伊13とは、大東亜戦争末期に大日本帝國海軍が建造した巡潜甲型改二1番艦である。1944年12月16日竣工。光作戦従事中の1945年7月16日、小笠原方面で対潜攻撃を受けて沈没した。
概要
元々は巡潜甲型改一として建造される予定だったが、1943年後期に潜特型(伊400型)の建造数が削減された事を受け、その穴埋めをするため未起工の伊13と伊14の設計を潜水空母の能力を付与した巡潜甲型改二に変更した。
戦隊旗艦用の巡潜甲型をベースに水上攻撃機2機を搭載出来るよう格納筒や艦橋、司令塔の形状を変更し、排水量増大に伴う乾舷の減少を抑えるためバルジを装着。攻撃機を運用するため甲型には無い揚収用クレーンや特注の四式1号10型射出機を装備している。しかし艦体が大型化したにも関わらず、機関は高出力の艦本式2号10型ディーゼルではなく改一と同じ安価・低出力な22号10型4サイクル単動式過給器付きディーゼルに換装したため、最大速力が改一の17.7ノットから16ノットにまで低下してしまっている。一方で22号10型ディーゼルは軽量かつ小型なので空いたスペースに燃料タンクを設ける事が出来、航続距離はベースとなった甲型よりも増大した。後の改装で13号対空電探、シュノーケル、新型逆探装置を搭載。
要目は排水量2620トン、全長113.7m、全幅11.7m、平均喫水5.89m、速力16.7ノット(水上)/5.5ノット(水中)、安全潜航深度100m、乗員104名。兵装は九五式艦首魚雷発射管6門、魚雷12本、40口径11年式14cm砲1門、九六式25mm三連装機銃2基、九六式25mm単装機銃1基、四式1号10型射出機、水上攻撃機2機。
艦歴
日米開戦が目前にまで迫った1941年11月、潜水艦の絶対数不足を補うため帝國海軍は潜水艦32隻の建造を予定したマル追計画を策定し、甲型一等潜水艦第621号艦の仮称で建造が決定。2116万5000円の予算が捻出された。当初は巡潜甲型を簡略化した改一(伊12型)と同規格で建造するはずだった。
1943年2月4日、川崎重工神戸艦船工場で起工。しかし戦況の悪化は伊13をあらぬ方向へと導いて行くのだった。ミッドウェー海戦の敗北後に策定された改マル五計画において潜特型18隻の建造が決定。しかし計画の推進者だった山本五十六大将の戦死、そして歯止めが利かぬ戦況の悪化により潜特型の建造数が5隻にまで縮小されてしまう。攻撃機の搭載数を2機から3機に増やしたものの、18隻を5隻にまで減らされて攻撃力の不足を心配した帝國海軍は、巡潜甲型改一として建造予定の伊13と伊14に潜特型と同じ改装を施して埋め合わせをしようと考えた。こうして伊13は潜水空母の道を歩んでいく事となる。
10月1日に伊号第13潜水艦と命名され、11月30日に進水、1944年4月25日に艤装員事務所を設置し、12月16日に竣工を果たした。初代艦長には伊54から転出してきた大橋勝夫中佐が着任。佐世保鎮守府に編入された。
竣工日の12月16日に神戸を出港した伊13は呉へと向かい、翌日入港。瀬戸内海西部で慣熟訓練に従事する。12月30日、就役したばかりの伊400と第6艦隊第1潜水戦隊を新編。
1945年1月8日に伊401が戦隊に加わり、戦隊司令の有泉龍之介大佐が着任。1月19日、駆逐艦神風と野風の対潜訓練の相手を務めた。そして3月14日に姉妹艦の伊14が就役して第1潜水戦隊へ編入。これで潜水空母が揃い踏みした訳である。3月19日朝、240機以上の敵艦上機が呉軍港を空襲。伊13は潜航退避して難を逃れたが入渠中だった伊400と伊401は機銃掃射を受けて損傷した。有泉司令の発案で第1潜水戦隊の潜水艦にシュノーケルを装備する事になり、呉工廠で工事を受ける。シュノーケルとは水中充電装置とも呼ばれ、潜航中であっても新鮮な空気を取り入れて艦内の換気が出来、同時にバッテリーを充電して潜航時間を伸ばせる優れ物であった。おまけに当時のレーダー技術では海面上に出たシュノーケルを捕捉出来ないので安全な換気が可能。
