輪島 大士(1948年1月11日-2018年10月8日)とは、元大相撲力士(第54代横綱)・プロレスラー・タレントである。本名は輪島 博。ただし輪島市ではなく同じ石川県能登半島の七尾市出身である。高田川部屋の輝 大士(かがやき たいし)は遠縁。
日本大学で2年連続学生横綱など14個のタイトルを獲得し1970年花籠部屋に入門。わずか1年で新入幕を果たし、スピード出世ぶりから「蔵前の星」と呼ばれる。平幕の頃からリンカーン・コンチネンタルを乗り回して場所入りするなど私生活は派手であった。
1972年5月場所に関脇で初優勝。同年9月場所、当時の皇太子一家がご観戦された千秋楽に貴ノ花と水入りの大相撲を制し場所後貴ノ花と大関同時昇進、下の四股名を「博」から「大士」に改名した。輪島ファンのデーモン閣下はこの取組の映像が一部しか残っていないことを大変残念がっている。
大関4場所目の1973年5月場所に全勝優勝し学生相撲出身者・本名四股名の力士としていずれも初(現在でも唯一)の横綱昇進を果たした。1973年11月場所では一場所15日制になった以降で唯一の、休場しながらの優勝(12勝2敗1休)という珍記録を作っている。
右手の引きが強いこともあって左の下手投げを得意とし、トレードマークの金色の廻し(1975年9月場所から。それまでは緑)とかけて「黄金の左」と言われ一世を風靡した。下手投げを得意とする力士は大成しないというジンクスを破っている数少ない例である。鷲羽山や千代の富士など小兵力士に強かった反面、高見山などの巨漢力士に対して脆さを見せることも多く、高見山の金星12個中7個は輪島から得ている。
横綱北の湖とは好敵手であり、2人で輪湖時代(りんこじだい)を築いた。1974年7月場所では場所後横綱に昇進した北の湖を千秋楽本割と優勝決定戦で連破し意地を見せた。1975年は不振で優勝がなく「金星を与える意味で黄金の左」と自虐したり途中休場した直後にゴルフウェアでカメラの前に現れるなどネタに事欠かない不本意な一年を過ごすが、1976・1977年は北の湖とほぼ毎場所千秋楽の直接対決まで賜杯を争い、2年間で優勝5回ずつ、両者共に12場所合計152勝28敗と実力伯仲し真の2強時代を迎えた。
1978年は3月場所での右膝靭帯の怪我や持久力の衰えからまた優勝なしに終わる。特に7月場所14日目の北の湖戦や11月場所13日目の2代若乃花戦は、いずれも全勝同士で対戦し水入りの大相撲となったが再開後に「あぁ~もうだめぇ~」と言いたげな表情を見せつつ寄り切られた。
1979年と1980年に1度ずつ優勝し合計14回に乗せるが、1981年3月場所師匠(元前頭大ノ海)の停年が迫っていたこともあり現役引退。年寄・花籠を襲名し部屋を継いだ。
だが1985年11月に角界では前代未聞の、年寄名跡「花籠」を実妹の経営する料亭の借金の担保にしていたことが表面化し、元来抱えていた他の金銭問題や私生活での豪遊ぶり等のマイナスイメージもあって、委員から平年寄への2段階降格処分と無期限謹慎処分を受け12月に廃業した。所属力士は同部屋だった魁傑が開いた放駒部屋に移籍した。
角界を追われるように去った輪島は1986年全日本プロレスに入門。これにより日本相撲協会は同年11月から2004年まで全日本の両国国技館使用を禁止した。大相撲の癖が抜けず、またプロレスの基礎を学ぶ下積み期間も十分ではなかった。
そんな中全日本の総帥ジャイアント馬場と組みアメリカで行ったデビュー戦は、相撲技の「喉輪」と「かち上げ」を合わせて開発したゴールデン・アームボンバー(喉輪落とし)で快勝した、この技は輪島引退後全日マットの田上明(元十両玉麒麟)が復活させ後に後に高角度喉輪落とし(チョークスラム)へと発展していく。他に片足抱え式のバックドロップも得意としていた。
