松井大輔(まつい だいすけ、1981年5月11日 - )とは、日本の元サッカー選手、指導者である。
元サッカー日本代表。
現役時代のポジションはMF、FW。175cm66kg。利き足は右足。
京都府京都市山科区出身。高いテクニックを駆使したトリッキーなドリブルが持ち味のアタッカーであり、若手時代はファンタジスタとして注目されたが、フランスへ移籍した後は攻守に献身的に振る舞うサイドアタッカーとなっている。
2003年6月22日のコロンビア戦で日本代表デビューを果たし、なかなか代表で定位置を掴めずにいたが、2010 FIFAワールドカップでは右サイドハーフのレギュラーに抜擢。初戦のカメルーン戦では本田圭佑の決勝ゴールをアシストし、その後も大久保嘉人と共に限界までサイドを走り抜くことで日本のベスト16進出に貢献した。
鹿児島実業高校を卒業後、2000年に京都に入団しプロサッカー選手としてのキャリアをスタートさせた。京都時代には2002年に黒部光昭、朴智星らとともに破壊力抜群の攻撃的なサッカーを展開し、同年度の天皇杯優勝に貢献している。今や世界的な選手となった朴智星とは今も頻繁に連絡を取っているという。2004年のアテネオリンピックではU-23日本代表の背番号10を背負い、同年京都からフランスのル・マンへレンタル移籍をする。
ル・マンは当初リーグ・ドゥの中位だったが、松井の加入後に一気に1部昇格圏の2位にまで浮上し、その中心となって活躍した松井は『le soleil du Mans(ル・マンの太陽)』と呼ばれた。その後はロシア、ブルガリア、ポーランド、ベトナムでプレーし、キャリア晩年ではフットサルとプロサッカー選手の二刀流をおこなったことで話題となった。
1981年5月11日、京都市山科区で姉が二人いる末っ子として生まれる。幼い頃からスポーツに触れる環境にあったらしく、小学校3年生のときに大宅サッカースポーツ少年団に入部しサッカーを始める。当時、チームは京都府内でも有数の強豪であり、京都府選抜、関西選抜などにも選ばれるなど当時から京都府内では名の知れた選手となり、才能を開花させていた。
中学は京都市立大宅中学校に入学するが、所属するサッカー部が弱かったことから3年への進級と同時に安アパートへ移り住み、関西選抜などでも監督を務めた牧戸万佐夫氏が在籍する京都市立藤森中学校に転校。この頃、フランスの名門パリ・サンジェルマンの練習に参加し、海外への留学を希望するも父親の説得によって断念する。
高校は親元を離れ、全国的な強豪校である鹿児島実業高校に進学。365日が地獄という厳しい環境に身を置くことになるが、2年生の頃にはレギュラーを獲得。3年生時の第78回全国高校選手権では同級生の那須大亮、1つ後輩の田原豊と共に活躍。特に田原との2トップは大会屈指のタレントとして注目を集め、決勝で市立船橋に敗れたものの準優勝という成績を残している。
2000年、J1リーグの京都パープルサンガに入団し、プロとしてのキャリアをスタート。高校3年生時、複数のJリーグクラブから獲得オファーを受けたが、当時憧れの選手である三浦知良が在籍していたことを理由に京都を選んだ。3月18日、1stステージ第2節セレッソ大阪戦に途中出場し、Jリーグデビューを果たす。4月に入るとスタメンとして起用されるようになり、4月15日1stステージ第7節川崎フロンターレ戦でプロ初ゴールを記録。夏場にサブに降格したが、シーズン終盤にはレギュラーに返り咲き、プロ1年目ながらも22試合2得点という成績を残す。しかし、チームは16チーム中15位となり、J2リーグ降格となる。
2001年より背番号10が与えられ、クラブから大きな期待を寄せられる。開幕から4試合連続でスタメンを飾るが、結果を残せず途中出場が中心となる。それでも途中出場から流れを変える役割を与えられ、6月23日J2第16節ヴァンフォーレ甲府戦でシーズン初ゴールを記録。第26節から第28節まで3試合連続ゴールを決めるなど調子を上げ、再びレギュラーに定着。黒部光昭、朴智星と共に強力な攻撃陣を形成するようになり、左サイドハーフとして自慢のテクニックを存分に発揮するようになっていた。リーグ戦37試合7ゴールという結果を残し、J2リーグ優勝と1年でのJ1リーグ復帰に貢献する。
