシーズンでもあり、26試合6得点という成績で鹿島リーグ連覇に貢献。

2002年シーズン開幕からワールドカップによる中断期間まで8試合ノーゴールが続いていた。

ヘンク

2002年7月2002 FIFAワールドカップベルギー代表相手にゴールを決めたことが評価され、ベルギー・ジュピラーリーガのKRCヘンクに1年間の期限付きで移籍。ヘンクではUEFAチャンピオンズリーグ出場を経験しアシスト記録したが、FWのポジションには絶対的エースのヴェスレイ・ソンクがいたため慣れない右ウイングでの起用が多く、次第に出場機会も減ってしまい公式戦21試合0ゴールと不本意な成績に終わる。

ゾルダー

2003年7月に一度鹿島に復帰し4試合に出場するが、同年8月にヘンクと提携を結んでいるジュピラーリーガのヒュースデン=ゾルダーに翌年6月末まで期限付き移籍。ゾルダーではFWとして出場機会を得ることができ、2003年9月26日アンデルレヒト戦で欧州移籍後初ゴールを決める。その後もまずまずのプレーを見せ、公式戦34試合7ゴールという成績を残す。しかし、チームの成績は低迷し、2部降格が決定。そのため、契約満了によって退団することになる。

鹿島アントラーズ

2004年8月、保有先である鹿島アントラーズに復帰。J1リーグ2ndステージ第5節ジュビロ磐田戦では自身プロキャリア初となるハットトリックを達成。半年間で17試合5得点という成績を残す。

2005年小笠原満男に代わってチームの選手会長に就任。3月5日J1リーグ開幕戦浦和レッズ戦で決勝ゴールを決め、開幕戦勝利に貢献する。5月14日アルビレックス新潟戦でシーズン2ゴール記録するが、その後ゴールから遠ざかり、負傷離脱中に野沢拓也アレックス・ミネイロの2トップチームファーストチョイスに定着するようになり、2ndステージ途中からレギュラーから外れるようになる。25試合3得点という不本意な成績に終わり、シーズン終了後に10年間所属した鹿島を退団する。

レッドスター

2006年1月末、セルビアモンテネグロ プルヴァ・リーガの名門レッドスター・ベオグラード全移籍する。加入からしばらくは満足な出場時間を得られずにいたが、4月カップ戦の準決勝ではアウェーでのラドニチュキ・ニシュ戦で初の先発フル出場、移籍後の公式得点を含む2得点を挙げる。しかしリーグ戦では結局ゴールを決めることができず、6試合0得点に終わる。

2006-07シーズンチームの構想から外れ、1年よりもさらに出場機会が減。カップ戦で2試合に出場したのみとなっていた。

横浜F・マリノス

2007年1月18日J1リーグ横浜F・マリノス全移籍。移籍した久保竜彦を埋める活躍を期待されていたが、開幕から数試合は出場したものの、その後は試合出場はおろか、ベンメンバー入りすらできない不本意なシーズンとなった。シーズン終了後、東京ヴェルディMLSチーバスUSAと交渉するがいずれも契約面で折り合わず、契約には至らなかった。

ポートランド・ティンバーズ

2008年3月25日アメリカユナテッドサッカーリーグ(USL)のポートランドティンバーズへの加入が発表される。4月26日シアトル・サウンダーズ戦では1ゴール1アシスト記録

ポートランドでは3シーズンを過ごし、ゴール数こそ少なかったものの出場機会は得ることができ、クラブからの信頼を得られていた。クラブが翌シーズンからのMLS参入を控えた2010年末に退団。この段階で鈴木は現役引退を決意し、ポートランドからのコーチ就任のオファーを受けるつもりだった。しかし、2011年3月に一時帰した際に東日本大震災に直面し、故郷である茨城県が大きな被害を受けたことで再び現役を続けようと考える。

水戸ホーリーホック

2011年6月3日J2リーグ水戸ホーリーホックへの加入が発表。さらに「震災が起きて、非常に経営も苦しいということを聞いていた。チームに迷惑をかけないように加入したかった」という理由で自ら志願しての報酬のアマチュア契約であることが明かされる。7月31日愛媛FC戦でヘディンシュートを決め、6年ぶりのJリーグでのゴール記録する。8月14日第24節徳島ヴォルティス戦ではプロになってからは初めてとなるFKからの直接ゴールを決め、話題となる。移籍1年は20試合5得点記録

