目斗(海防艦) 単語

モクト

3.7千文字の記事

(もくと)(海防艦)とは、大東亜戦争末期大日本帝國海軍が建造・運用した日振海防艦8番艦である。1945年2月19日工。4月4日七尾湾をして関門海峡の突破を試みた際に触雷で沈没

概要

艦名の由来は、当時日本の委任統治領だった台湾ほうこ沙郷、澎最北端に位置する斗嶼から。海防艦名前台湾から取られているのは未成艦も含め斗のみ。海軍全体で見ても測敷設特務艇の測敷設艇の澎、新高防護巡洋艦の新高の4例しかなかったりする。

護衛艦艇の不足と輸送団の被害増大を受け、海防艦の大量生産を迫られた帝國海軍は御蔵を更に簡略化した日振を新たに設計。各部構造の単純化、効率化を図るため建造を日立造船桜島工場に一本化するなど、多種多様な工夫を行った結果、工数を前級御蔵の約5万7000から3万まで削減する事に成功。建造期間も約4.4ヶにまで短縮出来た。中でも斗はノウハウの蓄積で、起工から工まで3ヶ半(105日)という最短記録叩きだしている。

同時期に設計・建造されたとの相違は用兵側の要望で単艦式大具を装備している点である。しかし、掃具の搭載は対潜力の低下を招いてしまったため、4番艦の久米から掃具を撤去して爆雷投射機1基、25mm単装機、8cm迫撃砲を追加したが、べて中途半端な対潜力になってしまったと言われる。

日振はマル急計画で建造された前期の日振、大東、昭南、改マル五計画で建造された後期久米、生名、四阪、崎戸、斗、波太の二種類に大別される。

排水量940トン、全長78.8m、全幅9.1m、最大速力19.5ノット、機関出力4200力、乗員150名。兵装は45口径12cm単装高A型改三1門、同高B型改二1門、九六式25mm三連装機2基、8cm迫撃砲、九四式爆雷投射機2基、爆雷装填台三2基、九五式爆雷120個。電測装備は九三式水中聴音機と九三式水中探信儀。

艦歴

ミッドウェー海戦後の1942年9月、戦況に即した艦艇を増産する改マル五計画が策定され、海防艦第5262号艦の仮称で建造が決定。

1944年11月5日斗と命名されるとともに日立造船桜島工場(大阪)で起工、1945年1月5日に長喜間太少佐委員長に就任し、1月7日1月9日より造所内に装員事務所を設置して業務を開始、そして2月19日工を果たした。内155号を以って斗は佐世保鎮守府に編入され、海防艦の訓練業務を担当する防備戦隊に部署する。

艦長の長少佐は第11号海防艦の艦長として地獄のオルモック緊急輸送に参加、第四次輸送隊を護衛中の11月10日にオルモック湾口で襲を受けて乗艦を撃沈され、第13号海防艦に救助された経歴を持つ。

2月20日桜島工場を出発し、翌21日へと入港して食糧と弾薬を積載した後、3月2日を出港、同日遅くに対潜訓練隊の基地がある佐伯湾へ到着したのち、ドイツ海軍から譲渡された呂500(元U-511)を相手に対潜訓練に従事する。月月火水木金金の猛特訓を、から日、あるいは深夜まで行い、時には港外で戦闘食を取りながらあらゆる場面を想定しての訓練を行った。しかし差し迫る戦況は斗に十分な訓練期間を与えてはくれなかった。

3月17日機動部隊が前進拠点ウルシーより出撃したのを確認し、連合艦隊部は天一号作戦要領を発。翌18日に九州へと到着した機動部隊は、四国へと向かいながら艦載機を発進させ、鹿児島から北上するように航空基地、軍需工場、輸送路を襲。斗がいる佐伯基地にも30機程度の敵機が襲来した。

戦艦大和のための道を切り開け

3月23日、24日、25日の三日間に渡り、機動部隊が南西諸を繰り返し襲してきた事で、敵の沖縄上陸が近いと連合艦隊部は考え、3月26日18時7分に天一号作戦発動を示。

3月27日17時58分、防備戦隊機動部隊誘引の的で佐世保に進出する戦艦大和ら第1遊撃部隊の出撃を援護すべく、慣熟訓練も末期に差し掛かった斗、男鹿、第59号、第65号海防艦、特設掃海艇3隻で第3対潜掃討隊を編成。豊後の対潜掃討を下する。21時30分、伊藤義一大佐官に補され、23時30分に出撃諸準備を了。

更に応援として香港から門に帰投していた御蔵と第33号海防艦佐伯防備隊の特設駆潜艇10隻からなる第1及び第2掃討隊が追加され、上からは磁気探知機を装備した佐伯海軍航空隊の零式水上偵察機陸上対潜哨戒機東海8機がらせる。

翌28日午前5時、第59号海防艦を旗艦とした第3対潜掃討部隊4隻が曇天佐伯を出撃、ノ子灯台を越えた辺りで針路を南に固定し、対潜第一配備A法、すなわち各艦3~4里の距離を取って単横を組み、之字運動をしながら対潜掃討任務を始める。午前10時27分頃、東海潜水艦を探知、第3対潜掃討部隊をその地点に誘導しようとしたものの、すぐに見失ってしまう。正午頃、宮崎県東方約15里で門から出発してきた御蔵と第33号が合流。形の最西端にいた第65号の西側1000mを単縦で追従する。