2002年は黒部、朴智星と共に強力な3トップを形成し、J1リーグで快進撃を見せるようになる。終盤戦になって1か月ほど怪我で戦列を離れたが、左ウイングとして攻撃に変化を加え、チーム最高順位となる年間5位という大躍進に貢献。また、この年の天皇杯では12月28日の準決勝サンフレッチェ広島戦で2ゴールを決め、チームをファイナル進出へと導く。決勝では鹿島アントラーズを破り、クラブ創設以来初となるタイトル獲得に貢献する。
2003年は朴智星の移籍、黒部の負傷という問題に直面し、チームは低迷。自身も厳しいマークや負担の大きさに苦しみ、前年ほどの輝きを見せられなくなっていた。結局年間最下位に終わり、2度目のJ2リーグ降格という悔しさを味わう。
2004年は開幕から出遅れたものの、なかなか調子が上がらないチームの中で孤軍奮闘していた。だが、9月に念願だった海外移籍が実現したことで退団する。
2004年9月1日、フランス リーグ・ドゥのル・マンUCにレンタル移籍することが発表される。加入後すぐにスタメンに定着すると、激しいフィジカルコンタクトの洗礼を受けるが、4-3-3の左ウイングを定位置としてリズム感あふれたドリブルや精度の高いパス、トリッキーなスタイルが現地サポーターを虜にし、いつしか『le soleil du Mans (ル・マンの太陽) 』と呼ばれるようになる。松井の加入後、ル・マンは2部の中位から一気に1部昇格圏の2位にまで浮上し、リーグ・アン昇格の立役者となる。
リーグ・アン初挑戦となった2005-06シーズンより完全移籍に移行。開幕戦となったオリンピック・リヨン戦では先制ゴールをアシスト。第12節のRCストラスブール戦では25mほどの位置からボレーで合わせた鮮やかなミドルシュートを決め、リーグ・アン初ゴールを記録。この試合では1アシストも記録する活躍ぶりでフランス・フットボール誌による週間ベストイレブンに選出されている。2006年1月のトロワAC戦では移籍後初の2ゴールを記録するなど好調を維持し、リーグ・アンの月間MVPに選出される。リーグ・アンの初年度は3ゴールに加え、リーグ3位となる8アシストを記録。ル・マンの11位でのリーグ・アン残留に大きく貢献する。
2006-07シーズンは初戦のニース戦でアシストを記録するが、持病である腰痛の影響で前半戦のほとんどの試合を欠場する。復帰戦となった2007年1月のトロワ戦で2ゴールを記録するが、腰痛の影響によって思ったようなプレーができず、ベンチ入りや途中交代する試合の数が増え始め、3月3日のナンシー戦でメンバー外になるなど6試合連続で欠場する。それでも、シーズン終盤戦になると腰の状態が上向きになったこともあり復調。セカンドトップで起用されたこともあり、最後の4試合は2ゴール1アシストを記録。苦しいシーズンとなったものの、逆境を乗り越え、選手として一皮むけたシーズンとなった。
2007-08シーズン、フレデリック・アンツ監督が退任し、後任にリュディ・ガルシア監督が就任。新監督のもとでも松井は信頼を勝ち取り、第2節で早々とアシストを記録するなど好調を維持。リーグ・アン第5節のASモナコ戦では芸術的なジャンピング・バックヒールシュートを決める。このゴールは現地のテレビ解説者に「天才的!」といわしめ、月間ベストゴールに選出。さらに、フランスの全国プロサッカー選手連合とCanal+が共同で選定するリーグ・アンでのシーズンベスト5ゴールに選ばれる。その後もチームのチャンスメーカーとして攻撃陣を牽引し、リーグ・カップの準々決勝ではリヨンを撃破するゴールを決め、チームをベスト4へと導く。1年間大きなケガもなく安定して出場を続け、リーグ戦34試合に出場し5ゴールを記録し、ル・マンを悲願のトップ10入りとなる9位でのフィニッシュに大きく貢献。この活躍ぶりからステップアップの話が浮上するようになり、本人もル・マンではやり切ったと感じていたことから契約を更新せず、新天地へ向かうことを決意する。
