第127号輸送艦とは、大東亜戦争中に大日本帝國海軍が建造・運用した第101号型/二等輸送艦の1隻である。1944年2月28日竣工。数々の輸送任務に従事するも、9月24日、マニラ近海で空襲を受けて沈没。
大東亜戦争開戦当初、本土近海での敵艦隊邀撃を主軸としていた帝國海軍は輸送艦を持っておらず、輸送船や駆逐艦、あるいは水上機母艦に物資を積載して輸送艦代わりにしていた。しかし1942年8月より始まったガダルカナル島争奪戦で多数の駆逐艦と輸送船を失い、敵制空権下を高速で突破する専用の輸送艦が必要だと痛感。これを機に輸送艦を造るための研究を独自に開始した。
1943年春、同盟国ドイツの仮装巡洋艦が、北アフリカ戦線でアメリカ軍から奪取したイギリス軍の戦車揚陸艇LCT-Mk.5の図面を持ってきた事で、6月に軍令部が艦政本部に設計を命令し、7月より西島亮二造船中佐を主任に据えて開発に取り掛かる。また島嶼への逆上陸用揚陸艦を開発していた陸軍の興味も誘い、陸海軍協同で開発が進められた。設計は海軍が担当、LCT-Mk.5や大発動艇の設計を取り入れて艦政本部が基本的な設計を、詳細設計を呉海軍工廠が行って図面を完成させ、陸軍側は資材の工面に回っている。9月に入ってから建造が正式決定され、早くも10月には記念すべき第1艦たる第127号が起工。
コンセプトは敵勢力圏下への強行輸送。このため高速性と強力な兵装が与えられたが、その一方で形状に直線や平面を多用したり、電気溶接やブロック工法の導入で生産性の向上にも力を入れている。建造の際は前部・中央部・後部の3つの区画に分けて製造され、電気溶接または鋲接で接合。中央から前方に向かって盛り上がり艦首に平らな下開きランプを持つ。防水性には劣るが量産性に優れ、万が一浸水した時はビルジタンクに排水した。船型には長船尾楼型を採用している。一等輸送艦には無い特徴として戦車の輸送能力を持つ。
四角い船体は凌波性を著しく悪化させ、波が穏やかな南方海域では特に問題は無いものの、逆に波が荒い北方海域での運用は困難であり、また南方海域であっても荒天下だと航行能力の低さが露呈してしまう(一応復原性を高める事で対策はしている)。加えて一等輸送艦と比べると低速な上、攻撃を受ければ容易く撃沈される防御力の低さも泣き所だった。ゆえに二等輸送艦の平均寿命は2ヶ月と言われる。
二等輸送艦は103隻の建造が計画され、69隻が竣工。このうち初期生産艦の第127号、第101号、第102号、第128号、第149号、第150号の6隻は、当初予定していたタービン機関の製造が間に合わず、やむなく第一号型駆潜特務艇で使われている単動中速400馬力ディーゼルを代わりに搭載したレアなタイプで、こちらは第101号型と呼称、予定通りタービンを搭載したのは第103号型と呼ばれる。
機関の違いから多数の姉妹艦(タービン搭載型)と比較して、煙突が短く殆ど煙も出ない、排水量が80トン多い、機関スペースが圧迫されないため積載能力で上回る、最大速力が2.6ノット低下した代わりに航続距離が長大、煙突の位置が違うなどの相違点がある。更に第101号型は日本の小型艦艇としては非常に珍しい3軸推進を持つ。
要目は排水量890トン、全長80.5m、全幅9.1m、出力1200馬力、最大速力13.4ノット、乗員90名。搭載能力は戦車135トン、戦車用燃料6.9トン、弾薬11.3トン、糧食33.6トン、真水24.2トンの計251.6トン。兵装は40口径三年式8cm単装高角砲1門と九六式25mm三連装機銃2基。マリアナ沖海戦の戦訓で二等輸送艦の対空兵装は逐次強化されていったが、本土回航の機会が無かった第127号は、撃沈される最期の瞬間まで初期装備のままだった。
