柿(橘型駆逐艦)とは、大東亜戦争末期に大日本帝國海軍が建造・運用した橘型/改丁型/改松型駆逐艦1番艦である。1945年3月5日竣工。戦争末期での就役だったため外洋に出る事無く終戦を迎えた。復員輸送任務に従事した後は賠償艦としてアメリカに譲渡。1947年8月19日に海没処分。
艦名の由来はカキノキ目カキノキ科カキノキ属の落葉高木カキノキから。柿の名を冠する艦名は本艦で2代目。戦時日誌などでは「柹」の表記も散見される。柿は、日本と中国の一部が原産地と推定される東アジア温帯固有の果樹。古来より日本人の生活に根付いていたようで、縄文時代や弥生時代の遺跡から柿の種が発掘されたり、古事記や日本書紀にも記述が見られ、遅くとも奈良時代には既に柿が流通していたという。また柿の漢字は日本で誕生した和製漢字(国字)でもある。当初は渋柿のみだったが鎌倉時代の1214年に突然変異で甘柿が発見されてからは栽培が本格化。16世紀にポルトガル人が持ち帰った事でヨーロッパに伝来し、後にアメリカ大陸にも伝わった。果実が赤い事から「アカキ」、材が堅い事から「カタキ」と呼称され、それがカキに訛ったとする説がある。
ガダルカナル島争奪戦やソロモン諸島の戦いにより艦隊型駆逐艦を多く失った帝國海軍は、1943年2月に緊急増産が可能な松型(丁型)駆逐艦を建造計画に挿入。確かに松型は夕雲型や陽炎型といった艦隊型駆逐艦と比べると短い工期で就役出来たのだが、悪化し続ける戦況は更なる駆逐艦不足を招いてしまったため、1944年3月、艦政本部は松型を一層簡略化して工数を削減した橘型(改丁型)を設計。建造期間は松型の半分である3ヶ月。とにかく数を揃える事を至上命令とした。
既に簡略化による生産が始まっていた一等輸送艦、鵜来型海防艦、丙型海防艦、丁型海防艦からノウハウを獲得し、鵜来型の研究成果に基づいて船型を単純化。松型まで残されていた艦首舷側のフレアは直線に、艦尾の曲線状成形を角ばった直線状成形に変更、艦首水線下のカットアップは完全に廃止された。船殻は一等輸送艦や丙型及び丁型海防艦を参考。二重底構造を改めて単底構造化するなど艤装と設計の簡略化を徹底的に行い、松型では部分導入だった電気溶接を全面的に採用、高張力鋼を廃止して普通鋼のみを使用した他、機関面では中圧タービンと巡航タービンを削減。一方で兵装は戦訓を取り入れた最新鋭のものだった。22号水上電探や13号対空電探を竣工時から持っていた上、技術大国ドイツから持ち帰った成果が結実した三式探信儀と四式聴音機を装備し、羅針艦橋のウイングに二式哨信儀を搭載しているなど装備面に限れば松型を凌駕していたと言える。
要目は排水量1350トン、全長100m、最大幅9.35m、艦本式オールギヤードタービン2基、機関出力1万9000馬力、最大速力27.3ノット、燃料搭載量370トン、乗員211名。兵装は40口径12.7cm連装高角砲1基、同単装高角砲1基、61cm四連装魚雷発射管1基、25mm三連装機銃4基、同単装機銃8基、爆雷投射機2基、爆雷投下軌条2基。
戦争末期の就役にも関わらず改丁型は14隻が就役。計画上では柿が4番艦になるはずだったが、八重桜、矢竹、葛が相次いで建造中止となり、仮称番号順で見ると柿がネームシップになるはずだった(このため一部資料では柿が改丁型の先頭になっている)。だが建造の乱れからか6番艦の橘が最初に竣工してネームシップとなる。竣工順で言うと柿は5番艦にあたる。
1943年2月、改マル五計画に加える形で42隻の改丁型の建造計画が商議に出され、第85帝国議会で10隻分(1隻あたり961万4000円)の予算が成立。改丁型一等駆逐艦第5499号艦の仮称で建造が決定する。1944年10月5日に横須賀海軍工廠で起工、12月8日に駆逐艦柿と命名され12月11日に進水、1945年2月5日に艤装員長として浜崎長太郎予備少佐が着任し、そして3月5日に浜崎艦長の指揮下に竣工を果たした。横須賀鎮守府へ編入されるとともに訓練部隊の第11水雷戦隊に部署する。
こうして竣工した柿だったが早速災難が降りかかる。蒸気下降試験の結果が極めて不良で調整に時間が掛かりその他残工事も合わせて出港までに5日以上掛かってしまったのである。間もなく第11水雷戦隊より同じく横須賀で竣工した萩と準備出来次第瀬戸内海西部へ向かうよう指示が下り、指揮権は柿の浜崎艦長に与えられた。
1945年3月12日午前9時、姉妹艦の萩とともに横須賀を出港。航行中に出撃諸訓練を行いながら、本土近海にまで出現するようになった米潜水艦に警戒しつつ、18時に宇佐美湾で仮泊。翌13日午前5時に宇佐美湾を出発するが、出港直後に突如柿の一号缶管1本が破裂する事故が発生、幸い乗員に死者は出なかった。二号缶が使用可能だったため応急修理を行いながら自力航行を再開。が、3月15日午前6時40分、潮岬灯台92度45海里沖を18ノットで航行中に今度は二号缶が破裂し、完全に航行不能となってしまった。伴走者の萩の力を借りて曳航を開始するが、天候不良に阻まれて直接瀬戸内海西部を目指すのは困難であり、第11水雷戦隊は大阪の藤永田造船所への移動を指示。加えて天候が回復しない場合は近隣の港へ退避するようにも指示していた。大阪警備府には柿が向かっていると伝え、対潜警戒に配慮して欲しいと要請。