2008-09シーズンよりリーグ・アンの古豪ASサンテティエンヌに3年契約で移籍する。シーズン序盤は充分に起用されなかったものの、シーズン途中に監督が交代すると徐々に出場機会を増やしていく。だが、与えられた出場時間でル・マン時代のような輝きを放つことができず、フロント内の揉め事などゴダゴダがあったことでチーム状態が予想以上に悪かったこともあり、スタメンに定着できないまま22試合1得点と不本意な結果に終わる。
2009年6月、日本のインデックス社が出資し、祖母井秀隆がGMを務めるリーグ・アンのグルノーブル・フット38に移籍。2010 FIFAワールドカップ出場を目指すため出場機会を求めての移籍だったが、チームはフランスリーグ史上初となる開幕11連敗を喫するなどお世辞にもトップリーグレベルのチームではなかった。リーグ・アンの実績ではチームトップクラスの松井は29試合4得点と孤軍奮闘していたが、もはやどうにかなるレベルではなく、残り6試合を残してリーグ・ドゥ降格が決まる。
2010-11シーズンは先のワールドカップでの活躍から2010 FIFAワールドカップでの活躍により強豪スポルティングCPなど相当数の欧州クラブが触手を伸ばしたと言われるが交渉がまとまらず、移籍期間終了間際になってロシア・プレミアリーグのFCトム・トムスクに2010年末までの期限付きでの加入が決定。しかし、欠場も多く目立った活躍もないままレンタル期間を終える。
2011年1月より保有先のグルノーブルに復帰するが、チームはまさかのリーグ・ドゥ最下位に終わり、3部リーグへの降格が決定。さらに、グルノーブルが経営難により、プロ選手との契約ができない4部リーグへの2段階降格が決まったことで、フリートランスファーでの移籍が可能となる。
2011年7月27日、リーグ・アンに復帰したばかりのディジョンFOCに2年契約で完全移籍し、2年ぶりにリーグ・アン復帰となる。しかし、左足首の負傷と移籍を希望したはずのパトリス・カルテロン監督との確執からほとんど出場機会に恵まれず、リーグ戦の出場はわずか3試合に留まりチームもリーグ・ドゥに降格。1シーズンでの出場時間はわずか137分間となった。
2012年9月11日、ブルガリアプロサッカーリーグのPFCスラビア・ソフィアへの移籍が決定。しかし、怪我の多さが響きリーグ戦の出場は11試合、フル出場は4試合のみに留まり、2012-13シーズン終了後に退団。2013年6月16日、国立競技場で開催された東日本大震災復興支援 2013Jリーグスペシャルマッチにゲストプレイヤーとして出場し、同点ゴールを決める。
国内復帰も噂されたが、2013年7月13日にポーランド・エクストラクラサのレヒア・グダニスクへ移籍。7月22日、開幕戦のポドベスキジェ戦でスタメン出場し2ゴールを決め、監督やチームメイトからの信頼を得る。グダニスクではベテランとして若手にアドバイスしたり、自分の意見も通せたりと「王様になりながらやれた」というほど久々に満足のいくプレーができたが、もう一度日本でプレーをしたいと言う気持ちから半年で退団する。
2013年12月24日、J1リーグからJ2リーグに降格したジュビロ磐田のオファーを受け、10年ぶりに日本復帰を決める。開幕当初はゲームキャプテンを任され、2014年3月16日のJ2第3節ロアッソ熊本戦で移籍後初ゴールを決める。その後も途中交代が多いもののレギュラーとして試合に出場し続けたが、なかなか調子が上がり切らないクラブは9月にシャムスカ監督を解任し、名波浩が監督に就任。すると、名波監督の意向によってゲームキャプテンを前田遼一に譲る形になる。10月11日第36節FC岐阜戦では2ゴールを決めるが、J1昇格プレーオフでモンテディオ山形に敗れ、1年でのJ1復帰を逃す。
