反出生主義
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ななしのよっしん
2018/09/20(木) 02:01:51 ID: I0oXEwZkS2
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ななしのよっしん
2018/09/20(木) 02:03:31 ID: I0oXEwZkS2
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ななしのよっしん
2018/09/21(金) 01:37:50 ID: mM8Mt4knbz
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3274
ななしのよっしん
2018/09/21(金) 08:55:30 ID: nl7sPIVCZn
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ななしのよっしん
2018/09/22(土) 00:04:25 ID: I0oXEwZkS2
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ななしのよっしん
2018/09/22(土) 00:19:54 ID: gRTdoD/wtD
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3277
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3278
ななしのよっしん
2018/09/22(土) 04:06:13 ID: EupkbKBwIB
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十分な確実性を持たない知見から導き出される考えを『信仰』と呼ぶのなら、一切の価値体系は『信仰』ということになるだろう
「意識の発生についての十分な知見」というのが、形而上学的な領域まで含まれると考えるのなら尚更そう
「哲学的推論から生まれる妥当な論理的帰結」というのも『哲学的推論』『妥当』と言うからには結局『信仰』なわけだろう
それに、価値体系はどれも限界を設定しているものだから、ある価値体系が一定の領域の問題を切り捨てていたり、或いは低級に位置づけたりしていても、それがその体系の欠陥ということにはならないし、第一どんな領域の問題も解決してくれる完璧な価値体系など存在するはずかない
価値体系において重要なのは、事実の確実性を保証することではなく(そんなことは不可能)、一定の信仰としての限界を提示しながらも多くの人が納得できるような普遍性を追求する点にある
親の受精・出産と、子どもの意識の発生に直接的な因果関係を認めるという『信仰』は、十分なくらい妥当な普遍性を持っていると自分は思う -
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ななしのよっしん
2018/09/22(土) 12:10:52 ID: v4MVusWmST
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ななしのよっしん
2018/09/23(日) 00:15:09 ID: I0oXEwZkS2
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>>3278
私は、親の受精・出産と、子どもの意識の発生に直接的な因果関係を認めるという『信仰』は、この世の自由意志に関する権利を我々の形而下で考えるため、言うなれば権利の科学的な妥当性確保のために実用的であるからこそ多くの人に信奉されてるのではないかと推察しています
しかし、それが反出生主義という生命の安定的発展を動揺させる考え方に帰結してしまうのなら、今回もまた「実用的な考え方」に信仰をシフトさせることで、反出生主義以外の有望な『信仰』が見つかるのでは、と考えたわけです
言うなれば、意識の発生にまつわる様々な哲学的命題に影響を与えないように、反出生主義の絶対的な意識への認識に疑義を呈したということです
そもそもこの問題は、意識の発生に充足理由律が成立するかと言い換えられるかもしれません
本当に意識は原因あって初めて存在するんですか?果たしてある意識の発生を我々があれこれ手を尽くすことで阻止できるんでしょうか? -
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3281
ななしのよっしん
2018/09/23(日) 09:30:23 ID: nl7sPIVCZn
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3282
ななしのよっしん
2018/09/23(日) 09:50:09 ID: I0oXEwZkS2
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3283
ななしのよっしん
2018/09/23(日) 12:39:39 ID: x7DRLwH4VO
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3284
ななしのよっしん
2018/09/24(月) 02:41:26 ID: EupkbKBwIB
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「反出生主義は苦痛を究極的な根源(?)に迫って駆逐しようとする考えである」という意味不明な定義を勝手に周知の前提としながら
「ならば反出生主義者は、自分の考えている反出生主義の理念通りに振る舞わなければならないはずだ」と決め込んで、少しでも他人の振る舞いが自分のイメージ通りでなかったら脅迫的になるのは、傍から見れば謎いちゃもんをつけているようにしか見えない
(それはまさに一般に批判されている「大上段から人を見下し、自分の信仰を押し付ける信者」そのものだろう)
悪く言えば、「相手に無限に質問して、一つでも自分の気に入らない所があったら相手の負けゲーム」を勝手に開始しているように見える
一人の人間の思想や行動が『全て』を包摂していなければならないというのは根本的に不可能な考えだし、それを他者に求めて裁くのは傲慢の極致だろう -
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3285
ななしのよっしん
2018/09/24(月) 12:13:32 ID: QTpvhxMpC1
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何泣き言いってんの
らしくないよ
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3286
ななしのよっしん
2018/09/24(月) 14:15:10 ID: I0oXEwZkS2
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>>3284
だとすると、これは反出生主義者が出生主義者が苦痛を生み出し続けるという主張する際にも同じことが言えるのではないでしょうか?