1943年10月21日、第1527号艦の仮称で川南工業浦崎造船所で起工。これは第101号型の中で最も早い起工であった。1944年1月13日に進水式を迎え、2月5日発令の官房軍機密第136号で建造中の二等輸送艦63隻が一斉に命名され、第1527号艦は第127号特設輸送艦と命名、そして2月28日に無事竣工を果たした。佐世保鎮守府に編入されるとともに細萱英二大尉が艦長に着任。戦時編制により連合艦隊所属となる。
3月13日、呉工廠第2ポンツーンにて、左から第150号、第101号、第127号、第149号が並んだ写真が撮られており、第127号唯一の現存写真として現代まで残されている。
3月15日に呉軍港内を出発して倉橋島大迫に回航。翌16日、グアムに配備するための特二式内火艇カミ10輌を積載し、3月18日、大迫を出港して志度湾と蕩浅湾を経由しつつ、3月21日に横須賀へと入港した。
3月24日、グアムへの輸送任務のため横須賀を出港し、館山で仮泊したのち、3月27日に外洋へと漕ぎ出す。ところが翌28日午前7時50分、伊豆諸島沖で波浪を受けて扉ナット締付板が破損湾曲、鎖切断・海没し、3月29日午前7時55分、前扉の水密不完全が原因で戦車庫の浸水が拡大、14時35分には門扉そのものが脱落するという災難に見舞われ、駆逐艦朝風に曳航されて4月2日に横須賀へ緊急帰投。修理を受ける。
修理完了後の4月26日にようやく横須賀を出港、米潜水艦が群れで遊弋する危険な海域を突破し、5月6日にサイパンへ到着した。サイパン到着と同時に第127号は中部太平洋方面艦隊の指揮下に入る。サイパンでは既に敵機の低空爆撃や潜水艦による偵察が始まっており、上陸作戦が間近に迫っている事を窺わせた。
5月20日、第22号海防艦に護衛されてサイパンを出港、その後はヤップ、トラック、グアム、パラオを経由して輸送任務に励み、フィリピン南部ダバオ到着。
5月29日夜、ビアク島に上陸した連合軍2万5000名を迎撃するため増援部隊を送る渾作戦が発動。たまたまビアクに程近いダバオにいた第127号も作戦に加えられ、敷設艦津軽、厳島、第36号及び第37号駆潜艇で輸送支援隊を編成。兵力を運ぶのは第127号のみで他は護衛役であった。
5月31日、タウイタウイ泊地から応援に来た重巡妙高、羽黒、駆逐艦6隻がダバオに到着。その間に第127号は陸軍の海上機動第2旅団800名を乗艦させた。彼らは乗船中の輸送船を撃沈された影響でほぼ丸腰だったため、青葉、妙高、羽黒、扶桑から機銃弾8万発や小銃を供出して貰っている。
6月2日18時45分、左近允尚正少将指揮のもと、渾作戦部隊はダバオを出撃。少し遅れて21時26分に第127号は第30号掃海艇を伴ってダバオを出発し、厳島との合流地点に向かうべくサランガニ島南方に向かった。翌3日午前9時に合流地点へ到着するも、何故か厳島の姿が見えず、味方哨戒機と協力して付近の海域を捜索して回ったがやはり所在不明、やむなく第32特別根拠地隊司令部の指示で、19時15分、サランガニ島泊地へ移動する。
6月4日午前0時、再び第30号掃海艇を護衛にサランガニ泊地を出港、翌5日午後12時30分、サンギ島南方2海里でようやく厳島と会同し、代わりに第30号掃海艇が離脱した。その頃、渾作戦部隊は敵空母発見の報を受けて連合艦隊司令部から作戦中止を命じられ、西部ニューギニア西端ソロンで陸戦隊を降ろした後、空襲を避ける目的でアンボンまで後退。だが報告された米機動部隊の存在は誤報と判明したため作戦を再開。第二次輸送は高速駆逐艦のみで行われる事となり、6月7日、輸送支援隊はモルッカ諸島ハルマヘラにて待機する。
駆逐艦を使った第二次輸送も敵水上艦隊に阻まれて失敗してしまい、焦燥する連合艦隊司令部は6月10日未明に部隊の大幅な再編制を実施。第127号は重巡青葉、軽巡鬼怒、駆逐艦満潮、山雲、敷設艦津軽、厳島、第36号駆潜艇で構成される輸送部隊に部署した。更に、今度こそビアク輸送を完遂するべくタウイタウイから戦艦大和、武蔵、軽巡能代、第2水雷戦隊を呼び寄せている。同日17時47分、第127号はハルマヘラ島カウ泊地へと回航。翌11日、渾部隊輸送部隊電令作第1号によって第127号、厳島、第36号及び第37号駆潜艇で輸送部隊第2梯団が編成され、ソロンへの進出命令が下る。