2015年はスタメンとしての出場は減ったが、スーパーサブとして重宝されており、試合途中から流れを変える役割を担っていた。名波監督から「裏キャプテン」と称されるように限られた出場時間ながらもチームを支え、2位でのJ1昇格に貢献する。
13年ぶりにJ1リーグの舞台に立った2016年シーズンだったが、出場機会は前年よりも激減。ルヴァンカップの甲府戦でゴールを決めたものの、リーグ戦では16試合ノーゴールに終わる。
2017年も前年と同様にレギュラーを掴めず、さらに苦しいシーズンとなったが、裏方としてチームを支える姿勢が評価されていた。「磐田で引退」を提案されるなどクラブからの信頼も厚かったが、本人は現役を続行し、再び海外でプレーすることを選択する。
半年以上のフリーの期間を経て、2017年8月2日にIリガ(ポーランド2部)のオードラ・オポーレへ移籍することが決まり、36歳にして再び海外でプレーすることとなる。しかし、出場したのはわずか4試合にとどまり、わずか半年で退団。
2018年1月22日、J2リーグの横浜FCに移籍することが発表される。2000年以来のチームメイトとなった三浦知良と共にコンスタントにベンチ入りしたが、出場したのはわずか9試合にとどまる。
2019年、J2リーグ第3節モンテディオ山形戦ではスタメンとして出場するが、なんと小学生以来というセンターバックとしての起用、後半からはサイドバックとしてプレーし話題となる。7月10日に行われた天皇杯2回戦・仙台大学戦で、移籍後初ゴールを記録。7月27日、J2リーグ第24節ジェフユナイテッド千葉戦では1試合2ゴールを記録するなど、コンスタントに出場機会を得たことで調子を上げ、シーズン後半戦は一時レギュラーを掴む。J1昇格争いが過熱した終盤戦は出場機会が減ったが、チームは2位でJ1昇格を果たす。この年は公式戦25試合3得点という成績だった。
2020年は怪我の影響もあって年間を通してわずか3試合の出場に終わり、12月に退団が発表される。
2020年12月3日、ベトナム・Vリーグ1のサイゴンFCに移籍することが発表される。12月5日、第31節サガン鳥栖戦後に行われたセレモニー後に準備や新型コロナウイルスによる影響によりベトナムに着いた後にホテルで2週間待機になる事からシーズン終了前にベトナムへ向かうことになる。2021年シーズンはVリーグ1で7試合に出場したが、13節を消化したところでCOVID-19パンデミックのためにリーグは中断し、8月24日に正式に中止が決定。
2021年9月10日、FリーグのY.S.C.C.横浜フットサルと契約したことが発表される。
2022年1月22日、J3リーグのY.S.C.C.横浜への加入が発表され、サッカーとフットサルの二刀流に挑戦することになる。フルタイムでJリーグとFリーグを両立させたのは史上初の事例となった。7月9日、J3リーグ第16節ヴァンラーレ八戸戦で移籍後初ゴールを含む2ゴールを決める。特に1点目のゴールは味方からのスルーパスに冷静に流し込んだもので、7月のJ3リーグ月間ベストゴール賞を受賞。J3リーグでは16試合2得点という成績を残し、2022-23シーズンのFリーグでは第二セットのピヴォとしてもプレーするようになり存在感を示す。
2023年シーズンは負傷もあってJ3リーグでは10試合1得点に終わる。2024年2月20日、自身のInstagramのライブ配信にて現役引退を表明。
2002年にアテネオリンピック出場を目指すU-21日本代表に選出され、6月のトゥーロン国際大会ではベストエレガントプレイヤー賞に選出され、後のフランス移籍に繋がるインパクトを残す。10月に韓国の釜山で開催されたアジア競技大会2002に出場。グループリーグ第2戦のバーレーン戦で1ゴール2アシストを記録するなど主力として全試合に出場するが、決勝でイランに敗れ、準優勝となる。