意識の発生というものに私が提示したような多様性が見出せる以上、出生主義が苦痛を生むという反出生主義側からの説明もまた、あまりに限局的な意識への説明であり、「出生主義者は、自分の考えている出生主義の理念通りに振る舞わなければならないはずだ」という思考様式の押し付けでは?
しかも、少なくとも反出生主義者はその理念に従い、出生主義者との共存を標榜しつつ、その罪深いと思われる苦痛の創出についてあれこれ考えを巡らせ否定的に評価しているわけですよね
これは出生主義者を反出生主義の一方的な「意識発生観」で断じた傲慢の極致なのではないでしょうか -
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3287
ななしのよっしん
2018/09/24(月) 17:33:48 ID: EupkbKBwIB
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上で書いた「傲慢の極致」というのは、
「『苦痛の究極的な根源』というような、見解によっては無限に規定内容が変わってしまうような多様な概念の、その全ての規定の可能性を反出生主義は包括しなければならならず、よって反出生主義は『意識』『苦痛』といった概念に、他の一切の規定と齟齬をきたすような限局をしてはいけない」
という、意味不明どころかそもそも一つの価値体系としての成立すら根本的に不可能になるような荒唐無稽な考えを、あたかも反出生主義の絶対の理念であるかのように前提して、それを基に反出生主義の『信仰』とそれに基づく行動を批判するという行為を指して言っている
だから別に、
「『意識』という一義的でない概念を自分の意志で規定して『信仰』し、その規定に則って構築した価値体系を基に他人の『信仰』と価値体系を批判する」
ということを傲慢と批判しているのではない
(第一それが悪いことであるなら議論など一切できなくなってしまう) -
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3288
ななしのよっしん
2018/09/24(月) 18:09:14 ID: Z/IvfEyPWW
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3289
ななしのよっしん
2018/09/24(月) 21:03:26 ID: I0oXEwZkS2
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>>3287
反出生主義者たちは、生者の苦痛を取り除くためにその苦痛を感じる意識自体を消し去る信念を持って、出生行為を拒んでいますよね
ここで、反出生主義者たちの信念は、「完璧な、不徹底を許さない」ものです
出生主義を選ばずに反出生主義を選ぶとき、出生主義の側に「生者にとって都合よく考えられている」『信仰』があるためにそれを選ばないのだ、という論理があるためです
ならば、苦痛を取り除く行為を「完璧な、不徹底を許さない」ものにするために、「生者にとって都合の良い」考え方があってはいけません
そこで持ち出されるのが『苦痛の究極的な根源』です
反出生主義者たちはこれを「親の受精・出産」としているのでしょうが、これは反出生主義者たちが便宜的に定める「反出生主義者という生者にとって都合の良い」定義になると私は考えます
なぜなら、私が以前述べた通り、意識の発生は一義的なものにならず、最終的に不可知論で処理するしかないものであるからです
結局のところ、『苦痛の究極的な根源』について確定させること自体が、反出生主義者の禁じる「生者にとって都合の良い」考えである、というのが主義の矛盾であると指摘します -
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3290
ななしのよっしん
2018/09/27(木) 05:35:43 ID: v4MVusWmST
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ななしのよっしん
2018/09/27(木) 05:40:50 ID: v4MVusWmST
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3292
ななしのよっしん
2018/09/27(木) 17:13:28 ID: I0oXEwZkS2
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反出生主義者たちは出生主義の用いる出生の正当化のことを「生者にとって都合のいい論理」と評し、その常識的な論理を超えて苦痛を消し去ろうとするからこそ反出生主義を選択するものと考えられます
しかし、意識を徹底的に考えるとすると、その発生がどのようなものであるかは不可知論の領域にあり、誰にも把握できません
そこで、我々は論や法則を議題に上げるときに、形而下のこの世界でのみ通じる限定的な論拠を用いる以外にないのです