6月12日午前3時、駆潜艇2隻と厳島に護衛されてカウを出発、ソロンに向かった。ところが米機動部隊のマリアナ諸島襲来が始まった事でビアク救援どころではなくなり、翌13日17時27分に「あ」号作戦決戦用意が発令した事で参加艦艇は続々と原隊に復帰、宙に浮く形となった第127号は同日中にソロンまで辿り着くも、そこから動けなくなってしまう。6月16日には遂に渾部隊編成解除命令が出されて作戦は完全に頓挫するのだった。
渾作戦が中止となっても南西方面艦隊には増援輸送の続行が命じられ、6月19日午前8時25分、ビアク行きの陸兵約1100名が待機するオビト島北方泊地より、陸軍大発2隻を曳航して出港。伴走者の第30号掃海艇も大発2隻を曳航しており、第127号が第37号駆潜艇を指揮しながら航行、途中第37号駆潜艇が暗礁に触れて艦底を損傷するトラブルがあったものの、翌20日14時30分にソロン西方海域で切り離して反転し、17時58分にサラワケ(サラワティ)島西方泊地へ回航した。
敵の空襲激化に伴って、ソロンに中型船を配船するのが困難となっており、代わりに、曲がりなりにも戦闘能力を持つ第127号特設輸送艦が決死の覚悟で輸送を続けた。
6月21日に濠北部隊へ編入。同日、サラワケ島西方泊地で停泊中、P-38戦闘機1機が高高度より泊地内を偵察しているのが発見された。午前9時、空襲を避けるべくハルマヘラに向かってサラワケ島西方泊地を出発した津軽が、38分後に米潜水艦ダーターの雷撃を受けて損傷したため、急遽第30号掃海艇が救援及び敵潜制圧に向かっている。
その後、ビアクに送るはずだったソロンの陸軍兵力をサラワケ島東岸サマテに輸送する任務に臨む事となり、6月22日午前4時34分に第30号掃海艇とソロンを出発、空襲の予兆が見られた事から午前7時5分にダンピア海峡バタンタ島メルチェサ港へと退避するが、午前10時25分、B-25爆撃機2機とP-38戦闘機18機がソロン地区に襲来、25分間の対空戦闘を経て何とか東方へ撃退する事に成功した。正午に後から来た第36号駆潜艇が合流、13時、陸兵搭載のため駆潜艇を引き連れてメルチェサ港を出発。
6月23日午前7時にソロンへ入泊。午前9時50分、ソロン上空に9機のP-38が襲来して対空戦闘、午前11時45分に敵機が引き揚げていった。陸兵の収容作業を済ませるとソロンを出発、サマテまで輸送した。翌24日午前7時30分、メルチェサ港に入港するも、敵の執拗な航空攻撃は依然続き、正午頃、12機のP-38に護られた16機のB-24がソロン上空に出現、45分間の対空戦闘を行う。空襲が終わると再びソロンに向けて出発。6月25日午前4時22分、陸軍物件を積載し終えた第127号は護衛2隻を伴ってソロンを出発。相次ぐ敵機襲来を鑑み、退避地点をバタンダ島北岸ゲゲンロル湾に変更したのち、16時12分にサマテまで戻った。
6月26日午前4時56分、第30号掃海艇とサマテに出発し、午前7時27分にゲゲンロル湾へ到達するも、午前9時25分より10分間、P-38戦闘機3機の攻撃を受け、ここも安全ではない事が判明した。第30号と第36号駆潜艇は第23航空戦隊がいるエフマン島への進出を命じられて別行動となり、第127号は単独でソロンに向かった。18時53分、第23航空艦隊の人員を収容した2隻とソロンにて合流。
翌27日午前1時16分にソロンを出港。今度はワイゲオ島カバレに向かう。午前9時33分にカバレへと到着し、第127号が陸兵物件を揚陸し終わった後、第30号掃海艇から第23航空戦隊便乗者を移載し、15時53分出発。6月28日午前11時23分、第127号、第30号掃海艇、第36号駆潜艇がハルマヘラ島ワシレ泊地に入港。今回の輸送を以ってソロン方面の輸送任務は完了となり、見事危険な海域での輸送をやり遂げたのだった。