2003年、ジーコ監督から大久保嘉人、石川直宏と共にアテネ世代としては先立ってフル代表に招集され、6月にフランスで開催されたFIFAコンフェデレーションズカップ2003のメンバーに選出。6月22日、グループリーグ第3戦のコロンビア戦で後半29分から出場し、22歳で代表デビューを果たす。
2004年8月に開催されたアテネオリンピックに出場するU-23日本代表メンバーに選出され、背番号10を背負う。直前のベネズエラ(フル代表)との親善試合で2アシストを記録していたが、本大会ではオーバーエイジ枠として小野伸二が選出されたこともあり、3試合に出場しながらスタメンだったのは第2戦のイタリア戦のみとなり、チームもグループステージ敗退となった。
その後、ル・マンで活躍しながらなかなか代表にお呼びがかからなかったが、2005年10月に2年ぶりに代表に復帰。11月16日のアンゴラ戦で自身のA代表初ゴールを決め絶好のアピールをし、2006 FIFAワールドカップの選出を決定づけたかに思われたがあえなく落選した。
その後、監督が交代しイビチャ・オシム新監督により、2007年9月の三大陸トーナメントにて初めて招集。オーストリア戦、スイス戦と出場を果たした。スイス戦ではサイドで躍動し、逆転勝ちに大いに貢献しトーナメントで優勝。オシム監督に初タイトルをもたらした。
2008年に岡田武史監督が就任してからはコンスタントに代表に呼ばれるようになったが、中村俊輔や玉田圭司、大久保嘉人の壁は厚く、北京世代の本田圭佑、岡崎慎司らの台頭もあってレギュラー確保には至っていなかった。それでも岡田監督からはこれまでの代表監督以上に信頼はされ、2010 FIFAワールドカップアジア最終予選には8試合中6試合に出場し、3試合はスタメンで起用されていた。
2010年6月に南アフリカで開催される2010 FIFAワールドカップの日本代表メンバーに選出。選出当時はスーパーサブ扱いだったが、本大会直前の練習試合で中村俊輔から右サイドハーフのポジションを奪い、全4試合にスタメンで出場。各試合では変幻自在のドリブルやテクニックを織り交ぜ躍動し、グループリーグ第1戦のカメルーン戦では、右サイドからのキックフェイントを織り交ぜた左足のクロスで本田圭佑の決勝弾をアシストし、日本を自国開催以外でのワールドカップ初勝利に導くなど、日本代表の決勝トーナメント進出に大いに貢献。また、左サイドの大久保嘉人と共に攻守にサイドを走り回る運動量の豊富さでもチームを助けていた。決勝トーナメント1回戦のパラグアイ戦でもバー直撃のミドルシュートを放つなど、その名を世界に知らしめる活躍を見せた。決勝トーナメント1回戦のパラグアイ戦のPK戦で失敗した駒野友一を泣きながら肩を抱き慰める姿はこの大会の日本代表を象徴するシーンとなった。
アルベルト・ザッケローニ監督就任後の日本代表でも当初は主力として起用され、2011年1月にカタールで開催されたAFCアジアカップ2011のメンバーにも選出。初戦のヨルダン戦とシリア戦にスタメンとして出場したが、シリア戦後に右足の肉離れが判明。結果、無念の代表離脱となり、その後日本代表のベンチには松井の8番のユニフォームが掲げられることとなった。同年8月11日の韓国戦のメンバーに招集されるが、出場機会は訪れず、これが最後の代表招集となった。
| シーズン | 国 | クラブ | リーグ | 試合 | 得点 |
|---|---|---|---|---|---|
| 2000 | 京都パープルサンガ | J1リーグ | 22 | 1 | |
| 2001 | 京都パープルサンガ | J2リーグ | 37 | 7 | |
| 2002 | 京都パープルサンガ | J1リーグ | 23 | 4 | |