南方資源地帯からの輸送から途絶えた事で内地の備蓄燃料は殆ど底を尽き、呉軍港にすら僅か2000トンしか残っていなかった。潜特型1隻で2000トンの燃料を消費するのでこれでは明らかに足りない。このため朝鮮半島にある鎮海警備府へ訓練用の燃料を取りに行く必要があった。
5月27日午前8時、伊14とともに呉を出港。日本海へ出るには関門海峡を通らなければならないのだが、B-29から投下された磁気機雷によって実質封鎖されており、大型船は既に通行不可、小型船ですら月に2~4隻しか通れないほど危険な場所と化していた。十重二十重に敷設された機雷を何とか回避して19時に門司港へ退避。一晩明かしたのち海峡を突破し、翌28日に無事鎮海警備府へ到着。2隻とも燃料を満載にして5月29日に鎮海を発った。度重なる機雷投下で瀬戸内海西部と呉軍港は機雷封鎖され、もはや訓練地に適さないと判断。呉鎮守府は未だ機雷が敷設されていない石川県七尾湾を新たな訓練地に指定した。濃霧の影響で6月1日に富山湾へ避泊した後、6月3日に七尾湾へと到着。ここは第1潜水戦隊以外にも新造の海防艦が訓練地に使用していた。
6月5日、七尾湾に集結した第1潜水戦隊4隻は訓練を開始。これに伴って水上攻撃機晴嵐を擁する第631海軍航空隊も舞鶴近くの誉田に基地を設営し、各艦に晴嵐を搭載して組み立て・射出、揚収、飛行機航法、爆撃、潜航訓練を連日繰り返して練度の向上に努める。ところが第1潜水戦隊が七尾湾に拠点を移した事で本来なら戦略的価値の無い新潟、伏木、仙崎などが大空襲を受けるようになり、七尾湾もB-29の爆撃や機雷封鎖を受けた。更に6月6日、バーニー作戦により米潜水艦9隻が日本海に侵入。6月10日に七尾湾へ向かっていた伊122が撃沈されている。また晴嵐の工場がある名古屋も空襲を受け、生産に遅延が発生するなど連合軍の執拗な妨害が続いた。6月12日、沖縄の失陥が避けられない事態となったため敵の侵攻作戦を妨害すべく艦隊停泊地のウルシー環礁を攻撃目標に定めた。本土から直接ウルシーは偵察できないため、まず光作戦を立案。伊13と伊14が孤立中のトラックに偵察機彩雲を運び、その彩雲を使ってウルシーを偵察。得られた情報をもとに伊400と伊401が晴嵐で襲撃する嵐作戦が続いて立案された。6月19日、米潜ボーンフィッシュが七尾湾内に侵入してきて貨客船坤山丸を撃沈される一幕があり、舞鶴鎮守府の対潜部隊が仕留めたものの七尾湾も安全とは言えなくなっていた。
6月20日、晴嵐を降ろして伊14と七尾湾を出港し、6月22日に舞鶴へ入港。ここで約10日間の出撃準備を行った。7月2日に出港し、7月4日に大湊に到着。輸送する彩雲2機を航空機格納筒に収納した。準備出来次第、伊14から出港する予定だったが、乗組員のミスで軸系過熱事故が発生し、伊13が先発する事に。7月11日15時、トラックに向けて大湊を出撃。ちょうどその頃、米機動部隊が北上してきており、7月14日から翌15日にかけて多数の艦上機が東北や北海道を空襲。伊13は不運にも敵機動部隊のド真ん中に突っ込む形となってしまった。
最期
7月16日午前7時47分、横須賀から東方500海里にてハンターキラーグループの第30.7任務部隊に所属するTBM-3Eアベンジャーが水上を走る潜水艦を探知。その潜水艦は伊13であり、アベンジャーから機銃掃射とロケット砲を受けて損傷。何とか急速潜航には成功するが、損傷により漏油が発生し、海面に油膜が残ってしまう。アベンジャーはソノブイを投下し、母艦のアンツィオに通報した。午前11時40分、駆逐艦ローレンス・C・テイラーからヘッジホッグ攻撃を喰らって撃沈された。乗組員140名全員が死亡し、日本潜水艦最悪の犠牲者数となった。
到着予定日の7月20日になってもトラックに到着しなかった事から、8月1日にトラック方面で亡失と判断。1945年9月15日、除籍。
関連項目
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