しかし、反出生主義者の苦痛を取り除けるという形而下での『信仰』は「反出生主義者にとって都合のいい意識の発生観」であり、突き詰めれば反出生主義者の否定していた「生者にとって都合のいい論理」と同等のものとなってしまうため、自家撞着となります
つまり、「現時点では苦痛を感じる意識とは脳内のただの電気信号だ」から「その電気信号を止める、つまり出生さえしなければ、苦痛を感じる意識も発生しない、その意識は救われる」というところまで来ると、これは反出生主義者にとって実に都合のいい論理であり、悪くいってしまえば反出生主義者が苦痛からの解放を導く救世主でありたいと自己陶酔するための道具なんですよね -
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ななしのよっしん
2018/09/27(木) 19:17:48 ID: Z/IvfEyPWW
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ななしのよっしん
2018/09/27(木) 20:47:57 ID: EupkbKBwIB
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藁人形論法の相手をしてはいけない
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ななしのよっしん
2018/10/01(月) 01:18:02 ID: gRTdoD/wtD
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ななしのよっしん
2018/10/01(月) 01:56:19 ID: 2xtf1R+kHh
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ななしのよっしん
2018/10/03(水) 10:06:09 ID: I0oXEwZkS2
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>>3293
そこで子供を「出生主義に巻き込む」というのも、反出生主義者にとって都合のいい論理ではないでしょうか
なぜなら、反出生主義者の言に従いその子供を出生しないことを選んでも、本当にその子供の意識が生じないという保証はできませんからね
あくまでその反出生主義者が信仰する教条の中で解釈される世界において、その子供の出生が観測されないとしかいえません
あと、もう一つ指摘したいのが、反出生主義者たちは自己のエゴイズムに自覚的であるかについてです
今まで様々な意見を見てきましたが、反出生主義者が出生主義者のエゴイズムを苛烈に非難してきた一方、自身の理論が秘めるエゴイズムについては、苦痛の救済という崇高なお題目によって目隠しされ、無自覚な態度をとっている者が多いように見受けられます
また、エゴイズムを認める反出生主義者も、子供の幸福を考えるよりも苦痛を主眼に考えることへのエゴイズムを論じていて、苦痛を取り除くために意識の発生を抑えることができるという解釈自体が、不可知論の領域を侵しつつ苦痛の救済という理念を見出すために都合の良い意識の発生説を取っていることに触れている人は居ないようですが -
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ななしのよっしん
2018/10/03(水) 17:21:11 ID: EupkbKBwIB
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ななしのよっしん
2018/10/04(木) 12:07:30 ID: I0oXEwZkS2
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>>3298
確かに、不可知論を持ち出しておきながら、反出生主義を否定するために提出した論理が形而上的な概念に依拠するものでは、自己矛盾の指摘は免れません
これは私の大いに反省すべき点ですね
では、苦痛や意識自体がそもそも形而上的な側面を持っており、そこから不可知論で得られる部分のみを切り離して考えることはできないという考え方はどうでしょうか
あなたは>>3278で「親の受精・出産と、子どもの意識の発生に直接的な因果関係を認めるという『信仰』は、十分なくらい妥当な普遍性を持っていると自分は思う」と述べていますが、これが意識の発生という概念を不可知論に基づきその一部のみを切り出して論じたもので、その概念の都合のいい理解の一つに過ぎないというものなのですが -
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ななしのよっしん
2018/10/05(金) 02:53:00 ID: EupkbKBwIB
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