神の存在証明とは、人間を超えた存在である「神」の存在を理論的に証明しようとする試みである。特に、中世以降の、キリスト教的な唯一神の存在を証明しようとする試みを指すことが多い。
概要
かつて神が存在することは当然と考えられていたし、誰もが神を信じていた。それはキリスト教などの一神教に限らず、古代ギリシアなどの多神教世界においても同様である。
ところが、古代ギリシアにおいて哲学が盛んになってくると、神の存在を神話的にではなく、合理的に証明できないかという試みがされるようになる。これは、「哲学の祖」タレスが、「万物の根源は水である」と考え、世界を合理的に説明しようとしたことと似ている。
また、キリスト教が発展した中世スコラ哲学においては、神を信じない「異教徒」「無神論者」たちを論駁するために、論理的な神の証明が模索されるようになった。
近現代になってからも、デカルトやスピノザといった哲学者が証明を試みたり、数学者ゲーデルが数理的な証明を考えたりと、哲学において歴史の深い課題である。
証明の種類
証明の種類は、大きく分けて三つ存在する。
なお、一人の哲学者に対して一つの証明が対応するとは限らず、一人の哲学者が複数の証明をしていることもある(例: スピノザ)。
宇宙論的証明
- すべての事物には原因と結果が存在する
- 因果関係を辿ってゆくと、最終的に「この世界や宇宙を誕生させた原因」に辿りつく
- 「この世界や宇宙を誕生させた原因」は、最も最初に存在する「原因」である
- ところで、「この世界や宇宙を誕生させた」のは、神に他ならない
- よって神は存在する
古代ギリシアではアリストテレスが行い、中世ではスコラ哲学者のトマス・アクィナス、近代ではスピノザなどが行った証明である(なお、アリストテレスは「神」という言葉は使わず、「不動の動者」と呼んでいる)。
なお、「では『神を誕生させた原因』は何か?」と疑問に思われるかもしれないが、これに対し、「神は自己原因であり、それ自体で存在する」といった反論が考えられている。
存在論(本体論)的証明
この証明は思想家によって書き方が少し異なるが、本質的には同じことを述べている。
- 神は完全な存在であるから、あらゆる肯定的な属性を含んでいる。例えば、「全知である」「全能である」は肯定的な属性であり、「全知でない」「全能でない」は否定的な属性である。神は完全なので、前者の肯定的な属性を持つ。
- ところで、「存在する」は肯定的な属性であり、「存在しない」は否定的な属性である
- 神は完全であるから、「存在する」という肯定的な属性を含んでいなくてはならない>
- よって神は存在する
中世のスコラ哲学者ではアンセルムス、近代ではデカルトやスピノザなどが唱えた説である。また、ゲーデルなども似た証明をしている。
スピノザとゲーデルの証明は少し凝っているが、基本的には同じである。
なお、この説についてはライプニッツなどが批判を加えているが、特に有名なのはカントの批判である(後述)。
目的論的証明
- 世界は極めて複雑な物理法則や因果関係から成り立っている。
- このような複雑な世界が、自然に発生したとは考えられない。つまり、「何者か」がこの世界を創造したのだと考えるのが自然である。
- その「何者か」とは、神に他ならない。
- よって神は存在する。
トマス・アクィナスヤライプニッツが唱えた説である(なお、彼らはこれ以外にも、複数の証明をしている)。ライプニッツはモナド論を用いて、以下の証明を展開している。
- 世界はモナドと呼ばれる最小の実体から成り立つ。モナドは他の実体からは独立した実体である。
- モナドが独立した実体であるのに、世界は秩序立って見える。これは、神がそれを予定調和として定めたからである。
- よって神は存在する。
なお、この説は現在では「インテリジェント・デザイン説」と名前を変えて、今でも提唱されている。インテリジェント・デザイン説においては、神ではなく「高度な知性ある存在」とされているが、これは実質的には神と同じである。
神の存在証明への批判
「神の存在証明」という試み自体に批判を行った哲学者たちも存在する。
カント
カントは「宇宙論的証明」と「存在論的証明」に対して批判をしている。
前者については、これは「アンチノミー(二律背反)」であり、「最初に原因が存在する」と仮定しても、「最初に原因は存在しない」と仮定しても、どちらも矛盾が生じると述べている。
後者については、「Aである」(Aという属性を持つ)ことと、「Aがある」(Aという実態が存在する)ことは別のことであり、このことを混同しているとして、この証明を批判している。
カントはさらに批判を加え、「神」という存在は人間の理性の範疇を超えた存在であるから、理論理性によって証明することは不可能である(神の存在証明は不可能である)と主張した。
エイヤー
20世紀の論理実証主義の哲学者エイヤーは、神の存在を証明することは演繹的にも帰納的にも無意味であると主張した。
「神は存在する」という命題を演繹的に証明する場合、大前提に「神は存在する」という意味が含まれなくてはならない。これは、演繹法が分析判断だからである。この場合、大前提にある「神は存在する」を結論において反復しているだけであり、無意味である。
一方、「神は存在する」という命題を帰納的に証明する場合、「神は存在する」という結論の前に、何らかの経験的な命題が先行しなくてはならない。しかし、すると神という第一原因の前に別の事物を認めることになってしまうので、神が第一原因であることと矛盾してしまう。
カントの道徳論的証明について
カントは神の存在証明を批判したが、神が存在しないと断じたわけではない。神が存在することを合理的に証明する(理論理性による証明)は不可能である、と主張しただけである。
カントは『実践理性批判』において、神の理論的証明は不可能だが、実践理性の対象として必要であると述べている(実践理性の要請としての神の存在)。
これを「道徳論的証明」と呼ぶことがあるが、前述の通り、神を理論的に証明することは不可能であるから、これは「証明」ではない。カントはあくまで、神の存在を「要請」しただけである。
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