ヘーゲル法哲学批判序説とはドイツ哲学者カール・マルクスが若き日に著した人間解放の書である。
「宗教はアヘン」という宗教を否定するような有名なフレーズもこの書で語られた言葉である。この言葉の解説もこの記事で行う。
大学時代、ヘーゲル左派[1]に属していたマルクスは大学卒業後、新聞記者として働きながら実際の社会の人民の厳しい生活環境と、それ共に発展したフランス社会主義を学んだ。それによってマルクスは当時、自らの思想的根幹であったヘーゲルとの対決を強いられることになった。その為にマルクスはヘーゲルの著作『法の哲学』の中の特に「国家」の章を徹底的に読み返すことになる。
これ以前にも宗教・神学批判を行っていたマルクスであるが、フォイエルバッハ[2]によって宗教批判は終了したとして、この『ヘーゲル法哲学批判序説』の上梓後は政治、国家、法律批判へ活動分野を移していった。
マルクスによれば国家批判には哲学・宗教批判が不可欠であり、その意味ではこの著作における研究は、哲学分野に留まり国家批判を行わなかったフォイエルバッハらヘーゲル左派にも欠けていたものであり、開拓的な研究であるとマルクスは自負する。
タイトルに序説とは書いてあるが、本論は結局マルクスの生前に出版されることはなかった。その後、発見された本論にあたる草稿は『ヘーゲル国法論批判』というタイトルで今に知られている。
本著の論点はドイツにおける人間解放の方法論であった。ここでいう人間解放とは単なる貧困や社会的差別、抑圧の解消のみを指すのではない。マルクスが問題視したのは人間の本質そのものの喪失である。これをマルクスは人間疎外と呼んだ。マルクスは人間が人間になりきることのできない社会に対して警鐘を鳴らす。「疎外された人間を解放する」というテーマは、後の資本論にも引き継がれるマルクス思想の根底である。
マルクスは人間を解放するためには、ヘーゲルをはじめとする伝統的ドイツ哲学を解体(止揚)することが必須であるとした。なぜ社会改革に哲学が必要となるのかというと、マルクスの想定した社会改革とは単に政治改革や人権活動といった局地的なものではなかったからだ。政治改革や人権の尊重程度では部分的改革に留まり、普遍的人間解放は成し遂げられない。例えばフランス大革命で解放されたのはブルジョワ階級という社会の一部だけであった。すべての人間を解放する社会革命はもっとラディカル(根底的)なものでなければならない。
またドイツ社会はフランス、イギリスに比べて旧体制(アンシャンレジーム)の段階に留まっている。そんなドイツが今更政治改革をしたところで、それは英仏の後追いにすぎない。一方でドイツは法哲学や国家哲学においては英仏を抜きん出ていた。よってドイツにおいてラディカルな国家改革を為すためには哲学を解体することが必要だったからである。
明言しているわけではないが、マルクスはヘーゲル哲学を古代ギリシャ以来の西洋哲学の完成であると密かに想定していた。したがってヘーゲル哲学の解体は西洋哲学一般の解体であり、形而上学[3]一般の解体であった[4]。しかしそれは大学の教室で哲学に対して哲学的な議論を挑むことだけを指すわけではない。
哲学の解体とはなにか?それは哲学の形式の変更にある。マルクスはヘーゲル批判を通じて、当時主流であった抽象的な哲学の内容を現実的世界に移しいれ、具体化しようと試みたのである。哲学の新しいスタイルとは、象牙の塔と揶揄される大学内での研究ごときを捨てて、実際の社会で苦しむ民衆と共にするものであった。それこそがマルクスのいう哲学批判である。マルクスは「真の人間解放(社会変革、革命)の為には哲学を終わらせなければならない。しかしその手段は哲学を捨てることではなく、哲学を実現することによってである」と主張する。ヘーゲルらドイツ哲学者は「哲学を終わらせることなく哲学を実現化」しようとしていた。これをマルクスは批判したのである。
