武田良太とは、日本の政治家である。衆議院議員(福岡11区選出、当選4回)。自民党所属。
概要
1968年福岡県赤池町(現福智町)生まれ。自民党の大物代議士として知られた伯父・田中六助の影響もあり若い頃から政治家を志し、早稲田大学を卒業するとすぐに亀井静香代議士に秘書として仕えた。
1993年4月に25歳となり被選挙権を得ると、同年7月の総選挙に伯父が地盤としていた旧福岡4区から出馬。しかし当時既に伯父の死後8年が経過し、伯父が築いた3バンも弱体化していた。自民党の2人目の公認枠はどうにか手にしたものの、結果は最下位落選。得票率が5%を下回った(3.2%)ため供託金まで没収された[1]。
小選挙区制移行後は旧4区の一部である新11区に移ったものの、1996年・2000年の総選挙ではいずれも山本幸三に敗れ落選。山本が自民党に復帰すると支部長職を奪われ、ついに自民党の公認まで失ってしまった。凡百の候補者ならここで終わるところだったが、続く2003年の総選挙では無所属での出馬を強行。約16,000票差の大差で自民公認の山本を破り、苦節十年の果てに初当選を飾った。
翌年自民党復帰が認められると、恩師である亀井が率いる志帥会に参加。2005年の郵政国会では亀井と共に民営化法案への反対票を投じ、再び無所属に戻った。同年の総選挙では約400票差の僅差で山本を差し切り再選を果たしたが、亀井とは違いあっさり郵政民営化賛成に転向し、翌年12月に2度目の復党が認められた。復党後は志帥会を離れ同郷の山崎拓率いる近未来研に入会したが、後に離脱して現在は無派閥となっている。
2009年の総選挙では山本との激しい公認枠争いを制し、民主党が社民党とのバーターで候補者擁立を回避するという幸運にも恵まれ圧勝。続く2012年の総選挙でも快勝を収め、現在は安定地盤を築くことに成功している。その一方で後述のように福岡県連内での立場はこのところ微妙になりつつある。
思想的には自民党内でも右派に属する人物であり、日本会議のメンバーとなっているほか、安倍首相が率いる創生「日本」や靖国参拝議連にも参加している。他方で外交面ではややハト派的な傾向も見られる。衆議院安全保障委員長、防衛大臣政務官、防衛副大臣と防衛関係の要職を歴任している国防族議員の一人。
麻生太郎との確執
麻生とは元々は同じ福岡県選出の代議士として友好関係にあり、2009年の下野直前に自民党内で「麻生おろし」の動きが高まった際にはこれに対抗して麻生を支える「結束の会」を結成し、代表世話人を務めたこともあった。
しかし2011年1月、古賀誠ら県連内の反麻生派に推された武田が、本命視されていた麻生を退けて県連会長に就任してからは徐々に関係が悪化。同年の県知事選では古賀らが推す蔵内勇夫県議を県連推薦候補としたにもかかわらず、麻生は福岡財界などと連携して小川洋元内閣広報官の擁立を強行した。結局武田らは分裂選挙を避けるため蔵内を説得して出馬を辞退させざるを得なくなった。
さらに翌年武田率いる県連が新開裕司を福岡1区の支部長に選出すると、麻生はこれを嫌って横槍を入れ、盟友の安倍晋三総裁に働きかけて支部長を麻生が推す井上貴博に差し替えさせた。第2次安倍内閣で麻生が副総理に就任し完全な復権を果たすと、県連内も麻生派が優勢となり、武田はついに県連会長を辞任に追い込まれた。
2014年に福岡11区内の行橋市で行われた県議補選では、武田や自民党行橋市支部・公明党が武田の秘書である小堤千寿を支援したのに対し、麻生や自民党県連の大部分は民主党・市職労などと共に前回総選挙で武田の対立候補だった堀大助を支援。麻生も自ら堀の応援に駆け付けた[2][3]。選挙の結果、約1,000票差で堀が小堤を破って当選を飾り、武田は自身のお膝元でそのメンツを大いに傷つけられることになった。
不祥事・雑記
- 武田は公害の一つであるカネミ油症事件の被害者救済を目指す議員連盟を立ち上げ、被害者の医療費を支払い続けている原因企業・カネミ倉庫への政府支援などを内容とする被害者救済法の成立に尽力した。この救済法に対しては「被害者救済法じゃなくて加害企業救済法だ」との批判が上がったが[4]、後に武田がカネミ倉庫から政治献金を受け取っていたことが発覚。武田は「カネミ倉庫は伯父の田中六助の代からの支援者であり、後継者として引き続き支援を受けていただけ。議員連盟に参加するにあたって献金は返還している」と釈明した[5]。
- 2014年6月、武田は防衛副大臣として日本の軍事産業を売り込むため、パリで行われた国際展示会に出席した。ところが会場で訓練用の模擬銃を手にした武田はおもむろに世界一腕の立つ殺し屋スタイルで銃を構え引き金に指をかけると、隣にいた人に銃口を突き付けるという行為に及んだ。当然ながら嫌がられて手で振り払われたが、この一部始終がテレビで報じられると、銃の扱い方も礼儀もなっていないと批判を浴びる羽目になった[6]。
- 若手の国会議員にしては珍しく、ブログ・Twitter・Facebookによる情報発信や有権者とのコミュニケーションを一切行っていない。公式サイトはあるものの、情報量は同僚議員らと比べても少なめ。
親族
母方の伯父にあたる田中六助は内閣官房長官や自民党幹事長を歴任し、多くの政略に関与した大物代議士としてその名を広く知られた。特に宮澤喜一との「一六戦争」は有名。自身も一時は総理総裁候補として名を挙げられるほどだったが、糖尿病を悪化させ1985年に亡くなった。武田が被選挙権を得る前に田中が死去し、地盤継承までにかなりのブランクが空いたことは、結果的に武田が10年間もの浪人生活を送る遠因となった。
父・良行はゴルフ場運営会社の社長を務めた実業家であった。また妻の聡子との間に1女を儲けたが、妻は2007年に心筋梗塞のため35歳の若さでこの世を去っている。
ネット上での評判
自民党内でもそこそこ右派色の強い部類に属する政治家であるため、ネット上の政治論壇で多数見られる右翼的なレスや右翼的なネットユーザーからの評価も比較的高い。
まとめサイトの「国民が知らない反日の実態」では「愛国度B[7]」、議員・候補者評価に特化した同種のサイト「選挙前.com」では「愛国ポイント+9[8]」となかなか高い評価を得ている。
ただしこうした好評の一部は、麻生太郎を倒閣運動から擁護したという点に起因していると思われる(実際、「国民が知らない~」では「結束の会」結成を理由に武田の愛国度をCからBに引き上げている[9])。
関連動画
関連チャンネル
関連項目
外部リンク
脚注
- *中選挙区時代の供託金没収点は有効投票総数÷定数÷5であり、定数4の旧福岡4区は得票率5%が基準となった。
- *混迷の福岡県議補選、自民vs自民?:|NetIB-NEWS|ネットアイビーニュース
- *県議補選行橋市区、推薦巡り自民県連と支部が対立 : 地域版 : 読売新聞(YOMIURI ONLINE)
- *カネミ油症被害者救済法案――加害企業に税金投入へ
- *武田防衛副大臣側、カネミから献金 救済法発起人の一人:朝日新聞デジタル
- *武器国際展示会 武田防衛副大臣が人に銃口
- *国民が知らない反日の実態 - 愛国議員:自民衆3
- *自由民主党 武田良太 福岡11区 選挙前.com
- *国民が知らない反日の実態 - 衆院選:評価変更履歴
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