2012年シーズンよりプロ契約に移行。3月17日J2リーグ第3節ファジアーノ岡山戦で2ゴールを決め、勝利に貢献。4月22日ザスパ草津戦で退場となるが、36歳となりながらも試合に出場し続けチームを牽引。ゴール数こそ4ゴールにとどまったものの、36試合に出場している。

2013年は開幕から好調ぶりを見せ、3月10日J2第2節カターレ富山戦でシーズンゴールを決めると、3月17日第3節ガイナーレ鳥取戦で2試合連続ゴール記録6月15日、第19節ガンバ大阪戦で2度の警告によって退場となると、出場停止処分の解けた6月29日の第21節モンテディオ山形戦で一発退場となり、今度は2試合の出場停止処分を受ける。9月1日、第32節山形戦でゴールを決め、37歳にしてキャリア初となるシーズン二桁得点を達成。このシーズンは出場停止となった3試合以外の全ての試合に出場するタフネスぶりを発揮し、キャリアハイとなる12得点記録

2014年は柱哲二監督三島と新加入の馬場賢治をレギュラーの2トップとして起用したことから途中出場が中心となり、前年よりも出場時間が減。7月20日、第22節ザスパ草津戦でスタメンで起用されると、シーズンゴールを含む2ゴールの活躍を見せる。その後もレギュラー奪回とはならず、33試合3得点という成績に終わる。シーズン終了後、クラブから戦力外を通告され退団。

ジェフユナイテッド千葉

2015年2月J2リーグジェフユナイテッド千葉市原に移籍することが発表される。1998年に短期間所属して以来の加入となったが、6月6日北海道コンサドーレ札幌戦に途中出場して以降はコンディションの問題もあってベンチに入ることすらできず、1年間で2試合わずか8分間の出場に終わる。シーズン終了後の12月2日、現役引退を表明。

日本代表

2001年4月フィリップ・トルシエ監督鹿島での活躍が認められ、初めて日本代表に招集される。4月25日スペインとの試合の終盤に途中出場し、24歳で日本代表デビューを飾る。5月日本韓国で開催されたFIFAコンフェデレーションズカップ2001メンバーにも入り、初戦のカナダ戦に途中出場すると、第2戦のカメルーン戦でスタメンに抜される。トルシエ監督が「を見て決めた」という大抜に対して代表初ゴールを含めた2ゴールの大活躍を見せる。準決勝のオーストラリア戦では肘打ちによって退場となったが、日本の準優勝に貢献。この大会の活躍によって代表に定着するようになり、トルシエ監督からはフィジカルの強さと献身的なプレーが認められ、コンスタント試合に出場していた。

2002年6月日本韓国で開催された2002 FIFAワールドカップメンバーに選出される。高原直泰エコノミークラス症候群によって選出されなかったこともあり、グループリーグ初戦のベルギー戦では柳沢敦との2トップでスタメンとして起用される。1点を先制された直後の後半14分小野伸二からのパスに反応すると懸命に足を伸ばしてつま先で触ったシュートを決める。このゴール日本に初めての勝ち点1をもたらす値千金の重なゴールとなり、現在でも語り継がれるゴールとなった。その後、ロシア戦とチュニジア戦でもスタメンで出場。ラウンド16のトルコ戦は途中出場となったが、日本の初の決勝トーナメント進出の立役者の一人となった。

ジーコ監督が就任して以降の日本代表でも常連メンバーとして呼ばれ続け、2004年2月スタートした2006 FIFAワールドカップアジア一次予選ではケガで不調の久保竜彦に代わりジーコ監督に「FWの軸」として名され、3戦連続ゴールを決めるなど活躍。7月中国で開催されたAFCアジアカップ2004では全試合にスタメンとして出場。ゴールこそ準々決勝のヨルダン戦の1ゴールのみだったが、ゴール前でファウルを誘い、中村俊輔のFKの場面を作る汚れ役として機し、日本の連覇に貢献した。