しかしそうなるともう一つ問題が出てくる。哲学を現実世界へ移す時、それを注ぎ込まれる階級がドイツには存在していなかったのだ。これはイギリスの清教徒革命やフランス大革命のような市民革命がドイツでは起こらなかったことが原因である。そこでマルクスはドイツにおいて哲学を実践的に担う階級、鎖に繋がれた階級を提起する。これがプロレタリアート(賃金労働者)である。マルクスはプロレタリアートが革命を起こすことによって哲学は顕在化すると述べる。
このヘーゲル法哲学批判序説の冒頭においてマルクスの有名な言葉「宗教はアヘンである」が出てくる。現在では「共産主義は宗教を否定する」とネガティブな意味で使われることが多いが、本来は「宗教は過酷な労働環境にある人々にとって「癒し」である」といった意味合いのほうが強い。宗教は幻想ではあるが辛い現実を生きる民衆を救ってくれるものであり、もし宗教批判を行うというのならばそれは同時に民衆に幻想でない現実の幸福を与えなければいけない。よって宗教批判は民衆から幻想を剥ぎ取った後に現実の問題、つまり国家批判に繋がるとマルクスは言う。ちなみに、この「宗教はアヘン」という言葉は元々はマルクスの友人であったハイネの詩集からの引用だとされている。
①人間の解放を目指すためには、宗教・神学批判に留まらず法や政治など現実社会を批判することが必要。
まず冒頭を引用してみる。
ドイツにとって宗教批判は基本的に終わっている。そして宗教批判こそは、一切の批判の前提なのである
マルクスがこの文章において前提としているのは、ヘーゲル左派(青年ヘーゲル派)の存在である。ヘーゲル左派とは、ヘーゲルの哲学を批判的に発展させていこうと考えている哲学一派のことで、マルクスもこのヘーゲル左派からは多大な影響を受けている。代表的な人物にはバウアー、シュティルナー、フォイエルバッハなど。その中でも重要なのはフォイエルバッハである。
フォイエルバッハは「精神の活動こそが全てだ」とするヘーゲル哲学を批判し、「いや重要なのは精神ではなく人間である」という人間主義の哲学を掲げた。フォイエルバッハをはじめとするヘーゲル左派は、人間を救済するためには「人間」を 「精神」から解き放つ必要があると言う。西洋社会における「精神」とはなんといってもキリスト教だ。そこでヘーゲル左派は人間解放のためにキリスト教批判とその改革に取り組んでいった。マルクスはフォイエルバッハを評価しつつ、彼の理論を更に批判的に受け継いだ。
マルクスは「人間を救済するために重要なのは精神や宗教の改革ではなく一切れのパンだ」という。フォイエルバッハは確かに「人間」に目を向けた点で一つの改革者であり、唯物論者であった。しかしマルクスに言わせれば、フォイエルバッハ哲学はまだ唯物論が徹底されていないのである。マルクスが重視するのは経済の問題である。人間が救われるためには、まず第一に衣食住の保証が必要であり、よって為されるべきは精神の改革ではなく経済の改革なのだ。
しかしフォイエルバッハの営みが無駄ではあったとはマルクスは言わない。物事にも歴史にも真理に至るまでの順序というものがある。彼らヘーゲル左派のやった宗教批判こそは経済批判の前提になるものである。
手前味噌の自己正当化のためになされる天への祈りはその誤りを指摘されたからには、今後、現世でやっていくだけの信用を失ってしまった。天国という素晴らしい空想的現実のなかには、人間は超人を探し求めていたのだが、結局のところは自己保身の写し絵しか見つけることができなかった。
「手前味噌の自己正当化のためになされる天への祈り」とはキリスト教のことである。フォイエルバッハのキリスト教批判の要点は「神とは人間である」ということであった。詳しい説明はこちら(『キリスト教の本質』)に任すが、フォイエルバッハは「神の本質は実は人間の本質である」と主張した。それはまさにここで言われるような、空想的現実(キリスト教)の中に、超人(唯一神)の代わりに自己保身の写し絵(人間の本質)を発見したのである。
そのことに気づいた人間は、自分自身の真の現実を求めるところに、また求めざるを得ないところに、自己の幻影しか、つまり人間とはとても呼べないものしか見つけられないようなことにはもう満足できないであろう。
