山内一豊(1545~1605)とは、流浪の身から織田、豊臣、徳川の三英傑に仕え、最終的に土佐一国の大名へと出世したが、「内助の功」の妻の方が有名だったりするちょっと地味な戦国武将である。
概要
岩倉織田氏の重臣、山内盛豊の息子として生まれるが、岩倉織田氏が織田信長に滅ぼされると同時に父、兄が戦死。流浪の身となるが、いろいろあって信長に仕えることになり、やがて秀吉の与力につけられる。
姉川の戦いのころになると、秀吉の家臣になる。秀吉の出世とともに配下の一豊の所領も増え、小牧長久手の戦いの後には長浜2万石の領主となり、中村一氏、堀尾吉晴らとともに豊臣秀次の宿老となる。地震によって一人娘を失ったのはこの長浜時代である。
小田原攻めの後に秀次が尾張に移るとともに掛川城主になり、5万石を領有する。
秀次事件では無関係の立場を貫き、処分を逃れる。秀吉死後、関ヶ原の戦い直前の小山評定では東海道に所領をもつ大名の中で先駆けて家康に領地を献上し、家康の歓心を買う(これは堀尾忠氏の案を盗んだとも言われるが)。この功績により、関ヶ原本戦ではこれといった手柄はなかったものの、土佐一国を与えられる。
土佐入国後は長宗我部氏の旧臣(主に一領具足と呼ばれる連中)による反乱を武力制圧。この禍根が残り続けたため、山内系藩士を「上士」、長宗我部系藩士を「郷士」とする土佐藩独特の身分制度が幕末まで続くことになる。
1605年、高知城にて死去。享年60。
子がいなかったため、甥の山内忠義が山内家を継いだ。
内助の功
武将としての能力は平均的な一豊が一国一城の主にまで立身出世した理由として挙げられるのが、一豊の妻、千代(名前は諸説ある)の「内助の功」である。真偽が明らかでない話もいくつかあるが、戦前の教科書には賢妻のモデルとして採りあげていたりする。有名なのは以下の二つ。
- 嫁入りの際の持参金で名馬を買う。⇒馬揃えで織田信長の目を引き、一豊が出世する。
- 関ヶ原直前、石田三成からの西軍への寝返りを誘う書状を未開封で家康に渡すように一豊を促す。⇒家康に対し一豊の忠義を示すことに成功。
小説などにおける山内一豊
戦国時代を扱う作品は多々あるが、一豊はなかなか出てこない。小山評定でワンシーンあればいい方であろうか。
山内一豊が登場する作品としてはやはり、司馬遼太郎の「功名が辻」が挙げられる。
2006年に大河ドラマ化されたということもあり、現在の一豊のイメージはこの作品によるところが大きいのではないだろうか。ちなみに山内一豊を演じたのは上川隆也である。
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補足
「信長の野望」シリーズにおける山内一豊の能力一覧。
武将の概念ができた戦国群雄伝から登場。特に飛び抜けた能力もなくやっぱり平均的である。
一応織田家の武将らしく鉄砲適性の方が足軽適正に比べると高い(それでも平凡な武将の域を出ないが)。
但し、関ヶ原時の抜け駆けが影響してか、義理が低めなのが難点である。
軍事能力 | 内政能力 | |||||||||||||||
戦国群雄伝(S2) | 戦闘 | 61 | 政治 | 65 | 魅力 | 75 | 野望 | 53 | ||||||||
武将風雲録(S2) | 戦闘 | 60 | 政治 | 59 | 魅力 | 62 | 野望 | 28 | 教養 | 65 | ||||||
覇王伝 | 采配 | 64 | 戦闘 | 65 | 智謀 | 25 | 政治 | 59 | 野望 | 28 | ||||||
天翔記 | 戦才 | 124(B) | 智才 | 70(B) | 政才 | 118(B) | 魅力 | 64 | 野望 | 49 | ||||||
将星録 | 戦闘 | 56 | 智謀 | 60 | 政治 | 54 | ||||||||||
烈風伝 | 采配 | 49 | 戦闘 | 50 | 智謀 | 59 | 政治 | 52 | ||||||||
嵐世記 | 采配 | 35 | 智謀 | 49 | 政治 | 43 | 野望 | 42 | ||||||||
蒼天録 | 統率 | 44 | 知略 | 45 | 政治 | 59 | ||||||||||
天下創世 | 統率 | 42 | 知略 | 45 | 政治 | 60 | 教養 | 49 | ||||||||
革新 | 統率 | 66 | 武勇 | 48 | 知略 | 51 | 政治 | 67 | ||||||||
天道 | 統率 | 66 | 武勇 | 48 | 知略 | 51 | 政治 | 67 | ||||||||
創造 | 統率 | 65 | 武勇 | 65 | 知略 | 53 | 政治 | 66 | ||||||||
大志 | 統率 | 64 | 武勇 | 67 | 知略 | 54 | 内政 | 65 | 外政 | 60 |
関連項目
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