3月18日に何とか大阪港外の防波堤灯台南方40mへ到着。このまま藤永田造船所へ向かおうとしていた翌19日午前7時20分、呉軍港空襲に呼応して米機動部隊が大阪を空襲し、敵艦上機3機から銃撃を受けて下士官2名が死亡、浜崎艦長以下6名が負傷してしまう。午前8時25分には敵機約20機が出現するも応戦して西方へ撃退。一連の銃撃により10番重油タンク、哨信儀、小発動艇が小破した。敵機を退けた後、藤永田造船所に入渠。損傷個所を調べてみたところディーゼル発電機と防振用ゴムが損傷しており、修理するにあたって艦政本部や横須賀工廠と連絡を取り合いながら、4月9日の完了を目指して工事に着手。破裂した一号缶の修理は完了。4月20日を出港予定としていたが、水圧試験実施中に二号缶耐熱器の換装缶管から漏水している事が発覚。修理を行う傍ら、ディーゼル発電機の防振用ゴム取付部及び付属諸装置を改良して使用実績調査に従事した。
ようやく修理を終えた柿は5月18日に姉妹艦楠と大阪を出発。翌19日に呉へと到着して寄港中の第11水雷戦隊との合流を果たす。度重なる空襲と機雷投下により訓練の場として使用してきた瀬戸内海西部も危険な場所と化してしまったため、第11水雷戦隊はまだ機雷が敷設されていない日本海側への脱出を決意。5月21日午前11時、軽巡酒匂、駆逐艦桜、欅、楢、楠、菫とともに呉を出港、同日14時15分に安下庄へ進出する。欅と菫の合流を待ってから5月25日午前9時45分に安下庄を出発、厳重に機雷封鎖されている関門海峡の突破を目指すが、午後に部埼灯台沖で駆逐艦桜が磁気機雷に触雷して損傷、急遽17時30分に門司へ避難する。呉へ後退する桜の援護に欅を配置し、残りは酒匂に率いられて翌26日午前5時に門司を出発。無事関門海峡を突破して5月27日午前6時25分に舞鶴への入港を果たした。5月29日、楠や現地で合流した雄竹ともども高間完少将の巡視を受ける。しかし舞鶴鎮守府は第11水雷戦隊の入港を歓迎してはくれなかった。むしろ空襲の際の刺激になるとして早々に出て行くよう言われてしまったのである。
6月1日午前9時、追い立てられるように柿や他の姉妹艦は酒匂に率いられて舞鶴を出港。道中で出動諸訓練を行いながら舞鶴東方にある小浜湾に向かい、13時40分に到着。湾内にはまだ機雷が投下されていないため安全に動く事が可能だった。6月5日に駆逐艦榎が遅れて小浜湾へ入ってきた。深刻な燃料不足により第11水雷戦隊に振り分けられた燃料は僅か850トンに過ぎず、1隻だけで370トンを必要とするため2隻分の燃料しか賄えない事となる。この少ない燃料を隊内で分け合ったため訓練を行えたのは6月10日のたった1日だけだった。柿、楠、菫、雄竹、榎の5隻は湾外で出動諸訓練を実施。湾内から動けない酒匂に代わって一時的に将旗を引き継いで第11水雷戦隊の臨時旗艦となり、高間少将ら司令部を乗せて訓練を監督している。6月14日に行われた米機動部隊搭載機による空襲で至近弾を受けて小破。6月24日、新たに就役した初梅が小浜湾に到着。6月26日午前0時20分、小浜湾上空に1機のB-29が侵入して午前1時15分まで数次に渡って機雷を投下。このうち1発は湾口付近の陸上に落下している。同日午前9時13分には朝陽を背にして敵艦上機と12機のB-29が出現し、柿と僚艦が対空射撃で応戦するも戦果・損害ともに無し。戦闘後の午後12時36分、湾内錨地付近を移動中に榎が触雷大破。小浜灯台沖750mに曳航されて擱座する。榎の触雷は湾内錨地付近に機雷がある事を如実に示した。
7月10日、第11水雷戦隊の司令が松本毅少将に交代。翌日柿を始めとする所属艦を巡視していった。そして7月15日、軍令部機密第121316番電により第11水雷戦隊そのものが解隊してしまい、雄竹、菫、榎、楠、初梅とともに舞鶴鎮守府部隊所属の特殊警備艦に転属。浜崎艦長は楠と雄竹の艦長を兼任する。7月23日に舞鶴へ移動して本土決戦を見越した防空砲台となる。7月29日と30日に舞鶴空襲が発生し、宮津湾や伊根湾の在泊艦艇を狙った攻撃が行われたが、柿に損傷は無かった。8月15日の終戦時、舞鶴において小破状態で残存。未曾有の大戦争を生き延びたのだった。
10月5日に海軍省の解体に伴って除籍。航行可能の状態で生き残っていた柿は12月1日に特別輸送艦の指定を受け、外地に取り残されている軍人や邦人約600万人を帰国させる一大事業に参加。復員任務が粗方終了すると今度は特別保管艦に指定される。大した海軍力を持たない中華民国とソ連の強い要望により特別保管艦を米・英・中・ソの四ヵ国で分配する事になり、抽選の結果、柿はアメリカが獲得。ところがアメリカは既に十分すぎるほどの艦艇を持っていたため不必要だった。
1947年7月4日に青島でアメリカに引き渡された後、8月19日に黄海中央部で標的艦として撃沈処分。
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