だがそれではまだ人間を満足させることはできない。フォイエルバッハのいうように「人間本質こそが神である故に、人間を見つめ直した」としても腹は膨れない。貧しさからは解放されない。フォイエルバッハのいうような「人間」は真の意味で現実的な人間ではない。本当の人間とは、実社会の中で働き、ご飯を食べるそういう存在なのだから。
非宗教的な批判の基盤は、人間こそが宗教を作るのであり、宗教が人間を作るのではない、というところにある。確かに宗教とは、人間自身を自分のものとして獲得していないか、獲得してもそれを失ってしまった人間が自分自身について抱く意識[自己意識]であり、感情[自己感情]である
これもフォイエルバッハの『キリスト教の本質』において示された重要な命題である。宗教、すなわち観念的な神が人を作るのではなく、物質の世界に生きる人間が神や宗教を作り出すのである。宗教とは、人間が自分自身を失ったとき(人間疎外が起きたとき)に生まれる観念(空想)の産物である。よって宗教に対する批判とはその裏にある、彼らを抑圧する現実社会への批判に他ならない。宗教を廃止するというならば、彼らに物質的な幸福を与えなければ意味がないのだ。フォイエルバッハの宗教批判によって人は自己疎外が宗教の形をとっていることに気づかされた。よって次は現実世界の法と政治を批判すべきであるとマルクスは言う。
現実の社会の批判をするとして、マルクスがその対象としたのは当時の先進国であるイギリスやフランスの政治思想、経済学ではなく、ドイツの国家哲学、法哲学であった。ドイツとは特異な国家である。ドイツは英仏のように市民革命を経験せず、旧体制(アンシャンレジーム)のままで互いに互いを政治的に抑圧している。これはマルクスにとって見過ごせない事態であった。とはいえ単にドイツ社会を批判するだけでは、英仏の過去を批判するのと似たり寄ったりの結果がでてくるだけである。それでは意味がない。
一方でドイツは法哲学や国家哲学など、哲学の分野では英仏よりも優れた業績を残していた。マルクスは古きに逸した現実社会でのドイツではなく、理念の上でのドイツ。つまりドイツ哲学こそが問題の中心にあるとする。哲学とは単に机上の空論ではない。哲学もまた現実社会の一部であることは疑いようがない。よって実践主義者がいうように哲学は無意味だとするのも、理論主義者がするように哲学を哲学の枠組みの中だけで現実の社会問題に取り組むこともナンセンスである。前者が生み出すのは英仏の後追いであり、後者が生み出すのは形而上学的な結論だけである。
実践主義者が言うように哲学を終了させたければ、哲学を実現する他はなく、理論主義者がいうように哲学を実現させたければ、哲学を終了させる他はない。この一見矛盾したように見える命題。だが矛盾こそがマルクスがヘーゲルから受け継いだ弁証法の基礎である。マルクスは二つの相反する事柄が互いに互いを否定しあうことによって新しい概念が生まれていくとする。
そもそもなぜ哲学批判が現実社会批判に繋がるのかという疑問が出てくるだろう。マルクスによれば、ドイツ法哲学や国家哲学がドイツにおける法や政治に対する意識を決めている。よってドイツ哲学批判は、ドイツの政治意識のあり方を根底から批判することを意味するのだ。ドイツは英仏が実践によって為したことを観念の中で成し遂げた。一方でドイツ哲学は形而上学に陥り、現実の人間を捨象してしまった。これはドイツの現実社会が、現実の人間を捨象しているからである。ドイツ哲学の発展は、ドイツ社会の遅れを裏返しにしたものであった。哲学を批判するためには実社会に批判をすることである。つまりマルクスの言う哲学批判とは、ドイツ哲学に議論を挑むことのみならず、ドイツの実社会の改革も含んでいるのである。
ドイツの現実社会をドイツ哲学と同水準にまで昇らせるには媒体が必要である。批判という武器はそれ自体では物理的な力は持たない。批判や理論は大衆的な心を捉えたときに初めて物理的な力になりうる。多くの人間の心を掴む理論はラディカル(根底的)なものである。そして人間という存在の根底にあるのはやはり人間なのである。