2005年2月からの2006 FIFAワールドカップ アジア最終予選では前半戦の3試合にスタメンとして出場したが、右足首の負傷や所属する鹿島で出場機会が減ってしまったこと、さらには救世主的な活躍を見せた大将志の台頭によって序列が低下してしまう。結局、2005年10月12日ウクライナ戦が代表での最後の出場となり、2006 FIFAワールドカップ本大会では同タイプの巻一郎サプライズ選出され、メンバー外となった。

日本代表通算55試合11得点

個人成績

シーズン クラブ リーグ 試合 得点
1995 鹿島アントラーズ Jリーグ 0 0
1996 鹿島アントラーズ Jリーグ 1 0
1997 鹿島アントラーズ Jリーグ 0 0
CFZド・リオ(loan) リオデジャネイロ3部 21 7
1998 鹿島アントラーズ Jリーグ 3 1
ジェフユナイテッド市原(loan) Jリーグ 7 0
1999 CFZド・リオ(loan) リオデジャネイロ州2部 5 0
鹿島アントラーズ J1リーグ 1 0
2000 川崎フロンターレ(loan) J1リーグ 11 0
鹿島アントラーズ J1リーグ 5 2
2001 鹿島アントラーズ J1リーグ 26 6
2002 鹿島アントラーズ J1リーグ 8 0
2002-03 ヘンク(loan) ジュピラー・リーガ 19 0
2003 鹿島アントラーズ J1リーグ 4 0
2003-04 ゾルダー(loan) ジュピラー・リーガ 30 5
2004 鹿島アントラーズ J1リーグ 14 5
2005 鹿島アントラーズ J1リーグ 25 3
2005-06 レッドスター プルヴァ・リーガ 6 0
2006-07 レッドスター プルヴァ・リーガ 0 0
2007 横浜F・マリノス J1リーグ 3 0
2008 ポートランドティンバー USL 26 1
2009 ポートランドティンバー USL 27 2
2010 ポートランドティンバー USL 24 1
2011 水戸ホーリーホック J2リーグ 20 5
2012 水戸ホーリーホック J2リーグ 36 4
2013 水戸ホーリーホック J2リーグ 37 12
2014 水戸ホーリーホック J2リーグ 33 3
2015 ジェフユナイテッド千葉 J2リーグ 2 0

個人タイトル

引退後

引退後はサッカー解説者少年サッカーを中心とするサッカー導者として活動。

2018年1月13日ケーズデンキスタジアム水戸引退試合を開催。2002年日韓ワールドカップメンバー中心の「SUZUKI FRIENDS」と水戸ホーリーホックの現役選手・OB中心の「MITO SELECTIONS」が対戦した。

2018年5月17日JFA 認S級ライセンスを取得。

2021年に「UNBRANDED WOLVES SOCCER SCHOOL」を開校し、自ら子供たちを導している。

2022年より茨城県女子サッカークラブであるFC QOL MITO CIRUELAのトップチームドバイザーに就任。

プレースタイル

50m/5.9という俊足と外国人相手でも当たり負けしないフィジカルの強さが持ち味のストライカー。「DFW」(ディフェンシブ・フォワード)と呼ばれるほど、相手をしつこく追い回す献身的な守備やポストプレーで次の展開を作り、上手くファウルを貰ってセットプレーに繋げるかき役として、トニーニョ・セレーゾ監督フィリップ・トルシエ監督から高く評価されていた。

ゴールパターン2002 FIFAワールドカップのようにがむしゃらボールを追いかけてゴールを決める、泥臭いものが多く、中山雅史岡崎慎司の系譜と言える。チームのために常に全力でプレーをし、身体をり、味方のためにスペースを作る。試合中はオフ・ザ・ボールでの動きを重視し、良いポジションを取って次のプレーのために準備をしていた。

ゴール数はお世辞にも多いとは言えず、シーズンで二桁得点記録したのはキャリア晩年の一度のみ。それでもここぞという大舞台での勝負強さがあり、思わぬところでゴールを決める。一方でトラップやパス、シュートなどの技術レベルはさほど高くなく、チームのために一生懸命に動いて力を使いすぎることが決定力不足に繋がっていたとも言われている。

師匠と呼ばれる理由

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