13時頃、先ほど東海潜水艦を探知した四国南西、御崎39.5里で、第65号海防艦が2本の噴煙を発見し、斗、男鹿、第65号爆雷投下の準備を開始する中、いちはやく御蔵と第59号(第33号とも)が南下して現場に急行。御蔵は爆雷装填台三を使用して爆雷を投下、第59号は御蔵以上のしい爆雷攻撃を中に潜む敵潜に浴びせた。爆雷の炸裂音は周辺で活動していたシルバーサイドシードッグ、ハッケルバックスレッドフィンにも届くほどだった。2時間後、大量のと破片が波間に浮いているのを発見。

17時警報が発され、深方面の遠距離に敵艦上機十数機が爆撃しているのが見えたが、幸い第3対潜掃討部隊には気付かず素通りしていった。それから10分後、豊後道南部で活動中の第1、第2掃討隊は約70機の米軍機に襲撃され、特設駆潜艇2隻沈没、4隻大破、4隻中小破する全滅に近い大損を受ける。17時20分、大和率いる第1遊撃部隊を出撃して佐世保に向かったが、先の敵機来襲で機動部隊が接近している事が明らかとなり、佐世保進出を延期してに戻った。18時警報は解除。

18時5分、男鹿が雷跡2本を認めたものの命中せず。第3対潜掃討部隊22時30分まで対潜掃討を行うも敵情を得られず、また敵艦上機来襲の情況を鑑み、翌日午前1時に宿毛湾北西の船越湾へ一時退避した。

3月29日午前、船越湾を出発し、昨日爆雷を投下した域を再観測してみると、攻撃地点から濃い膜が広がっているのが確認された。この時撃沈したのは潜水艦トリガーであった。任務を終えた部隊佐伯に帰投。しかし同日夕方頃、殊勲の御蔵は潜水艦スレッドフィンの雷撃によって撃沈され、一緒にいた第33号海防艦も第58任務部隊襲で撃沈されてしまった事で、勝利の余韻はかき消される。

同日、防備戦隊B-29による機雷敷設や航空攻撃のしさを憂慮し、佐伯在泊の海防艦10隻を較的安全な七尾湾へ移動させる決定を下し、十重二十重に機雷封鎖された関門海峡の突破を図る事に。これに伴って対潜掃討部隊西岡茂泰少将は旗艦を黄金丸から男鹿に移した。

3月30日斗、金輪、黄金丸、第48号海防艦の4隻は佐伯を出発、翌31日に山口県の上関に到着した。4月2日に上関を出発して遅くに安下へと移動。

最期

1945年4月4日、4隻は一列に縦隊を組んで安下を出発。いよいよ関門海峡突破が始まった。去る3月27日アメリカ軍沖縄への増援防止の的でB-29を使って約1350個の機雷を、30日には450個を追加で関門海峡に投下しており、掃困難な磁気機雷が多くを占めていた上、当時はまだ大規模な掃海部隊である第7艦隊も創設されていなかった事も手伝って、掃が遅々として進んでいなかった。

午前9時5分(13時説もある)、部埼灯台南南東4里の峡東口にて、アメリカ陸軍航空隊第20爆撃航空団のB-29が敷設した磁気機雷が右舷後方で炸裂し、後部機関室からの浸で左舷側へと傾く。触雷から1時間半後、なすすべなく艦尾より沈没してしまった。生存者は付近の僚艦が救助、負傷者は陸上海軍病院へと搬送された。浸した場所が機関室だったからか死者27名のうち大半が機関科員であった。関門海峡の機雷が原因で4月6日までに斗を含む8隻の船舶が犠牲となってしまった。生き残った長艦長は4月23日、第16号輸送艦の艦長に就任した。5月5日除籍。

残骸は戦後引き揚げられ解体。

斗は工から沈没まで僅か45日間と非常に短命であり、これは海防艦全体で見てもワースト3位だった(1位は第73号海防艦の12日、2位は六連の34日)。また台湾の地名という事で斗の名を継いだ艦艇は今のところ存在しない。

関連項目

この記事を編集する

掲示板

掲示板に書き込みがありません。

おすすめトレンド

ニコニ広告で宣伝された記事

記事と一緒に動画もおすすめ!
鬼龍院翔[単語]

提供: 樹葉 緑

もっと見る

急上昇ワード改

最終更新:2025/12/14(日) 09:00

ほめられた記事

最終更新:2025/12/14(日) 09:00

ウォッチリストに追加しました!

すでにウォッチリストに
入っています。

OK

追加に失敗しました。

OK

追加にはログインが必要です。

           

ほめた!

すでにほめています。

すでにほめています。

ほめるを取消しました。

OK

ほめるに失敗しました。

OK

ほめるの取消しに失敗しました。

OK

ほめるにはログインが必要です。

タグ編集にはログインが必要です。

タグ編集には利用規約の同意が必要です。

TOP