ここで一つ歴史を紐解いてみよう。かつてドイツでは宗教改革が行われ、ルターら僧侶の唱えた理論が人々を魅了し、社会に革命をもたらした。彼らの人間解放は部分的なものであったが、それでも彼らは問題を正しく掴んでいた。彼らプロテスタントは特権的坊主を地に引き摺り下ろすのではなく、一般キリスト教徒を遍く坊主にすることによって、それまで特権を得てきた聖職者から人々を解放した。それと同じように、今のドイツでも哲学によって疎外された人間が真の人間として生まれ変わることによって、普遍的人間解放は可能になるのである。
とはいえ今のドイツでラディカルな社会革命を起こすには媒介が見当たらない。理論が人々の関心を得て、物理的な力となるのはその理論が人々の欲求に添っていたときだけである。だが、今のドイツには哲学と人々の欲求の間には大きな乖離が存在する。市民革命を経ている英仏ならまだしも、古きドイツでは社会を跳躍するほどの社会革命をなしとげられる階級は見当たらない。
しかし普遍的人間解放がドイツにおいて夢物語というわけではない。むしろ夢物語とは、社会の部分的革命、非ラディカルな革命のことをいう。例えばフランス大革命のように市民社会のある部分だけが自らを解放し、それを全体支配に拡大させるというものがそうだ。こういう部分的革命で普遍的人間解放を成し遂げるのは、そのある一部の階級の利害が社会全体の利害とイコールで結ばれているときだけだ。
社会の普遍的代弁者として、一つの国民の革命と、一つの階級の解放を結びつけるラディカル革命のための階級が生まれるためには、その社会の矛盾が生み出す憎しみが一つの階級に集まっていなければならない。革命的階級が、社会の憎しみを全て集めた階級を倒したとき、ようやくラディカルな社会革命が可能になる。フランス大革命においては革命的階級はブルジョワ(第三身分)、憎しみを集めた階級は聖職者と貴族(第一、第二身分)であった。
それではドイツの場合はどうなるか。革命的階級に必要なのは、失うもののない無の精神である。人は自分より下の存在がある限り、その社会に安心することができる。よってブルジョワや中産階級では革命的階級になりうることはない。ドイツでラディカルな革命を起こすために必要なのはラディカルに抑圧される階級を作り出すことである。市民社会の中にありながら市民社会から排除された階級。人間性の一切を喪失した階級こそが、人間性の再獲得を求めて動き出す。その身分こそがプロレタリアート(賃金労働者)である。
プロレタリアートは工業化によって人為的に生み出された貧困である。プロレタリアートはこれまでの世界秩序の解体を告げる。彼らは私有財産を否定する。だがそれは、彼らに押し付けられた抑圧を払いのけようとする欲求が、社会の原理と一致しただけということにすぎない。哲学にとってプロレタリアートこそがその物質的な武器であり、逆にプロレタリアートにとって哲学こそが精神的な武器である。思想の稲妻が民衆の大地に落ちるとき、ドイツ人は人間へと解放される。
掲示板
5 ななしのよっしん
2024/01/23(火) 14:03:43 ID: cJs8w/wcXA
宗教はアヘンって全否定してるするように聞こえるけど、実際は宗教を達観しつつも「しょうがない」「無いと生きていけない」という意味もあったんだ。
面白いです。ありがとう
6 ななしのよっしん
2024/01/23(火) 14:13:05 ID: FHKYH9PGTe
一部の馬鹿がそういう百害あって一利なしの意味で使ってるからな・・・。
7 ななしのよっしん
2024/04/22(月) 13:52:39 ID: qCsJG3Aoqt
マルクスって宗教は資本主義がクソなせいで信仰されてるって思ってたらしいけど資本主義が最高でも死の恐怖から逃れたいからという理由で宗教は広く信仰されてたと思うんだよね。
急上昇ワード改
最終更新:2024/04/25(木) 08:00
最終更新:2024/04/25(木) 08:00
ウォッチリストに追加しました!
すでにウォッチリストに
入っています。
追加に失敗しました。
ほめた!
ほめるを取消しました。
ほめるに失敗しました。
ほめるの取消しに失敗しました。