6月30日、南西方面艦隊より、ワシレ湾内ハテタバコに残留の第1航空艦隊の人員ならびに機材のダバオ輸送を命じられ、午前8時3分、第30号や第36号とともにワシレを出発。95名の便乗者を搭載したのちボレで仮泊する。7月1日午前4時にボレを出発し、翌2日13時50分にダバオへ到着して便乗者を退艦させた。次にカウへ進出する第4南遣艦隊の人員物件を積載。彼らをカウに揚陸した。
7月中旬になると、空襲がより一層激化した事でとうとうソロンへの輸送任務が中止となった。
7月25日午前1時55分、ミンダナオ島サンボアンガに向かうZ258船団(所属船舶7隻)に加入してダバオを出撃。護衛兵力は第30号掃海艇、海防艦2隻(第6号、第16号)、第49号及び第58号駆潜艇などで、上空には味方機がいて航空支援を提供してくれた。14時52分、哨戒機が右140度陸岸近くに爆弾を投下したのを受け、第49号、第50号駆潜艇が攻撃に向かう一幕があったが、幸い魚雷が飛んで来る事は無かった。16時、一般徴用船柳河丸、特設駆潜艇第2鶚丸、特設捕獲網艇第1号東光丸とともにZ258船団より離脱、同日中にサランガニ湾へ移動した。
8月3日から6日にかけて第102工作部アンボン分工場で船体を修理。比島決戦に備えての輸送量増加に加え、連合軍の執拗な通商破壊により、東南アジア方面では一等及び二等輸送艦の数が全く足りなくなり、実際二等輸送艦2隻しか持たないケンダリー運輸所が司令部に輸送艦の増派を嘆願するほどだった。
9月5日、艦艇類別等級別表の輸送艦の項に二等第101号型が加えられ、特設輸送艦として類別される艦が無くなったため、第127号輸送艦に改名すると同時に第101号型輸送艦に類別された。
9月頃になるとフィリピン奪還を見越して、米機動部隊がダバオ、セブ、バゴロド、マクタン、カガヤン、スリガオ、タクロバン等の各拠点に積極的な空襲を仕掛けてきており、フィリピン近海は米潜水艦の跳梁も手伝って非常に危険な海域となりつつあった。9月15日に散々暴れ回った米機動部隊は一度姿を消したが…。
9月17日に第127号はマニラを出港。レガスピー・ブーラン間で輸送任務に従事する。それから間もない9月21日と22日の両日、米機動部隊によるルソン島及びフィリピン中部の航空基地に対する大規模航空攻撃が始まった。ルソン西岸を接岸北上中だったマタ32船団や、マニラ港内の在泊艦船に甚大な被害が生じ、駆逐艦皐月、第5号海防艦、タンカー多数が撃沈され、同時に少なくない軍需資材が炎上喪失している。
1944年9月24日、連日の激しい空襲で南のルソン島に退避した日本艦艇を追撃するべく、米機動部隊はカラミアン諸島からビサヤ諸島までの広範囲に大規模な空襲を実施。14時20分、第127号はレガスピー方面で活動中、晴天の空から襲い掛かって来た米第38任務部隊所属の敵艦上機18機と交戦、3機撃墜と2機撃破の戦果を挙げるも、勇戦むなしく撃沈されてしまった。生存者及び戦死者の数は不明だが、後に細萱艦長が第60号海防艦の艦長に補されているので少なくとも艦長は生き残った模様。
他にも水上機母艦秋津洲、敷設艦八重山、第32号駆潜艇、旭山丸、大栄丸、興業丸、おりんぴや丸などが撃沈され、受けた船舶被害は今次大戦最大と称されるほどだった。またニコルス、クラーク両飛行場は掘り返されたようになり、セブ、タクロバン、レガスピーの第1航空艦隊の戦力は激減、マニラでは軍需品や重油タンクが破壊される大きな損害が発生している。
11月10日除籍。第101号型の中では3番目に、二等輸送艦の中では8番目に失われた艦となった。
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最終更新:2025/12/12(金) 23:00
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