移動やマッチメイクなどの面で馬場や会社から特別待遇を受けていた。しかし輪島自身はこれを快く思わない他の選手に食事を奢り敬語で話すなど気遣い、練習もきちんと行っていた。後に長州力が新日本プロレスから北尾光司(第60代横綱双羽黒)を契約解除した際「輪島は一生懸命やっていたからな」と、その姿勢を認める発言をしている。
先に大相撲からプロレス入りした元前頭天龍源一郎とは、蹴り技を真っ向から受けるなど迫力ある対戦を見せ、プロレスを八百長と見る向きにも少なからぬ衝撃を与えた。
1988年12月、日大・花籠部屋の弟弟子で仲の良かった石川敬士(元前頭大ノ海)の退団と同時に引退した。
プロレス引退後は大相撲解説やタレントとして活躍。日本テレビ系「とんねるずの生でダラダラいかせて!!」に準レギュラーで出演し、いわゆる天然ボケのキャラクターが視聴者の笑いを誘った。とんねるずの石橋貴明からワジーというあだ名で呼ばれ、現役時代を知らない世代にも広く定着した。ちなみに同じく準レギュラーで元々友人だった輪島功一とは従兄弟という設定にしていた。
その後アメフト・Xリーグのクラブチーム「ROCBULL」の総監督に就任、現在はキューバの相撲ナショナルチーム監督のほか、能登観光協会大使、石川県観光親善大使、地元の鮮魚販売会社スギヨの「スギヨふるさとの味大使」を務める。
2008年に還暦を迎えたが、還暦土俵入りは行われなかった。角界を去った経緯がアレだから仕方ないね。
ところが2009年1月場所8日目に大相撲中継のゲストとして登場し、デーモン閣下との共演が実現した。輪島が本場所の土俵を観戦するのは花籠親方時代以来23年ぶりとなる。解説の合間に前述の貴ノ花戦や北の富士、北の湖、増位山、高見山、2代若乃花、千代の富士との懐かしい取組が紹介された。また閣下が本人直筆サイン入りの引退相撲ポスターを披露した。
2013年に下咽頭癌への罹患が判明し、切除手術は成功したものの声を失ってしまった。しかしその後も相撲部屋の稽古見学に訪れることがある。
数々の迷言が伝わっている。信じるか信じないかはあなた次第。
掲示板
1 ななしのよっしん
2015/01/23(金) 15:51:28 ID: kniEZqqr/U
師匠っ!譲りのっ!スピニングっ!トー・ホールドっ!
師匠っ!譲りのっ!スピニングっ!トー・ホールドっ!
(輪島大士プロレスデビュー戦の実況より)
ある意味全日本プロレス中継屈指の名実況だよね……
2 ななしのよっしん
2015/03/23(月) 23:38:07 ID: YQsP95tA4V
記事作成お疲れ様です!
現在十両に遠縁の輝(父方の遠縁)がいます。彼も七尾市出身で、栃乃洋と舛田山も七尾市出身。
新十両昇進時にその輝が締め込みの色(但し輝はやや淡いシャンパンゴールド)と下の名前(大士、安芸乃島の勘違いで輝の呼び方は”たいし”となった)を継承しました。
但し、輝本人は非常に真面目な青年です。
3 ななしのよっしん
2018/10/10(水) 05:30:39 ID: kniEZqqr/U
戦後二人しかいない「下手投げの名手は横綱になれない」という格言を打ち破った力士の一人
それも、もう一人の横綱の朝青龍は下手投げを最後の切り札として使っていたのに対して輪島は下手投げだけで横綱になったのが凄い所なんだ
今頃は北の湖や貴ノ花と再開した頃だろうか
お疲れ様でした
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最終更新:2024/06/02(日) 03:00
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