| 2003 | 京都パープルサンガ | J1リーグ | 27 | 2 | |
| 2004 | 京都パープルサンガ | J2 | 17 | 2 | |
| 2004-05 | ル・マン(loan) | リーグ・ドゥ | 25 | 3 | |
| 2005-06 | ル・マン | リーグ・アン | 33 | 3 | |
| 2006-07 | ル・マン | リーグ・アン | 27 | 4 | |
| 2007-08 | ル・マン | リーグ・アン | 34 | 5 | |
| 2008-09 | サンテティエンヌ | リーグ・アン | 22 | 1 | |
| 2009-10 | グルノーブル | リーグ・アン | 29 | 4 | |
| 2010 | トム・トムスク(loan) | ロシア・プレミアリーグ | 7 | 0 | |
| 2010-11 | グルノーブル | リーグ・ドゥ | 16 | 1 | |
| 2011-12 | ディジョン | リーグ・アン | 3 | 0 | |
| 2012-13 | スラヴィア・ソフィア | A PFG | 11 | 0 | |
| 2013-14 | レヒア・グダニスク | エクストラクラサ | 16 | 4 | |
| 2014 | ジュビロ磐田 | J2リーグ | 36 | 6 | |
| 2015 | ジュビロ磐田 | J2リーグ | 26 | 3 | |
| 2016 | ジュビロ磐田 | J1リーグ | 7 | 0 | |
| 2017-18 | オードラ・オポーレ | Iリガ | 4 | 0 | |
| 2018 | 横浜FC | J2リーグ | 9 | 0 | |
| 2019 | 横浜FC | J2リーグ | 24 | 2 | |
| 2020 | 横浜FC | J1リーグ | 3 | 0 | |
| 2021 | サイゴン | Vリーグ1 | 7 | 0 | |
| 2022 | Y.S.C.C.横浜 | J3リーグ | 16 | 2 | |
| 2023 | Y.S.C.C.横浜 | J3リーグ | 10 | 1 |
2024年3月21日、横浜FCのサッカースクールコーチに就任。直後の同年4月5日には浦和レッズのアカデミーのロールモデルコーチに就任。2つのクラブのコーチを兼任することになる。
2024年7月、日本フットサルリーグ(Fリーグ)の運営母体である一般社団法人日本フットサルトップリーグの理事長に就任。
2024年12月15日、ニッパツ三ツ沢球技場で横浜FC主催による引退試合を開催。
日本人選手らしいパスセンスやテクニックを持ち合わせ、トラップなどの基礎技術も高いレベルにある。ただ、松井がプレーにおいて他の選手と一線を画する所はやはりその個人技にあり、日本人選手にしては珍しいドリブラータイプに位置する選手である。
一般的にドリブラーというとクリスティアーノ・ロナウドやメッシのような確かな技術とスピードで抜き去るイメージが強いが、松井は他選手に比べて抜けたスピードは持ちあわせていないため、その抜群のテクニックを生かし相手の意表を突くトリッキーなドリブルをすることが多い。彼が試合に出場すると、随所にそのプレーが見られ観客を沸かせる。
また、右利きだが左足でのシュートやパスも非常に精度が高い。それは、2010FIFAワールドカップのカメルーン戦でのアシストが左足であったことからも伺い知ることができるだろう。
若い頃は天才肌のテクニシャンというイメージだったが、フランスに移籍して以降はボールホルダーに対して厳しくチェイシングをかけ、守備時には自陣までしっかりと戻るハードワークも持ち味となった。
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最終更新:2025/12/10(水) 05:00
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