七人の侍とは、黒澤明監督による映画である。ヴェネチア国際映画祭銀獅子賞受賞作品。1954年4月26日公開。
概要
日本映画を代表する名作であり、現在活躍している著名な映画人たちにも多大な影響を与えた作品。
当時としては破格の製作費の2億円(現在の40億円に相当)を費やし、さらに撮影期間におよそ1年かけるなどをし、時代考証やアクションシーン、映像面(カメラワークなど)にも完璧さを求めた。脚本は黒澤を含む数人の脚本家で分担して執筆され、主人公となる「七人の侍」や主要な脇役の設定のみならず、エキストラレベルの役柄の性格や人物像の設定までも練り込まれていた。また俳優陣には、三船敏郎や志村喬など黒澤明監督の白黒映画時代を代表する俳優たちが多数出演している。
1960年には、ハリウッドで西部劇『荒野の七人』としてリメイク。さらに1980年には同じくハリウッドで、舞台を宇宙に置き『宇宙の7人』という名前で再度リメイクされた。現在もリメイク企画が進行しているのだそう。リメイクとは若干異なるが、1998年にディズニーとピクサーが製作したCGアニメーション映画『バグズ・ライフ』も本作がモデルとなっている。
日本では2004年に『七人の侍』公開50周年を記念してフルデジタル・アニメーション『SAMURAI7』としてリメイク。このアニメを元にして2008年には新宿コマ劇場で舞台『SAMURAI7』が上演されている。
あらすじ
戦国時代。毎年略奪を繰り返す野武士たちに恐れ慄く村人たちがいた。戦っても勝ち目はないため困り果てた村人たちはある策を思いつく。それは「侍を雇い、村を守る手助けをしてもらう」という案であった。早速、利吉・万造・与平・茂助の村人4人が侍探しのため町に出る。しかし、村には侍を雇える銭がないため、報酬を目的とする浪人たちには相手にもされず、侍探しは難航することになる。
そんな中、子供を人質にとる盗人を一瞬のうちに退治した初老の侍がいた。名前は島田勘兵衛。勘兵衛は歴戦の武士であり、村人はすぐさま説得に向かう。一度は断った勘兵衛であったが、村人の懇願に負け村を命を懸けて守ることを決意する。村の規模から7人の侍が必要と考えた勘兵衛は、自らの説得で6人の侍を集めることに成功する。そして、勘兵衛を付きまとっていた菊千代と名乗る侍を含めた、「七人の侍」が村へ向かう。
7人の侍たちは村人たちに武器の使い方や野武士との戦い方を教え、さらに村を要塞化し始める。そして、麦の収穫時期となり、何も知らない野武士たちが村へと向かうが…
エピソード
もともと本作はリアリティのある時代劇を撮りたいという黒澤の意向に沿って制作されたという経緯があるが、その道のりは一筋縄ではなかった。と言うのも、2009年にNHKの黒澤特集番組の中で本作の脚本家、橋本忍氏が語ったところによると、この作品の企画が立ち上がるまでに実は二本の作品がお釈迦になっていたからである。最初の一本は「仕事上でミスを犯した武士が責任を取って腹を切るまで」を詳細に描いた作品であり、当時の武士たちがどのような手順を踏んで切腹の儀を行っていたのかを描いた人間ドラマであった。儀式の手順や、介錯人の手配などのプロセスが極めて詳細に再現されており、国立図書館などで資料をかき集めたうえで徹底的な時代考証が行われている。しかし脚本家の橋本は、当時の武士が弁当持参だったのか給食制だったのかがどの資料を調べても分からず、もしこのまま映画を制作してしまえば誤った時代考証が原因で後年黒澤の名誉に傷が付くと考え、独断で脚本とプロットを全て焼却してしまった。これにはさすがの黒澤も大激怒し、橋本はこっぴどく叱られたという。(この時点で黒澤は絵コンテをいくつか描き上げていたうえに、すでに会社にもこの企画で制作する旨を告げていた)
結局上記の企画は脚本家の独断でボツになってしまったが、黒澤の制作意欲自体は燃え尽きておらず、今度は日本全国の有名な剣豪のエピソードをオムニバス形式で描くことを提案した。再び国立図書館などで資料をかき集め、脚本を無事に完成させたが、これを読んだ黒澤はひどく落胆したという。オムニバス形式で描いた物語は最初の三本目までは面白いが、読んでいるうちにうちにだんだんと飽きてくる。クライマックスの連続で、全く面白味に欠ける内容であったため結局この企画も没になってしまった。
その後黒澤のふとした疑問がきっかけで本作の企画が誕生することになった。戦国時代の武士は戦が無いときはどのようにして食いつないでいたのか、である。当時の武士は戦が無いときは道場で稽古を行い謝礼を貰って食いつないでいたのだが、もし行く先に道場が無い場合には寺で雑務をこなして食事と一晩の宿にこぎつけていたのである。しかし寺も道場もなければどうするのか、そこで本作の企画が立ち上がった。当時の武士は盗賊などから村を守りそのお礼として食事にありついていたのである。一晩寝ずの番をすることで村人たちから謝礼を貰っていたという話を聞き、黒澤は即座に「出来たな」とつぶやき侍の人数を多すぎず少なすぎない七人に絞って、「七人の侍が盗賊から村を守る話」を制作することにした。このように、企画の段階で非常に波乱万丈な作品であったが、制作中も多くの苦労に見舞われた。詳しいことはWikipediaに書かれている通りだが、このような大作の誕生の背景には制作陣の並々ならぬ苦労と執念があったのである。
ちなみにこの後、四十五日間にわたって旅館に泊まりがかりでの脚本制作が行われたが、旅館の女中が部屋に入るのをためらうほど張りつめた空気だったという。脚本は三人体制で制作されており、黒澤と橋本が一斉に書き始め、書きあがったものを小国英雄がチェックするというものだった。小国は書きあがった脚本が面白いか面白くないかを判断するだけで、それ以外の間はずっと本を読んでいるだけだったが、橋本によれば「おそらくあの中で一番大変だったのは小国の旦那だった」と述べている。
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